7月7日から梨の木ピース・アカデミーのZOOM講座で、戦後日中関係についてお話しすることになりましたので、そのご案内です。
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 日中関係は、菅政権の対米追随・対中強硬政策のために最悪の方向に向かって突き進んでいる、というのが私の実感です。国交正常化を実現した日中共同声明(1972年)によって両国は安定した友好関係を築き上げる基盤が据えられました。多くの人はそう理解したはずです。ところが、1972年以後の日中関係は順調ではありません。共同声明があるにもかかわらずなのか、共同声明ゆえになのか。それとも、何かほかの原因が働いているためなのか。
 私は今回のお話しを準備する機会を捉え、初心に返って戦後日中関係の歴史を一から勉強し直しています。私はかねてから、敗戦日本の内政外交の原点はポツダム宣言・体制であってサンフランシスコ平和条約・体制ではない、ということを指摘してきました。日中関係について考えるときの原点もポツダム宣言・体制であることは当然です。ところがどうしたわけか、これまでの私はこの原点にフォーカスを当てる意識が欠けていました。例えば、2000年に出版された拙著『中国をどう見るか』(高文研)は、「日米安保体制がガンである」とは指摘しているのですが、ポツダム宣言・体制を正面から扱っていません。今回の学習の過程で気づいて我ながら愕然とした次第です。したがって、「ポツダム宣言・体制vs.サンフランシスコ平和条約・体制」を軸に据えて戦後日中関係を考え直す、これが今回シリーズにおけるお話しの眼目となります。今のところ、次のようにお話しを進めることを考えています。ただし、学習途上ですので、さらなる発見・知見次第で内容が変わっていく可能性があることを前もってお断りしておきます。
 日中国交回復に取り組んだ先人たちは明确な問題意識を備えていました(第1回)。ちなみに、外務省時代の私はどうだっただろうか、どんな問題意識を持って仕事をしていただろうかを直視したいと思っています(第2回)。日中共同声明は、米中関係の「戦略的改善」(ニクソン訪中)を背景に日本との国交正常化を急いだ毛沢東・周恩来指導部と、サンフランシスコ体制(親米路線)堅持を前提に交渉に臨んだ田中政権との妥協の産物でした。ポツダム宣言という原点にかかわる問題は曖昧に処理されました。その結果、ポツダム宣言と対日平和条約との間の矛盾の凝縮ともいえる台湾問題をめぐる米中関係の不規則な歩みが日中関係に影響するという構造が日中共同声明にいわばビルトインされました(第3回)。
 中国は1972年以後、米中関係に影響されない中日関係(明言したことはありませんが、「ポツダム宣言に基づく中日関係」と言いかえることも可能です)の構築を意識的に追求し、日本に働きかけてきました(1998の日中共同宣言と2008年の日中共同声明)。しかし、日本政治の総保守化を背景に、サンフランシスコ体制(親米路線)堅持は自民党のみならず多くの野党の政策の一部となり、その結果、日中関係は趨勢として悪化を辿ってきました(第4回、第5回)。
国交正常化以前の日中関係を辛うじて支えたのは民間の努力でした。21世紀の日中関係を考える上でも、彼我の国民感情が大きなカギとなるはずです。ところが日本では、国民意識の「保守化」傾向(+「反中感情」の高まり)もあって、日中関係の将来は予断を許さないものになっています。しかし、真の平和友好の日中関係を展望する上では、日本自身がポツダム宣言という原点に回帰することは不可欠の課題です。中国は明确にそれを日本に望んでいます。ポツダム宣言を踏まえた日本の対中国政策はどうあるべきか。その点に関する正しい理解と認識及びその国民的共有をどう構築するかを考えたいと思います(第6回)。