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日韓関係の根本問題(ハンギョレ掲載コラム文章)

2019.08.01.

7月29日付のハンギョレ日本語版WSはキム・ヌリ(中央大学教授・独文学)署名の寄稿文章「韓国と日本、真の和解は可能か」を掲載しています。1965年日韓協定の本質(①主導者が歴史的正当性を欠いていた、②「強要された和解」の産物だった、③国民の同意に基づいた条約ではなかった、④反省しない日本の右翼と省察のない韓国の保守の「偽りの和解」の産物だった)を剔抉し、その後も現在に至るまで「真の和解の試みは全くなかった」ことにより、「冷戦に寄生する韓国の保守と日本の極右の結託で水面下に隠されていた対立が、もはや冷戦体制が解体する新たな局面を迎え、ついに水面上に浮び上がった」のが現在の日韓関係であるとする分析は明晰そのものであり、見事としかいいようがありません。
 そして、今後に対する展望として、「「独立運動はできなかったが、不買運動はする」という国民の正当な怒りが希望だ」と指摘して韓国には主体的条件が存在すること、しかし、名指しこそ避けていますが、日本については「過去清算と北東アジアの平和の成熟した政治意識」を国民的に育むことが不可欠であることを指摘しています。この点にこそ日韓関係打開のカギがありますが、韓国に存在する主体的条件(主権者・国民の政治的自覚)が日本には欠落しており、しかも自民党主導の文科行政(特に歴史教育)は日本国民の政治的自覚の芽そのものをむしり取ってきたために、将来への展望は極めて厳しいと言わざるを得ません。また、「米国に仲裁を乞うてはならない。それは、最良の場合でも冷戦的過去の秩序への回帰を生むだけだ」という指摘も極めて重要です。文在寅政権がトランプ・アメリカにアプローチをしているようですが、返ってきている「打開策」は「くさいものに蓋をする」類いのものであり、キム・ヌリ氏の警告が的を射たものであることを実証しています。
 「真の和解が可能になるには、韓日新協定の締結を通じて新たな韓日関係が築かれなければならない」という結論に、私は全面的に賛同します。韓国側の総意はこれに集約されていると思います。しかし、1960年代前半までの日本国内には1965年日韓協定の締結に反対する分厚い国民的意思が比較少数だったとはいえ存在していましたが、自民党政治のしたたかな切り崩し・分断工作によって、今日では見る影もありません。「主権者・国民が覚醒すれば日本を変えることができる」は私の口癖ですが、この「国民的覚醒」ほど「言うは易く行うは難し」の問題はほかにありません。

 わが邦人これを海外諸国に視るに、極めて事理に明に、善く時の必要に従ひ推移して、絶て頑固の態なし、…而してその浮躁軽薄の大病根も、また正に此にあり。…極めて常識に富める民なり、常識以上に挺出することは到底望むべからざるなり。亟かに教育の根本を改革して、死学者よりも活人民を打出するに努むるを要するは、これがためのみ。……
 わが邦人は利害に明にして理義に暗らし。事に従ふことを好みて考ふることを好まず。…それただ考ふることを好まず、故におよそその為す所浅薄にして、十二分の処所に透徹すること能はず。今後に要する所は、豪傑的偉人よりも哲学的偉人を得るにあり。
中江兆民『一年有半』の以上の指摘は今日でもそのまま日本国民の病理を喝破しています。
[寄稿]韓国と日本、真の和解は可能か
 2012年にノーベル平和賞が欧州連合に与えられたことを知っている人は多いが、その賞の「影の」受賞者がドイツとフランスだったという事実を知っている人は多くない。2012~2013年は「ドイツ・フランスの年」だった。50年前の1962年にドイツとフランスの和解の試みが本格化し、ついに1963年1月23日、パリのエリゼ宮で独仏協定、すなわち「エリゼ条約」が締結されたことを記念する意味だった。2012年にノーベル平和賞が欧州連合に授与されたのは、実のところ、ドイツとフランスの和解が欧州の平和をもたらした欧州連合を誕生させたことを国際的に認めたものであった。
 周知のようにドイツとフランスは歴史的に「不倶戴天の敵」だった。1870年から1945年の間に3回の大きな戦争を起こした。1870年普仏戦争、第1次世界大戦、第2次世界大戦がそれだ。このような敵対の歴史を持つ両国が「和解」することで、ついに「戦争の大陸」欧州が「平和の大陸」に変貌し、ひいては一つの「国家連合」に統合されるようになったのだ。
 ドイツとフランスはもはや「不倶戴天の敵」(Erbfeind)から「親友」(Erbfreund)になった。ジスカール・デスタンとヘルムート・シュミット、フランソワ・ミッテランとヘルムート・コールなど両国の首脳らは、政治路線と国家利益を超えて固い友情を積み、両国の都市間には2500件を超える姉妹提携が結ばれ、800万人を超えるドイツとフランスの若者たちが相互交流を行ったすえ、ついに歴史教科書まで共同執筆する仲になった。だからドイツ人とフランス人が互いを「最も好きな隣人」に選ぶのも全くおかしくない。
 ドイツとフランスの和解の歴史を振り返り、最近激化している韓日の葛藤を考える。韓国と日本もドイツとフランスのように和解できないのか。1965年「韓日協定」に基づいた現在の条件では、韓国と日本が真の和解を果たすのは難しそうだ。その理由は三つだ。
 第一に、韓日協定の主導者が歴史的正当性を欠いていたためだ。1963年の普仏協定と1965年の韓日協定の決定的な違いは、被害国の首長の歴史的象徴性にある。フランスのドゴールはレジスタンスの指導者であり、韓国の朴正煕(パク・チョンヒ)は日本軍将校だった。ブラントがナチスの過去を清算して周辺国と和解することができたのは、彼がワルシャワのゲットーで跪いたからではなく、誰よりも熾烈にナチスに立ち向かって戦った「反ナチ闘士」だったからだ。
 第二に、韓日協定は「強要された和解」の産物だった。サンフランシスコ条約の後続措置として、韓日条約は冷戦時代の米国の軍事戦略的考慮によって強要されたものであり、韓日間の真の和解が作り出した結果物ではなかった。
 第三に、韓日協定は国民の同意に基づいた条約ではなかった。協定に反対する大規模なデモが繰り返されたのは、韓日協定が国民の意思に逆らう「官制協定」だったからだ。
 その上、韓日協定は反省しない日本の右翼と省察のない韓国の保守の「偽りの和解」の産物だった。このため、韓日協定を絶対的準拠のように掲げ、韓国政府を批判し、日本政府を擁護する人々は、正しい歴史意識も、常識的な法感情も欠如した人々だ。
 現在の韓日の対立は、表面的には日本の輸出規制のために触発されたが、深層的にはこの一世紀の間に累積された敵対的反感が爆発したものだ。事実、解放後の韓日間で真の和解の試みは全くなかった。冷戦時代に「軍事同盟」という名のうわべに隠されていた敵対感が、冷戦に寄生する韓国の保守と日本の極右の結託で水面下に隠されていた対立が、もはや冷戦体制が解体する新たな局面を迎え、ついに水面上に浮び上がったのだ。
 「独立運動はできなかったが、不買運動はする」という国民の正当な怒りが希望だ。これが過去清算と北東アジアの平和の成熟した政治意識に昇華できるよう、民主市民教育が活性化しなければならない。
 これ以上米国に仲裁を乞うてはならない。それは、最良の場合でも冷戦的過去の秩序への回帰を生むだけだ。韓日の対立の究極的解決は過去への回帰ではなく、未来への跳躍を通じてのみ可能だ。「日本が北東アジアの安保協力の根幹を揺るがす」というように冷戦秩序の崩壊を懸念するのではなく、脱冷戦の新たな北東アジアの秩序を模索しなければならない。真の和解が可能になるには、韓日新協定の締結を通じて新たな韓日関係が築かれなければならない。