21世紀の日本と国際社会 浅井基文Webサイト

「大国」中国の自己認識・自己規定のあり方

2018.09.07.

9月3日から4日にかけて、中国・アフリカ協力フォーラムが開催されました。2006年、2015年に次いで第3回目ですが、今回はアフリカのほとんどの国が参加(半数近くは首脳級です)し、習近平が自ら主催する点で最大規模のものです。中国は改革開放以前からアフリカ諸国との経済協力に注力してきましたが、本格的にとり組み始めたのは改革開放政策が軌道に乗った今世紀に入ってからであり、これまでの実績を踏まえ、今後はさらにきめの細かい経済協力を推進することを目指すのが今回のフォーラムの目的であると言っても良いでしょう。また、一帯一路を掲げる習近平外交の新たな出発を内外に明らかにするものであるとも思います。
 日本を含む西側メディアは、中国のやることについては、何事につけてもケチをつけ、あら探しをすることに余念がありません。すなわち、中国のアフリカ諸国に対する経済協力について「新植民地主義」というレッテルを貼るとか、受け入れ国に膨大な債務負担を押しつける結果になっているとかの、マイナス・イメージを植え付けることです。これはつまるところ、「No.2の経済大国として世界的に台頭する中国」がこれまでの西側主導の国際関係に関する既成概念からするとどうしても素直に受け入れられず、したがって、中国のやることなすことの何事につけても否定的評価を下すことによって、西側諸国の優越性という今や急速に瓦解しつつあるイメージを守ろうとするあがきと言っても良いでしょう。
 中国側の主要な言論(ネット世論ではない)を見ていますと、西側メディアの以上のような反応に対しては、中には感情的な反発を示すものもありますが、主流的なものは、中国のアフリカ諸国に対する経済協力は主に、アフリカ諸国の「離陸(テイク・オフ)」に不可欠な工業化及びそれに必要なインフラ整備(交通、発電)に向けられている、また、中国の経済協力を受け入れている国々の債務負担に占める中国の比率は圧倒的に低いレベルに留まっているし、工業化の実現によって債務返還は十分可能であることを指摘するなどに力を入れています。ところが、こういう論調は西側メディアによって取り上げられることはまずなく、国際世論に対する圧倒的な影響力を握っている西側メディアの報道が垂れ流され続けているわけです。
 日本国内では、9月3日付のコラムで紹介した環球時報社説も触れているように、①明治維新以来特に日清戦争以来敗戦まで中国に対して圧倒的優位に立っていた日本というイメージが今日まで執拗に自己主張し、このイメージはどうしても今や日本をはるかに凌駕する大国・中国という事実を素直に受け入れられない、②もともと上下関係でしか物事を見られない(強者崇拝・弱者軽蔑)ところにアメリカの占領支配が行われたことを出発点として、敗戦後の自民党政治がアメリカに対する「べったり」路線を続け、アメリカにもの申す大国・中国の台頭を敵視するアメリカと同調するのが当たり前になってしまっている、③(環球時報社説は触れていませんが)伝統的なアジア蔑視の感情が私たちのなかに牢固として巣くっているなどによって、西側メディア(日本のメディアも一端を担いでいる)の垂れ流す中国のマイナス・イメージを自らにもともとある中国のマイナス・イメージとダブらせ、さらに増幅させるという悪循環があります。
 折しも同じ9月3日及び4日にイランのテヘランで、アジア太平洋通信社機構(OANA the Organization of Asia-Pacific News Agencies)の執行委員会第43回会合が開かれました(中国からは新華社、日本からは共同通信社が参加)。そこでの主題の一つは、アジア太平洋諸国の通信社が協力を強化することによって、西側メディアの国際世論に対する圧倒的影響力に対抗して、OANA所属諸国通信社が正しい国際世論を形成するために協力を強化することにおかれています。
 以上から明らかなとおり、中国・アフリカ協力フォーラムに関する西側メディア報道から浮かび上がってくる問題は、一つは「大国・中国」について実事求是の認識を持つ必要性であり、今一つは西側メディアによって独占支配されている国際世論という現実を打破する必要性である、ということになります。
 以上に加え、私がもう一つ、私たち日本人に固有(?) の問題を指摘したいと思います。それは「大国」という言葉に対するイメージという問題です。つまり、特に敗戦後の日本では、「大国」という言葉が負のイメージをもって受けとめられるということです。「脱亜入欧」を掲げて「大国入り」をがむしゃらに追求した明治・日本、そして「大東亜共栄圏」を掲げてアジア諸国に対する植民地支配・侵略戦争を無謀に追求した軍国主義・日本は、最終的に敗戦によって圧倒的に多くの日本人に辛酸を嘗めさせました。「大国」とは「大国主義」と同義であり、否定すべき言葉となったのです。敗戦による辛酸の記憶が失われた今日、もともと歴史的健忘症の日本人は「大国=大国主義」という言葉の呪縛から解放されることが自然でした。ところが、安倍政権を筆頭とする日本会議の面々が「大国・日本」を呼号し、大国主義路線を公然と主張する結果、安倍政権(保守政治)に反対する人々の間では「大国=大国主義」というイメージがそのまま再生産され続ける結果になっているのです。
 しかし、私がこのコラムで折に触れ指摘してきたように、国際関係・国際政治における「大国」という言葉は価値中立的な概念です。特に、無政府的な国際関係を前提とする限り、大国は国際社会の秩序を維持し、(秩序が破れた場合は)回復する主要な機能を果たす存在(institution)として観念されるのです。もちろん、現実の大国は、かつての日本がそうであったように、そして今のトランプ・アメリカがそうであるように、国際社会の秩序破りの張本人となることもしばしばです。したがって、大国である国家には厳しい自己認識と自己規制・自己規範が求められるのです。
幸い、1945年に作られた国連憲章は、民主的な国際関係を成り立たせるための規範(国家主権の尊重、主権国家の対等平等、内政不干渉、紛争の平和的解決、武力不行使)を定めましたので、21世紀の大国たるものは国連憲章が定めた規範を自らの行動基準とすることが求められています。そして、今日の諸大国の中で、国連憲章に基づく民主的な国際関係のあり方にもっともコミットしているのは中国とロシアなのです。私が習近平・中国及びプーチン・ロシアを評価する最大の所以です。
国内的強権政治故に、西側世論(日本を含む)では、習近平・中国、プーチン・ロシアを批判的・否定的に位置づけることが「正しい」とされる雰囲気があります。しかし、無政府的国際社会において民主的な国際関係を営む上では、国際政治と国内政治とを切り離すことが厳粛に求められます(国内政治における民主化はそれぞれの国の人民が実現することが求められるのであって、国際世論が容喙する余地はない、これが国連憲章が定めた「内政不干渉」原則の含意です)。
 私は、9月4日付の環球時報社説「大国の矜恃が中国社会をさらに飛躍させる」(中国語:"大国心态"将带中国社会走得更远)を読んだとき、私が以上に指摘した3つの問題に対して、社説が正面から答えを提示しようとする真剣な意思を感じました。私がまだ学生・現役時代には、後藤基夫(1918-1983 元朝日新聞論説副主幹)、内田健三(1922-2010 元共同通信論説委員長)、原寿雄(1925-2017 元共同通信社編集主幹)、 松山幸雄(1930- 元朝日新聞論説主幹)、安江良介(1935-1998 岩波書店『世界』編集長から社長)など、尊敬に値する言論人もいました。今回の環球時報社説の内容は、私が尊敬する日本の言論人の発言と匹敵するレベルのものです。是非、皆さんと共有したいと思います。

 中国は自ら工業化を実現したのみならず、アフリカが工業化に向かう上での最大の力となっている。いかなる地域であっても、工業化は近代化の基礎であり、開発実現にとって必ず経なければならない道である。西側がアフリカで推進したことは本末転倒であり、彼らはアフリカの政治におけるガヴァナンスを強調したが、工業化を無視した。西側NGOはアフリカで大いに活動しているが、アフリカがもっとも必要としているのは交通、発電そして製造業だ。  中国とアフリカの協力は適材適所であり、独特の平等互恵の道を編み出して大成功した。ところが、このことは常にアフリカを「導く」ことを考えながらもまったく成果を挙げられない西側にとってはきわめて我慢ならないことだ。西側が世論を集中して中国のアフリカに対する援助及び投資を非難し、世論における優位を利用して自らのアフリカに対する経済協力が劣勢であることを補おうとするのはごく自然なことだ。
 しかし、世界の出来事は畢竟するに作り出すものであって口先で作り出すものではない。中国とアフリカの協力の巨大な成果はアフリカ大陸に広がり、双方の利益となっており、不断に発展していく上での大きな潜在的エネルギーを蓄積している。
 中国はすでに世界における重要な大国の一つとなっているが、この国はビジョンを有し、行動力があるものの、現在までのところ「雄弁さが不足している」ことは明らかだ。それは中国が筋の通らないことをしているとか表現力が追いついていないとかいうことではなく、国際世論の大部分が西側の掌握するところとなっており、西側は言論上の天然の優勢をほしいままにしているため、中国が良いことをやり、正しいことを言っているにもかかわらず、その声の大きさが西側にかなわないという結果になっているのだ。
 中国の台頭がアメリカその他の西側のエスタブリッシュメントのますます警戒するところになるに従い、中国と彼らが主導する対中戦略との間にはますます摩擦が多くなるに違いない。このことは、中国の台頭に当たって避けて通れないことであり、これらの摩擦を解消するにせよ受けとめるにせよ、その前提は中国社会が世評に左右されない更なる度量とレジリエンスを持つことだ。換言すれば、中国社会の集団的心理が国家の前進の歩みに追いついて「大国化」していくことだ。
 我々は中国の国家としての歩みが正しいことを確信する必要がある。そしてこの確信の源は、中国のこれまでの成果及び世界の他の国々の平均的成果との横断的比較、並びに」中国自身の近代史以来の国家的命運に関する縦断的比較である。我々は一定の価値観が中国の根本的問題に関する評価のモノサシとなることを受け入れることはできず、我が実事求是の原則は確固不抜でなければならない。  さらに中国人が明確に認識しなければならないことは、大国は必ず大国としての義務を果たし尽くす必要があるということだ。しからざれば、中国は今日の位置に久しく留まることはできないし、久しく前進していくことを望むこともできない。中国にはまだ貧しい人々がいるのだから対外援助は反道徳的だというが如き考え方は小農経済的論理であり、今日中国の巨大な実践の指針たり得るはずがない。中国の民生を発展させることは、中国経済及び総合実力が不断に進歩していく大きな潮流の中でのみ実現できるのであり、みみっちい計算及び閉じこもることでは完成することはできない。…
 過去の我々は戦略的判断を行う経験も少なく、国際的に独自の途を歩み出す実際の能力にも欠けていたため、多くの場合に真似し、参考にして歩むしかなかった。しかし、今日の状況はもはやまったく違うのであり、中国のこれからの大国としての道に関してはもはや外のモデルに従うことはあり得ない。すなわち、我々は独自に模索し、もっと言えば、囂々たる議論に見舞われながらも独自に模索し続けていくという地点に至っているのだ。
 大国であるということはきわめて疲れることだ。選択を迫られるケースはますます複雑となり、出くわす批判及び非難もますます華々しくなり、時には我々にとって理解不能な敵意すら込められる。しかし、考えてみて欲しい。数十年前、特に新中国成立前の貧しく弱い時代と比較したとき、今日の中国は当時の中国人が願い求めたことではなかったか。今日の中国の一般の人々の生活及び中国の世界的影響力は往時の思想家でも想像もできなかったことだ。
 だから言いたい。中国人はこの国がやっとのことで手に入れたすべてを大切にすべきだ。中国には退路はない。我々は「独学」を通じて、21世紀に如何にして世界と共存するかという問題について「独習」し、不断に前進していかなければならない。