中国の新コロナ・ウィルス対策:総括と教訓

2020.04.08.

環球時報主筆の胡錫進は、単仁平というペン・ネームで時々文章を発表しています。4月7日付けの環球時報は、「過去2ヶ月余り歩んできた道の回顧 感慨無量」と題する彼の文章を掲載しました。また、同日付で「武漢封鎖解除 超難関を制御可能までに解体」と題する社説も発表しました。
 私は、欧米諸国の惨憺たる状況と比較するとき、中国のとってきた対策の成果は誰もが否定できないものであり、日頃大胆な主張を展開する環球時報だけに、自己賞賛を前面に押し出した内容かという先入主をもって読みました。しかし、高揚感のかけらもなく、極めて実事求是で現実を見つめている内容にびっくりしました。
トランプは中国の発表数字は低く抑えているなどと負け惜しみを言っています。しかし、新コロナ・ウィルス問題の深刻さを直視する中国の真摯な姿勢は、欧米の「ケチをつけなければ気が収まらない」といった低次元とは無縁であることが分かります。特に単仁平文章は、中国社会主義の制度的優位性に対する確信の深まりを指摘していますが、それは、欧米諸国が集団的に同じ過ちを犯すという冷厳たる事実を目の前にしたからなのです。空虚な制度優位論ではないのです。
両文章を紹介するゆえんです。

<単仁平文章>
 武漢封鎖が公表されたのは極めて前のことだったように思われ、とても2ヶ月あまり前のことだったとは信じがたいほどだ。あのとき以来、世界全体が変わったし、この変化はますます予測不可能と思われるに至っている。
 新コロナ・ウィルスに関しては、すべての人が見誤っていたと言えるだろう。1月20日に鐘南山(浅井注:中国の疫学第一人者)が中央テレビで発言したことで、人々が巨大なショックに見舞われたことをまだ覚えているだろうか。1月22日の深夜、武漢封鎖が発表されたが、それはあたかも原爆が投下されたがごとくであった。わずか数十時間の内、中国社会は驚きの中で飛び起き、かなりの混乱に陥った。人々は怒りを湖北省官僚と国家疾病コントロール・センターの専門家にぶつけた。「防ぐことも押さえ込むことも可能だった」と言い立て、1月18日段階でもまだ宴会をし、21日には祝賀会をし、月初めの段階では「武漢にSARSが現れた」と主張した8人を訓戒した、等々。人々は、今回の危機は本来回避できたはずなのに、叙上のごとき官僚主義が疫病の爆発をもたらしたと固く信じた。
 武漢封鎖に関しても、すべての人の意見が一致しているわけではなかった。西側では封鎖に関する人権問題が大いに提起されたし、国内では、人類史上最大規模の「針小棒大」ではないかと疑うものもいた。その後のコロナ対策は、次々と沸き起こる批判の大波の中で進められた。入院できないものが出たことや医療者不足に対する猛烈な批判、湖北省赤十字の行動がのろいという譴責、高官が記者会見で原稿を読み上げたり、現場の職員の行動が粗野だったりしたことに対する潮のごとき譴責等々、これらすべてが忘れがたい一幕だった。譴責と反省、これが当時のネット上でもっとも頻繁に現れた言葉だった。
 これらすべての批判や考察はすべて確かな根拠があってのことであり、今後も堅持していくべきものである。しかし、非常に大きな事実と影響とを指摘しなければならない。それは、新コロナ・ウィルスが中国で現れたのはほんの序幕に過ぎず、その本当の爆発、すなわち全世界に大流行する超爆発、そして、武漢に比して何倍かも計り知れないような経済社会システムに対するすさまじい衝撃、その後の中国以外の地域、とりわけ欧州とアメリカで連続して起こった爆発、ということは誰も考えもつかなかったということだ。
 これこそが人類の歴史の軌跡を変えかねない新コロナ・ウィルスの全面展開の有様なのだ。欧州では一国また一国と新しい湖北省になった。いや、湖北省の強化版、拡大版となった。…現在の西側世界は、新コロナ・ウィルスのもっとも血なまぐさい屠殺場になっている。
 武漢で起こったすべての誤りを西側諸国は繰り返しており、しかもさらに深刻でかつ一度にとどまらない。患者が病院に入れないといった武漢での間違いを、欧米諸国はもっと極端な形で再演している。…これらの強烈な、重畳する事実により、我々が問題を観察する上でのパラダイムに変更を迫られることになり、‥人々の受け止め方と関心の所在はそれとともに変化しつつある。
 我々はかつて、根本の問題は世論の監督の欠如にあると考えていた。8名の医師が戒告を受けない世論的環境があり、武漢及び湖北の官僚たちの「事なかれ」的考え方が強すぎることがなかったならば、今回の悲劇は完全に回避できたと考えていたのだ。しかし、欧州からアメリカにかけては西側「言論の自由」の中心地帯であり、「事なかれ」ということもないのに、悲劇はドミノのごとくすべての国を押し倒した。
 では、武漢は最初の間違いと混乱をより回避しにくかったのか、それとも西側諸国の方がより回避しにくかったのか、どちらか。答は当然前者だ。武漢からすれば、新コロナ・ウィルスはまったく新しい疫病であり、認識するプロセスが必要だったのであり、そのプロセスの中で問題が現れたのは、まずもって科学レベルでの限界があったからである。他方、西側諸国にとっては、新コロナ・ウィルスに関する認識については中国という踏み台があったし、武漢を封鎖したということは、新コロナ・ウィルスの抑えようのない危険性に関するこれ以上のない宣告であった。
 武漢が封鎖されたとき、アメリカの判断症例は1件のみ、イギリスに至ってはゼロだった。まだ見つかっていない感染者が欧米社会に入り込んでいたとしても、それは間違いなく少数であったのであり、適時に検査で見つけ出し、慌てずに対処することは完全に可能だったはずだ。もっとも、アメリカではその前の段階で多数の病例があり、季節性インフルエンザと新コロナ・ウィルスとが混じっていた可能性がある。
 1月23日以後、中国は湖北の戦場と全国の戦場という2大戦線を形成し、模索しつつ、全国の他の省で新型コロナ・ウィルスに対する包囲殲滅戦を遂行した。西側諸国が広東から黒竜江に至るどこか一省のやり方を参考にしていたならば、極めて短時間の内に国内の数少ない感染症例を隔離し、大規模な爆発が起こらないようにすることができただろう。
 しかし、これら諸国はそうしなかった。それが一国とか二国とかではなく、すべての国が集団的に間違ってしまったわけであり、このことは、我々にとって反省の上に反省を重ねる材料となっている。過去の2ヶ月余を見るに、無数の角度及び手がかりが我々の注意を引いているが、彼らが集団的に誤りを犯したというあの事実がますます強力な重力の場を作り出しており、毎時毎秒我々の注意力を引きつけ、我々の思考方式を形作り続けている。
 疫病はまだ収束していないが、中国と外部世界とのコントラストは日増しに強烈になっている。このコントラストは偶然から生み出されたものではなく、強烈な制度的遺伝子を内包している。中国の欠点は紛れもなく非常に多いが、この国は人民の根本的利益を守るということにおいてはかくも断固としており、頼れるということを、我々は以前にはあり得なかったほどに発見することになっている。問題に対する我々の批判は、国家及び民族が向上するための自己鞭撻である。然り、自己鞭撻は非常に重要だ。ただし、その原則はのぼせあがらないようにすることだ。
<環球時報社説>
 武漢は8日からハイウェーを開放する。封鎖から76日の後、ついにこの時がやってきた。当局はこの重要な時刻を「勝利」として宣伝するのではなく、「新規ゼロはリスク・ゼロにはあらず、封鎖解除は防止解除にあらず」を強調するというシグナルを発し、人々の興奮を冷まさせた。
 各地の人々は湖北人及び武漢人に対して一定の不安を持っており、その不安から各地で摩擦も起こっているが、これも動態的にプロセスに適応していく上での正常な経験であり、摩擦であろう。中国人はいま武漢市を開けるとともに、完全には安心しておらず、また、封鎖解除後も新しい症例が出ていることもあって、我々はこのように「矛盾を抱えながら」前に向かおうとしているのだ。世論の中にも二種類の声がある。心配を反映するものと経済の全面回復を期待するものだ。武漢人の中でも、「ついに終わりがやってきた」と喜ぶものもいれば、「封鎖解除」が徹底したものではなく、武漢が完全に自由になっていないと愚痴るものもいる。
 中国は大胆かつ慎重に前進しようとしており、見たところ矛盾するが、実は積極的かつ穏当なものなのだ。武漢の封鎖とその解除については前例がなく、あのときの封鎖が正しかったのは実事求是で、科学を信じたからである。解除するに当たっても科学に頼るべきであり、現実の状況に基づいて、疫病が二度と爆発しないようにすることを前提として操業と生産を回復するのだ。
 我々としては、段階的に武漢を正常化する勇気を持つ必要がある。すでに確立した防疫体制によって武漢をコントロールすることは可能であるが、まだ完全にリスク・ゼロというわけではない。この世界はもはやウィルスをきれいさっぱり除去することは至難であり、絶対的安全を追求することは非現実的なのであって、リスクと共存し、リスクが破壊的になって制御不能にならないように押さえ込みながら、新しい生活を築いていく必要があることを認識しなければならない。
 中国の国情のもとで、我々は積極的に防止し、コントロールする力量がある。欧米では、中途半端を強いられ、「集団的免疫」に向かう傾向がある。しかし、中国は大幅に生命の損失を減少させたのであり、我々としては我が道を最後まで歩み、絶対に動揺することがあってはならない。
 これからの闘争は相当に複雑であり、我々は同時にいくつかの目標を追求する必要がある。見たところ、それらは相互に矛盾することもあり得る。我々はやっとのことで獲得した戦略的主動性を維持していく必要があり、操業生産消費を疫病対策と結合、統一させる能力を持たなければならない。この一点を成し遂げることができなければ、真の勝利は我々を待っていてくれないだろう。  何をもって有効に統括するのか。もっとも基本的なことは以下のことだ。中国の操業回復率を主要経済中の最高レベルに引き上げること。疫病の大規模暴発を起こさせず、一部のクラスター発生は免れないが、適時にそれらを押さえ込むことで、全国レベルの安定を維持すること。
 中国人は心理的に強くなる必要がある。あるところで新しい病例が出ても、それによってあまり神経質になりすぎないことが必要だ。各地方の政府は、操業及び生産の回復を推進すると同時に、疫病のいかなる兆候にも目を大きく光らせるべきである。これは、中国全社会にとっての極めて深刻な総合的テストである。
 西側諸国では比較的簡単なことしかできない。例えば、疫病の状況が必ずしもハッキリしない時点で操業回復を主張し、「ターニング・ポイントが来た」と宣伝し、情勢を再び悪化に直面させるという巨大なリスクを冒す。アメリカ株式市場は乱高下を繰り返しているが、これは市場の情勢に対する焦りと恐れの反映である。中国はそうするわけにはいかない。我々の回復は一歩ずつ確実にステップを踏み、同じ道を何度も歩み直すということは絶対にしてはならない。