21世紀の日本と国際社会 浅井基文Webサイト

中国原爆開発54周年記念文章

2018.10.23.

10月16日は中国が1964年に最初の原爆実験に成功した日であり、10月20日は中国が1958年に最初のミサイル発射実験に成功した日であるということで、中国のメディアにおいては興味深い文章がいくつか発表されました。すなわち、10月16日付の環球時報は中国原爆開発の父とも称される朱光亜の子息である朱明遠の父親を回想した文章を、また、同日付の中国軍網は同じく原爆開発の功労者の一人である鄧稼先及び原爆開発に関わったエンジニアの一人である原公浦にまつわる記事を、そして同月20日付の新華社は酒泉衛星発射センターの60年の歴史を紹介する記事を掲載しています。私が特に注目したのは、10月18日付の中国国防報が掲載した、中国エンジニアリング物理研究院戦略研究センター所属の崔茂東署名文章「毛沢東はいつ中国には原爆が必要と提起したか」でした。
 お恥ずかしいのですが、私は外務省を辞めて大学教員生活を送っていた時期に中国をフォローする作業を怠りまして、この極めて重要な時期(中国が改革開放で急速な台頭を遂げた1990年代から2000年代の約20年間)が私の中国理解・認識における大きな空白となっています。したがって、崔茂東署名文章の内容はあるいは旧聞に属する事柄なのかも知れませんが、私には初めて知る内容が含まれています。
 私はかねてから、米ソ両大国の核の脅威に直面していた貧しい中国が核開発にしゃかりきに取り組んでいた1960年代前半までの歴史を想起するならば、今日の朝鮮が核開発に邁進してきた事情を容易に認識できるはずであり、アメリカに同調して朝鮮に対する安保理制裁決議採択に積極的に加担した自らの行動を批判的に検証する必要があることを指摘してきました。特に一連の安保理の朝鮮制裁決議は、NPTを脱退して上で核実験に向かい、宇宙条約に加入した上で人工衛星打ち上げに向かった朝鮮に対しては国際法上の根拠がなく(ミサイル開発を規制する国際法上の枠組みも存在しない)、5大国なれ合いのごり押し的性格が強いことも指摘してきました。
 崔茂東署名文章は朝鮮の核ミサイル開発問題には何も触れていませんが、中国が原爆開発に向かった当時の国際環境は今日の朝鮮のそれと本質的に同じであることを認めるものです。国際関係における他者感覚(換位思考)の重要性を強調する中国ですから、中朝関係が劇的に改善した今日、改めて自らの昨年までの対朝鮮政策の重大な問題点を再検証する必要があると思います。
 以上の問題意識を再び暖めながら、崔茂東署名文章(要旨)を紹介します。

 毛沢東が最初に中国の核兵器開発の必要性を提起したのはいつだったか。
 1944年、中国共産党はアメリカが一種の「スーパー爆弾」を製造中であることを知り、1946年から海外にいる中国人科学者特に核及びロケットの専門家と連絡を取り、彼らが帰国して核兵器及び関連兵器の研究に参加するように促し、同時に他のチャンネルを通じて核物理研究に必要な機材及び資料を購入した。以上の仕事について毛沢東の支持を得たことは疑問の余地がない。しかし、文献の記載において毛沢東が中国は核兵器を研究開発する必要があると最初に明確に提起したのは、彼がソ連を訪問した1949年末であった。
 すなわち、1949年12月16日から1950年2月17日、毛沢東は初めて出国してソ連を訪問した。1949年12月18日、毛沢東はスターリンと会見したときに、中国の原爆の研究開発をソ連が援助することを希望すると提起した。その会見の場にはソ連の内務及び安全部門の指導者だったベリアがおり、彼の当日の日記には両国指導者の会談を記録している。その日記ではさらに、その後でスターリンがベリアに対し、中国がソ連の核技術の提供を受けたいこと、また、ソ連の援助を得て中国国内でウラン鉱を探し、原爆を製造したいと考えているとしたことを記している。ベリアはそれに応じたくないと述べ、スターリンもベリアの意見に反対しなかったようだとしている。
 毛沢東のこのソ連訪問中、ソ連は特別に彼のために同年8月29日にソ連が最初の原爆実験に成功した映像記録を紹介した。この映像記録による核兵器の爆発の威力に震撼したのかもしれないが、毛沢東は帰国の途上で繰り返し中国が核兵器を研究開発する必要があるという考えを述べた。毛沢東の身辺を担当していた葉子龍によれば、「今回のソ連訪問で視界が開けた。原爆は多くの人の腰を抜かすことができるようだ。アメリカが持ち、ソ連も持つに至った。我々もやろうではないか」と(毛沢東は述べた)。
 朝鮮戦争中、アメリカが核の棍棒を振り上げたことにより、毛沢東は、核の脅威を取り除くためには何よりもまず核兵器を保有しなければならないということを認識した。彼は後日、「今日の世界において、中国が他国から侮られないためには、こいつ(原爆)を持たないではいられない」と述べた。
1952年6月、中国はソ連に対して核兵器研究開発に関する援助を提供するように要請したが拒絶された。そのため、中央軍事委員会と総参謀部は、「5年軍事計画綱要」を作成するに当たって原爆研究開発の考えを放棄せざるを得なかった。
1954年10月、毛沢東は訪中したソ連最高指導者のフルシチョフに対して中国の核兵器研究開発にソ連の援助を得たいという考え方を表明し、「我々は原子力及び核兵器に関心を持っている。あなた方と相談したいのだが、この分野であなた方の援助を得て実績を上げたい。つまり、我々もこの分野の事業をやりたいのだ」と述べた。フルシチョフはやんわりとこの要求を拒絶したが、中国が小型の原子炉を建設し、これによって人員を訓練すること、また、中国が人員をソ連に派遣して学習することは可と応じた(浅井注:朝鮮の核研究開発も同様の手順を踏んで始まっています)。
 1955年1月15日、毛沢東以下の党中央は、中国独自の原子力事業及び核兵器研究開発という重大な戦略的決定を行った。そして1964年、中国最初の原爆実験が成功し、「原子爆弾、水素爆弾、ICBMの開発は10年の時間をかければ完全に可能だ」とする毛沢東の構想は実現することになった。