まだ大学教員だった頃、河合塾で何度かお話ししたことがありました。その縁で、河合文化教育研究所が2010年以来毎年、塾生を対象(多分)に出している「わたしが選んだこの一冊」という小冊子に寄稿のお誘いを受けました。「この一冊」となると結構悩ましいのですが、著者ははじめから丸山眞男に決まりで、その次には若い人にも手ごろな価格で求められるものという条件は満たす必要があるだろうと思いました。まずは『日本の思想』(岩波新書)が思い浮かびましたが、いまの私の問題意識(「執拗低音」と「開国」)にはややズレがあり、問題意識からすると『忠誠と反逆』(筑摩書房)がドンピシャだったのですが、私の持っているのはハード・カバー版で価格に難があるとためらいました。しかし、念のために検索してみたら、「ちくま学芸文庫」版(1400円+税)があるではありませんか。ということで書いたのが以下の拙文です。私は「コラム」で度々「執拗低音」「開国」に触れてきましたが、なぜ私がこの二つのキー・ワードにこだわるかについて「コラム」で正面から書いたことはない(私なりにこの二つのキー・ワードに本格的に取り組んだ集大成は『日本政治の病理』(三一書房)です)し、与えられた字数の中で若い人たちに伝わる内容にするためにそれなりに苦吟もしたので、この拙文には私なりの愛着を感じています。最近、河合塾の小冊子は出版されましたので、この「コラム」にも記録として残しておこうと思い立った次第です。ちなみに、『日本の思想』については、同じ小冊子で憲法学の山内敏弘さんが取り上げておられるのを見つけました。中身のある内容なので、ご紹介しておきます。今年の2021年版には山内さん、私を含め、33人が書いています。小冊子に関心をお持ちの方は、河合塾(TEL:052-735-1706)に問い合わせてください。

 私は外務省勤務(約25年)時代から、日本の政治・外交のあり方に問題意識を膨らませてきました。その後大学教員となり、特に明治学院大学国際学部在職時(約15年)には「日本政治論」という講義を担当して、この問題意識を突っ込んで考え、また、私なりの答を講義の中で受講生に伝え、その反応に接する機会を得ました。私にとって幸運だったのは、タイミング良く『丸山眞男集』(岩波書店)が陸続と刊行されつつあったことです。私は丸山の歯切れの良い、明快な文章に引き寄せられましたし、私の問題意識を解くカギをその中に見いだして興奮したことも数えきれません。
 丸山の「『である』ことと『すること』」(『日本の思想』(岩波新書))は高校の教科書にも収められたことがあります(今はどうか、私は寡聞にして知りません)。丸山の専攻は日本政治思想史研究ですが、私が思うに、彼の業績は単に学問上の赫々たる成果(この点については広く承認されている)だけに留まらず、日本政治の病理(「執拗低音」)にメスを入れるとともに、その病理を剔抉する解(「開国」)をも示したことにあります。 ちなみに、「執拗低音」とは、普遍の思想が日本に入ってくる時に「「内」なるなにものかががそれを変容させ」て日本化させる、その"普遍を日本化させるなにものか"のことを表す丸山の言葉です。「執拗低音」は、日本人の歴史意識、倫理意識及び政治意識において現れます。また、「開国」とは、「執拗低音」に縛られている日本人の歴史意識、倫理意識及び政治意識を、普遍の思想にさらすことによって克服することを意味する言葉です。普遍の思想は日本が物理的に開国(室町末期・戦国時代、明治維新、第二次大戦敗北)する際に入って来ることに着目した、丸山の新しい意味付与の言葉です。
ところが今日では、丸山の「執拗低音」及び「開国」に関する研究業績についてはほとんど顧みられず、取り上げるとしても否定的評価が大勢です。その原因の一つは、「執拗低音」及び「開国」が日本政治思想史に占める位置を、丸山が本格的、体系的に論じることがなかったことにあると思います(残念なことですが)。
 しかし、『忠誠と反逆 -転形期日本の精神史的位相-』は、「執拗低音」と「開国」を扱った文章が比較的まとまって収められています。「忠誠と反逆」は倫理意識及び政治意識にかかわる執拗低音を扱っていますし、「歴史意識の「古層」」は題名どおり歴史意識にかかわる執拗低音を取り上げています(「古層」は「執拗低音」と同義)。また、「幕末における視座の変革-佐久間象山の場合-」と「開国」は開国という問題を扱ったものです。特に前者は、幕末に生きた佐久間象山を取り上げて、普遍の思想にコミットすることによって「執拗低音」から決別する実例を生き生きと描写しています。「開国」は幕末維新における思想状況を活写したものです。
 残念ながら、この一冊だけで丸山の「執拗低音」と「開国」にかかわる思想の全容を知ることはできません。関心を深めてくださった人たちには、『丸山眞男集』等豊富な文献がありますので、読み進めてください。また、拙著『日本政治の病理』(三一書房)は、「執拗低音」及び「開国」にかかわる丸山の発言を、私の問題意識に即して網羅的に整理して収めています(出典も紹介)ので、参考にしていただけたら嬉しいです。