5月に開催された中国の全国人民代表大会(全人代)に関して、日本を含めた西側諸国の関心は香港問題に集中した観があります。しかし、今回の全人代は長年の懸案だった中国民法典を採択する重要な会議でもありました。中国の専門家が一致して強調する民法典の最大の特徴は、「人格権編を独立に設けた」世界最初の民法典であること、そして、「尊厳」について明確な規定を置いたことにあるとされます。
すなわち、第一編・総則は「自然人の人身の自由及び人格の尊厳は、厳格な法律の保護を受ける」(第109条)と定めます。これを受けて、第四編・人格権(6章151条)は「人格権とは、民事の主体が享有する生命権、身体権、健康権、姓名権、名称権、肖像権、名誉権、栄誉権、プライバシー権等の権利をいう。前項に定める人格権のほか、自然人は、人身の自由及び人格の尊厳が生み出すその他の人格的権益を享有する」(第990条)、「自然人は生命権を享有する。自然人の生命の安全及び生命の尊厳は厳格な法律の保護を受ける」(第1002条)と具体的に規定を設けています。
 民法典が「自然人」そして「尊厳」という概念を取り込んだことは、中国の法律において初めてのことではないかと思います。4月14日及び20日のコラムで紹介した中国の人権白書では、「人格権及び尊厳は人権保障の基本的内容である」、「各個人の自由な発展は、すべての人の自由な発展の条件である」として「尊厳」「人」という概念に言及していますが、基本的な考え方は「人権は一定の歴史的条件の下における産物であり、歴史的条件の発展に従って発展するもの」とする受け止めであると思います。つまり、中国における「人」についての捉え方は、「個」という抽象概念としてではなく、「生身」の人間に即しているということです。
 実は、8月15日に出版する予定の本の中で、中国における「尊厳」の受け止めはどのようなものであるかを考えています。簡単に言えば、2018年に北京大学の兪可平教授が「人の尊厳を論じる-政治学的分析」というタイトルの論文を出しており、その中で彼は、「尊厳」は西欧起源であり、中国が西欧的な意味でこの概念を受け入れたのは、2010年に温家宝首相(当時)が「政府工作報告」で、「人民生活をさらに幸福にし、尊厳あるものとする」と掲げた時が最初である、と指摘しているのです。この指摘から見ても、「尊厳」「人」という抽象的概念は、中国にとってはこれまでなじみの薄いものであることが理解されます。
 しかし、5月27日のコラムで紹介した辛鳴論文は、「人民」が「集合概念であるだけではなく、「一人一人」という個別概念(君、私、彼)をも含む」と指摘し、その背景事情として「人々が物質的豊かさだけではなく精神的豊かさをも求めるに至っている」ことに言及していました。そして、今回の民法典に関する中国の法律専門家の解説の中でも、辛鳴論文と同工異曲の解説が行われています。
 逆に言えば、辛鳴論文は民法典編纂のプロセスを踏まえた上で執筆を行ったとも見られるということです。さらにいえば、2018年の兪可平論文も民法典編纂プロセスにおける「自然人」「尊厳」の取り上げと無縁ではないとも考えられます。大胆に憶測を交えるならば、民法典編纂プロセスの中で、「生身の人間」(人民)から「抽象的人間」(人)へという認識の歩みが進んできた可能性があるのではないかということです。
 兪可平が「尊厳」の概念が中国で定着したのは最近だと指摘したのは2018年。「尊厳」を法的概念として盛り込んだ民法典の採択は2020年。しかも民法典は、尊厳に深く関わるプライバシー権、肖像権等の人格権を積極的に取り上げている。このように時系列で見るとき、「(中国は)人権には消極的というのが外部世界の一般的受け止めだ。しかし、以上の事実は中国社会がダイナミックに動いていることを理解させるのに十分なものがある、と言えるだろう」(私の近刊)ということになると思います。
 ただし、民法典では「人格の尊厳」(第990条)と「生命の尊厳」(第1002条)とあるように、まだまだ「尊厳」の本質的理解には至っていない形跡が見られることも指摘しておきます。それは、習近平の「尊厳」に関する言及ぶりにも反映している、というのが私の理解です。
 すなわち、5月29日に中共中央政治局は「民法典の確実な実施」に関する第20回集団学習を行いました。学習会を主催した習近平は、「この集団学習を組織した目的は民法典実施の重大な意義を認識し、より良く実施するためである」と述べた上で、次のように指摘しています。「生命健康、財産安全、交易便利、生活幸福、人格尊厳」とあるように、尊厳への言及が最後尾であるのは私としては気に入りませんが、とりあえずは、習近平が「尊厳」を口にしたことでよしとしておきましょう。

 民法典は新中国70余年の実践で形成されてきた民事の法律・規範を系統的に整理し、中華民族5000年余の優れた法律文化を吸収し、人類法治文明建設の有益な成果を学んだものであり、我が国の社会主義たる性質を体現し、人民の利益と願望に合致し、時代の発展と要求に順応した民法典である。それはまた、生命健康、財産安全、交易便利、生活幸福、人格尊厳等各方面の権利を平等に保護する民法典である。それはさらにまた、中国・実践・時代の特色を鮮明にした民法典でもある。