私は外務省勤務時代に、キッシンジャーがニクソン政権のもとで安全保障担当補佐官及び国務長官を務めた時代を記録した2つの大著("White House Years"&"Years of Upheaval")を読んで、国際情勢を的確に判断する上で透徹したリアリズムの眼を養うことがいかに大切であるかを学びました。ところが、リアリズムの本家本元であるアメリカは、米ソ冷戦の「勝利」(実はアメリカが勝利したのではなく、ソ連が自らこけたのが真実)に酔いしれて「アメリカ一極支配」の世界を当然視するようになり、自らの意に沿わない対象をすべて「脅威」と見なして力尽くで押さえつける政策を追求するようになりました。
その結果は、西側世界との協力を通じて国家再建を図ろうとしたロシア(エリツィン政権時代)に対して「東方拡大」(ロシアの伝統的勢力圏をさらに蚕食して追い詰める戦略)で答えたのに対する当然の離反(プーチン政権)であり、対テロ戦争の無残な失敗(イラクの今日に至る窮状・アフガニスタン戦争)であり、「アラブの春」が引き起こした混迷(シリア、リビア、イエメン)等の結末を招いたことは誰の目にも明らかです。ところが、アメリカはこれらの教訓に学ばないばかりか、今や押しも押されぬ超大国になった中国を最大の脅威(バイデン:「最大の競争相手」)と断定して、同盟国・友好国を糾合して総掛かりで中国と対決する政策を追求するに至っています。バイデン大統領自身がG7サミット、ミュンヘン安全保障会議でその考え方を明言しました。ブリンケン国務長官、サリバン安全保障補佐官、キャンベル・インド太平洋調整官等はいずれもこういう「旧思考」にしがみついています。
 私は、今のアメリカにもっとも必要なのは、キッシンジャーのような透徹したリアリズムを備えた国際眼であり、その判断に立った対外政策・対中政策を行うことだと考えます。フォリン・ポリシー、フォリン・アフェアズ、ポリシー・シンジケートのウェブ・サイトから毎日送られてくるアメリカの論調のほとんどは相変わらず「アメリカ一極支配」を当然視・前提視した「旧思考」で辟易します。
 しかし、まれに「オッ」と思うような文章に出くわすことがあります。今回紹介するのは、2月18日のフォリン・アフェアズWSが掲載した、グラハム・アリソン&フレッド・フー「非感傷的な中国政策:死活的利益を最優先に」(An Unsentimental China Policy: The Case for Putting Vital Interests First) です。この文章はリアリズムの冷静な目で中国を観察し、バイデン政権に対して主観一辺倒で、成功の見込みのない対中対決政策からの根本的転換を促しています。
 特に重要なことは、ブリンケン、サリバン、キャンベル等は、ニクソン、フォード、カーター、レーガンまでの政権が追求した中国との関与政策が失敗だったと決めつけ、対中対決政策を前面に押し出していますが、アリソン&フーは対中関与政策が成功だったことを事実関係に基づいて論証していることです。また、押しも押されもせぬ大国になった中国との対決を追求することはまったく成算のない不毛な政策であり、あるがままの中国との関与政策に戻ることこそがアメリカの採るべき道であることを説得力を持って論じています。反中・嫌中感情が支配する日本国内では、アメリカが追求する対中対決政策を当然視し、支持する見方が支配的ですが、こういう感情に押し流される日本国内の風潮にも私は我慢がなりません。あえてアリソン&フーの文章を訳出(大要)して紹介するゆえんです。ちなみにアリソンはハーバード大学教授です。同じハーバードでも、ジョセフ・ナイのような「旧思考」の持ち主がアメリカの対外政策に強い影響力を持つ中で、アリソンのようなキッシンジャーのリアリズムの眼を備えた学者がまだいることを確認できることは一服の清涼剤です。

 トランプ政権以前は、中国関与政策はアメリカの超党派対外政策におけるまれな成功と賞賛されていた。民主党も共和党も、アメリカの利益及び価値を推進するためにワシントンが北京と協働できることに同意していた。今日、中国政府が国内では弾圧的、対外的には攻撃的になるにつれ、両党指導者が関与は失敗だったと決めつけるようになった。バイデン大統領のアジア問題アドバイザーであるカート・キャンベルと国家安全保障アドバイザーのジェイク・サリバンは2019年の『フォリン・アフェアズ』における文章で、「中国との関与の時代は賑々しくない終焉を迎えた」と書いた。
 しかし、中国関与とは何だったのかについては記憶しておく価値がある。20世紀後半のほとんどの期間において、中国との関係を改善する努力は中国を変質させるということではなかった。ニクソンから始まって、その動機は断固として非感傷的なものだった。すなわちそれは、ソ連に対してバランスを取ること、中国に革命輸出をやめさせること、そして人々を貧困から救い出すことを手伝うことだった。中国を変えたいとする願望がアメリカの政策の重要な目標になったのは冷戦後からのことに過ぎない。
 今日バイデン政権がこの時代の特徴的な国際的挑戦に対処する新戦略を展開するに当たり、関与を完全に放棄することを主張する者が多い。これは誤りだ。バイデン政権が行うべきことは、過去50年間のアメリカの対中政策における中心的な教訓に注意を払うことである。その教訓とは、アメリカがその利益を守る上で枢要な地政学的な目標を現実的に据えた時は対中政策がベストに機能し、アメリカの価値観を推し進めるべく政治的工作を試みた時は対中政策が最悪に機能した、ということだ。
<関与のロジック>
 ニクソン及び冷戦期の彼の後継者(フォード、カーター、レーガン)が中国との結びつきを改善しようとした際に考えていたことについては、歴史的記録が議論の余地なく明らかにしている。この4人の大統領の誰を取っても、その目標は何にも増して地政学的だった。確かにニクソンはヴェトナムの泥沼に入り込んだ10万人以上の米軍を撤退するための条件を作るという切実な必要に迫られていた。しかし、4人の大統領に共通した目標は、ソ連と中国の割れ目を広げることによってソ連に対するパワー・バランスをアメリカに有利に変えることだった。中ロ間の亀裂を拡大することにより、中ロのいずれもがアメリカとの協働の意思を強めることになるだろうという判断だった。
 4大統領が狙ったのは地政学的な成果であり、中国共産党を変えようと考えるものはいなかった。例えばレーガンは、1984年の6日間にわたる中国旅行を終えた際、中国関与を疑問視する声に次のように答えた。「私は反共主義者だ。しかし、アメリカの統治形態を他国に押しつける必要があると考えたことはまったくない。」彼によれば、アメリカと中国は「この世界で平和に共存できる」のだ。
 4人の大統領は、姿を現しつつあったアメリカ主導の世界秩序の中に中国を取り込もうとした。ニクソンは中国への門戸開放のロジックを、「そうしなければならない理由は中国には世界人口の1/4がいるからだ」と述べた。彼によれば、「中国は現在まだ軍事大国ではないが、今後25年間にはそうなるだろう。中国の孤立を終わらせるために今できることをしなければ、事態は非常に危険なことになるだろう。」後にキッシンジャーは次のようにまとめている。「ニクソンは、中国を国際システムに戻らせるために、地政学的考察に立って緊張緩和を主張した。」
 カーターは、安全保障アドバイザーのブレジンスキーとともに、中国をこの秩序に統合する努力を続けた。カーターは人権に深くコミットしていたが、1978年に、世界は「社会的、政治的そして思想的な多様性を受容しなければならない」と自分の立場を説明した。翌年、ブレジンスキーはもっと端的に、「米中は異なる思想的・経済的・政治的システムであることを承認している」と述べた上で、「中国と積極的に接触することを通じて中国をアメリカのイメージどおりに作り替えることができる、という望みや希望を抱いたことはない」とつけ加えた。  安全保障上の目標に加えて、4大統領は世界最多の貧困人口を抱える中国の開発を促そうとした。彼らは、アメリカには他国を貧困から抜け出すことを支援する義務があると確信していた。この確信こそは、第二次大戦後、アメリカが欧州を再建させ、世界銀行を創設し、国際開発庁(USAID)を設立した主要なファクターである。
<関与の成果>
 関与の基準に照らして判断する時、アメリカの中国関与は成功だった。中ロの亀裂を拡大するという関与の主要目的は速やかに実を結んだ。1972年5月、ニクソンはモスクワに飛んでブレジネフとのサミットを行った。両指導者はABM条約と戦略兵器制限条約に署名し、デタントとして知られる抑制された競争の時代の幕開けを告げた。アメリカにとってさらに価値があったことは、中国に門戸を開くことによって共産主義の思想的団結という主張を損なわせたことである。要すれば、毛沢東は共産圏の兄貴分と相談なしに最大の敵との関係を樹立したのだ。
 門戸開放は中国の対外政策を地政学的リアリズムに移行することを促すことにもなった。中国の革命的熱が冷めたという初期の兆候は、北京の北越共産主義者に対する支持が弱まり、北越が1973年にアメリカとの和平取引にサインするように中国が促したことに現れた。ソ連が1979年にアフガニスタンに侵攻した時は、中国はソ連軍を追い出そうとしたレーガン政権の秘密の戦争における不可欠の同盟国となり、アフガニスタンの反対勢力に対して資金と武器を供給した。1980年にソ連との緊張が高まると、中国はアメリカのレーダー及び偵察システムを自国の領土に設置する役を買って出た。
 中国を世界秩序の中に引き込むという第二の目的についてはどうだったか。これも成功だった。今日流行している中国を悪魔扱いする時代には、中国が革命の煽動者だった頃からいかに遠くまで来たかという点を評価することは難しくなっている。1960年代及び70年代には、中国は世界の解放戦争を支持し、パキスタンと北朝鮮が核兵器を作ることを援助し、国連の平和維持活動に反対し、世界経済から自らを隔絶していた。今日では、中国は主要な国際機関すべての活動的なメンバーである。国連の平和維持活動については、最大の兵員を提供し、二番目の資金拠出国である。国連安全保障理事会では、拒否権を発動することはまれで、たいていはアメリカとともに投票している。
 中国が世界システムに統合したことの最大の成功例は2008年の金融危機の際に起こった。当時、アメリカは再度の大恐慌を防止するべく世界の支持を募った。主要経済大国の中で中国はもっとも影響を免れていたし、危機はアメリカで始まったにもかかわらず、北京はワシントンの呼びかけに速やかに反応した。中国は経済刺激策を導入した最初の国であり、2兆ドルのパッケージは世界最大だった。市場の極端な動揺の最中に、モスクワは巨額のアメリカ財務省債券を投げ売りするように北京を説得したが、中国はこの忠告を断固拒否した。
 中国を貧困から抜け出させるという関与の第三の目標に関しては、結果は奇跡以外の何ものでもなかった。ニクソンによる門戸開放以後、中国は数十年にわたる経済成長を経験し、いかなる大国の歴史と比較しても劇的と言える貧困減少を導いた。この成果を実現したのは、共産主義経済を放棄し、西側の自由市場原則を採用したからである。1978年当時、中国人の10人に9人は世界銀行が定める2ドル/日の「極端な貧困」線以下で生活していた。今日、10人中の9人以上はこの線の上にある。
 中国を批判するものがしばしば引用する世界人権宣言はに関して言えば、2種類の権利を含んでいる。一つは経済的社会的権利であり、もう一つは政治的権利である。アメリカ憲法と同じく、宣言は表現の自由及び代表的政府について定める。しかし宣言はまた、「すべてのものは、自身及び家族の健康及び安寧にとって十分な生活水準を享有する権利を有する」とも宣言している。政治的権利に関する中国の記録は最低だが、市民の経済的権利に関してはいかなる者のいかなる夢をも越える成功を収めている。
<中国の改造>
 ニクソンの門戸開放から冷戦終結まで、アメリカの対中政策は特定かつ現実的な目標を追求し、おおむね成功した。しかし、ソ連崩壊後、勝利の高揚感に囚われて、多くのものが世界は「歴史の終焉」を迎えたと考えるようになった。アメリカの政策立案者は「一極時代」を想定し、自由民主主義と市場資本主義が勝利し、平和が支配することを予想するようになった。
 こういう考え方に導かれて、ブッシュ(父)とクリントンは、中国を国際貿易システムに統合することによって新自由世界秩序の礎が築かれると期待した。クリントンは2000年に中国にWTO参加を招待する理由付けとして、「中国は我々の製品をもっと輸入することに同意しているだけではない。中国はデモクラシーのもっとも大切な価値である経済的自由を導入することに同意している」と説明した。クリントンは、経済的自由化と政治的自由化がリンクしていると確信していた。クリントンは、「中国が経済を自由化すればするほど、中国は人民の潜在的能力、すなわち、イシニシアティヴ、想像力、優れた企業精神をさらに全面的に自由化するだろう」と述べ、「個人が力を持ち、その夢を実現する時、彼らはより多くの発言権を要求することになるだろう」とした。
 ブッシュ(子)とオバマは、この戦略的理由付けを21世紀に持ち込んだ。彼らはクリントンと同じく、中国との経済的関与が中国人民の願望を促進し、最終的には中国指導部に政治システムの開放を強いることになると確信していた。ブッシュ政権の高官は『フォリン・ポリシー』に、「彼らの政策は我々の政策と歩調を合わせることになるだろう。月日をかけてということではなく、もうすでに始まろうとしている」と述べた。オバマもこの歴史の流れを確信して、2009年に中国に旅行した際、「中国における経済的自由を眼にし始める時、政治的自由もギアを上げ始める」と述べた。
 今となっては明らかなように、以上の期待は幻想だった。中国はデモクラシーに行くことはなく、日本及びドイツのようにアメリカ主導の国際秩序の中で割り当てられた地位に座ることもなかった。この失敗を確実なものにしたのはビジョンにつきまとったある意味での無知だった。すなわち、アメリカは理想的結末に催眠術をかけられて、その理想が実現不可能であることを受け入れることができなかったのである。
<歴史の教訓>
 以上のような中国とのディールの記録から、バイデン政権は以下の4つの教訓を見いだすべきである。
 第一、地政学的な目的を追求する時には、関与は失敗より成功が多い。ワシントンは(関与政策故に)ヴェトナムから抜け出す道を作り出すことができたし、もっと重要なことは、ソ連に対するパワー・バランスを変えることができた。中国はアメリカ主導の国際秩序に参加することによってより多くのことを成し遂げられると北京を説得することで、ワシントンは核兵器拡散のスピードを弱め、国際テロリズムに対抗し、世界経済の成長を促進し、再度の大恐慌を防ぐことができた。成功の秘訣は、中国の指導者がワシントンの望むように行動することが中国の利益にかなうことを納得するように、アメリカが客観的条件を整えたことにある。今やより強力になった中国に対処するに当たっては、バイデン政権はこの脚本に基づいてより難しい時を経験することになるだろう。しかしバイデン政権は、中国の行動に影響を及ぼそうとするのであれば、他の国々との正しい同盟及び取り決めを作り出さなければならないことを見いだすだろう。
 第二、デモクラシー推進のために中国おけるレジーム・チェンジを主張するものは、同じ目標を追求して中東で戦争を推し進めたものと同じように間違っている。ポンペイオ国務長官はアメリカの対中政策の中心にこの目標を据えることを主張し、この大義に諸国の参加を募った。これは失敗確実な提案だった。アメリカ人は独立宣言に体現されている、すべての人民が「譲渡できない権利」を有するという権利を絶対に揺るがせてはならない。この権利は北京に支配されている14億の人民(1350万人のウイグル及び650万人のチベット人を含む)にも適用される。しかし、アメリカの生存に対する直接の脅威に対処するに当たっては、こうあってほしいという中国を夢見るのではなく、あるがままの中国と協働することが求められる。軍事危機の防止、気候変動との闘い、将来的なパンデミックの抑え込み、核拡散の防止、テロとの戦い、財政危機の管理、そのどれを取っても、北京の独裁政権が中国を支配しており、予見しうる未来にわたってそれが続くという現実を受け入れないことにはできないものばかりだ。
 第三、門戸開放及び統合という政策は世界の経済成長のエンジンだったし、将来を成功に導くためにも不可欠である。トランプがアメリカを内向きにすることに忙しくしていた間、習近平主席はグローバリゼーションのドライバーに登りつめた。世界のほとんどはアメリカの回帰を歓迎している。しかし、ワシントンが回帰したのは、世界のGDPにおけるアメリカのシェアが縮小し、挑戦者・中国の経済は計算方法によってはアメリカと同規模という状況のもとにおいてである。したがって、アメリカが闘うのは世界的な競争がウィン・ウィンの結果をもたらす競技場で自らの地位を確かなものにするということであり、その獲得物に関する分け前を得ることを確実にするということになるだろう。とは言え、これがやらなければならないことである。政治外交技術は簡単なことだと述べたものはいない。
 最後に、歴史においてしばしば起こることだが、一つの世代が巨大な挑戦に向き合って成功することは次の世代に新たな、そしてより難しい挑戦を作り出す。すなわち、アメリカは中国に関与することによって20世紀の主要な闘争で勝ちを収めた。そのことはまた、シンガポールの政治家リー・クワンユが「世界史における最大のプレーヤー」と呼んだ相手(中国)との長期的対峙をアメリカに残すことになった。歴史の大きな流れの中で、革命戦争から冷戦に至るまで、次々と起こるより深刻な挑戦に直面することはアメリカの宿命である。ワシントンが北京との今日的競争に取り組むに当たり、キッシンジャーが1976年のスピーチで最後の巨大な挑戦に対処することについて次のように語ったことを想起する価値はあるだろう。「我々は何をしなければならないかを知っている。我々は我々が何をできるかも知っている。残されているのはそれをすることだけだ。」