「梨の木ピースアカデミー」は、梨の木出版がオープンした新時代の市民講座です(詳細についてはhttps://apply.npa-asia.net/aboutをご覧ください)。私は3月から、「国際環境の中の日本外交」というタイトルで5回の講座を担当しています。すでに4月14日までに4回のお話しを行いました。。主催者から、私のHPでもこの講座のことを紹介するようにとの提案がありましたので、恥ずかしながらご案内する次第です。
 6回のお話の内容は、以下のようになっております。すでにお話しした4回については、お話しに際して作ったレジュメをつけておきました。ちなみに、4月28日と5月12日にも、残り2回のお話しをすることになっておりますので、興味、関心を持ってくださる方は、NPAにお問い合わせください。第5回は、冷戦終結後の日米同盟の変質強化を、5回出されたアーミテージ報告(中国に関する記述の変化に注目しています)をもひもときながらお話しする予定をしています。第6回目は、21世紀国際環境の下における日本外交のあるべき姿についてお話しすることを考えています。

コース概要:日本を取り巻く国際環境及びその変化がどのような日本外交を形作ってきたのかを考えます。6つの時代区分(古代・明治維新前後・敗戦直後・独立回復前後・冷戦崩壊・21世紀)を設定し、各時代における国際環境の主要な特徴を整理し、その国際環境に対する日本外交の適応・不適応について考えます。皆さんと一緒に21世紀における日本外交のあり方を主体的に考えるきっかけになることを期待しています。第1回(古代)に関しては、先学の研究業績によりながら、皆さんと一緒に学んでいくことになります。また、第2回(明治維新前後)、第3回(敗戦直後)、第4回(独立回復前後)に関しては、丸山眞男の優れた論考を紹介する機会にしたいと思います。第5回(冷戦崩壊)及び第6回(21世紀)に関しては、私の独断と偏見を紹介します。

曜日 : 水曜日 原則隔週
時間:19:00-21:00
開催方法と定員 : オンライン開催・定員 50名
講師:浅井基文
コーディネータ:
- 内海愛子 (NPA共同代表)
- 李泳采 (恵泉女学園大学)
- タナカノゾミ (梨花女子大学)

◆ 第1回 古代国際環境と日本人の国際観
開催日 : 2021年3月3日(水)
<レジュメ>
1.日本を取り巻く古代国際環境
-「古代国際環境」
*中国の歴史書に日本(「倭」)の記述が登場する紀元1世紀から、中国・唐王朝が滅亡して「古代東アジア世界」が解体する9世紀初頭までの日本を取り巻く国際環境(西嶋定生)
*『私の日本古代史』(上田正昭)所掲の「関連する略年表」も西暦25年~724年を扱っている。
-「倭国の形勢とその国際的契機」
 *班固『漢書』(紀元1世紀後半)地理志:「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云」(「楽浪の海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時を以て来たり献見すと云う」)
 *西嶋解説
  **「中国文献には、倭国の形成過程が、大陸とは絶縁された状況の中で独自に進行するのではなく、当初から、中国王朝を中心とする東アジアの歴史の中で、それと関連しながら進行したということが示されている。」(p.3)
  **「倭国形成の背景として、東アジアの歴史の総体が常に課題になるのであり、その中における倭国の形成と大陸の歴史との関連を考察しなければならなくなる。」(p.4)
  **「その折々の大陸の歴史的動向を知ることが、倭国の形成を理解するための重要な課題となるであろう。」(同)
-「歳時を以て来たり献見す」(冊封関係)
 *「冊封関係」
**定義:中国王朝は、周辺諸国家に対して、王朝内の君臣関係の表現形態である封建制を拡延して適用した。これを冊封関係という。(p.5)
**政治制度:「中国王朝とその周辺の諸国家との間の支配隷属の現実的力関係を政治的な機構として具体化する方式」(同)
**政治思想:「中華思想(華夷思想)、つまり中華と夷狄とを差別する価値観と、いったん差別した夷狄を王者の徳によって中国に再結合させるという王化思想の論理」(同)
**周辺諸国にとってのメリット:(対内)「国内における首長の権威と地位とが中国王朝からの冊封によって保障される」・(対外)「近隣諸国との競合関係において、他に比して権威を持ち得た、あるいは、中国王朝の庇護を求めた」(pp.5-6)
 *日本を含む東アジアにおける中国文化の受容と漢字文化圏の形成(pp.11-12)
-前漢を中心する東アジア世界の形成(~1世紀BC)
 *「中国王朝の権威の確立と関連して、これと周辺諸民族の首長との間に形成された政治的関係を基軸とする政治的機構の総体」(p.19)
 *華夷思想・冊封関係:「東アジアにおいて最初に強力な政治権力を形成した中国の王朝国家が、周辺諸民族の首長にその力を及ぼし、これら諸首長も中国王朝の権威と結合することによってその首長権を強化しようとして冊封関係が形成される時、この政治体制の総体を東アジア世界と考える」(同)
 *王化思想
**前漢時代後期に興隆した儒教思想が説いた「理想的な君主とされるものは有徳の聖人であり、その徳によって人民が同化されることによって理想的な政治が行われる」(p.22)という思想
**漢王朝の対外政策への影響:「王化の極致は中国の礼を知らない夷狄が天子の徳を慕って来朝し、中国の礼に同化されること」(同)
-後漢王朝時代の東アジア世界(1~2世紀)と倭
 *東夷諸国が次々と漢に内属(p.30)
 *紀元57年に倭・奴国王が遣使奉献して金印紫綬を賜与された。(同)
-三国分立期の東アジア世界(3世紀)と倭
 *国際環境の変化:政治中心地(中国)の分裂と対立が中国と周辺諸国の関係に新しい状況を作り出した。
   **遼東・公孫氏政権(倭女王・卑弥呼が内属)を冊封して魏の背後を脅かそうとした呉と、これを阻止しした魏(pp37-40)
   **公孫氏政権との提携に失敗して高句麗に接近し、冊封し、魏の背後を脅かそうとした呉と再びこれを阻止した魏(pp.39-40)
  **諸葛亮病死で撤退した蜀軍の行動で対呉・対蜀の二正面作戦から解放された魏の攻撃による公孫氏政権の滅亡(pp.40-41)
*公孫氏滅亡後、卑弥呼は魏王朝に遣使入献、魏から親魏倭王に冊封される(239年12月)。
  **「魏が卑弥呼を親魏倭王に冊封したのは、呉に対する正面戦線である淮河流域情勢が緊迫していたことに加え、公孫氏滅亡後の東北方面でも呉の勢力が蠢動していたことに対して倭と提携してこれを牽制しようとしたためであると考えられる。」(pp.43-44)
  **「邪馬台国は帯方郡の南方1万2千余里の地点、すなわち会稽郡東冶県(現在の福州市付近)の東方海中にある大国であって、それはまさしく呉の後方に位置するものと考えられていた」(p.44)
  **「従来の邪馬台国の位置論争は、これが日本列島のどこに当たるかということのみが問題とされ、‥邪馬台国に対する魏の政略論を問題にする視角が欠落している」(同)
  **邪馬台国と魏王朝との外交は文書による外交であり、交渉の数は3回だった(上田(上)p.129)。
*魏王朝が晋王朝に交代(280年)したときに、卑弥呼の後を継いで倭王となっていた壹與は早速晋に献使奉献している。(p.44)
-「五胡十六国」時代の東アジア世界(4世紀)と倭(「謎の4世紀」)
 *朝鮮半島
**中国王朝による郡県制支配の終焉と高句麗・百済・新羅などの勢力伸長(p.52)
**朝鮮諸王朝が中国王朝より冊封される中朝新関係の形成(355年:前燕が高句麗に冊封)(p.57)
 *日本
**「邪馬台国の滅亡と大和政権の浮上」(p.54)
**好太王碑文:朝鮮半島に対する日本の進出(p.58)
 *朝鮮半島と日本:高句麗の南下と大和政権の発展及び朝鮮半島への進出(p.59)
 *高句麗・広開土王陵碑:「4世紀末から5世紀のはじめにかけての日朝関係を考察する上で不可欠の資料」(上田(上)pp.194-216)
-「南北朝時代」の東アジア世界(5世紀)と倭(「倭の五王」
*『宋書』(夷蛮伝倭国の条)に記載された讃・珍・済・興・武による献使朝貢の記事):宋王朝による官爵除任と倭
 *高句麗:「征東大将軍」(420年)
 *百済:「征東大将軍」(420年)
*倭(珍):「都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」を上表奏請し、「安東将軍・倭国王」を授かる(438年)。
   **「倭王は朝鮮半島南半の軍事行政権の認可を得ようとした」(p.62)
**「すでに百済王を除任して百済地域の軍事行政権を百済に授けていた東晋王朝(ママ。宋王朝の間違い)、それを倭王に授ける可能性はなかった」(同)
*倭(済):「都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事を加えた安東将軍を授かる(451年)。(pp.60-61) 済:允恭天皇
  **百済は除外。
**「新羅・任那等々の軍事行政権が倭王に認められたことは、この地域に対する倭国の支配権を東晋王朝(ママ)が認めたことを示す」(p.62)
*倭(興):安東将軍のみ(462年)。 興:安康天皇
   **都督諸軍事の官合は削除された(?)(p.63)
**「倭王済の時に与えられていた朝鮮半島南部に対する軍事行政権を、倭国の勢力が朝鮮半島から後退するなどのことによって喪失することになったのではないか」(同)
*倭(武):「都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王」を上表奏請(477年)、「都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」を授かる(478年)。(pp.63-64) 武:雄略天皇
**「倭の五王の献使朝貢の主目的は、自国内における倭王の権威を強化することよりも、朝鮮半島における倭国の地位を強化することにあった」(p.64)
**「比重は百済に対してより優越的な地位を獲得することに置かれ、‥しかしそれは最後まで承認されなかった」(p.64)
-6~8世紀の東アジアと日本(倭国)
 *「倭国と中国王朝との国交は、478年の倭王武の上表奉呈と、それに対する官爵授与を最後として、以後7世紀の初頭まで、長い中断期に入る」(p.65)
   **「南朝に政変が起こり、周辺の国から頼むにたる存在ではなくなった」?(p.65)
     ***高句麗・百済は南朝諸王朝への献使朝貢を継続していた(p.66)
     ***「倭国の献使朝貢が途絶したのは南朝側の情勢変化を理由とするものではなかった」(p.67)
   **「献使が所期の効果をもたらすことがなかったために献使朝貢の熱意が冷却した」?(p.65)
     ***「6世紀になっても倭国の朝鮮半島に対する関心は強化されこそすれ、決して縮小したのではないし、中国王朝への献使朝貢を継続していた百済・新羅が存続していたのであるから、これらに対する権威を保持するためにも、官爵授与の機会を放棄したということは考えがたい」(p.68)    **「朝鮮半島情勢の変化があって、倭国が中国王朝に献使朝貢する意味が失われた」?(p.65)      ***6世紀の朝鮮半島情勢の変化 ****新羅勢力の勃興と高句麗の南方進出の鈍化(p.69) ****新羅による任那地方併合と倭国の勢力の朝鮮半島南部からの駆逐(562年)(pp.69-70)      ***倭王の中国王朝への献使朝貢は478年が最後で、半島情勢の変化に先立っている。(p.70)      ***倭国は百済・新羅に対して常に優越感を持って対処しようとして、朝鮮半島政策が後退することはなかった。(pp.70-71)    **「倭国の国内政治情勢の変化によって対中国王朝政策の中断を余儀なくされた」?(p.65)      ***王位の継承に伴う紛争(継体天皇)      ***「継体朝の内乱は6世紀前半で終息し、その後には欽明朝の安定した時代が出現した」(p.71)      ***「欽明朝になっても中国王朝に対する献使朝貢は復活しなかった」(同)**「倭国自体になんらかの国家意識の変化があり、従来の対中国王朝態度が放棄された」?(p.65) ***倭王武(雄略天皇)の上表文(478年):「献使上表の政治的目的を、中国王朝の世界観(天下思想)に結びつけて表現(=中国王朝が天下の中心であることを前提とする政治行為)(p.75)
***江田船山古墳出土鉄刀銘文と稲荷山古墳出土鉄剣銘文(雄略天皇に比定):「治天下」(前者)と「佐治天下」(後者)の記載(p.77)
***「倭王武の上表文中に示される天下思想は中国王朝を中心とする世界観、…中国王朝との関係を離れた場所では倭王の支配領域が「天下」と観念されていた。…倭国のみが「天下」という世界として観念されている。倭国は中国思想から「天下」を借用して自国の領域に適用した。このことはもともと全世界の意味である「天下」を矮小化するものであり、広大無辺の全世界を有限的小世界に置換するものである。しかもその矮小化と置換の過程において、有限的小世界を「天下」と意識するならば、そのことは、元来の「天下」からの離脱を意味することになる。」(p.78)
   「中国王朝にあっては、中国王朝が「天下」の中心であり、皇帝の徳は「天下」のすべてに行き渡るべきものであるとする世界観が存在した。それなのに、中国南朝(宋)に献使朝貢し、中国王朝から「安東大将軍」の軍号を賜与された倭王武の時期に、倭王が「大王」として「治天下」を表明するのはある種の矛盾である。…どのように理解すればよいのか。その点については、倭国が中国思想の「天下」を借用して、倭国の大王の領域内に適用したと見なす説が妥当である。中国王朝が「天下」(世界)の中心であるとする思想を、倭国の「大王」中心の限定された「天下」に矮小しながらも、「大王」の「天下」を自己主張したありようをそこに見いだすことができる。それは主観的には、中国王朝からの「離脱」「自立」を目指す意識の兆しでもあった。」(上田(上)pp.233-234)
***「百済・新羅を服属させて高句麗の脅威に対抗することは、この段階ではすでに国家的使命と意識されていたのであり、そのためには百済・新羅に優越する国家としての権威を獲得しなければならなかった。このためにも、まず国内における倭王の位置を「治天下大王」にまで上昇させるとともに、その世界観と矛盾する中国王朝に対する献使朝貢を廃止することは当然のこととなる」(pp.78-79)
*中国王朝との国交中絶期間中に倭国の古代国家体制が進行し、倭国の領域を「天下」とする小世界的天下思想は定着していく(p.79):「治天下大王」は倭王の称号となり、「治天下天皇」に発展し、そこに「天皇」号が成立する。(同)
 *隋王朝の中国再統一(589年)と東アジア
   **朝鮮三国:百済献使奉表・冊封(589年)・高句麗冊封・新羅冊封(594年)
   **倭王使者(遣隋使)派遣(600年):対隋対等姿勢
    ***「治天下大王」君主観の成長(前述)
    ***朝鮮三国に対する態度:「4世紀以来の朝鮮諸国との関係の中で形成された」朝鮮三国特に百済・新羅を臣属国と見なす伝統的姿勢(p.93)
 *唐王朝(618年建国)と東アジア
   **朝鮮三国
    ***献使来朝(621年)
    ***冊封関係設置・毎年朝貢義務(624年)
   **倭国
    ***遣唐使派遣(630年):毎年朝貢義務免除
    ***対唐対等姿勢と朝鮮三国を臣属国と見なす伝統的姿勢
   **白村江(はくすきのえ)の戦い(663年8月27-28日)と「日本国」意識の高まり:「660年に唐・新羅の連合軍によって百済が滅び、百済復興の軍を倭国は支援したが、倭国の軍勢は白村江の戦いで大敗した。唐は651年、すでにまず新羅を助けて百済を倒し、次いで高句麗を征討する対朝鮮三国策を打ち出した。白村江の大敗ばかりではなく、高句麗との連携を深めようとして、(天智天皇は)667年に大津に都を遷したが、翌年ついに高句麗も唐・新羅の連合軍によって滅亡する。…
白村江の戦いによる大敗の中で高まってきた「日本国」の国家意識を反映して、「帝紀及び上古の諸事の記定」が具体化し、『日本国』の紀ができあがってゆくプロセスにも、『日本書紀』成立の軌跡が浮かび上がる。雄略朝以後に朝鮮半島との関係記事が多くなり、推古朝以降になると対中国関係の記事が頻繁となるのも、日本国と東アジアとのかかわりが、7世紀から8世紀のはじめにかけての重要な政治的課題になっていたからである。」(上田(下)pp.51-52)
「日本国家の成立は、正式に日本国という国号を内外に名乗った時がそのメルクマールとなる。…私見では白村江での大敗、そして壬申の乱における皇権の最大の危機を乗り越えた天武朝がその時であったと考えている。…史料によって、日本という国号の具体化の上限は670年であり、その下限は701年ということを見定めることができる」(上田(下)pp.243-244)
2.古代日本(倭国)の国際観の形成
-地理的条件
 *中華帝国の圧倒的存在
 *朝鮮半島との隣接
-思想的条件
 *中華思想
  **天下思想
  **華夷思想
  **王化思想(儒教)
  **冊封関係
 *流入経路
  **朝鮮半島経由
  **遣隋使・遣唐使
 *受容形態:「雨だれ」型(丸山眞男)
  **cf.「土砂降り」型
  **執拗低音による変型的受容
-日本的「天下」観(小中華世界観)の形成
 *日本を世界(中華)の中心とし、朝鮮諸国等を藩属国(夷狄)と見なす世界観(→「朝鮮蔑視」)
  **4世紀以後一貫する、朝鮮半島を支配するという目的意識
  **朝鮮半島支配を正当化する上で好都合な天下思想・華夷思想
  **冊封関係の設定は朝鮮諸国の拒否・抵抗で実現せず。
  **文化的・思想的後進国の日本(倭国)にとってもっとも無縁だった王化思想
 *中国の位置づけの難しさ
  **中国の圧倒的存在という客観的事実は動かせない→自らを中国の上に置く発想は出てこない。
  **中国に対して冊封関係(上下関係)の「下位」に甘んじることは受け入れられない。
  **背伸びした対等平等性を主張することになる。
-今日的含意
 *西嶋定生「回想と省察」(pp.231-236)
  **「東アジア世界の中における日本の歴史をたどってきた結果、心の底に滞る二つの思い思いに沈まざるを得なかった。その一つは、世界史にとって日本の歴史とはいったい何であったか、という苦渋を伴う反省であり、他の一つは、日本固有の文化の位相についてである。」(pp.231-232)
  **「東アジア世界のみならず、いかなる世界においても、そこにはその世界の出現を可能とし、その世界の展開を他の世界から区別する独自の価値体系が存在する。そしてこの価値大家の創造者がその世界の主役となる。…
     しかしこれまでの歴史において、日本はそのような価値体系の創造者となったことがあったであろうか。中国の冊封体制に参加することによって、東アジア世界に登場した日本は、5世紀末以後この冊封体制から離脱し、8世紀以降の律令制時代において、自ら小帝国を構築した。しかしそこにおける価値体系としての律令制は、基本的には中国のものであって、日本独自の創造物ではなかった。…(19世紀の)東アジア世界の崩壊期における日本の国内論争は、上位か開港かという単純化された問題となり、この日本歴史の重大な危機に際して、独創的な価値体系を持つ世界観は発想されなかった。…このような反省は、現在の国債情勢下において、日本がいかに世界史に寄与するかという問題として、深く考慮すべき点である。」(pp.232-233)
  **「日本の歴史を東アジア世界の中で理解するということは、決して日本の歴史をその中に解消してしまうという意味ではない。日本の歴史は東アジア世界の歴史の中で展開したにもかかわらず、そこには主体的に歴史を動かす人々がおり、また日本固有の文化も、その中で発生し展開した。このことを忘れてはならない、ということである。この場合問題とすべきことは、この日本固有の文化の位相、すなわち日本の歴史において、これがどのように位置づけられてきたか、という点である。
     日本固有の文化は情の文化である、と理解されている。…しかしこの情の文化は、ついぞ政治体制の基盤となり、それを性格づけるということはなかった。…体制の文化は理の文化であり、外来の文化であった。そのことを代表するものが古代律令制であり、江戸時代の朱子学であった…。
     このように理の文化と情の文化とが、体制によって場を異にする限り、日本の固有の文化とされる情の文化は、価値体系に昇華することが困難である。…日本には誇るに足る固有の文化とその展開があった。それにもかかわらず東アジア世界の中で日本の歴史を眺めてくると、この固有文化の位相の歴史が、現在の破壊されつつある日本の自然環境の中で、日本人の心情とどのようにかかわってくるのかと、暗澹たる思いに駆られるのである。…
     現代において、新しく求められるべき世界構築のための価値体系とは、この汎地球的な世界を場として想定されるべきであるとともに、この世界の現在的矛盾を止揚するものとして創出されるべきものである。」(pp.233-235)
*上田正昭:「倭王武の上表文にすでに「東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国」と書きとどめた「夷狄」観が、7世紀の後半には明确に具体化していた。このように日本版中華思想は、古代日本の東アジアにおける国際関係とも密接なつながりをもった。そしてこうした日本版中華思想が、日本の近代化の中でよみがえって、よそおいも新たないわゆる脱亜入欧思想の前提を形作っていく。
   古代日本の「大唐」は、近代日本の「欧米」であり、「蕃国」はアジアの諸国で日本に従属すべき国々と見なした。古代日本の日本版中華思想は、形を変えて近代の「脱亜入欧」として現実化したと言えよう。」((下)p.295)
◆ 第2回 明治維新前後ー日本「ナショナリズム」の特徴
開催日 :2021年 3月17日(水)
<レジュメ>
1.「近代国家と個人の自由」
-欧州「近代国家」と日本的「国家」
  *欧州「近代国家」
   **「国民国家」(ネーション・ステート):ナショナリズムは「近代国家の本質的属性」
    **「中性国家」
    ***「真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的立場をとり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(例えば教会)乃至は個人の良心に委ね、国家主権の基礎をかかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いている。」
    ***「近代国家は宗教改革につづく十六、十七世紀に亘る長い間の宗教戦争の真只中から成長した。信仰と神学をめぐっての果てしない闘争はやがて各宗派をして自らの信条の政治的貫徹を断念せしめ、‥その支配根拠を公的秩序の保持という外面的なものに移行せしめるに至った。かくして形式と内容、外部と内部、公的なものと私的なものという形で治者と被治者の間に妥協が行われ、思想信仰道徳の問題は「私事」としてその主観的内面性が保証され、公権力は技術的性格を持った法体系の中に吸収された。」
*日本的「国家」
**「日本は明治以後の近代国家の形成過程において国家主権の技術的、中立的性格を表明しようとしなかった。その結果、日本の国家主義は内容的価値の実体たることにどこまでも自己の支配根拠を置こうとした。」⇔「中性国家」
**「国家に対して内面的世界の支配を主張する教会的勢力は存在しなかった。」「自由民権運動が華々しく台頭したが、…在朝者との抗争はもっぱら個人乃至国民の外部的活動の範囲と境界をめぐっての争いであった。」
⇔「国民国家」
-国家主権と個人的自由
*「国家主権と主体的個人が隔っている限り、自由権の範囲に応じて主権が制限される。」
*「個人が"公民"として主権に一体化した極限状況を予想すると、そこでは個人的自由と主権の完全性とが一致する」(国民主権に基づく民主主義国家の理念型・ルソー「一般意思の理論」)
*英米
 **「国家からの自由」を強調する傾向
**「(個人的自由と主権の完全性)の一体性が早くから実現されたために意識に上らず、国家からの自由という側面を強調」→「チェック・アンド・バランス」の理論(ロック)
**「ナショナリズムという言葉には何か重苦しい連想がつきまとっている」→マス・デモクラシーに対する不信感 (注)社会主義・中国を「全体主義」とレッテル貼りする西側的通念
*仏独
 **「国家への自由」を強調する傾向
**「外的圧迫からの国民的独立に苦しんだところでは、近代的自由の持っている構成的積極的契機は一層強く自覚せられざるをえない」
 **「ナショナリズムがリベラリズムの双生児であることは国民的常識」
 *日本
**「国家的秩序の形式的性格が自覚されない場合は凡そ国家秩序によって捕捉されない私的領域というものは本来一切存在しないこととなる。我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが未だかつてない。…私事の私的性格が認められない結果は、それに国家的意義を何とかして結びつけ、それによって後ろめたさの感じから救われようとする。…「私事」の倫理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存するという論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果となる。」
**「自由ということがどういうふうに理解されたかというと、外からのタガがはずれるにすぎないとかいわれた。自由が放縦と同じように理解された‥。欧州の自由主義のはじまりは良心の拘束というものから入っていったのであるが、日本のはそうではなく、良心の自由を知らず、たんに外からの拘束がはずれることであった。」
-ナショナリズム(「国民」と「市民」)
*「近代国家とくに近代市民革命の基底となった「国民(ナシオン)」観念は‥特殊的に近代国家を積極的に担う社会層を意味しており、‥やがて人権宣言第三条における国民主権の規定に連なっている。」 (注)「国民」と「市民」とを対立的に捉える私たちの理解
*定義:「人がその属する政治的社会(nation)に自己を同一化(identify)するところから生ずる感情や態度の複合体」
  *欧州近代国家におけるナショナリズムの成立過程
**第一段階:「絶対君主による中央集権的統一国家の樹立は、中世における領主、教会、ギルド、自治都市へのloyaltyを崩壊させ、あらたに愛国心(ナショナリズム)の地盤としての国家領域national territoryを登場させた」
**第二段階:「自由・民主主義の発展」 (注)明治・日本における欠落
*ナショナリズムの二面的性格
**「市民的自由によって支えられる合理的側面」 (例)第二次大戦時のレジスタンス運動
**「エスノセントリズム(自民族中心主義)の非合理的側面」
***支配権力が利用する場合 (例)対外的膨張・侵略への熱烈な追随(軍国主義・日本)
***侵略等に対する抵抗エネルギーと結びつく場合 (例)植民地解放闘争
2.日本型ナショナリズム
-問題の所在
 *「日本のナショナリズムを把握するに当って直面する困難性はその構成内容とその時間的な波動の特性という二点に帰することができる。第一の構成内容という点では、なにより日本のナショナリズムがヨーロッパの古典的ナショナリズムと区別された意味でのアジア型ナショナリズムに共通する要素をもつと同時に、他方において、中国、インド、東南アジア等に見られるナショナリズムとも截然と異なる要素をもつことからくる複雑性を挙げねばならない。第二の時間的な波動の特性とは何かといえば、それが、一九四五年八月一五日という顕著なピークを持ち、その前後の舞台と背景の転換があまりにはなはだしいために、問題の一貫した考察をきわめて厄介なものにしていることである。」
 **「構成内容」
***アジア型ナショナリズムに共通する要素:欧米帝国主義の侵略に対する抵抗・自己保存
***アジア型ナショナリズムと異なる要素:「脱亜入欧」
**「時間的な波動の特性」
***1945年8月15日以前
***1945年8月15日以後
 *「日本のナショナリズムの思想乃至運動は…根本的には日本帝国の発展の方向を正当化するという意味をもって展開して行った。それは社会革命と内面的に結合するどころか、…革命の潜在的な可能性に対して、ある場合にはその直接的な抑止力として作用し、他の場合にはそのエネルギーの切換装置たる役割を一貫して演じてきた。しかも他方それは西欧の古典的ナショナリズムのような人民主権ないし一般にブルジョア・デモクラシーの諸原則との幸福な結婚の歴史をもほとんどろくに知らなかった。むしろそれは「前期的」ナショナリズムの諸特性を濃厚に残存せしめたまま、これを近代ナショナリズムの末期的変質としての帝国主義に癒着させたのである。かくして日本のナショナリズムは早期から、国民的解放の原理と訣別し、逆にそれを国家的統一の名においてチェックした。」
**社会革命に対する敵対・弾圧的姿勢
***西欧ナショナリズムが内包する人民主権・デモクラシー諸原則との無縁性
***アジア型ナショナリズムの特徴である民族解放・自決原則に対する敵対
**「前期的」ナショナリズム+帝国主義(近代ナショナリズムの末期的変質形態)
***「国民的な連帯意識というものが希薄で、むしろ国民の大多数を占める庶民の疎外、いな敵視を伴っていること」
***「国際関係に於ける対等性の意識がなく、むしろ国内的な階層的支配の目で国際関係を見るから、こちらが相手を征服ないし併呑するか、相手にやられるか、問題ははじめから二者択一」
-戦前ナショナリズムの特徴的性格
*国民的解放の原理との決別・対決:「日本のナショナリズムは早期から、国民的解放の原理と訣別し、逆にそれを国家的統一の名においてチェックした。そのことがまたこの国の「民主主義」運動ないし労働運動において「民族意識」とか「愛国心」とかいう問題の真剣な検討を長く懈怠させ、むしろ挑戦的に世界主義的傾向へと追いやった。そうして、それはまたナショナリズムの諸シンボルを支配層ないし反動分子の独占たらしめるという悪循環を生んだのである。」
**支配層によるナショナリズムの独占
**被支配層におけるナショナリズムに対する違和感・反発
*郷土愛的情緒性:「日本のナショナリズムの精神構造において、国家は自我がその中に埋没しているような第一次的グループ(家族や部落)の直接的延長として表象される傾向が強く、祖国愛はすぐれて環境愛としての郷土愛として発現する」⇔「近代ナショナリズム…は決して単なる環境への情緒的依存ではなく、むしろ他面において…高度の自発性と主体性を伴っている(人民主権原理)」
**「くに」という言葉の多義性
***「「くに」はいくつにも相似形に重なった構造をなしています。いちばん外に「大日本国」という国がある。その中に出羽の国とか、播磨の国とかいう場合の「くに」がたくさんあります。さらに今日でも「くにへ帰る」という場合のように自分の祖先が住んでいた「郷土」という意味の「くに」が最小単位をなしています。そこで自分にいちばん近いクニにたいする自然の愛着心を、いちばん大きな大日本国というクニに比較的たやすく動員できる」
***「日本語ではさらにおどろくべきことに、政府も「くに」なのです。‥カントリーが同時にガヴァンメントをも指すわけです。日本の「くに」という言葉がもっている魔術の秘密というのは、それです」
**「くに」という言葉の魔術性
***「くに」という言葉がもっている「魔力はネーションの意識のおどろくべき低さと背中合わせになっている」
***「「くに」への依存性・所属性の意識は非常に強く、その半面、この「くに」は俺が担っているのだ、俺の動きで日本国の動向もきまるのだ、という意識は非常にとぼしい」
***「政治的責任の主体的な担い手としての近代的公民(シトロイヤン)のかわりに、万事を「お上」にあずけて、選択の方向をひたすら権威の決断にすがる忠実だが卑屈な従僕を大量的に生産する」
-敗戦・日本におけるナショナリズム形成に対する影響
 *健全なナショナリズム形成阻害要因:「それはそのままの形では決して民主革命と結合した新しいナショナリズムの支柱とはなりえないことは明白である。なぜなら、まさにその発酵地である強靱な同族団的な社会構成とそのイデオロギーの破壊を通じてのみ、日本社会の根底からの民主化が可能になるからである。」
 *民主化阻害要因:「伝統的ナショナリズムが非政治的な日常現象のなかに微分化されて生息しうるということ自体、戦後日本の民主化が高々、国家機構の制度的=法的な変革にとどまっていて、社会構造や国民の生活様式にまで浸透せず、いわんや国民の精神構造の内面的変革には至っていない」
 *親米・反共・反革命への動員:「動員されるナショナリズムはそれ自体独立の政治力にはなりえず、むしろヨリ上位の政治力-恐らく国際的なそれ-と結びつき、後者の一定の政治目的-たとえば冷戦の世界戦略-の手段として利用性をもつ限りにおいて存立を許されるのではないか」「国民の愛国心がふたたびこうした外からの政治目的のために動員されるならば、それは国民的独立というおよそあらゆるナショナリズムにとっての至上命題を放棄して、反革命との結合という過去の最も最悪な遺産のみを継承するものにほかならない」「この方向を歩めば、日本は決定的に他のアジア・ナショナリズムの動向に背を向ける運命にある」
3.中国(型)ナショナリズム
-中国と日本の決定的違い:「中国は支配層が内部的な編成替えによって近代化を遂行することに失敗したために、日本を含めた列強帝国主義によって長期にわたって奥深く浸潤されたが、そのことがかえって帝国主義支配に反対するナショナリズム運動に否応なしに、旧社会=政治体制を根本的に変革する任務を課した。」
-孫文・三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)の課題
*主権者精神の涵養:「被治者としての意識しかもたない国民大衆に、国家のことを主体的に担うところの精神、国家あるいは政治というものをみずからのこととして自分の肩に主体的に担っていくような精神、そういうものを、人民大衆の中に起こさせていくということ」「非政治的な自由を享受しているところの人民を、近代的な国民にまで鋳直するということが中国革命の目的である。」「全人民を政治化する、政治というものを人民のものにすると同時に政治を人民化する、人民の全生活と政治とを直結するということ」「国家の改革とは人心の改造である。意識の革命が国家の革命の目標である。」
*ナショナリズムとデモクラシーの結合:「ナショナリズムとデモクラシーの結合は孫文から学びました。左翼文献の勉強からはナショナリズムの契機は出てこないのです。民族・民主・民生の三つと、それから政治思想として大したものだと思ったのは、軍政・訓政・憲政という三段階論ですね。はじめは軍事独裁。それから教育独裁の訓政。これなんかたいへんな感覚ですね。今だって、中国共産党のやっていることは、ここを出ていない。最後に憲政。これは第三世界に通じる革命の発展過程だと思うんです。」
-抗日戦争(日中戦争)の二面的性格:「日中戦争は国家としての帝国主義と運動としてのナショナリズムとのたたかいであって、中国のナショナリズム運動に日本帝国が敗れたというべきです。日本をふくむ帝国主義国家が土足で中国をふみにじってゆくその過程が、同時に新生中国の陣痛でもある。‥マクロの歴史過程でも解体が同時に新生の陣痛だ、という矛盾する両面をもって事態が進行している。」
-中国共産党政権
*統一と独立:「中国を独立させようというのが三民主義でしょ。その路線を継承しているわけです、毛沢東だって。麻の如く乱れた中国を統一し、帝国主義の桎梏から解き放れて中国を独立国家にする。途中で国民党は腐敗しちゃった。結局どっちがナショナリズムを掴んだかというと、中国共産党、中でも毛沢東路線。それが農民を掴むのに成功したということでしょ。…そういう意味で、中国の統一と独立が毛沢東によって率いられた中国共産党によって達成された」
 *民主と集中:「(村落共同体の力は)中国の方が(日本より)はるかに強い。中国の方がはるかに無政府主義的になる要素がある。無政府主義的になる要素があるから‥上から一生懸命押さえるのは無理はない。放っておくとアナーキーになる要素は、はるかに伝統的にいうと強いんです、中国は。」
4.明治維新前後の日本
-「開国」と「文化接触」
 *「開国」
**二面性:「開国という意味には、自己を外つまり国際社会に開くと同時に、国際社会にたいして自己を国=統一国家として画するという両面性が内包されている。」
**19世紀アジアにおける日本:「両面の課題に直面したのがアジアの「後進」地域に共通する運命であった。そうして、この運命に圧倒されずに、これを自主的にきりひらいたのは、十九世紀においては日本だけであった。」
 *「文化接触」
**含意:「何百年のちがった伝統をもった構造的に異質な文化圏との接触の問題」「異質的な文化が二つぶつかり合ったときにどういう現象が起こるか、という考察」
**日本のユニーク性:「日本ほど早くから「未開民族」の段階を脱して、その時代時代の最高度の世界文化に浴しながら、しかも人種・言語・国土、底辺の生産様式と宗教意識などの点で、相対的に同質性を保持して来た文明国は世界にもめずらしいんですね。‥日本の国籍をもつ人民の圧倒的多数は先祖代々この国土に住み、日本語を話して来たこと、しかも逆に日本語が通用する地域は、一歩この国土の外へ出るとほとんどないこと-というわれわれにとっては当り前のことが、世界的にみるとちっとも当り前ではない。ですからこうした当り前を当り前にしないで、これを「問題」として問うて行くことが必要です。」
-攘夷論の変質と国際環境への適合
*(問題①)19世紀欧州国際社会をどう認識するか。
**19世紀欧州国際社会:権力政治(勢力均衡)と法の支配(戦時国際法)という二元的な構造
**権力政治(勢力均衡)のイメージ:「日本の国内における大名分国制からの連想」(?)
**国際法的観念の受容:「儒教的な天理・天道の観念における超越的な規範性の契機を徹底させることを通じて、諸国家の上に立ってその行動を等しく拘束する国際規範の存在への承認が比較的スムーズに行われた。」
***「中国と日本との関係では、古典的攘夷論者の場合でも、現実の国として中国と日本とが等しく普遍的な天道という上級規範に拘束されるということは認めざるを得ないわけで、幕末志士にとっても当然の共有観念であった。」
***「聖人の道=中華帝国(世界)の道という等式がナチュラルに成立する清朝読書人の立場とは自ずから異なるものがあった。」
***「天子に対する超越的契機が必ずしも強くなかった「天」の意識が、対外関係においては比較的強く作用して、国際秩序の観念を受容するテコとなった。」(理性の狡知)
*(問題②)開国(欧州文明の採用)をどう正当化するか。
**「東洋道徳・西洋芸術」(佐久間象山)あるいは「機械芸術彼に取り、仁義忠孝我に存す」(橋本左内)という使い分け方式
**「富国強兵」が終始目標となり、それと並行して政治力集中と対外的独立のシンボルとしての尊王論→天皇親政という方向が支配的となり、この二つの至上目的に一切の「摂取」が従属させられるようになった。」
-明治・日本のナショナリズムの根本問題
*文化接触における一般的傾向
**「異質的な社会圏との接触が頻繁になり、「視野が開ける」にしたがって、自分がこれまで直接に帰属していた集団への全面的な人格的合一化から解放され、一方で同一集団内部の「他者」に対する「おのれ」の個性が自覚されると同時に、他方でより広く「抽象的」な社会への自分の帰属感を増大させる。」
**「個人関係の次元でも「他者」への寛容と「われ」の自主性という相関的な自覚が大量的に生ずるためには、社会的底辺において異質的なものとの交渉がある程度まで行われなければならない。」
*明治・日本
**「伝統的な大陸文化圏への依存からの脱却が、西欧世界に向かっての認識の解放と「われ」の自覚という両方向を呼び起こす過程は、圧倒的に個人よりはナショナルな次元で行われ、その場合の「われ」は日本国と同一化した「われ」であった。」
**「日本はプロシャのように中央集権化を通じて成功した。その4300万の国民はあたかも一人の人間のように動くのである。」(B.チェンバレン"Things Japanese")
◆ 第3回 敗戦直後ー日本・日本人の「歴史観」
開催日 : 2021年3月31日(水)
<レジュメ>
1.「戦争責任」問題
(参考文献) 丸山眞男「戦争責任論の盲点」1956.3.(集⑥)
「戦争責任について」1956.11.(集⑯)
「戦争責任をめぐって-支配層の場合-」1956.(別集②)
              「超国家主義の論理と心理」1946.5.(集③)
「軍国支配者の精神形態」1949.5.(集④)
-問題の所在
*日本の進路にかかわる根本問題:「戦争責任をわれわれ日本人がどのような意味で認め、どのような形で今後の責任をとるかということは、やはり一度は根本的に対決しなければならぬ問題で、それを回避したり伏せたりすることでは平和運動も護憲運動も本当に前進しないところに来ているように思われる。」(注:1956年初の発言)
*全国民的問題:「あらゆる階層、あらゆるグループについて、いま一度それらにいかなる意味と程度において戦争責任が帰属されるかという検討が各所で提起されねばならぬ。」(注:同)
-「一億総ザンゲ」説
*東久邇首相施政方針演説(1945年9月5日):「敗戦のよつて来る所は、もとより一にして止らず、後世史家の慎重なる研究批判に俟つべきであり、今日われわれが徒に過去に遡つて、誰を責め、何を咎むることもないのであるが、前線も銃後も、軍も官も民も、国民尽く、静に反省する所がなければならない。我々は今こそ総懺悔し、神前に、一切の邪心を洗ひ浄め、過去をもつて将来の誡めとなし、心を新たにして、戦の日にも増して、挙国一家乏しきを分ち、苦しきを労り、温き心に相援け、相携へて、各々その本分に最善を尽し、来るべき苦難の途を踏み越えて帝国将来の進退を開くべきである。征戦四年、忠勇なる陸海の精強は、酷寒を凌ぎ、炎熱を冒し、つぶさに辛酸をなめて、勇戦敢闘し、官吏は寝食を忘れて、その職務に尽瘁し、銃後国民は協心尽力、一意戦力増強の職域に挺身し、挙国一体、皇国は、その総力を戦争目的の完遂に傾けて参つた。もとよりその方法に於て過を犯し、適切を欠いたものも尠しとせず、その努力において、悉く適当であつたと謂ひ得ざりし面もあつた。然しながら、あらゆる困苦欠乏に耐へて参つた一億国民の敢闘の意力、この尽忠の精神力こそは、敗れたりとはいへ、永く記憶せらるべき民族の底力である。(中略)
 洵に畏れ多い極みであるが、「朕ハ常ニ爾臣民ト共ニ在リ」とおほせられた。この有難き大御心に感奮し、我々は愈々決意を新たにして将来の平和的文化的日本の建設に向つて邁進せねばならぬと信ずるのであつて、全国民が尽く一つ心に融和し、挙国一家、力を戮せて不断の精進努力に徹するならば、私は、帝国の前途はやがて洋々として開けることを固く信じて疑はぬ次第である。かくしてこそ始めて、宸襟を安んじ奉り、戦線銃後に散華殉職せられたる幾十万の忠魂に応へ得るものと信ずるのである…」
*正体(イデオロギー的本質):「緊急の場面に直面した支配層の放ったイカの墨」(国民に懺悔・反省を押しつけて天皇の戦争責任追及を封じるもの)
-「戦争責任」問題へのアプローチ
*「日本のそれぞれの階層、集団、職業およびその中での個々人が、1931年から45年に至る日本の道程の進行をどのような作為もしくは不作為によって助けたかという観点から各人の誤謬・過失・錯誤の性質と程度をえり分けていくこと」
→丸山眞男の「戦争責任」の射程は1931年~1945年(日中戦争・太平洋戦争)であることについては、これまでも議論対象となった問題点です。
*国民の戦争責任
**「支配者と国民を区別することは間違いではないが、だからとて「国民」=被治者の戦争責任をあらゆる意味で否定することにはならぬ。」
***「少なくも中国の生命・財産・文化のあのような惨憺たる破壊に対してはわれわれ国民はやはり共同責任を免れない。」
→丸山の射程の限界故に朝鮮半島植民地支配に関する問題意識が出てきません。
***「日本はドイツの場合のように一応政治的民主主義の地盤の上にファシズムが権力を握ったのではないから、「一般国民」の市民としての政治的責任はそれだけ軽いわけだが、ファシズム支配に黙従した道徳的責任まで解除されるかどうかは問題である。」
**国民の戦争責任を認識することの政治的意味
***「「昨日」邪悪な支配者を迎えたことについて簡単に免責された国民からは「明日」の邪悪な支配に対する積極的な抵抗意識は容易に期待されない。」
***ヤスパース「国民が自ら責任を負うことを意識するところに政治的自由の目醒めを告げる最初の兆候がある」(戦後ドイツについての発言)
**今日の国民的意識状況が物語ること
***丸山の指摘の正しさ
***自民党政治の跳梁跋扈を許してきた主権者・国民に求められる問題意識
*天皇の戦争責任
**昭和天皇の「免責」
***国際的背景:極東軍事裁判ウェッブ裁判長:天皇が訴追の対象から除かれたのは、法律的根拠からでなく、もっぱら「政治的」な考慮に基づくことを言明。
***国内的背景:「天皇がヤヌスの頭のような性格を持っていること」(「なかば立憲的である。しかし、根本的な政治体制自身は絶対主義的なものがそのまま残っている。そういうヤヌス的な性格が、国家の最高統治者、主権の総攬者としての天皇の責任をアイマイにしている。」)
****「日本政治秩序の最頂点に位する人物の責任問題を自由主義者やカント流の人格主義者をもって自ら許す人々(注:丸山眞男、南原繁、矢内原忠雄等)までが極力論議を回避しようとし、あるいは最初から感情的に弁護する態度に出たことほど、日本の知性の致命的な脆さを暴露したものはなかった。」
****「天皇についてせいぜい道徳的責任論が出た程度で、正面から元首としての責任があまり問題にされなかったのは、‥国民の間に天皇がそれ自体何か非政治的もしくは超政治的存在のごとくに表象されてきたことと関連がある。」(→「一億総懺悔」論のより所)
**昭和天皇の戦争責任の所在
***「大日本帝国における天皇の地位についても面倒な法理はともかくとして、主権者として「統治権を総攬」し、‥諸々の大権を直接掌握していた天皇が――現に終戦の決定を自ら下し、幾百万の軍隊の武装解除をほとんど摩擦なく遂行させるほどの強大な権威を国民の間に持ち続けた天皇が、あの十数年の政治過程とそのもたらした結果に対して無責任であるなどということは、およそ政治倫理上の常識が許さない。」
***「具体的にいえば天皇の責任のとり方は退位以外にはない」
**昭和天皇の戦争責任を問わなければならない今日的・政治的理由
***「自らの地位を非政治的に粉飾することによって最大の政治的機能を果たすところに日本官僚制の機密があるとすれば、この秘密を集約的に表現しているのが官僚制の最頂点としての天皇にほかならぬ。したがって、‥天皇個人の政治的責任を確定し追及し続けることは、今日依然として民主化の最大の癌をなす官僚制支配様式の精神的基礎を覆す上にも緊要な課題で‥ある。」
****「官高政低」だった1950年代の政治状況を踏まえた発言
****「政高官低」になった今日的政治状況においても、「官僚制」を「政官財癒着政治」と読み替えれば基本的に妥当する。
***「天皇のウヤムヤな居すわりこそ戦後の「道義頽廃」の第一号であり、やがて日本帝国の神々の恥知らずな復活の先触れをなしたことをわれわれはもっと真剣に考えてみる必要がある。」
*****日本における「歴史を以て鑑となす」歴史観の欠落
*****戦犯の大挙復活を許した日本政治
*****安倍・菅政治:「道義頽廃」の極致
*支配層の戦争責任
**問題の所在:「日本の支配層の責任意識のないこと、どこにも責任の主体が見つからないという問題‥。これがどこから生じてきたかを解明しないと(ならない)」
**原因①:「戦争前の支配体制――天皇制自身が膨大な無責任の体系だということ」
***「すべての人が天皇の臣下であるという臣下意識を持っている。‥天皇を補弼する臣にすぎない。そこから政治的な責任意識は出てこない。」(←政治意識の執拗低音)
→「慎ましやかな内面性もなければ、むき出しの権力性もない。すべてが騒々しいが、同時にすべてが小心翼々としている。この意味において、東条英機氏は日本的政治のシンボルと言いうる。そうしてかくのごとき権力のいわば矮小化は政治的権力にとどまらず、およそ国家を背景とする一切の権力的支配を特徴づけている。」
→「俘虜虐待問題」:「被告がほとんど異口同音に、収容所の施設改善に努めたことを力説している‥。彼らの主観的意識においてはたしかに待遇改善につとめたと信じているにちがいない。彼らは待遇を改善すると同時になぐったり、蹴ったりするのである。慈恵行為と残虐行為とが平気で共存しうるところに、倫理と権力との微妙な交錯現象が見られる。」
***「究極的実体への近接度ということこそが、個々の権力的支配だけでなく、全国家機構を運転せしめている精神的機動力にほかならぬ。」(←倫理意識の執拗低音)
→「官僚なり軍人なりの行為を制約するのは‥より優越的地位に立つもの、絶対的価値により近いものの存在である。」
⇒安倍・菅政治にひれ伏す中央官庁
→「国家秩序が自らの形式性を意識しないところでは、合法性の意識もまた乏しからざるをえない。」
⇒「法は抽象的一般者として治者と被治者を共に制約するとは考えられないで、むしろ天皇を長とする権威のヒエラルヒーにおける具体的支配の手段にすぎない。」
⇒「(だから)遵法ということはもっぱら下のものへの要請である。」
⇒(例)両学園問題における財務省の公文書廃棄
→「支配層の日常的モラルを規定しているものが‥このような具体的感覚的な天皇への親近感でもある結果は、そこに自分の利益を天皇のそれと同一化し、自己の反対者を直ちに天皇に対する侵害者と見なす傾向が自ずから胚胎する。…それはなお今日まで、一切の特権層のなかに脈々と流れている。」
⇒「天皇」を「官邸」「自民党政治」に読み替えれば、今日的状況に当てはまる。
⇒日米同盟に異見を持つ私(外務省OB)に対する外務省の敵意
***必然的副産物:「抑圧の移譲」「権力の偏重」(←政治意識の執拗低音+倫理意識の執拗低音)
****「自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者‥の存在によって規定されていることからして、独裁にかわって抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。」「上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲していくことによって全体のバランスが維持されている体系である(福澤諭吉:「権力の偏重」)。」
****「近代日本が封建社会から受け継いだもっとも大きな「遺産」の一つ」
****「近代日本は封建社会の権力の偏重を権威と権力の一体化によって整然と組織立てた。そうして日本が世界の舞台に登場すると共に、この「抑圧の移譲」原理はさらに国際的に延長される。」
*****征韓論・台湾派兵:「維新直後に燃え上がった征韓論やその後の台湾派兵などは、幕末以来列強の重圧を絶えず身近に感じていた日本が、統一国家形成を機にいち早く西欧帝国主義のささやかな模倣を試みようとしたもの」
*****(日本軍兵士の暴虐行動:「我々は、今次戦争における、中国やフィリピンにおける日本軍の暴虐な振る舞いについても、‥直接の下手人は一般兵隊であったという痛ましい事実から目を蔽ってはならぬ。…市民生活において、また軍隊生活において、圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆が、ひとたび優越的地位に立つとき、おのれにのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられたのは怪しむに足りない。」)
**原因②:「日本の統治構造が多元的なこと」
***「日本には議会を通じないで直接政策決定過程に影響を及ぼすような疑似プレッシャー・グループが沢山(枢密院、貴族院、院外団、右翼)あって、‥国策の大きな決定が、議会及び内閣‥以外のところで決定されて、しかも責任は負わないという特殊な統治構造」
***「統治構造の多元性からくる政局の不安定、これが責任意識をアイマイにしている。」
***「議会政治家が実質的に無力であったので、したがって政治家の責任がなくて官僚としての責任しか存在しない。官僚は自分の権限については責任があるが権限外は責任がないということになってしまう。だから一元的な政治的主体がなかったのでまた政治的意識もそこから生まれてこない。」
***今日的事例
****原発問題における政官財学の癒着構造
****新型コロナ・ウィルス対策における厚労省医療技官の無責任な跋扈
**原因③:「日本のブルジョアジーの寄生的な伝統」
***「明治以来、‥独立の産業ブルジョアジーとしての自主的な成長がなかった。1930-40年代のブルジョアジーはすべて時の国策の指導者に動かされただけだ、という被害意識を持っていた」
***「1937、38年頃からは、‥軍部とブルジョアジーが密接に結びついてくるプロセスができる。にもかかわらず主体的には伝統的なブルジョアジーの寄生的な性格があるので、最後まで自分たちが主動権をとったという意識がない。天皇制――――官僚――――ブルジョアジーという支配層がどれも責任意識を持たなかった。」
***今日も続く寄生的性格
**問題を考える今日的意味:「日本帝国主義の辿った結末は、巨視的には一貫した歴史的必然性があった。しかし微視的な観察を下せば下すほど、それは非合理的決断の厖大な堆積として現れてくる。問題はこうした日本政治の非合理性や盲目性を軽視したり抹殺したりすることではなくして、それをどこまでも生かしつつ、いかにして巨視的な、いわば歴史的理性のパースペクティヴに結合させるかということでなければならない。」
***「政治権力のあらゆる非計画性と非組織性にも拘わらずそれはまぎれもなく戦争へと方向づけられていた。‥ここに日本の「体制」のもっとも深い病理が存する。」
****「明確な目的意識によって手段をコントロールすることができず、手段としての武力行使がずるずるべったりに拡大して自己目的化していったところに、‥無計画性と指導力の欠如が顕著になったゆえんがある。」
****「わが軍国支配者たちは、自分でまきちらしたスローガンにいつしか引きこまれて、現実認識を曇らせてしまう。」 (例)南次郎(元朝鮮総督):「(どうして聖戦と呼んだかを聞かれて)その当時の言葉が一般に「聖戦」といっておりましたのでその言葉を申した‥。ついそういう言葉を使った‥。侵略的なというような戦いではなくして、状况上余儀なき戦争であったと思っておった‥」
****「支配権力は‥道徳化によって国民を欺瞞し世界を欺瞞したのみではなく、なにより自己自身を欺瞞した。」 (例)松井石根(元上海派遣軍総司令官)「(日華事変の本質に関する口供書で)日華両国の闘争はいわゆる「アジアの一家」内における兄弟喧嘩にして‥可愛さ余っての反省を促す手段たるべきのことは余の年来の信念」
****「日本支配層を特徴づけるこのような矮小性をもっとも露骨に世界に示したのは戦犯者たちの異口同音の戦争責任否定であった。」 (例)キーナン検察官最終論告「現存の25名の被告のすべての者から我々は一つの共通した答弁を聴きました。それは即ち彼らの中の唯一人としてこの戦争を惹起することを欲しなかったというのであります。…彼らが自己の就いていた地位の権威、権力及び責任を否定できず、またこれがため全世界が震撼するほどにこれら侵略戦争を継続し拡大した政策に同意したことを否定できなくなると、彼らは他に択ぶべき途は開かれていなかったと、平然と主張いたします。」
***無責任体系・自己弁解の論理的鉱脈その一:「既成事実への屈服」
****「すでに現実が形成せられたということがそれを結局において是認する根拠となること」「「現実」というものは常に作り出されつつあるもの‥と考えないで、作り出されてしまったこと、‥どこからか起こってきたものと考えられていること」「現実は常に未来への主体的形成としてでなく過去から流れてきた盲目的な必然性として捉えられること」
****「自ら現実を作り出すのに寄与しながら、現実が作り出されると、今度は逆に周囲や大衆の世論によりかかろうとする態度」「重大国策に関して自己の信ずるオピニオンに忠実であることではなくして、むしろそれを「私情」として殺して周囲に従う方を選びまたそれをモラルとするような「精神」」 (例)東郷茂徳(東条内閣外相)「(三国同盟に賛成だったかどうかを問われて)私の個人的意見は反対でありましたが、すべて物事には成り行きがあります。(第81議会で同盟礼賛演説をしたことを突っ込まれて)この際個人的な感情を公の演説に含ませうる余地はなかった…。外務大臣として‥言わなくちゃならぬ地位にあった。」
***無責任体系・自己弁解の論理的鉱脈その二:「権限への逃避」
****「自己にとって不利な状況のときには何時でも法規で規定された厳密な職務権限に従って行動する専門官吏になりすますこと」
****武藤章(軍務局長)「軍務局の役割に関する口供書」:「陸軍大臣は閣議で決定した事項を実行せねばなりません。これがためには政治的事務機関が必要であります。軍務局は正しくこの政治的事務を担当する機関であります。軍務局の為すのは、この政治的事務でありまして政治自体ではないのです」:「(武藤の)仕事は政治的事務なるが故に政治に容喙しうるのであり、政治的事務なるが故に政治的責任を解除されたのであった。」
*共産党の戦争責任
**「ここで敢えてとり上げようとするのは個人の道徳的責任ではなくて、前衛政党としての、あるいはその指導者としての政治的責任の問題である。」
***「不思議なことに、ほかならぬコミュニスト自身の発想においてこの両者の区別がしばしば混乱し、明白に政治的指導の次元で追及されるべき問題が、いつの間にか共産党員の「奮戦力闘ぶり」に解消されてしまうことが少なくない。つまり当面の問いは、共産党はそもそもファシズムとの戦いに勝ったのか負けたのかということなのだ。」
***「政治的責任は峻厳な結果責任であり、しかもファシズムと帝国主義に関して共産党の立場は一般の大衆とちがって単なる被害者でもなければ況んや傍観者でもなく、まさにもっとも能動的な政治的敵手である。この闘いに敗れたことと日本の戦争突入とはまさか無縁ではあるまい。敗軍の将はたとえ彼自身いかに最後までふみとどまったとしても依然として敗軍の将であり、‥指揮官としての責任を逃れることはできない。戦略と戦術はまさにそうした一切の要素の見透しの上に立てられるはずのものだからである。もしそれを過酷な要求だというならば、はじめから前衛党の看板など掲げぬ方がいい。」
***「抵抗を自賛する前に、国民に対しては日本政治の指導権をファシズムに明け渡した点につき、隣邦諸国に対しては侵略戦争の防止に失敗した点につき、それぞれ党としての責任を認め、有効な反ファシズムおよび反帝闘争を組織しなかった理由に大胆率直な科学的検証を加えてその結果を公表するのが至当である。」
***「共産党が独自の立場から戦争責任を認めることは、社会民主主義者や自由主義者の共産党に対するコンプレックスを解き、統一戦線の基礎を固める上にも少なからず貢献するであろう。」
2.「終戦詔書」史観-日本・日本人の歴史観-
-昭和天皇「終戦詔書」
*「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ 抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負イ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」
*主要ポイント
**対米英開戦理由:「帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス」
**アジア侵略関連:「帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス」
**ポツダム宣言受諾理由:「戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル」「尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ」
**国体護持:「国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ」
**神州不滅:「神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ」
*→東久邇首相施政方針演説(「一億総懺悔」)
-「戦争責任」否定の無責任体系の根底にあるもの
*3つの執拗低音:「普遍」を知らない・受け付けない(主観がすべての)日本・日本人
**政治意識の執拗低音:「捧げる」「奉る」(奉公)が支配する主観の世界
**倫理意識の執拗低音:「清き心」(主観的純粋性)が支配する主観の世界
**歴史意識の執拗低音:「つぎつぎとなりゆくいきほひ」(「いま」がすべて)が支配する主観の世界
*終戦詔書史観への居直りを決め込む戦後保守政治
-戦後日本外交への予告
*既成事実への屈服:対米追随外交
*抑圧の移譲・権力の偏重:対アジア外交
◆ 第4回 日本外交の根源ー敗戦から独立回復前後へ
開催日 : 2021年4月14日(水)
<レジュメ>
Ⅰ 「平和の両義性」と日本の「平和」
*石田雄『日本の政治と言葉(下)-平和と国家-』
○「平和の両義性」:「近代国家に共通の要素」
*「国家の戦争を正当化する大義名分」
**「平和のための戦争」(キリスト教の正戦論):平和≓「正義の実現」
**(中央政府のない国際社会→)「パワー・ポリティックス」
**(核兵器の登場→)「デタランス」
**(武力行使の非採算性→)「制裁」
*「非戦・非暴力という個人の原理」(平和主義):平和≓「人を殺さない」
**「正当な物理的暴力行使の独占」を要求する「近代主権国家の本質」→「良心的兵役拒否の制度化」
**「非暴力を強調するインド的伝統」→不正義に対して「否」といって不服従を貫くことを強調する非暴力直接行動(ガンディ)
**「ユダヤ・キリスト教の伝統の上に、不正義には実力で闘うという開拓者精神を強調するアメリカ」→暴力的手段を捨てることに力点を置く非暴力直接行動の戦術と哲学(キング)
*(石田の問題意識)
**「明治以後の日本で「平和の両義性」が鮮明に意識されたのは、日露戦争の場合のように、むしろ例外的な時期であり、全体として両義性が不明確であるのはなぜか」
**「文化的伝統の違い」
***「ユダヤ・キリスト教の伝統では、「平和」が神意や正義と結びつくことによって「平和のための戦争」を正当化しやすい要素があると同時に、他方では個人が絶対的超越者としての上の命令の下に置かれるから個人の良心に従った反戦の主張もまた生まれてくる」
***「日本の文化的伝統の中では、集団的な「和」に「平和」が結びつく可能性が強かったため、超越者による戦争の正当化もないかわりに、個人の良心が集団の同調性に対抗してでも主張されるということが困難であった」
○日本における「平和」言説の歴史的展開
*英語Peaceの訳語としての「平和」
**「「平和」という言葉が近代日本で、いつからどのような意味で用いられ始めたかは確定しがたい」
**「Peaceの訳語として「平和」が用いられるのも決して近代のはじめからの現象ではなかったようである」(大江志乃夫『靖国神社』岩波新書、131頁、121頁)
**「「平和」という言葉が‥入ってきたのはキリスト教を通じてであり、普仏戦争‥から生まれた平和主義の影響によるものであった」
***「「外来的」理想として排除する反動が常に起こってくる」
***「雑誌『平和』がキリスト教的平和主義を日本に導入したとき‥伝統的思想との対決を不可避とした」:「伝統思想における社会的な調和とキリスト教における平和の理想とが対極的に異なるものであることが明らかにされている」
*日清戦争と「平和」
**「日清戦争の開始とともに‥「平和のための戦争」という面が一挙に支配的になる」
***「総理大臣伊藤博文は‥この戦争が「東洋の平和」を維持する目的のものであることを明らかにした」
***「日本ではキリスト教のような普遍宗教の役割が大きくなかったから、神意やそれに基づく正義を実現するためにという形で戦争が正当化されることはほとんどなかった」
**「日本に伝統的な生成のアニミズム的信仰と結びついて取り入れられた社会進化論的な考え方によって、日本国家がその力の強さ故に弱いものを侵略することが「進歩」や「文明」の名によって正当化されること(適者生存)がしばしばであった」
*日露戦争と「平和」
**「日露戦争の正当化に使われた「帝国の安全と東洋の平和」とは具体的に何を意味したのであろうか」
***「朝鮮問題」と「満州問題」(徳富蘇峰)
***「「武装的平和」を前提とした平和論」
**主戦論者:「平和は理想で戦争は現実」「平和は目的、戦争は手段」
**「「平和目的」のための戦争肯定の論理は、さらに積極的な戦争礼賛と、非戦論への非難攻撃によって補強される」
***「「活動」を重視する「活力主義」による戦争礼賛」:「日本に取り入れられた社会進化論が伝統的な生成信仰と結びついたもの」
***非戦論非難:「非戦論謝は、戦争によって要請される特性を持たない者」「卑怯な臆病者」「公共心、愛国心のない利己主義者」「外国人にかぶれた感情論」「非戦論の外来性を理由に排撃する論法」
**「日本近代史全体を見るとき、これほど非戦論が世論に衝撃を与えた時期はほかにない。その意味で「平和の両義性」について、日本で意識する機会を与えた唯一の時代であった」
*第一次大戦と「平和」
**「第一次大戦が勃発し、日本はまたしても「東洋の平和」を維持するという大義名分で参戦する」
**「日露戦争の場合のような絶対非戦論がないから、「東洋平和」のための戦争に賛成する側も非戦論と対抗するという緊張感がない」
***「「平和の両義性」が意識されなかった一つの理由として、日本の参加した連合国が的としたドイツは軍国主義の国で、平和を破壊するものと見なされていた事実をつけ加えることができる」
***「この‥戦争が、実は中国に対する「21ヵ条要求」を伴ったものであった点については、当時の日本の平和論は、これを批判する視点を持たなかった」
***「「世界平和の趨勢」は、いまや日本を含む連合国に戦争の正当性を与えるものとなっており、およそ武力あるいは武力の脅威を使って自国の利益を拡大することに対する絶対非戦論のような根本的な対決要因を欠いていた」
**「英米本位の平和主義を排す」(近衛文麿、1918年12月15日号雑誌『日本及日本人』)
***近衛の主張
****「英米の政治家たちが今日口にしている「人道主義」の背後には、実は彼らの「利己主義が含まれており、彼らのいう「平和」とは、彼らに都合のよい現状維持を人道の美名の下に主張することである」
****「第一次大戦の現実は‥すでに植民地の利益を独占して、「現状維持を便利とする国と現状破壊を便利とする国との争い」であった」
****「今日の日本の「論者」が「英米本位の平和主義にかぶれ、国際聯盟を天来の福音のごとく渇仰するの態度」をとっているのは「卑怯千万」、「正義人道より見て蛇蝎視」すべきものである」
****「国際聯盟に加入する場合にも、「経済的帝国主義の排斥」と「黄白人の無差別待遇」を「先決問題」として主張しなければならない」
***(石田コメント)
****「この主張は、それまで日本で「世界の大勢」とされていた「平和」、そして第一次大戦の際に連合国側の戦争正当化の名目とされた「平和」のイデオロギー性を暴露したものである」
****「現状維持的、勢力均衡的な「武装的平和」論の問題性を明らかにしたものとしてまことに先駆的なもの」 ****「しかしこのイデオロギー批判が、非戦平和主義の方向をとらず、逆に日本の膨張政策を正当化するために用いられるとき、実はその批判が日本のいう「平和」や「正義」に向けられなければならなくなる」
*大正デモクラシーと「平和」
**「国家権力との緊張感を持たず、主権国家を前提とする「武装的平和」に対しても批判の姿勢を示さない楽観的「平和」観」
**軍人による平和思想への公然とした挑戦:甘粕正彦憲兵大尉による大杉栄虐殺(1923年):(石田)「日本に「特有な反平和思想」の伝統(吉野作造)が、軍部という正当化された暴力を独占する国家機関によって担われ、平和主義への直接的挑戦となる、その最初の兆候」
*日中戦争と「平和」
**石田の問題意識:「一般的に「平和」(それが「武装的平和」であったにせよ)に好意的であった大正時代の世論が、どのようにして1931年に始まる15年戦争の過程で全面的な「国防国家」体制を支持するような方向に変化させられたか」
***「(「非常時」における)「挙国一致」と対外危機感の醸成とが、相互に関連し合った要素として注目されなければならない」
***「非常時」:例外状況
***「挙国一致」:「階級対立を「民族」の強調によって解消すること」
***対外危機感の醸成:「欧米帝国主義への対抗意識の強調」
**「世界の現状を改造せよ」(近衛文麿、1933年2月)
***「欧米の世論が国際聯盟規約や不戦条約を援用して日本を非難し、日本人を「平和人道の公敵」であると批判することに強く反発」
***「平和は望ましいが、今日の世界にある不合理な状態を是正するため「やむを得ず今日を生きんがための唯一の途として満蒙への進展を選んだのである」
****「日本の欧米帝国主義への対抗を取り上げる場合には、日本は「持たざる国」‥の地位に あるものとして、不公正の是正、正義の実現を求める側とされる」
****「中国に対する日本の関係を扱う場合には、‥帝国主義的膨張とはされない。‥もっぱら西欧帝国主義からアジアを解放するためのものであると正当化される」
**文部省教学局『国体の本義』(1937年5月)
***「「西洋思想」を「一面において個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等とを主張するとともに、他面において国家や民族を超越した抽象的な世界性を尊重するもの」であると批判」
***「国民はこのような西洋思想の影響から離れ、日本の伝統に根ざす「国体の自覚」を持つべきであるという。この「国体」の中心的価値の一つは、内における「和の精神」(即ち階級対立その他一切の対立を含まないもの)と外に対する「武の精神」(「武」とは「和のための武であって、いわゆる神武」)
***(石田)「日本が従事する戦争は本質上すべて「平和」のためのものだということになる」
*対中国全面戦争・第二次大戦と「平和」
**昭和天皇「今や朕が軍人は百難を排して其の忠勇を致しつつあり。是一に中華民国の反省を促し速やかに東亜の平和を確立せんとするにほかならず」(1937年9月4日臨時議会開院式)
**「東洋平和」の意味変化(石田)
***「日清、日露両戦争の場合には、日本の利権を守り、日本の国際的地位を向上させるという要求」
***「1930年代後半の日本は「東洋の盟主」として、より攻撃的に全中国を支配しようとしている」
***「日本の勢力がおおう範囲が朝鮮半島から全中国あるいはアジアへと著しく広がっている」
***「新しく加えられた質的特徴としては、「西欧文明の危機」に対する「東洋的道義観」の確立という名目が加えられたことと、ナチズムの「生命圏」の考え方による「広域圏」構想の影響を受けている点」:(石田)「ナチズムが旧来の西欧国際秩序に挑戦しているという面では、両者は関連性を持っていた」
**「新しき平和主義の提唱」(藤沢親雄 1938年)
***「西欧の現状維持的「平和主義」と「日本的または東洋的なる新しき平和主義」を対置」
***「「日満支独西の防共共同戦線」は、「国体精神」を中心とした「世界維新戦線」にほかならない」
***「この「世界維新」としての「世界改造」のためには、「日本的平和理念」に即して、積極的に武力を行使するべきである」
****「東洋哲理における武は戈を止めるの義であって、邪道に陥れるものを正道に戻すがためにのみ行わるべき平和手段」
****「利己的征服を目的とする軍国主義もしくは帝国主義と全然その本質を異にするもの」 *敗戦直後と「平和」
**「「世界平和」について持たれていた楽観主義」
***制度的楽観主義:「戦後における国際連合という組織の創設に大きな期待を寄せ、この国際組織に機能によって世界平和が維持されると信じようとする考え方」
***イデオロギー的楽観主義:「マルクス主義者の多数は、第二次大戦中の米英とソ連の協力という事実から見て、資本主義と社会主義との二つの社会体制は「当分は併存し、妥協し合って」いくと考えていた」
***「(この二つが)支配的な中では、近い将来に「平和のための戦争」が起こるとは考えられなかった。それ故に、これに対抗する非戦平和主義の必要性も意識されない。こうして第一次大戦後の場合と同じように、‥「平和の両義性」は世論の表面から姿を消す」
***「平和憲法の制定がさらに「平和の両義性」消滅の傾向を強める」
**「(論壇に)現れてこない世論」
*朝鮮戦争と「平和」
**制度的楽観主義の破綻とイデオロギー的楽観主義の夢の崩壊
**警察予備隊設置命令(再軍備)
***「日本が非武装であるからこそ世界平和への強い道義的発言権を持ちうると信じていた、その発言権の根拠が奪われた」
***「厳正中立でありたいという念願をも打ち砕いた」
**講和問題と二つの立場
***「平和憲法へのコミットメントを再確認しようとする立場」→丸山眞男
***「力による平和」論の立場→日米安全保障条約
****「共産主義の侵略性を自明のこととして、日本が軍備を持たないと「真空状態」が生まれて、そこに共産主義の侵略が生ずるという論理」
****「問題が戦争か平和かという形で出されないで、いつの間にか戦争か共産主義か、おまえはどっちを選ぶのだという形をとってくる」
****「こうして、共産主義を防ぐための戦争、あるいはそのための軍備こそは「平和」を守るのだという「平和観」が生まれる」
****「この論理をさらに進めると、‥積極的に共産主義勢力を力で封じ込めることによって、初めて平和が維持できるのだという「力による平和」という発想ともなる」
*60年安保・ヴェトナム戦争と「平和」
**「日常的な生活感覚の成熟」(石田)
***二面的性格
****「広範な「平和な家庭」への関心は、もし人々がこの「平和」が岸内閣のやったように非民主主義的なやり方で日本を戦争の方向に押しやることによって脅かされると感じた場合には、激しい反発を示すバネとなる」
****「しかし本来的には、この関心は保守的なもので、「平和な家庭」が維持されさえすれば、天下国家の問題には関心を向けないという非政治的性格を持っている」
***1960年安保以後の高度成長過程における日常的な生活感覚
****「この保守性は「経済的繁栄」を享受する現状肯定の姿勢を生み出し、「「憲法も安保も」という形で、本来なら厳しい二者択一の関係に立つはずのものが、緊張を弛緩喪失していずれも肯定されることになる」
****(原因①)「原爆体験と平和憲法のみに寄りかかった体制依存の甘え」
****(原因②)「敗戦の時以来、平和の原理に関して「戦争はごめんだ」という被害者意識からの自覚化はあっても、もう一面の加害者意識からの学習は忘却に付される傾向」
**「平和の両義性の不明確化」
***「戦後40年以上日本自身が戦争の当事者とならなかったため、また日本が加担したヴェトナム戦争の記憶も薄らいでいったため、「平和」の意味分布の一方の端にある戦争を正当化するものとしての「平和」への警戒感が著しく弱まってきた」
***「核抑止といい、「力の均衡による平和」という場合にも、すでに「平和のための戦争」に至る道を準備しているのであるが、そのことへの警戒感が薄らいで、十分な抑止力を準備したからこそ「平和」が維持できたのだという考え方に陥りがちとなっている」
***「より重要な点は、「平和のための戦争」という「平和」の意味の一方の極についての意識が明確である場合には、他方の極としての絶対非戦の平和主義の必要性も明确となりやすいが、前者が弱まった結果、国家権力――正当化された組織的暴力の独占体――に対する緊張感を持った平和主義を必要とするという意識も弱まってきたということである。」
***「両極を切り捨てた「平和」の意味分布の中間領域に収斂するという事態」
****「対抗する両極が意識されなくなると、その中間領域では本来対立するはずの要素が矛盾なく両立するものとして捉えがちになる」
****「安保体制と平和憲法、憲法9条と自衛隊という矛盾した二つのものを共に「平和」のためとして認める世論」
Ⅱ ポツダム宣言と日本国憲法
○ポツダム宣言⇒日本国憲法(9条)
*大西洋憲章(1941年8月14日)
**連合国の戦争目的:国際関係の民主化
**内容:領土不拡大(第1項)、領土不変更(第2項)、人民主権・植民地自決(第3項)、通商の自由(第4項)、経済協力(第5項)、平和確立(第6項)、航行の自由(第7項)、強力の放棄・(独日)武装解除・軍縮(第8項)
*カイロ宣言(1943年11月27日)
**対日戦争目的
**領土問題・朝鮮半島
***「同盟国の目的は日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後に於て日本国が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること並に満洲、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り日本国は又暴力及貪欲に依り日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし」
***「三大国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し軈て朝鮮を自由且独立のものたらしむるの決意を有す」
*ポツダム宣言(1945年7月26日)
**(背景)米英中+ソ連
**対日条件
***軍国主義永久除去(第6項)
***占領(第7項)
***領土(第8項):「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」
***武装解除(第9項)
***戦争犯罪人処罰・民主化・基本的人権確立(第10項)
***賠償・経済(第11項)
***独立回復・占領軍撤収(第12項)
***無条件降伏要求(第13項)
*マッカーサー・ノート(3原則)(1946年2月3日)
**(背景)米ソ対立顕在化
**ポツダム宣言からの逸脱:天皇制温存(第1原則)
**ポツダム宣言継承
***戦争放棄(第2原則)
****主権としての戦争廃止(War as a sovereign right of the nation is abolished.)
****「紛争解決の手段としての戦争のみならず、自国の安全を維持する手段としての戦争も放棄する。」(Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security.)
****軍事力保有禁止・交戦権放棄(No Japanese army, navy, or air force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force.)
***民主化(第3原則):封建制度廃止
*日本国憲法
**「天皇の地位と主権在民」(第1章第1条~第8条)
**「戦争の放棄」(第2章第9条)
***第1項:「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
***第2項:「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
Ⅲ 現代戦争と9条 
*丸山眞男「三たび平和について」(1950.12. 集③)
○「戦争の破壊性が恐るべく巨大なものとなり、どんなに崇高な目的も、どのような重大な理由も、戦争による犠牲を正当化できなくなったという厳粛な事実」
*「超兵器の出現」
*国際的相互依存の不可逆的進行(「近代産業及び交通通信手段の発達が、一方において全世界を一体化し、各国家各民族を密接な相互連関の関係に置いた‥という歴史的過程(戦争が本来手段でありながら、手段としてとどまり得なくなった‥という現代戦争の内包する‥パラドックス)によってもたらされたもの」)
**「現代戦争が国際的には世界戦争として現れ、国内的には全国民を動員する全体戦争という様相を帯びる」 **「戦争の破壊性が戦場における、武器による直接的な破壊性に限定されなくなった」
○「原子力戦争は、もっとも現実的たらんとすれば理想主義的たらざるを得ないという逆説的真理を教えていること」(=「我々の当面しているもっとも生々しい現実」)
*「この現実に含まれた意味を常に念頭に置いて、様々の具体的な国際国内問題を判断していくことが、もっとも現実的な態度」
*「我々日本国民が新憲法において厳粛に世界に誓約した戦争放棄と非武装の原理から必然的に導き出される態度」
○憲法の精神
*「見方によっては迂遠極まる観念論ということになろう」
*「現代戦争の現実認識にもっとも即した態度であり、自国または他国による武装に安全保障を託するような考え方こそ、却って安易な楽観論である」
*「戦争を最大の悪とし、平和を最大の価値とする理想主義的立場は、戦争が原子力戦争の段階に到達したことによって、同時に高度の現実主義的な意味を帯びるに至った」
*「我々の祖国の痛ましい体験に照らしても、神の義と同視された価値のために、戦争が是認され、平和が犠牲にされた結果がいかなるものであったかは、あまりにも明瞭である。少なくも我々日本国民が、二度とこの過誤に陥らぬよう自戒することは、我々が世界に対して負う最小限度の責務ではなかろうか」
Ⅳ 対日平和条約⇒日米安保条約
*原貴美恵『サンフランシスコ条約の盲点』(2005年6月 渓水社)
○対日平和条約(1951年9月8日署名)
*(背景):米ソ対立激化・中華人民共和国成立・朝鮮戦争勃発とアメリカの対日政策の180度転換
*(本質):対米追随の法的固定化と米ソ(東西)冷戦構造への巻き込まれ
*主要問題条項
**領域(第2章)
***(朝鮮)「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」(第2条a)→「独島(竹島)問題」
***(台湾・澎湖諸島)「日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」(第2条b)→「尖閣問題」
***(千島列島)「日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」(第2条c)→「北方領土問題」
***(南シナ海)「日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」(第2条f)→日華平和条約第2条
***(沖縄)「日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」→「小笠原「返還」協定」・「沖縄「返還」協定」
***(請求権)「この条の(b)の規定を留保して、日本国及びその国民の財産で第二条に掲げる地域にあるもの並びに日本国及びその国民の請求権(債権を含む。)で現にこれらの地域の施政を行つている当局及びそこの住民(法人を含む。)に対するものの処理並びに日本国におけるこれらの当局及び住民の財産並びに日本国及びその国民に対するこれらの当局及び住民の請求権(債権を含む。)の処理は、日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とする。」→日韓請求権協定、日中共同声明(第5項)
**安全(第3章):「日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認」(第5条c)→日米安保条約
○日米安保条約
*「旧安保」
*「1960年安保」
Ⅴ 国際政治と憲法第九条
*丸山眞男「憲法第九条をめぐる若干の考察」(1965年6月 集⑨)
○戦争形態と戦争手段の発展傾向 
*「従来の‥戦争手段及び戦争形態が、一方では超国家化の方向に上昇し、他方では下国家化というか、非制度的な社会レヴェルの方向に下降する傾向を示している」
**「超国家化」:「核兵器による戦争形態が、主権国家と主権国家との間の紛争の暴力的解決という伝統的な戦争概念では律しきれない問題を生み出している」
**「下国家化」:「人民のパルチザン闘争またはゲリラ抵抗が、まさに高度の機械化・技術化の時代に巨大な役割を演じるようになったという逆説」
*戦争の両極化
**「核戦争が機械化の結果としての戦争の非人格化の極致であるとすれば、ゲリラ戦はむしろ原始的様相を帯び、泥まみれの人間くささを表現」
**「前者がグローバルに広がり、巨大化する傾向を持つのに対して、ゲリラは必ず地方的な拠点を持ち、局地性と土着性という性格にその強みを発揮します」
**「核戦争が‥一握りのトップ・レヴェルの指導者の決断によって‥惹起される可能性を持つのに対して、ゲリラ戦というものは一般人民と‥密着し、日常的に土着人民の支持の上に立たないでは行い得ない」
**「前者が敵地のミサイル攻撃を中核とするのに対して、後者は‥本来抵抗と防御の域を出ない」
*国際法・第9条に対する課題
**「主権国家の制度を前提とし、主としてその相互関係を規律するものとしての旧来の国際法の概念枠組みというものがいろいろな点で再検討を迫られている」
**「憲法第9条の問題について、戦力とか、防衛とか交戦権とか、国家の独立を論ずる場合、人々のイメージにあるのは‥旧来の主権国家間の戦争概念であり、‥それだけを引照基準にして‥議論をすること(「丸裸で侵略を防げるか」等)に対しては保留を要する」
○「外交」の性格変化
*「伝統的な外交機構・制度に外交のルートが独占されていた状態は‥二つの方向から徐々に変貌しつつある」
**「外交の上昇化の傾向」:「政策決定のトップにある人間の直接的な個人的な接触がますます大きな意味を帯びてきたこと」(首脳外交)
**「外交の下降化の傾向」:「官僚制のレヴェルからいわゆる「民間外交」といわれる方向へと‥多層化しつつある」
**「平和のための構想や軍事同盟以外の安全保障方式を考える場合に、現実性があるとかないとかいうことを、単に従来の国家の制度的レヴェルでの交渉だけを念頭に置いて論ずると、客観的な可能性を自ら閉ざす結果になりかねない」
*「冷戦」
**「国際政治の構造あるいは国際法の体系における、伝統的な概念枠組みの急激な変化を示すもの」
**「戦時でも平時でもない第三範疇の登場」
*「デタランス」
**「今日の戦略思想は‥戦争開始後に適用されるものではなくて、いわゆる戦争「抑止」のための精密な計測の上に立った軍事力の構成配置が中心課題」
**「「抑止」はいわゆる戦争防止と違って、本質的に軍事的思考であり、‥敵に戦争を思いとどまらせる目的と、現実に戦争が開始された後の想定とが一続きに組み合わせられている」
*(主権者の意思決定)「国際社会の発展方向性、変化の方向に照らして、我々の既成のイメージなり、概念装置なりが後れをとらないかどうかをもう一度吟味し、そこで第9条を見直してみることが必要」
**「ミサイルと対校ミサイルの悪循環、軍備を増強すればするほど安全感が低下するという現代の逆説」
**「第9条の精神、即ち軍備を全廃し、国家の一切の戦力を放棄することに究極の安全保障があるという考え方も、過去の国家の常識に反する一つの逆説」
**「問題は、どちらの逆説を我々日本国民が選択するのかということに帰着する」
◆ 第5回 冷戦崩壊後の国際環境の変化と米国の対日政策
開催日 : 2021年4月28日(水)
概要 :冷戦崩壊後の国際環境の変化とアメリカの対日政策の変質に対する日本・日本人の認識の立ち遅れ及び日本外交への反映について考えます。
参考文献:(浅井基文)
『日本外交-反省と転換-』(岩波新書)
『新保守主義』(柏書房)
『国際的常識と国内的常識』(柏書房)
『新ガイドラインQ&A』(青木書店)
『集団的自衛権と日本国憲法』(集英社新書)
『戦争する国 しない国』(青木書店)
「アーミテージ報告」
◆ 第6回 21世紀の国際環境と日本外交の可能性
開催日 : 2021年5月12日(水)
概要 : 21世紀の国際環境の特徴を確認し、日本国憲法を擁する日本外交の豊かな可能性を考えます。
参考文献:
- 浅井基文『日本政治の病理』(三一書房)