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韓国における「大韓帝国」再評価

2017.8.6.

7月31日付及び8月4日付の中央日報WS(日本語)は、日本に強制併合された大韓帝国の歴史を再評価しようとするソウル大の李泰鎮(イ・テジン)名誉教授(74)及び東国大学の黄台淵(ファン・テヨン)教授(62)について紹介する記事を掲載しました。私のような朝鮮史に暗いものにとって、2つの記事は、日本と韓国ひいては朝鮮半島との関係のあり方を考える上でも非常に教えられる内容に富むものでした。両記事を転載して紹介します。

<7月31日付記事「日帝侵略は無効、歴史知らずに慰安婦被害者が代理戦」>

今月23日、慰安婦被害女性がまた一人亡くなった。金君子(キム・クンジャ)さんの他界で旧日本軍慰安婦生存者は37人になった。「慰安婦再交渉」問題をめぐり、韓日政府の間には緊張感が漂っている。慰安婦問題を国際的に公論化しても有利ではなさそうな日本が強情に主張を変えない理由は、米国の支持があると信じているためだ。
意外にも、20世紀に米国は、韓日関係において決定的瞬間に2度、日本の肩を持った。その第一は1905年7月29日に締結された桂・タフト密約(桂・タフト協定)だ。大韓帝国とフィリピンの植民支配を日本とアメリカが互いに認め合うことを秘密裏に約束した。日露戦争が同年9月、日本の勝利で終わる直前に交わされた。これは李承晩(イ・スンマン)初代大統領が米国で独立運動していた時期に米国を圧迫した要素でもある。1882年に朝鮮と米国の間で締結された朝米守護通商条約に米国が違反していたためだ。
◆サンフランシスコ条約は米国の第二の裏切り
第二の裏切りは第2次世界大戦後、日本の戦争賠償問題を協議するサンフランシスコ平和条約(1951)でだ。韓国にとって決して平和だとは言えない「平和条約」だった。当初、高額の賠償金を含めて強力な措置を講じる予定だった米国は、日本の責任問題に対してほぼ全面的に沈黙する姿勢を見せた。中国共産党に対して蒋介石軍が劣勢となり、台湾に追われたことを受けて米ソ冷戦が始まったためだ。日本に力をつけさせてアジアの共産化を防ぐ方向に戦略を修正したのだ。
ソウル大の李泰鎮(イ・テジン)名誉教授(74)はこのような歴史の「スケープゴート」だった慰安婦女性が今でも代理戦をしていると見ている。日本侵略の不法性問題を正面から取り扱えない中で、慰安婦問題がこれその代わりをしているというのだ。慰安婦問題は人権・女性問題なので、世界の人々から普遍的な支持を受けている。だがそれにも限界がある。李教授は「人権問題を越えて植民支配の強制性に対する歴史認識を確実にすることが根源的解決法」と述べた。
もともと朝鮮時代の政治史を専攻していた李教授が日本侵略の不法性問題に専攻を変えたのは1992年のことだ。同年5月、ソウル大奎章閣(キュジャンガク)に所蔵されていた大韓帝国公文書整理事業を主管している時に、日帝の統監部職員が純宗(スンジョン)皇帝の詔勅・法令などの決裁過程で、皇帝の署名を偽造して処理した文書60点余りを発見した。すでに25年が過ぎたその瞬間から今まで、李教授の「強制併合無効化」闘争は続いている。
日本侵略の正体を暴こうと出発した研究は、大韓帝国に対するさげすみで一貫した日本の歴史わい曲を訂正する方向に進んだ。1995年『日本の大韓帝国強占』から始まり、2000年『高宗時代の再照明』を出版して大きな一歩を残した。昨年出した『日本の韓国併合強制研究』、最近出版した『終わっていない歴史-植民支配清算のための歴史認識』等がそのような作業の一環だ。
最近もロシア・フランス・日本などで学んだ後輩の学者と定期的に勉強会を開き、文書の読解や討論を続けている。今も重みのある研究書を出す理由を尋ねると、李教授は「今後研究できる時間もそれほど多く残されていないように思われて、焦る気持ちもある」とし「2015年12月28日、韓日両国政府間で交わされた『慰安婦合意』のような良くない事例が出てくる状況を改善するために微力ながら尽くしたい」と述べた。
「日本は1948年の韓国政府樹立とともにそれまでの条約は無効になったとずっと主張しているが、その言葉の真意は植民支配は合法だったというものです。その前提の下で、植民支配時代のことは日本に過ちはないということなんです。そのため日本側の慰安婦に対する解釈が何だというと、朝鮮人女性も日本臣民として天皇と国のために献身したというのです。私たちの見解とは大きく異なります。こういう日本の立場をサポートしているのがサンフランシスコ条約です。1945年8月、日本の天皇が降伏宣言する時には、ファシズムが再び台頭してはいけないという厳罰主義が米国の立場でした。賠償金も非常に高く策定されつつありました。48年、蒋介石軍が毛沢東に対して劣勢になって台湾に逃れて冷戦体制ができあがり、米国が一大事だと考えるようになりました。米国はアジアの共産化を防き、また自国の税金支出を抑えるためにも日本を活用しようと政策を転換します」
歴史は予測したようには動かないばかりか、時に国際政治はわれわれが思ったようには動かない。問題はその後続措置だ。「サンフランシスコ条約は当時の状況としては避けられない部分があります。当時の米国の方針変更は東西冷戦の状況論理です。その状況が解消されれば修正しなければなりません。ところが韓日関係を調整する力がある米国政府は、そうした点を全く認識できていないようです。韓国は韓国なりに、脈絡を正確に把握してしっかり話をするべきなのにそうできないでいます。だから日本が得意顔になるのです」。
李教授は被害国の韓国が1951年の状況論理に従う必要はないと述べた。李教授が植民支配の不法性を追及し、韓日関係を歴史認識から再び確立しようとしているのはこのためだ。金銭絡みの問題は、賠償金を受けたとしても植民支配の不法性と苛酷性を謝罪し、慰安婦問題もその中で真の反省をしてこそ清算されるという。
朴槿恵(パク・クネ)-安倍晋三政府間の「慰安婦合意」文書は存在しないと述べた。「文書はなく口頭だったようです。文書があればなぜ出さないんです?その理由は察することができます。文書を作って国家予算から一定の金額を被害者に支払うことになれば、これは植民支配の不法性を認める行為になり得るからです。日本政府はこのような派生的危険性に備えて『口頭』合意形式を提示した可能性が高い」。
日本の韓国強制併合100年の2010年に韓日の知識人(韓国604人、日本540人)が韓国併合の不法性を指摘した共同声明書を発表した背景には、李泰鎮教授の隠れた努力があった。2015年には「韓日そして世界知識人の声明書」も引き出した。だが、今日の韓日両国を見つめる李教授の心情は複雑だ。
◆加害者・日本は緻密、被害者・韓国は粗末
「100年余り前の歴史に対する認識において、今日の韓国と日本は非常に対照的です。韓国は100年前の歴史を失敗した歴史と見なすだけで、君主に亡国の責任をすべて押し付けています。反面、日本は帝国主義膨張の根源だった吉田松陰の思想を最大化して美化・追崇しています」 ことし『終わっていない歴史』を執筆するに当たり、加害者である日本のち密さと被害者である韓国の粗末さを再び痛感せざるを得なかったという。
「1919年三・一運動以降、大韓民国臨時政府がパリに代表部を設置して英語が堪能な金奎植(キム・ギュシク)を代表として派遣し、日本の強制併合を訴えました。その努力が1935年国際連盟の報告書で実を結びます。ハーバード大法学部教授団の名前で完成した『条約法に関する報告書』は1905年の乙巳勒約(第二次日韓協約)を、歴史上効力を発しない条約3件のうちの一つと判定しました。また、国際連盟を継承して1945年に創設された国際連合が1963年に『条約法に関する報告書』を新たに作成します。ここでも1905年の乙巳勒約は不法無効として判定されました」
米国はこのような事実にもかかわらず、サンフランシスコ条約を締結した。日本はこのような事実を知りながら隠した。1965年韓日交渉をする際、日本は少なくとも国際連合の報告書は尊重するべきだったのにそうしなかった。韓国は国際連盟と国際連合が日本の強制併合をその時不法だと判定していた事実自体を知らずにいた。こうした隠蔽と無知は今でも慰安婦問題に続いている。
◆大韓帝国本宮・徳寿宮、高宗の近代化計画を表している場所
ことし5月24日、徳寿宮(トクスグン)で大韓帝国宣言120周年を記念する李泰鎮教授の講演があった。主題は「徳寿宮、誰がなぜ作ったのか?」。大韓帝国の成立と背景、そして大韓帝国の皇宮としての徳寿宮の意味を明らかにする内容だった。250人余りの聴衆の中には徳寿宮(慶運宮)が大韓帝国の本宮であったことを知らない者も多かった。
徳寿宮は高宗の近代化計画をよく表している。それまでの宮殿が伝統的な君主南面説によって北側の山の下に配置されたものと比較すると、徳寿宮の配置は破格だった。ソン源(ソンウォン)殿と中和(チュンファ)殿を軸に、西には洋式建物、東には韓国式建物が配置された。伝統を継承しながらも東西文明の融合を通じて新しい文化を創造しようという意志が込められた設計だった。高宗はソウル都市改造事業も進めていたが、伝統的な構造を損なわずに西洋の最新放射形道路体系を大漢門の前に導入した。
1919年三・一運動直後、臨時政府の時には大韓帝国に対する否定的認識はなかった。国号を制定する時、大韓帝国を継承する意味で大韓民国とする提案が絶対多数で採択された。高宗が無能だったという認識は日本によるわい曲である場合が多い。侵略を正当化するために、高宗と大韓帝国をさげすまなければならなかったのだ。講演が終わり、「このような話をなぜ今になって聞かなければならないのか」と質問する者もいたという。
高宗が東学農民を鎮圧するために清国の軍隊を引き込んだという話も作り出したのは、2000年に出した『高宗時代の再照明』で明らかにした。壬午軍乱以降、朝鮮に駐留した袁世凱が朝鮮民衆の怨念の声をおさえるために要請し、高宗はむしろこれに反対したという。

<8月4日付記事「大韓帝国は無気力に滅びたのではない」>

大韓帝国に対する新たな研究は2000年ごろに始まった。以前はさげすむばかりだった。亡国の責任をすべて押し付けられた高宗(コジョン)と彼の時代は嫌悪の対象だった。恥ずかしく頭の痛い過去だと思い込み、振り返ってみようとさえ思わなかった。2000年、李泰鎮(イ・テジン)ソウル大名誉教授が出した『高宗時代の再照明』が新たな突破口を開いた。その後、韓永愚(ハン・ヨンウ)ソウル大名誉教授、徐栄姫(ソ・ヨンヒ)韓国産業技術大教授などが相次いで大韓帝国関連の新しい研究の流れを継承していった。
黄台淵(ファン・テヨン)東国(トングク)大教授(62)の新刊『百姓の国 大韓帝国』『甲辰倭乱と国民戦争』は、そのような流れに乗ってはいるが、研究の量と質で従来の作業を圧倒している。著者はこれに先立ち、昨年『大韓民国国号の由来と民国の意味』を、ことし1月には『甲午倭乱と俄館亡命』を出した。ともに大韓帝国関連の本だ。執筆中の『韓国近代化と政治思想』も来年出版する予定だ。これらの本を通じて、大韓帝国に対する誤解とさげすみはこれ以上幅を利かせることはできなくなると著者は自信を持つ。
これまで、私たちが大韓帝国時代を振り返ることさえ忌み嫌っていた理由は何か。全く同感できず、前後がかみあわない事件だけが羅列してあったからだ。韓国の近代的な歴史叙述は、日本の学者の手で始まったという点が悲しい。どうしたらこのように無気力に滅びえたのか、このような感情を誰もが一度は持ったことだろう。黄教授はその点に執拗に掘り下げている。日帝植民史学者が脱落させ、解放以降の韓国学者が気づけなかった2つの事件を復元させた。1894年の甲午倭乱(東学党の乱)と1904年の甲辰倭乱(日露戦争)だ。漢文・英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語など外国語に精通している長所を活かした。
「朝鮮は1894年の甲午倭乱で滅亡し、大韓帝国は1904年の甲辰倭乱で滅亡しました。この2つの倭乱がこれまでの歴史から跡形もなく消えてしまいました。その間、2回の滅亡だけが目に映るだけで、義兵戦争と光復(解放)戦争を通して激しく抵抗して勝利した2回の復活は目に入ってきませんでした」
1894年6月、甲午倭乱の時に侵入してきたが、明成(ミョンソン)皇后殺害に怒った百姓(ペクソン)の武装蜂起と、高宗(コジョン)の俄館亡命で一時退却した日本軍は、1904年(甲辰年)2月に再び侵入して韓半島(朝鮮半島)全域を占領した。日帝の全面侵攻に国軍と民軍(義兵)が力を合わせ、全国各地で6年間にわたってすさまじい「国民戦争」を繰り広げて抵抗した。その時敗北したからと言って、大韓帝国国軍をただの烏合の衆だと下に見るべきではない、と著者は言う。1901年、すでに韓国軍は日帝以外のアジアのどの国も持てなかった3万大軍の「新式軍隊」であり、乙巳勒約(第二次日韓協約、1905年)以降、3万国軍と民軍が合わさって組織された国民軍は14万1815人に達した。清軍とロシア軍に勝った日本軍に戦いを挑み、戦いらしい戦いをした軍隊は、その後米軍を除いては大韓帝国の国民軍しかなかったが、このような事実を私たちは知らずにいる。
黄教授の本は知的な喜びと道徳的意味とともに、私たちの近代史の隠蔽された世界へ読者を誘う。大韓帝国は無気力などころか、かえって当代アジア2位の経済強国として急浮上していたことを国内外の記録と統計資料を基に立証する。また、旧本新参の改革路線で、独自の近代化(光武改革)に成功しながら、近代的身分解放の「民国(百姓の国)」だったことも興味深く確認させてくれる。2017年が大韓帝国宣言120周年という点で、その意味はさらに深まる。