21世紀の日本と国際社会 浅井基文Webサイト

安倍外交批判
―硬直したアジア外交を打開する道―

2018.06.16

本年開始早々に始まった金正恩の外交攻勢によって、アジア情勢に大きなうねりが起こっています。中国・習近平、韓国・文在寅が金正恩のアプローチに対して的確に対応し、アメリカ・トランプも商売人的直感で反応したのに対し、日本・安倍はそもそも金正恩外交の蚊帳の外にあり(そのこと自身、朝鮮敵視政策にツケが来たということ)、文在寅、トランプに金正恩へのメッセージをお願いするという、世にも恥ずかしい醜態をさらけ出しました。
 トランプから、金正恩は対話にオープンだったと(ホントかウソかは確かめようがないのだけれども)言われたことにすがりつく思いで、日朝首脳会談実現のために躍起になり始めた安倍首相。私は金正恩が安倍のアプローチに応じるかどうかについては99%以上の確率で疑問視しています。しかし、日朝首脳会談実現を、総裁3期目を確かなものにする材料と位置づけているに違いない、なりふり構わぬ姿勢の安倍ですから、朝鮮側の法外の「値段」に応じる可能性はないとはいえません。これが国際政治です。
 とはいえ、私の率直な願いをいえば、安倍の政治的延命につながる可能性がある日朝首脳会談に金正恩が絶対に応じてほしくないということです。なぜならば、安倍政治の延命を助けることは、9条改憲への道をさらに広げるに等しいからであり、それはアジアの平和と安定に対する重大なマイナス要因となることが明らかだからです。
 また、人権・人道問題としていわゆる「拉致問題」を喧伝する安倍が在日朝鮮人に対して行っている諸施策は反人権・反人道の極みであり、これらの諸施策について謝罪はおろか、見直しすら口にしない安倍との首脳会談に応じることは、彼を免責にすると同義であって、私としては到底納得できないからでもあります。
最近、ある雑誌からの誘いを受けて安倍外交批判と21世紀日本外交の取るべき道について一文をしたためました。以上からお分かりのとおり、私はそもそも感情的に安倍外交を受けつけられないのですが、以下の一文から、私が決して感情に溺れているわけではなく、安倍外交に引導を渡さないことには、日本外交の明るい展望は出てこないと、確信を持っていわんとしていることを分かっていただけると思います。

<北東アジア情勢の新たな展開>
 本年に入ってからのアジア情勢は、朝鮮民主主義人民共和国(以下「朝鮮」)の金正恩委員長の果敢な外交攻勢によって目を見張る展開を示してきた。金正恩の「新年の辞」における大韓民国(以下「韓国」)に対するメッセージ及びこれに積極的に応じた文在寅大統領による南北首脳会談の実現と板門店宣言(南北関係改善を目指す交流の具体化)、金正恩の「電撃的提案」によって実現した訪中及び中朝首脳会談と両国関係の劇的改善、文在寅及び習近平主席を介した金正恩のトランプ大統領に対する朝鮮半島問題の包括的解決提起とこれに応じたトランプによって実現した米朝首脳会談。米ソ冷戦終結後、唯一の冷戦構造が支配してきた朝鮮半島情勢に歴史的転機が訪れようとしている。
 支離滅裂なトランプ外交に唯一筋が通っていることがある。それは前任者・オバマの政策をすべて否定し、その逆を行うということだ。内政面ではなかなか実績が上がらないが、外交面では、地球温暖化防止のパリ議定書からの離脱、経済貿易関係における国際主義から保護主義への転換、安保理決議2231によりアメリカにも縛りがかかっているはずのイラン核合意(JCPOA)からの一方的脱退等々。
 朝鮮半島問題に関しては、オバマは「戦略的忍耐」と称する、いわば兵糧攻めによって朝鮮政権の自壊を実現する政策を追求した。これに対してトランプは、大統領選挙期間中から「朝鮮の政権交代は追求しない」と発言してきた。彼の「最大限の圧力行使」政策の要諦は、朝鮮政権の自壊を促すことにはなく、朝鮮が非核化に応じれば政権の存続は認める、ということにある。
<硬直しきった安倍外交>
トランプ外交の以上の「筋の通し方」を踏まえている者からすれば、米朝関係の「劇的」な展開の可能性を見通すことができた。安倍首相の致命的敗着はトランプの対朝鮮アプローチをまったく認識し得ず、トランプが強硬一本槍だと一途に思い込んできたことだ。
 これに加え、安倍外交にはより本質的な問題がある。安倍が奉じる国際観は徹底した権力政治(パワー・ポリティックス)のゼロ・サムが支配する世界だ。アメリカの実力が衰えつつあることは認識しているが、今後も世界最強国であり続ける(であろう)アメリカにピッタリ寄り添うこと(徹底した対米追随)が安倍外交の核心だ。
 対米追随外交は、アメリカ自身が権力政治を追求する限りはそれなりに安定している。ところが、商売人上がりのトランプにおける価値観は損得勘定(利用価値の有無)であり、本質的に権力政治とは無縁だ(表層的にダブることはあるにせよ)。安倍がトランプに振り回される醜態は、安倍がトランプの価値観を踏まえた軌道修正を発想すらできない、硬直しきった権力政治に囚われていることに基づく。
朝鮮に関しては、安倍が「北朝鮮脅威論」を利用した9条改憲に執着していることが対朝鮮外交上の硬直性をさらに増幅する。9条改憲こそは安倍の政治的悲願である。国民に対する浸透力が莫大な「北朝鮮脅威論」は9条改憲の必要性を国民に「説得」する最大のカードだ。そのためには、朝鮮は「信用おく能わざる存在」でなければならず、彼がいわゆる「拉致問題」を金科玉条とするのはそのためだ。
 米朝首脳会談は安倍の対朝鮮外交に対する痛撃である。朝中首脳会談、北南首脳会談そして朝米首脳会談を立て続けに実現させた金正恩・朝鮮は、硬直しきった安倍外交をあざ笑うに十分なものがある。
外交的窮地に追い込まれた安倍は、朝鮮との直接対話の可能性を提起せざるを得なくなっている。しかし、安倍が「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」に固執する限り、「拉致問題は平壌宣言で解決済み」とする朝鮮との接点は生まれようがない。ましてや、安倍が今やその虚構性が客観的に白日に曝された「北朝鮮脅威論」を清算しない限り、金正恩がまともに取り合うことは考えにくい。しかし、これを清算することは9条改憲に関する安倍の立脚点を根底から揺るがすマグマを秘めている。
<日本外交の硬直性の基本原因>
 長年にわたって日本外交のあり方を考えてきた者として、また、特に安倍外交の硬直性を批判する者として、日本外交の硬直性を生む、私たち自身に問われなければならない、より深層にある三つの基本原因について指摘したい。「他者感覚」の欠落、日本的「和」の害毒、そして「21世紀国際環境の本質・特徴」に対する皮相的理解がそれである。
 「他者感覚」とは「他者を他者としてその内側から見る目」(丸山眞男)である。日本人にはこの感覚が決定的に欠落している。
すなわち、私たち日本人は何事も自分中心で考える。したがって、他者に接するときも「相手はどう考えているか」には無頓着だ。相手が自分より上であればへりくだり、自分より下であれば見下す。この性癖は、国際関係においては「すべては日本を中心として動いている」と思い込む天動説として現れ、国家関係を上下関係で見る態度を生む。
この態度は、ゼロ・サムが支配する権力政治の世界ではそれなりに通用する。しかし、国連憲章が明確に規定したのは、国家主権の尊重、内政不干渉、対等平等、紛争の平和的解決の諸原則であり、国家の大小、強弱、貧富にかかわらない民主的国際関係だ。米ソ冷戦が支配した1980年代まで、また、アメリカの一極支配が現れた1990年代から2000年代初期までは、相変わらず権力政治の論理が支配し、国連憲章が予定した民主的国際関係の出番は極端に制限された。日本が対米追随で安穏していられた所以である。私たちも知らず識らずに権力政治的発想に染まってきた。
 日本的「和」の害毒に関しては、日本的「和」と欧米的「ハーモニー」との違いを考えることで理解できる。両者の決定的な違いは「個」を根底に据えるか否かにある。欧米的「ハーモニー」においては、互いに異質性を承認することを前提にした上での相互理解、平和共存を重視する。日本的「和」においては同質であることを何よりも重視する。そこではデモクラシーが成り立つための「多事争論」(福沢諭吉)は排斥される。異質(な存在)に対する差別・排除・弾圧が当たり前となる。
 欧米諸国の矛盾は、国内ではデモクラシーを育んできたが、対外的にはパワー・ポリティックス(権力政治)を事としてきた点にある。しかし、原理的に言う限り、欧米的ハーモニーは民主的国際関係との親和性は高い(自己修正力を秘めている)。しかし、私たちは日本的「和」を無批判に善しとし続ける限り、民主的国際関係とは疎遠であり続けるだろう。
 「21世紀の国際環境の本質・特徴」は、私たちの「他者感覚」の欠落と日本的「和」の害毒に対する根本的反省を迫っている。その本質・特徴は三つだ。人間の尊厳の普遍的承認、国際的相互依存の不可逆的進行そして地球的規模の諸問題がそれである。
 人間の尊厳とは、私流に定義すれば、「人間一人一人に備わっている、他で置き換えることができない「個」のかけがえのない尊さ」である。尊厳を奪いあげる暴力は許されない。暴力の最悪の形態は戦争だ。つまり、尊厳が普遍的価値として国際的に確立した以上、戦争はもはや原理的に許されない。
 私たちは「生命の大切さ」を口にし、「9条を守れ」という。それでいて、「北朝鮮が攻めてきたらどうする」と攻め立てられると、たじろぎ、口ごもる。それは人間の尊厳という普遍的価値を我がものにしていないからに他ならない。
 国際的相互依存の不可逆的進行については広く認識されているが、その認識は経済分野に限定されている。しかし、その本質は政治及び軍事の分野においてこそ理解されなければならない。具体例を挙げれば分かりやすいだろう。朝鮮半島で起こる戦争は必ず核戦争であり、日本及び韓国に波及し、アジアひいては世界を沈没させることが必定だ。つまり、国際相互依存が支配する世界ではもはや戦争という選択肢はあり得ないということであり、20世紀までの世界を支配していたゼロ・サムの権力政治は、21世紀にはもはや過去の遺物だということだ。
 ところが私たちは「戦争反対」とはいうが、「北朝鮮脅威論」にはからきし弱い。如何に国際相互依存の進行が世界を根本的に変えたかという歴史的事実を我がものにしていないかということだ。
 地球的規模の諸問題とは、一国単位では対処・解決できない、国際社会をあげての取り組みが求められる課題の総称である。それらの多くは、21世紀の今日待ったなしの国際的対応を迫られている。戦争に貴重な資源を浪費する余裕はもはやないのだ。私たちも地球環境を守れとは口にする。しかし、その認識は各論的であり、個別的次元に留まっている。
 以上を要すれば、20世紀までの世界を支配していた権力政治のゼロ・サムの思考に対して、21世紀からの世界を支配するのは今や脱権力政治のウィン・ウィンの思考でなければならないということだ。しかし、私たちの思考は相変わらずゼロ・サムの次元に留まっている。
 安倍外交は徹底的に批判しなければならない。しかし、安倍外交を下支えしているのは、私たち自身の他者感覚の欠落、日本的「和」の害毒に対する無自覚、そして21世紀的国際環境の本質・特徴に対する理解の皮相性にあることを認識し、反省しなければならないはずだ。
<主権者・国民の政治責任>
 最後に、私たち主権者・国民の政治責任についていくつかの問題提起をしておきたい。
 第一に、21世紀の国際環境の本質・特徴を踏まえた日本外交のあり方についての基本認識を我がものにすること。繰り返しになるが、それはゼロ・サムの権力政治的発想をキッパリ清算し、ウィン・ウィンの脱権力政治的発想を根底に据えることだ。
 実に幸いなことに、私たちには平和憲法(9条)がある。憲法は権力政治が支配した20世紀には理想主義過ぎたかもしれない。しかし、21世紀の今日はまさに憲法の出番だ。憲法を体した平和外交を推進する政党・政治勢力を政権に据えることこそ、主権者・国民の最大かつ最重要の政治責任だ。
 第二に、以上の系として、日本の外交・安全保障に関する基本姿勢を正すこと。「9条も安保も」とか、「非核三原則も核の傘も」とかの安全保障観は国際的には噴飯物でしかない。これがまかり通るのは、歴年の内閣府の世論調査で示される、アメリカの虚像に対する「好感情」だ。
 しかし、実像のアメリカは権力政治の権化であり、21世紀にふさわしい民主的国際関係実現に対する最大の妨害者なのだ。対米追随の日本はその最重要の協力者である。
 逆にいえば、日本がアメリカのつっかい棒であることを止めれば、アメリカの世界戦略は致命的な打撃を受ける。主権者・国民がその趣旨を体する政党・政治勢力を政権に押し上げることにより、日本は平和外交を全うするに留まらず、アジアを含む世界の平和と安全に貢献することもできるのだ。
第三に、朝鮮半島を含むアジアに対する基本姿勢を正すこと。私たちのアジア諸国に対する基本姿勢の曖昧さは、アジア蔑視及びそれに起因する侵略戦争・植民地支配に関する歴史認識の欠如に由来する。私たちは、朝鮮半島を植民地支配し、敗戦後の南北分断に道を開いた日本国家の歴史責任を負う主権者であることを肝に銘じなければならない。同様に、中国大陸、東南アジア及び太平洋島嶼に対する侵略戦争を行った日本国家の歴史責任を負う主権者であることも片時も忘れてはならない。
 第四に、以上の3点を踏まえ、安倍政治・外交に最終的引導を渡すこと。朝鮮半島の南北分断の固定化を画策する安倍外交。中国を「脅威」と描き出す安倍外交。対米追随に腐心する安倍外交。9条改憲によって軍事大国化を目指す安倍外交。私たち主権者・国民の政治的眼力が今ほど問われているときはない。