21世紀の日本と国際社会 浅井基文Webサイト

問われているのは私たちの政治意識

2017.7.03.

都議選の結果(自民党惨敗)は一服の清涼剤ではありました。しかし、私は小池都知事率いる「都民ファーストの会」及びその系列(公明党を含む)の「大勝」には正直苦々しい思いです。かつての総選挙での民主党勝利と同じく、しょせんは「コップの中の嵐」にすぎないからです。安倍・自民党のおごり・腐敗が都民のうんざり感を引き起こして「お灸を据える」行動に駆り立てたとしても、国民(都民)の政治意識そのものが変革した上での「政治の地殻変動」というわけではないのです。
 6月末締め切りで誘われて書いた短文で、そういう問題意識を提起しました。参考に供します。

 安倍政治が数の力を恃んで暴走にブレーキがきかない。このままでは9条改憲の危険が現実味を帯びる。「一強支配」のおごりと慢心が2つの「学園問題」として浮かび上がり、安倍政権に対する支持率低下につながっているが、それは主権者・国民が安倍政治の危険極まる本質を見極めたゆえではない。自民党の常套手段である、小手先の「お色直し」に再び丸め込まれてしまう恐れなしとしない。
 お隣の韓国では文在寅政権が登場した。朴槿恵大統領を罷免に追い込んだ「ろうそく革命」に結集し、文在寅を大統領に押し上げる原動力となった韓国国民の政治意識は高い評価に値する。韓国国民と日本国民を隔てるもっとも根本的な違いは、デモクラシーを真にデモクラシーたらしめる「主権者としての政治意識」の有無だ。
 大韓民国成立以来の韓国は、独裁政権(李承晩)、軍事政権(朴正煕・全斗煥)のもとで苦難の道を歩んだが、光州事件(1980年5月)に代表されるように、その試練が韓国国民の中に主権者としての政治意識を育んだ。これに対して日本は、形(制度)こそ「戦後民主主義」を実現したが、「仏作って魂入れず」であり、私たち(国民)の政治に対する受け身的姿勢は、思想的・組織的・人脈的に戦前につながる保守政治の跳梁・跋扈を長年にわたって許してきた。
 日本政治思想史の丸山眞男は、私たち(国民)が主権者としての政治意識を育むことを妨げる日本独特の原因について鋭い指摘を行っている。私流に整理すれば、「お上」意識及び「既成事実への屈服」であり、それらの根底にある「普遍の欠如」及びそれと表裏一体をなす「個の欠落」だ。
 「お上」意識は、私たち(国民)が主権者としての自覚を欠くことの裏返しだ。私たちに奉仕するべき政府を、私たちは相変わらず「お上」即ち「上の存在」と意識してしまうクセを未だに絶つことができない。
 「既成事実への屈服」とは、「現実」を変えられないものとして受け容れてしまう心情を指す。本来の現実とは「可能性の束」であり、私たちが主体的に働きかけて選択する対象であるはずだ。しかし、「お上」に弱い私たちは、ともすれば権力(「お上」)が押しつける「現実」を受け容れてしまう傾向が強い。
 「普遍の欠如」とは、尊厳(人権)とか、デモクラシーとか、真理とか、正義とか、一神教における神とか、さらには歴史的法則性とか、要するに私たちの言動を客観的に規律する普遍的な価値尺度(即ちモノサシ)が日本の思想には欠落していることを喝破した丸山の言葉だ。そういうモノサシが私たち一人一人にどっしり座っていないから、「お上」に頭が上がらないし、官製の「既成事実」に縛られてしまって、身動きもままならぬということになる。
 「個の欠落」をもっとも端的に表す言葉は「赤信号、みんなで渡れば怖くない」だ。しかし、普遍というモノサシを備えるものであれば、自らの言動をそのモノサシで規律する、つまり「個」として行動するから、大勢に流されることはないし、権力に対して怯まず立ち向かうし、「既成事実」に押し流されることもあり得ない。
 「一強支配」でおごり高ぶった安倍政治はほころびが目立っており、自滅する可能性はある。しかし、私たちが「主権者としての政治意識」を我がものにしない限り、日本版「ろうそく革命」によって保守政治の跳梁・跋扈に引導を渡すことなどは夢のまた夢である。今問われているのは私たちの政治意識そのものなのだ。