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中国における朝鮮半島問題の論点(李敦球文章)

2017.7.01.

6月28日付の中国青年報は、李敦球署名文章「朝鮮半島認識にかかわる6大論点」を掲載しました。この文章は、李敦球が清華大学主催の学会年次総会で6月27日に行った発言を整理したものという断りが付いています。中国の学界及び世論の場で、朝鮮半島問題に関する認識をめぐって現れている議論の中で、特に分裂が大きい6つの問題を取り上げ、双方の論点を整理しつつ、李敦球自身の判断を付け加えるという形をとっています。私としては、このように整理された形で朝鮮半島問題に関する中国国内の論争の所在を示したものは見たことがありません。短い文章ではありますが、私たち外部の者にとっては一級の資料的価値があると思います。訳出して紹介します。

 中国の学界及び世論界では、朝鮮半島問題に関する認識のあり方において、一貫して大きな分岐が存在しており、しかもこの分岐は日増しに拡大する傾向があり、さらには見方及び立場の深刻な分裂と対立という状況が現れるときもある。これは、国内における国際問題研究領域ではあまり見られないユニークな現象である。朝鮮半島問題に関する見方及び認識に関する分岐は非常に多いが、分岐が大きいものは主に以下の6分野である。
 第一、朝鮮半島の地政学的戦略的価値に関する論争。学界及び世論界においては、長年にわたり、中国にとっての朝鮮の地政学的戦略的価値について疑問を呈し、さらには否定するものが常におり、伝統的な地縁政治という観念はもはや時代遅れであるとし、特に2012年に朝鮮で新しい指導者が政権を執って以来、メディアではこういう見方をとるものが現れる頻度が大幅に増えた。この観点をとるものがあげる理由は主に二つだ。一つは、軍事技術の発展によって朝鮮がもともと持っていた戦略的緩衝という価値が失われたというものだ。もう一つは、中国が朝鮮をコントロールできないのであれば、それはとりもなおさず朝鮮が戦略的価値を喪失したというものだ。
軍事専門家をはじめとする各分野の学者が以上の見方に対して反論を加えているが、以下ではその中の3つだけあげる。第一、仮に伝統的な地縁政治観念が時代遅れになったとするのであれば、そのことは朝韓等すべての地域についても適用があるべきだが、アメリカは在韓米軍を放棄しないどころかさらに強化し、あまつさえTHAADを韓国に配備するのは何故か。第二、中国は、朝鮮だけではなく他のすべての国家をもコントロールしていないし、またコントロールすることはあり得ないのだが、それらの国家のすべてが中国にとって地政学的戦略的価値がないというのか。第三、韓国は朝鮮の東側にあり、中国とはさらに離れているが、上記見方をとるものが中国にとっての韓国の戦略的価値を公に否定しないのは何故か。(結論として)事実が明らかで、ロジックも明晰かつ複雑ではない問題が何故長きにわたって論争を引きおこすのか、そのことを深く考える価値がある。
 第二、朝鮮の核保有は中国に対するものであり、米韓に対するものではないとする見方。近年、特に2016年に朝鮮が第4回及び第5回の核実験を行ってから、国内のネット・メディアでは朝鮮の核保有は中国に対するものだとする声が一再ならず現れているが、有力な論拠は示すことができていない。朝鮮の核保有が中国に対するものかどうかを判断するためには、朝鮮核問題の由来及び根っこを見る必要があるとともに、朝鮮の安全保障を脅かす勢力は誰であるかをも見る必要がある。
中国外交部報道官は数多くの機会に、「朝鮮半島核問題の由来と根っこは中国にはない」と発言している。1975年、当時のシュレジンジャー米国防長官は、メディアのインタビューを受けた際に、冷戦期のアメリカは韓国に大量の戦術核兵器を配備し、朝鮮に対して核の脅迫を行っていると公に認めた。1989年11月、アメリカは朝鮮が提案した朝鮮半島非核化の提案を拒否した。アメリカはまた、1994年の朝米ジュネーヴ枠組み合意を履行しなかった。アメリカは、核問題について逃れることができない責任を負っている。予見できる将来において、朝鮮にとっての安全保障上の脅威が中国からであることはあり得ず、米韓が毎年行う大規模な合同軍事演習こそが朝鮮の安全保障に対する紛れもない圧力であり、朝鮮が核兵器の照準を中国に向けるべき理由は探しようがない。
 第三、米日が東アジアで中国包囲の軍事力強化を行っているのは朝鮮の核ミサイル開発が引き起こしたものだとするもの。近年、米日は東アジア特に北東アジアで不断に軍事力を強化しており、戦略部隊及び戦略兵器がこの地域に密集している。米日の軍事戦略の主要対象は中国であり、米日が共通してその口実にするのが朝鮮の核ミサイル挑発であるため、国内では朝鮮が中国に面倒を引き起こしていると非難する大量の世論があり、朝鮮が核ミサイル実験を行わなかったならば、米日は口実がなくなり、米日が以上のような軍事的展開、配備を行うことはなかっただろうと恨み言を言っている。
客観的に言って、朝鮮は確かに米日に口実を提供しているし、我々としては朝鮮半島非核化の原則を堅持するべきだが、それは「口実」問題をどうみるかという問題とはまた別の問題である。米日の国家発展戦略あるいは軍事戦略は、それぞれの国内的な政治、経済、文化及び軍事等の総合的要素が合わさって形成されたものである。朝鮮は小さな弱国であり、米日の戦略的方向を左右し、リードするだけの力はまったく備えていない。一歩下がって言えば、仮に朝鮮がいかなる軍事的「挑発」行動をとらないとした場合、米日が現在の国家戦略、軍事戦略を実行しないとでも言うつもりなのか。プーチンが6月1日に述べた(浅井注:6月5日付のコラムで紹介したもの)とおり、朝鮮がすべての核実験及びミサイル計画を停止すると宣言したところで、アメリカは他の口実を探して迎撃ミサイルシステムの建設を拡大し続けるだろうし、あるいはそもそも口実などを必要としていないのかもしれない。
 第四、朝鮮に対する一定程度の武力攻撃を行うことを支持する議論。朝鮮が第5回核実験を行った後、アメリカは今春空前の兵力と戦略兵器を半島に集結して軍事演習を行い、半島は一時一触即発、戦雲が垂れ込めた。こうした背景のもと、国内では「朝鮮に対する一定程度の武力攻撃を行うことを支持する」世論が再び台頭した。
しかし、かかる観点はきわめて有害であるとする世論もある。第一、アメリカが朝鮮を武力攻撃することは合理的かつ合法であるか否かがそもそも問題であるのに加え、アメリカ自身、朝鮮核問題に対して逃れることのできない責任がある。第二、戦争がいったん開始されれば、攻撃を受けた側は必死に反撃することは必定であり、そうなった場合、戦争の範囲、規模及び時間などは戦争を引き起こした側がもはやコントロール出来るものではなく、核戦争が引き起こされる可能性を排除できない。第三、アメリカが朝鮮の核施設に壊滅的攻撃を加えた場合、広範囲にわたる核汚染が引き起こされ、中国にとって巨大な災難が降りかかる。
 第五、THAAD韓国配備に反対するものと受け容れるものとの論争。昨年7月に韓米がTHAADの韓国配備を決定した後、国内の主流のメディア及び世論はTHAAD韓国配備に断固反対したが、国内世論の中には限定的な受け入れ論(X波レーダーを含まないTHAAD配備)や受け入れ論など、韓国に十分な「理解」を示すものが現れた。
しかし、これらの受け入れ論は直ちに反撃された。第一、THAADの韓国配備は半島情勢を複雑にし、朝鮮核問題の解決に不利である。第二、中国の戦略的安全保障を深刻に侵害する。第三、北東アジアの戦略的バランスを打ち壊す。第四、THAADは在韓米軍が支配しており、韓国軍はコントロールのすべがなく、いかなるレーダーを使っていかなる目標に照準を合わせるかは米軍の必要によって決定される。
 第六、朝鮮の核実験が中国東北地方を荒野にするとするもの。朝鮮の核実験による環境汚染が中国東北地方を荒野にするという見方は一時期ネット・メディアで広範囲に広まったが、事実としては、東北地方の自然環境にはなんらの影響も生み出しておらず、このような心配は過剰だった。
もちろん、朝鮮の核実験が環境に対していかなる影響を生み出すかについて注目することは情理にかなったものではあるが、恐怖の雰囲気をあおり立てることはよろしくない。確かに、朝鮮半島は非核化の目標に向かって努力するべきであるが、東北地方が荒野になると宣伝して、人々の朝鮮を敵視する感情をあおり立てるべきではない。人類史上これまでに2000回以上の核実験が行われているが、核実験によって大規模な災難が引き起こされた前例はないのであり、ウクライナと日本の原子力発電所の事故が大規模な環境に対する災難を引き起こしているのだ。不完全な統計によれば、韓国には現在7箇所の原子力発電所と25基の原子炉があり、これまでのところ放射能漏れの災難が起こったことはないが、小規模の事故は数回起こしており、環境汚染に対する影響という角度から言えば、韓国の発電用原子炉による環境リスクは朝鮮のそれとまったく劣るところはない。
 朝鮮半島問題をめぐる意見の分岐と論争がかくも大きいのは、多くの複雑な深層にわたる原因があるかもしれないが、ここでは2点だけ説明する。第一、巨大な論争があること自体、朝鮮半島の地政学的価値の重要性を物語っているということだ。地政学的価値のない国家または地域が人々の高度な関心を引き起こすことはあり得ない。第二、半島問題に対する見方の分岐及び論争は、認識を高め、是非を明らかにし、学術研究を実のあるものにする上で一定の積極的意義はあるが、客観的でもなくロジックにも合致しないような見方をくり返して世論の分裂を引き起こすようなことは、人々の認識を混乱させる可能性がある。筆者としては、客観的で理性的な、論理性規律性にも合致し、時間的歴史的検証にも耐えうるような見方が多く現れることを望む。