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韓国人強制連行労働者の靖国合祀(韓国・中央日報)

2018.08.12.

8月11日付の韓国・中央日報日本語版WSに掲載された「靖国の奇怪な合祀」と題するコリア中央デイリー文化部長・ムン・ソヨン署名文章は、きわめて短いものですが、内容におけるその鋭く的を射た日本批判には襟を正さずにはいられません。恥ずかしながら、靖国神社に韓国人強制連行労働者が「合祀」されている事実は知ってはいましたが、約21000名という気の遠くなる人数であることをはじめて知りました。それにも増して粛然としたのは、「私たちは人間が拘束の多い現実と肉体を離れる時、魂だけでも自由で独立的であることを望む。ところが靖国の韓国人徴用被害者は生きていても強制的に軍国主義の付属品として動員され、死去してからも魂が戦犯と一つの塊になって戦争美化の対象として崇拝されることを強要されている。これこそまさに全体主義だ。個人の尊厳と自由に対する最悪の象徴的抹殺形態だ」、「日本人も光復節を「解放の日」として祝わなければなければいけない、神風などで自国民を死で追い込んだ軍国主義政府から解放された日として韓国人と共に祝祭を開かなければならない」という指摘です。
 私はかねてから機会あるごとに、日本人における尊厳(人権)意識の怪しさを指摘してきました。その最たるものは、内閣府が5年ごとに行っている死刑制度に関する世論調査で、死刑を肯定する世論が80%以上に上っているという事実があります。国家権力が公然と行う暴力が対外的な戦争と国内における死刑ですが、人間の尊厳を承認するものであれば、戦争禁止はもちろん、死刑制度の廃止に声をあげなければならないはずです。日本人の圧倒的多数が死刑制度の存続を肯定することほど、その尊厳(人権)意識の怪しさを客観的に示すものはありません。EUにおいては、その加盟条件の一つが死刑制度の廃止であることとの対比においても、日本のいわゆる人権意識のあやふやさは明らかです。
ちなみに、日本人の人権意識の怪しさについてもう一つ加えるならば、「お上」に対してすぐ頭を垂れてしまう日本人の習い性という問題もあります。他国(例えば中国)の人権弾圧については口を極めて批判する多くの日本人が、国内における国家権力(「お上」)の傍若無人ぶり(最近の典型例が両学園問題に関する安倍首相・官邸の開き直り)に対しては為す術もないのです。いかに私たち日本人にとって「人権」が口先だけのものであるかをこの事例ほど如実に示すものはないのです。
 「私たちは人間が拘束の多い現実と肉体を離れる時、魂だけでも自由で独立的であることを望む。ところが靖国の韓国人徴用被害者は生きていても強制的に軍国主義の付属品として動員され、死去してからも魂が戦犯と一つの塊になって戦争美化の対象として崇拝されることを強要されている。これこそまさに全体主義だ。個人の尊厳と自由に対する最悪の象徴的抹殺形態だ」と指摘する中央日報文章の指摘は、日本人の人権意識の怪しさの急所を突いていると思います。
 また私は、敗戦・日本の戦後の出発点はポツダム宣言にあるということもくり返し指摘・強調してきました。ところが、昭和天皇の「終戦詔書」は見事なまでに同宣言を換骨奪胎し、終戦詔書史観を体する保守政治(その今日的頂点が安倍政治)はポツダム宣言を有名無実化することに「成功」してきたのです。「日本人も光復節を「解放の日」として祝わなければなければいけない、神風などで自国民を死で追い込んだ軍国主義政府から解放された日として韓国人と共に祝祭を開かなければならない」とする中央日報文章の指摘は、「戦後日本」が道を誤ってきたことに対する痛烈な批判に他なりません。

「靖国の奇怪な合祀」
8月15日の光復節(日本による植民地支配からの解放記念日)が近づくたびに心に引っかかることがある。今でも靖国神社に無断合祀されている約2万1000人の強制徴用韓国人だ。この人たちの位牌は遺族の意向と関係なく一方的に靖国神社にA級戦犯の位牌と共に合祀されている。強制徴用被害者の位牌を抜いてほしいと子孫は絶えず要求してきたが、靖国側は拒否している。何度か訴訟も起こしたが、日本の裁判所は「宗教の自由」の問題として棄却した。一方、日本国内では靖国神社から戦犯の位牌を移して健全な追悼施設に変えようという意見があったが、黙殺されている。
これほどになると怒りを越えて疑問を抱く。韓国人徴用被害者の位牌を抜くことがどうしてそれほど不都合であり、また戦犯の位牌だけを移すことがどうしてそれほど難しく非難と抗議の中で維持し続けるのか。これに対して靖国側は「一度合祀された魂は分離できない」という論理を前に出すという。韓日近代交流史の専門家イ・ジョンガク教授によると、合祀された魂は「壷で混ぜ合わさった水」と同じで「問題になる人たちだけの水を別に取り出すことは不可能」というのが彼らの論理ということだ。
この言葉を初めて聞いた時は身震いした。「自由をください/短い生も終わりに近づき/いま望むものはそれだけ/生きても死んでも縛られない魂」というエミリー・ブロンテの詩句のように、私たちは人間が拘束の多い現実と肉体を離れる時、魂だけでも自由で独立的であることを望む。ところが靖国の韓国人徴用被害者は生きていても強制的に軍国主義の付属品として動員され、死去してからも魂が戦犯と一つの塊になって戦争美化の対象として崇拝されることを強要されている。これこそまさに全体主義だ。個人の尊厳と自由に対する最悪の象徴的抹殺形態だ。
果たして日本人はこうした全体主義の付属品になることに同意するのだろうか。その間、靖国合祀および参拝反対デモに韓国人と共に行動してきた日本の市民団体があるように、靖国問題の本質を見抜いている日本人も少なくない。ふと、李御寧(イ・オリョン)初代文化部長官が数年前に筆者のインタビューで述べた言葉を思い出した。李氏は日本人も光復節を「解放の日」として祝わなければなければいけない、神風などで自国民を死で追い込んだ軍国主義政府から解放された日として韓国人と共に祝祭を開かなければならない、と語った。そのような日がくることを願う。