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「5.18の現在化」(文在寅の5・18民主化運動37周年記念演説)

2017.5.20.

私は長い間韓国とは縁がありませんでした。外務省に勤務していた時には韓国在勤はおろか出張の機会もかなえられず、最初に韓国の地に足を踏み入れることができたのは、大学の世界に入って、光州事件に関する国際シンポジウムに招かれた時でした(その後は、広島平和研究所時代に、ハプチョンに在韓被爆者の方たちが住んでいる施設を訪問したことと、ハンギョレ主催のシンポジウムに招かれて釜山に行ったこととがあるだけです)。したがって、1980年5月18日に光州市で起こった大規模な民主化を求める反政府運動(27日に軍の弾圧で多数の死者が出た)に関しては、個人的にもかなり思い入れがあります。
 文在寅大統領は5月18日、37周年となる5.18民主化運動記念式に出席して記念演説を行いました。幸い、在日韓国青年同盟WSで邦訳全文が掲載されているのを見つけることができました。
 私はかねてから、いわゆる「光州事件」を経験した韓国のデモクラシーは日本のデモクラシーよりもはるかに人民的基盤を持っているという意味で「ホンモノ」だという印象を持っています。李明博及び朴槿恵政権のもとで重大な後退を経験しましたが、文在寅演説は再び韓国のデモクラシーへの道を歩むことを韓国国民に誓約しました。反動的な改憲への道を突き進もうとする安倍首相とはあまりにも鮮明な対照をなしています。また、19日付ハンギョレWS(日本語)は、社説及び2つの文章を掲載しており、いずれもとても感動的内容でした。厚かましいですが、皆様にもお裾分けさせていただきます。

<文在寅大統領演説>

尊敬する国民の皆さん!
今日、5.18民主化運動37周年を迎え、5.18墓地に立てて、非常に感慨深いです。
37年前のその日の光州は、私たちの現代史で最も悲しく、痛ましい場面でした。
私はまず、80年五月の光州市民たちを思い浮かべます。
誰かの家族であり、隣近所の人でした。
平凡な市民であり、学生でした。
彼らは人権と自由を抑圧されない、平凡な日常を守るために命をかけました。
私は大韓民国大統領として、光州の英霊たちの前に深く頭を下げて感謝いたします。
五月光州が残した痛みと傷を抱いたまま今日を生きていらっしゃる遺族と負傷者の皆さんにも、深い慰労の言葉を伝えます。
1980年五月光州は、今も生きている現実です。
未だ解決されていない歴史です。
大韓民国の民主主義は、この悲劇の歴史を踏みしめて立っています。
光州の犠牲があったからこそ、私たちの民主主義は持ちこたえ、再び立ち上がることができました。
私は五月光州の精神で民主主義を守ってくださった光州市民と全羅南道民の皆さんに、格別尊敬の言葉を申し上げます。
尊敬する国民の皆さん!
5.18は、不義の国家権力が国民の生命と人権を蹂躙した、我が現代史の悲劇でした。
しかし、これに対抗した市民の抗争が、民主主義の里程標を打ち立てました。
真実は長い時間隠蔽され、歪曲され、弾圧されました。
しかし、冷酷な独裁の闇の中でも、国民は光州の光にしたがって一歩ずつ進みました。
光州の真実を知らせることが、民主化運動になりました。
釜山で弁護士として活動していた私もそうでした。
私自身も5.18の時に拘束されたことがありましたが、私が経験した苦痛などどうということもありませんでした。
光州の真実は私にとって無視できない怒りであり、痛みを一緒に分かちあうことができなかったという大きな「負い目」でした。
その「負い目」が民主化運動に乗り出す勇気を与えました。
そのことが私を今日この場に立つまで成長させてくれた力になりました。
そうしてついに五月光州は昨年の冬、全国を照らした偉大なキャンドル革命によって復活しました。
不義に妥協しない怒りと正義がそこにありました。
国の主人は国民であることを確認する歓声がそこにありました。
国を国らしく作ろうという激しい情熱と、一つになった心がそこにありました。
私はこの場ではあえて申し上げます。
新たに出帆した文在寅政府は、光州民主化運動の延長線上に立っています。
1987年6月抗争と国民の政府(金大中政権)、参与政府(盧武鉉政権)の命脈をつないでいます。
私はこの場で誓います。
新政府は、5.18民主化運動とキャンドル革命の精神を受け継ぎ、この地の民主主義を完全に復元するでしょう。
光州の英霊たちが心安らかに眠ることが出来るように、成熟した民主主義の花を咲かせるでしょう。
依然として私たちの社会の一部では、五月光州を歪曲して蔑もうとする動きがあります。
容認できないことです。
歴史を歪曲して、民主主義を否定することです。
私たちは、多くの人々の犠牲と献身によって成し遂げられたこの地の民主主義の歴史に、自負心を持たなければなりません。
新政府は、5.18民主化運動の真相を究明することに、より大きな努力を傾けるでしょう。
ヘリコプター射撃まで含めて、発砲の真相と責任を必ず明らかにします。
5.18関連資料の廃棄と歴史歪曲を防ぎます。
全羅南道庁復元問題は、光州市と協議して協力していきます。
完全な真相究明は決して進歩と保守の問題ではありません。
常識と正義の問題です。
私たち国民全てがともに取り組むべき民主主義の価値を維持するということです。
5.18精神を憲法前文に盛り込むという私の公約も守ります。
光州精神を憲法的に継承する、真の民主共和国時代を開きます。
5.18民主化運動は、初めて全国民が記憶して学ぶ誇らしい歴史に位置づけられることでしょう。
5.18精神を憲法前文に入れて改憲を完了できるよう、この場を借りて国会の協力と国民の皆さんの同意を丁重に要請します。
尊敬する国民の皆さん!
『あなたのための行進曲』は、ただの歌ではありません。
五月の血と魂が凝縮された象徴です。
5.18民主化運動の精神、そのものです。
『あなたのための行進曲』を歌うことは、犠牲者の名誉を守り、民主主義の歴史を記憶するということです。
今日の『あなたのための行進曲』の斉唱は、これまで傷つけられてきた光州精神を再び復活させることになるでしょう。
今日の斉唱で、不必要な論難が終わるのを希望します。
尊敬する国民の皆さん!
2年前、珍島ペンモク港に5.18のオモニが4.16のオモニに送った横断幕がありました。
「あなたの無念を私が知ってる。頑張れ。倒れないでください」という内容でした。
国民の生命を踏みにじった国家と国民の生命を守ることができなかった国を痛烈に非難する叫びでした。
再びこのような無念が繰り返されないようにします。
国民の生命と人の尊厳を、天のように尊重します。
私はそれが国家の存在価値であると信じています。
私は今日、五月の死と光州の痛みを自分のものとしながら、世の中に知らせようとした多くの人々の犠牲と献身もたたえたいと思います。
1982年、光州刑務所で光州真相究明のため40日間の断食を行い獄死した29歳、全南大生パク・カニョン。
1987年、「光州事態責任者の処罰」を叫びながら抗議の焼身自殺をした25歳、労働者のピョ・ヂョンドゥ。
1988年、「光州虐殺真相究明」を叫びながら明洞聖堂教育館4階から投身自殺した24歳、ソウル大生チョ・ソンマン。
1988年、「光州は生きている」と叫びながら崇実大学の学生会館屋上で焼身自殺した25歳、崇実大生パク・レヂョン。
多くの若者たちが、五月の英霊の魂を慰め、自身を投げ出しました。
責任者の処罰と真相究明を要求するために命をかけました。
国が責任を放棄しているときに、当前として明らかにし、記憶しなければならなもののために自らを捧げました。
真実を明らかにしようした多くのジャーナリストや知識人たちも強制的に職を解かれ、投獄されました。
私は五月の英霊たちと一緒に彼らの犠牲と献身を無駄にせずに、これ以上悲しい死と苦難がない大韓民国にしていきます。
真が偽に勝る大韓民国にしていきます。
光州市民の方々にもお願いします。
光州精神によって犠牲となり、生涯を生きてきた全国の5.18をともに記憶してください。
いまこそ差別と排除、銃刀の傷痕が残した痛みを土台とし、光州がまず正しい国民統合の先頭に立ってください。
光州の痛みが痛みにとどまらず、国民すべての傷と葛藤を抱く時、光州が差し出した手は最も丈夫で最も強い希望になるでしょう。
尊敬する国民の皆さん!
五月光州の市民が分け合った「おにぎりと献血」こそ、私たちの自尊の歴史です。
民主主義の真の姿です。
生死が行き来する極限状況でも節制力を失うことなく、民主主義を守った光州精神はそのままキャンドル広場で復活しました。
キャンドルは、5.18民主化運動の精神の上で、国民主権の時代を開いた。
国民が大韓民国の主人であることを宣言します。
文在寅政府は、国民の意思に従う政府になること、光州の英霊たちの前に明らかにします。
互いが互いのために、互いの痛みを慰め合ってくれる大韓民国が新しい大韓民国です。
常識と正義の前に手を差し出す人たちが多くなるほど、崇高な5.18精神は現実の中で息づく価値として完成されるでしょう。
もう一度、心より5.18英霊たちの冥福を祈ります。
ありがとうございます。
(資料提供 – 青瓦台)

<社説「5月の痛みを癒した新大統領の品格」>

 昨日開かれた37周年5・18民主化運動記念式は、政権交代を実感させる感動的な場面が多かった。文在寅(ムン・ジェイン)大統領が自ら参席し、遺族たちを誠意をもって慰め、5・18が持つ歴史的意義をきちんと位置づけたことで、どの5・18記念式よりも盛大で意味深く行われた。文大統領が出席者と共に手を取り合って保守政権の9年間斉唱が禁止されていた「あなたのための行進曲」を力強く歌う姿は行事の白眉であった。
 文大統領が、記念公演行事に出た「5・18の子」キム・ソヒョンさんを抱きしめて涙を流す場面も感動的だった。キムさんは「お父さんに送る手紙」を朗読した。キムさんの父親は1980年5月18日に生まれた娘を見に光州へ来たが、戒厳軍の銃弾を受けて死亡した。朗読を聴いていた文大統領は、眼鏡を外して涙を拭い、退場するキムさんを追いかけしばらくの間抱きしめて慰めた。キムさんはすすり泣き続け、これを伝えるテレビ手話通訳者も涙ぐんだ。普通の人のように一緒に痛みを分かち、涙を流す大統領の姿こそ真の慰めである。
 文大統領の記念演説は新政府の価値と指向がどこにあるかを明確に示したという点で意味がある。文大統領は「文在寅政府は、光州民主化運動の延長線上に立っている。1987年6月抗争と国民の政府(金大中(キム・デジュン)政府)、参与政府(盧武鉉(ノ・ムヒョン)政府)の脈を継承している」と明らかにした。軍事独裁との闘争の中で、民主主義の価値を守ったことが新政府のアイデンティティを形成しており、これが国政運営の基調になることを明確にしたのだ。文大統領は「5月の光州は、昨冬全国を明るく照らした偉大なろうそく革命で復活した」とし、「新政府はこの地の民主主義を完全に復元する」と誓った。文大統領は特に「5・18精神を憲法前文に盛り込むという公約も守る」と約束した。憲法前文に5・18民主化運動を入れるのは時代精神を適切に憲法に反映するという点で非常に肯定的だ。87年に改正された現憲法は、時代的限界のために4・19革命以外に5・18民主化運動や6月抗争を盛り込むことができなかった。
 文大統領はまた、「5・18民主化運動の真相を究明する上でさらに大きな努力を傾ける」とし、「ヘリコプター射撃まで含め、発砲の真相と責任を必ず明らかにする」と話した。一部勢力が5・18を蔑視・歪曲し、全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領が回顧録を通じて虚偽の主張まで出している状況では、真相究明の手綱を緩められない。大げさである必要はないが、実効性をもって5・18の真実が完全に明らかになるよう政府と関連機関が積極的に努力しなければならない。
 文大統領は演説の最後に、光州市民たちに「光州の精神で、犠牲となり生きてきた全国の5・18を一緒に記憶してほしい」「光州が先ず正義の国民統合の先頭に立ってほしい」とお願いした。光州の痛みを心に深く抱え、これを通じて国民が和合できる領域を用意したという点で、文大統領の5・18記念式の行動に拍手を送る。

<[ニュース分析]5・18に対する卑下・歪曲正し国家の「統治理念」に>

 文在寅大統領の5・18民主化運動37周年記念演説は「1980年5月光州」が文在寅政権の「民主的正統性」を構成する「生きている歴史」という点を強調するのに力を入れたものだった。記念演説で候補時代に約束した「5月精神の憲法前文への記入」と「真相究明」を重ねて強調したのも、その延長線上にある。遺族や被害者を"慰める"レベルを超えて、2008年の李明博政権の登場以来、絶えず軽視されてきた5・18の意味を再確立し、民主主義に対する肯定と確信をすべての地域と世代に広めるという決意を示したのだ。
 文大統領のこのような考えは5・18を「今なお生きている現実、いまだ解決されていない歴史」と規定した記念演説序盤部での言及で明確になる。1987年の民主化以降、"堅固化"の段階に入ったかのように思われていた韓国民主主義が、李明博・朴槿恵(パク・クネ)政権を経て、"欠損"と"退行"を経験してきたことに対する反省と危機意識が、「5・18の現在化」という大統領の意志で表現されたのだ。この点は「5月光州を歪曲して卑下しようとする試み」を「容認できないもの、歴史を歪曲して民主主義を否定するもの」だと強く批判した内容でも確認される。
 5・18精神を、憲法前文に盛り込むという文大統領の言及も、注目すべき部分だ。露骨な国家暴力に「市民」の名で抵抗した5・18精神を、政治共同体の最高規範である憲法の序文に記すということだ。5・18に対する卑下と歪曲を遮断し、その精神を国家の「統治理念」の段階まで格上げすることを意味するものと見られる。彼は「新たに発足した文在寅政権は、光州民主化運動の延長線上に立っている。1987年6月抗争と国民の政府(金大中政権)、参加政府(盧武鉉政権)を継承している」と述べた。
 5・18の意味に対する文大統領の再三の喚起は"風聞"として流れていたものの、最近、実地調査を通じて事実と明らかになった全南道庁前のヘリコプター射撃など、1980年5月当時の発砲の真相と責任を明らかにする意志表明につながる。昨年、ハンギョレが単独で入手し報道した『第5共和国前史』を通じて、発砲を決定した新軍部首脳部会議に全斗換(チョン・ドゥファン)当時合同捜査部長が出席していた事実などが明らかになったが、武力鎮圧の顛末は依然として闇に包まれている状態だ。さらに最近「イルベ(日間ベスト貯蔵所)」と一部の極右団体が組織的に流布する「北朝鮮軍介入説」や「市民軍先制発砲説」などが広がっており、真相究明の必要性が一層高まっている状況だ。共に民主党の秋美愛(チュ・ミエ)代表は同日の記念式直後、「5・18民主化運動に対する真相究明に向けた立法努力を協力政治の可能性を模索する第一課題にすべきではないかと思う」としたうえで、「特別法を通じて真相を究明できるようにする」と述べた。
 「光州が先に正義の国民統合の先頭に立ってほしい」と訴えた部分では、2012年大統領選挙での敗北と2016年の総選挙を経て、現政権勢力と関係が疎遠になった湖南(全羅南道と全羅北道地域)に対するもどかしさがうかがえる。文大統領は「光州市民らも光州精神を持って自らを犠牲にしながら一生を生きてきた『全国の5・18たち』をともに記憶してほしい。光州の苦しみが単なる苦しみにとどまらず、国民みんなの痛みと軋轢までも包み込むようにしなければならない」と述べた。「民主主義の再堅固化」に向けて1987年の民主化と1997年・2002年政権を可能にした「民主化ブロック」の復元に参加してほしいという意味だ。「湖南」と「非湖南改革勢力」が、堅固に手を握る「最大民主主義連合」に向けた政治的な呼びかけである。

<「5.18当日に生まれた遺族の物語に涙した文在寅大統領」>

 眼鏡を外し、ハンカチを取り出して涙を拭った。文在寅大統領は18日、光州国立5・18民主墓地で行われた37周年5・18民主化運動記念式で、5.18当日に生まれたキム・ソヒョンさん(37)が朗読した追悼の手紙を聞きながら、目頭を熱くした。文大統領は手紙の朗読を終えて帰るキムさんを20メートルほど追いかけて、暖かく抱きしめながら慰めた。
 キムさんは同日、「お父さんに送る手紙」を切々と読み上げた。キムさんの父親、故キム・ジェピョンさんは1980年5月18日に生まれた娘に会うため、全羅南道莞島(ワンド)から光州に来て、戒厳軍の銃弾に倒れて亡くなった。「5・18は私がこの世に生まれた嬉しい日でもあるが、父を奪われた悲しい日でもあります。もしあの時私が生まれなければ、父と母は今も本当に幸せに生きていただろうに…」。キムさんはまた、「一度もあなたに会ったことのない娘が、あなたよりも年を取ってから初めてあなたをこう呼べるようになりました…愛しています、お父さん」と声を震わせた。
 文大統領は記念式の後、故キム・ジェピョンさんの墓地を遺族と共に訪れて献花し、参拝した。キムさんは記者団に「まるで父が来たように、父が抱きしめてくれたように暖かかった。(文大統領の)肩が広く感じられた。その肩に寄りかかって声をあげて泣きたかった」と心境を振り返った。  その姿を見守った5月の母親たちも涙を流した。5月の母の家のノ・ヨンスク館長は「ソヒョンさんを慰めるのを見て、わたしたちも涙がこみ上げました。でも気持ちが晴れ晴れしますね」としながら「待ち望んでいた(5・18真相究明などに対する)大統領の言葉に、母親たちも皆喜んでいます」と話した。
 同日の出席者1万人は、9年ぶりに「あなたのための行進曲」を斉唱した。文大統領は「あなたのための行進曲を歌うことは犠牲者の名誉を守り、民主主義の歴史を記憶すること」だと強調した。文大統領は同日、あなたのための行進曲を、出席者らと手を取り合って力強く歌った。
 文大統領がヘリコプター射撃と発砲命令者の確認など、5・18真相究明を約束すると、これを聞いた5・18民主有功者のイ・セヨンさん(55)は車椅子に座ったまま「これがまさに真の記念式だよ」と話した。1980年5月21日錦南路(クムナムロ)で、空輸部隊に対抗してデモをしていた彼は、集団発砲で重傷を負い、その後遺症で障害を抱えて生きている。この9年間、5・18記念式にはほとんど出席しなかったという彼は、「彼らの記念式だったじゃないですか、私たちの記念式ではなく…。彼らが好き勝手にプログラムを作って…」と話した。
 歌手チョン・イングォン氏も同日、記念式の舞台に立ち、1980年代以降民主化運動の過程で多く歌われてきた「常緑樹」を切々と歌い上げて大きな感動を与えた。
 李明博・朴槿恵政権時代とは異なり、5・18民主化運動記念式場には空席が見当たらなかった。記念式は柔軟な警護を適用して、市民の参加を増やした。過去には、大統領が出席する場合、事前に出入り許可票札を申請しなければ記念式場に入れなかった。しかし、この日は身分証明書を提示すれば、誰でも記念式への出席が可能だった。記念式が終わった後も、市民たちは記念式場を離れることなく、文大統領を待っていた。墓地を回って参拝した文大統領が遺影奉安所側に出ると、市民たちから「ワア」という歓声があがった。