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文在寅経歴(韓国紙報道)

2017.5.11.

文在寅氏が韓国大統領に当選し、直ちに就任し、首相候補等を発表したことは、内政外交ともに四面楚歌の韓国政治にとって一縷の希望の光を灯すものであり、私としては、彼が難局を克服し、南北関係を好転させるべく、強力なリーダーシップを発揮することを願う気持ちでいっぱいです。韓国政治にはまったく基礎知識もない私にとって、文在寅氏がどのような経歴と考え方の持ち主であるかという基礎知識もありません。恐らく、多くの日本人も私とおおむね同じような状況だと思います。
 5月10日付のハンギョレWS(日本語)は、そうした基礎知識を提供してくれるもので、とても参考になりました。皆様のご参考までに、そのいくつかを紹介しておきます。

「大統領文在寅…10年ぶりの政権交代」

 第19代大韓民国大統領に共に民主党の文在寅候補が当選した。文当選人は10日の中央選挙管理委員会の大統領選挙の開票集計結果、6時53分現在(開票率100%)、有効投票の41.1%の1342万3800票を獲得し、24%の得票にとどまった自由韓国党の洪準杓(ホン・ジュンピョ)候補(785万2849票)に大差をつけて当選を確定した。選挙運動期間前半、文当選人と"両強構図"を形成した国民の党の安哲秀(アン・チョルス)候補は21.4%を得票して3位に止まっており、正しい政党の劉承ミン(ユ・スンミン)候補(6.8%)、正義党の沈相ジョン(シム・サンジョン)候補(6.2%)がその後に続いた。
 文当選人は当選が事実上確定した9日夜11時45分、ソウル光化門(クァンファムン)広場に出て「正義の国、統合の国、原則と常識が通じる国らしい国を作るために、行動を共にしてくださった偉大な国民の偉大な勝利」だとしたうえで、「国民の大統領、私を支持しなかった方々にも仕える、統合大統領になる」と明らかにした。選挙運動期間中に強調した「積弊の清算」より「国民統合」に重きを置いた発言だ。
 文当選人の勝利で野党は2008年2月の盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領退任以来、10年ぶりに政権を取り戻すことに成功した。この期間中政権を握ったセヌリ党は、政権の中枢の特権と腐敗の実態が明らかになり、史上初の大統領罷免の事態を迎えたのに続き、それから2カ月後に行われた大統領選挙でも得票率20%台半ばの成績を記録した。
 今回の大統領選挙の結果は「ろうそく集会の民心」として噴出した韓国社会の「全面的再構造化」に対する国民の熱望に支えらており、文当選人としては勝利の喜びと共に今後の国政運営に対する責任と負担を感じざるを得ない状況だ。ろうそく集会の民心が要求した根本的改革課題を具体的政策で実現しつつ、大統領弾劾と大統領選挙を通じて深まった陣営・世代間の対立を修復していかなければならないのも、彼の前に置かれた課題だ。
(光化門での演説全文)
 愛する国民の皆様、こんばんは、文在寅です。ありがとうございます、本当にありがとうございます。正義の国、統合の国、原則と常識が通じる国らしい国を作るために行動を共にしてくださった偉大な国民の偉大な勝利です。共に競争していた候補たちにも、感謝と労いの言葉を申し上げます。新しい大韓民国に向けて、彼らとも手を取り合って未来のために共に前進します。明日から、私は国民皆の大統領になるつもりです。私を支持しなかった方々にも仕える統合大統領になります。尊敬する国民の皆様、国民の切実な望みと念願を決して忘れません。正義が勝つ国、原則を守って国民が勝つ国を、必ず作り上げます。常識が常識として通じる国らしい国、必ず作っていきます。渾身の力を尽くして、必ず新しい国を実現します。国民だけを見て正しい道に歩きます。偉大な大韓民国、正義の大韓民国、誇らしい大韓民国、堂々とした大韓民国、その大韓民国の誇らしい大統領になります。ありがとうございます!

「「文在寅大統領当選」これまでの道のり …既得権に立ち向かってきた64年間」

 貧しい避難民の長男、非SKY(ソウル大学・高麗大学・延世大学以外の大学)出身の運動家、地方の人権弁護士、慶尚道の金大中(DJ)支持者…。
 9日、大韓民国第19代大統領に選出された文在寅(ムン・ジェイン)当選人が歩んできた人生の軌跡には、大韓民国"非主流"の足跡がたくさん残されている。一部は持って生まれたものだが、自ら身を投じた経験によるものがほとんどだ。「大韓民国の"主流"を変えたかった」と声を高めた文当選人が歩んできた64年間の道のりには「社会的常識」に基づいて生きようとして、逆説的にも既得権勢力に立ち向うことになった一市民が、国家指導者に成長する過程がそのそのまま描かれている。
■学生運動家と特殊戦司令部
 1953年1月24日、文当選人は慶尚南道巨済(コジェ)の貧しい避難民(朝鮮戦争時に南に逃れてきた人)の家で2男3女の長男として生まれた。しかし、貧困は彼に消し去るべき恥ずかしい痕跡ではなかった。金持ちに対する"羨望"よりも、普通の庶民が経験する悲しみと悔しさに"共感"する心を抱くようになった。1972年、貧しい経済事情にも関わらず、無理して入学した慶煕大学法学部で、司法試験の勉強よりも民主化運動の先頭に立つ「学生運動家」になったのも、暗鬱な独裁の現実から目を背けられなかったからだ。
 文当選人は維新反対デモが最高潮に達した1975年、「人民革命党事件」関連者の死刑執行の翌日に維新独裁の火炙り式を主導して逮捕された。釈放された後は、強制的に軍に徴集され、特殊戦司令部隷下の第1空輸特戦旅団第3大隊で服務した。無理やり連れていかれたにもかかわらず、軍生活は意外にも彼に合っていた。1976年「板門店(パンムンジョム)斧蛮行事件」当時、最精鋭要員に選ばれた文当選人は、ポプラの木除去作戦に投入され、表彰も受けた。特戦司令部での経験は野党政治家に執拗に付きまとっていた「北朝鮮追従」、「安保不安」のレッテルをはがす大事な資産になった。「軍隊に行ったことがない人は、特戦司令部出身の文在寅の前で安保を語るな」という文当選人の一喝に、国民が反応した。大統領選挙を控えて実施された各種世論調査で、有権者は彼を「安保問題に最もうまく対処できそうな候補」に挙げた。人生万事塞翁が馬だ。
 1978年に除隊したが、拘束前歴のため、大学には復学できなかった。当然、就職もできなかった。司法試験の勉強を始めたのは、その頃突然この世を去った父に、息子が出世する姿を見せてあげられなかったという悔恨のためだった。司法研修院を次席で卒業したが、デモと運動家としての経歴のため、志望していた判事にはなれなかった。「デモをしていた時と同じ考えなのか」という国家安全企画部職員の質問に「私の行動が間違っていたとは思わない」と答えなかったとすれば、彼の人生はどこに向かったのだろうか。
■友人であり同志の盧武鉉に出会う
 弁護士の道を歩むことにした文当選人は1982年、第2の故郷釜山(プサン)に向かった。そこで生涯付きまとう"運命"的縁で、盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領に出会った。最初はただの「同業者」だった。勝訴率が高く、評判になっていた弁護士と、判事の任用が挫折した新人弁護士は、釜山市西区(ソグ)富民洞(プミンドン)にある裁判所の裏門近くに「弁護士 盧武鉉・文在寅合同法律事務所」を開いた。彼らは「恥じることのない弁護士になろう」と意気投合した。6歳の年齢差にも二人は先輩・後輩関係を超えて"同志"だった。盧元大統領は「盧武鉉の友人である文在寅ではなく、文在寅の友人である盧武鉉」という言葉で文当選人に対する信頼を表した。
 2人とも最初から「人権弁護士」を目指していたわけではない。「いかなる事件も拒まず、依頼人の言葉に共感しながら一生懸命弁論」しているうちに、いつの間にか釜山はもちろん、蔚山(ウルサン)・昌原(チャンウォン)・巨済(コジェ)地域を網羅する労働・人権弁護士となり、在野の民主化運動に深く足を踏み入れるようになった。「釜山・慶尚南道 民主社会のための弁護士会」を創立したのに続き、全国で初めて、釜山民主憲法争取国民運動本部の発足にも参加し、1987年6月民主抗争への道を開いていった。「盧武鉉弁護士と共に戦った6月抗争の記憶は、これまでの人生で最もやりがいを感じた出来事」だった。3党連立に反対して釜山で民主党の旗を持ち、金大中(キム・デジュン)支持を掲げてきたが、彼には「地方の運動家出身」というレッテルが付きまとった。
■最後の秘書室長、王首席
 地方の人権弁護士だった文当選人が中央政治の舞台に登場したのは、2002年の大統領選挙直後だ。権威主義の打破を掲げた盧元大統領が「君臨しない大統領府」を作ろうと、文当選人に「民政首席」を引き受けてくれと頼んだのがきっかけだった。「あなたが私を政治へと導き、大統領にまでのし上げたのだから、責任を取るべきではないか」と言われ、「検察を掌握しようとしてもできない非検察出身を民政首席に任命し、『超過権力』から遠ざけることで、政治的・市民的民主主義が完成する」という盧元大統領の訴えに後押しされ、彼は大統領府に入った。 「政治家になれとは言わない、民政首席で終わりにする」という盧元大統領の約束を取り付けたが、その約束は守られなかった。1年で大統領府を去ったにもかかわらず、盧元大統領弾劾の弁護人団として再び呼ばれた。以降、大統領府市民社会首席を経て2007年に盧元大統領が退任する日まで、最後の秘書室長として行動を共にした。盧武鉉政権で大統領府首席秘書官と秘書室長を歴任した彼の経歴は、「国政運営の経験を持つなど、大統領の資質を備えている」というイメージを構築する政治的資産だったが、「王首席」、「王室長」と呼ばれ、盧武鉉政権で名実共にしたナンバーツーだっただけに、盧武鉉政権の失敗の責任を問われる弱点でもある。
■盧武鉉の死去と喪主
 2009年5月23日土曜日の朝にかかってきた一本の電話は、故郷の慶尚南道梁山(ヤンサン)に戻った文当選人を再び政界の真ん中に召還した。盧元大統領の悲劇的な死に、全国が悲しみに暮れていたその頃、彼は国葬を率いる「喪主」として国民の前に姿を現した。「政治的報復が招いた他殺」という悲痛の中で、控えめながらも毅然とした態度を示した喪主文在寅を人々は注目した。特に、葬儀場を訪れた李明博(イ・ミョンバク)当時大統領にペク・ウォンウ元議員が「謝罪せよ」と抗議する中、丁寧に頭を下げている彼の姿は深い印象を残した。盧元大統領に対する追悼ムードが続く中、李明博政権に対する失望感が高まるにつれ、彼を次期大統領選候補に押す人たちの声も高まっていった。
■総選挙を経て大統領選挙へ
 「あなたはもう運命から解き放たれましたが、私はあなたが残した宿題に縛られることになりました」。文当選人は、盧元大統領の逝去後、政治の前面に乗り出すことになったときの心境を、このように語った。政権交代という"大義"に対する重い責任を感じた彼は、2011年末の民主党の創党に参加したのに続き、2012年4・11総選挙では、釜山沙上区(ササング)に出馬して当選した。2012年6月17日には大統領選出馬を公式宣言した。「まるで虎の背中に乗ったかのようで、降りることができない状況」だった。
 多くの人たちが「文在寅待望論」を掲げた。しかし、予備選挙のルールに合意するのに1カ月以上を消耗し、党内はギクシャクしていた。勝者に力を結集する祭りのような予備選挙は跡形もなかった。予備選挙が終了する頃には「再び一丸となるのが困難であるほど、党が分裂」してしまった。従来の民主党組織(民主陣営)と学者・政策専門家グループ(未来キャンプ)、自発的に参加した市民組織(市民キャンプ)など3つの柱の上に作られた選挙対策委員会は、"求心"がなく、シナジー効果をあげることができなかった。それから進められた安哲秀(アン・チョルス)候補との野党候補一本化に向けた交渉も、さらなる茨の道だった。セヌリ党は、早くから朴槿恵(パク・クネ)元代表を大統領候補に確定し、先を走っている状況だった。「経済民主化」と「福祉」など大統領選の議題を先取りし、「盧武鉉対朴正煕(パク・チョンヒ)フレーム」の選挙構図作りに打って出た与党の戦略の前で、お手上げ状態だった。国民の強力な政権交代の熱望にもかかわらず、結果は「52対48」の痛恨の敗北だった。
■三度にわたる絶体絶命の危機
 大統領選挙の敗北後、文当選人は2013年、『1219、終わりは(新たなる)始まりだ』という題名の本を出版し、政治活動を再開した。国家情報院の大統領選挙介入事件とNLL(西海北方限界線)の放棄をめぐる議論、そして日々深刻化する朴槿恵大統領の不通などが、彼を再び政治の第一線に呼び出したのだ。今回は、押されるようにして出馬した2012年の大統領選挙の時とは全く異なっていた。「大統領になろうとする人にとって本当に必要なのは、『権力意志』よりも『歴史意識』、『召命意識』」だと答えていた彼は「少なくとも(2012年の大統領選挙で)大統領になろうとする熱情や切迫さが足りなかったのは事実」だと認め、反省を示した。「大統領選挙の敗因は一言で普段の実力不足、準備不足」という結論を下した彼は、2015年2・8全党大会に全力を注いだ。総選挙・大統領選での勝利の礎を築くため、党の体質を変える党代表になるため、本格的に乗り出したのだ。「黙っていれば花のみこし乗せて大統領選挙に連れて行くだろうに、傷つくことを承知でなぜ代表になろうとするのか」という党内の長老や側近たちの反対も、彼を止められなかった。「今回党代表になれなければ、党を十分に変えることができなければ、総選挙を勝利に導くことができなければ、その後に自分の役割はない」とし、「三度の絶体絶命の危機」を乗り越えたと自ら宣言した。
 党代表就任以降の10カ月は苦難の連続だった。就任から2カ月で行われた再・補欠選挙で惨敗した直後、党内非主流側で火がついた責任論は新人代表のリーダーシップを巡る議論に飛び火した。再信任をかけてやっと通過させた「公認革新案」に反対した安哲秀(アン・チョルス)前代表などが、2016年4・13総選挙を目前にして大挙離党した時は、まさに絶体絶命の危機だった。彼は2012年の大統領選挙当時、ライバルの朴槿恵候補側で国民幸福推進委員長を務めたキム・ジョンイン元議員を非常対策委員会の代表に迎え入れる賭けに出た。首都圏で善戦したのはもちろん、釜山・慶尚南道で11人の国会議員を当選させ、総選挙で勝利した。「政界引退」を公言してまで、力を入れていた全羅道で国民の党に惨敗したのは政治的負担になったが、党内外から「政治力が大きく成長した」と評価された。「秘書室長の器」という冷笑は徐々に姿を消し、名実共に野党の「有力大統領選候補」として浮上した。
■「文浪人」
 「三度の絶体絶命の危機」を乗り越えた直後、朴槿恵大統領弾劾という未曾有の事態が起きた。直ちに早期大統領選挙の局面に突入した。前倒しになったとはいえ、5年間も準備してきた「大統領選挙の浪人」にはもう2012年のような躊躇はなかった。「もはや運命ではない。宿命だ」と思った彼は、早くから党内選挙陣営を率いて大統領選挙に向けて走り出した。「親文(在寅)-非文フレーム」を破るために、側近を後ろに控えて、党内の多様な人材を起用し、キャンプの垣根を広げていった。
 「拡張性がない」いう批判もあったが、政権交代を念願する「ろうそく集会の民心」は文在寅大勢論を支え続けた。李在明(イ・ジェミョン)城南(ソンナム)市長と安煕正(アン・ヒジョン)忠清南道知事がそれぞれ"左右"のバランスを取ってくれたおかげで、支持率は20%から30%台に、再び40%へと徐々にそして確実に積み上がっていった。熾烈な予備選挙が終わった後も、競争した候補たちみんなが大統領選挙での勝利に向けて手を取り合った。「党を中心に選挙に臨む」という約束通り、選挙対策委員会は一丸となって動いた。5年前とは打って変わった姿だった。ソン・ハッキュ元代表に続き、選挙終盤にはキム・ジョンイン元代表をはじめ数人の議員たちが「親文覇権主義」を批判して離党したが、波紋は微々たるものだった。分裂していた保守が"再結集"に乗り出したが、国民の政権交代の熱望の前では成す術がなかった。
 第19代大統領になった文当選人は積弊清算に基づく「国民統合大統領」になると約束した。進歩と保守の理念で反目する大韓民国、慶尚道と全羅道など地域に分かれた大韓民国を一つにする出発点になるという誓いだ。朴槿恵大統領の弾劾によって「朴正煕時代」が終ったとすれば、文在寅政権を成功させて「盧武鉉時代」にも終わりを告げ、新たな時代へと進む誘い水になるという約束だ。これを通じて「政治の主流は国民、権力の主流は市民、だからこそ国民が大統領」の時代を開くということだ。文当選人はこのような時代を切り開いていく過程で「敵味方に分けること」や「政治的報復」はしないと語った。しかし、保守陣営はもとより、大韓民国の主流たちは「文在寅が当選すれば国が分裂するのではないか」という疑いの目で見ている。非主流の心を理解し、主流を説得していくことが、文在寅当選人の前に置かれた本当の課題だ。

「「文在寅統一外交政策」南北関係修復、米中と北朝鮮核・THAAD調整を最優先」

 文在寅(ムン・ジェイン)当選人の外交安保公約は大きく3つに要約される。保守政権9年を経て破綻した南北関係の修復や、深化した対米軍事依存度の緩和、制裁と対話を活用した北朝鮮核解決などだ。概ね過去の太陽政策路線に忠実な政策議題だ。
 文当選人は先月28日に発表した大統領選挙公約集で、2016年2月に閉鎖された開城(ケソン)工業団地の再稼働と2008年7月以降中断された金剛山(クムガンサン)観光の再開を約束した。文当選人は2月、フェイスブックに掲載した文章で「政権交代を果たせば、開城工団を3段階2千万坪まで拡張する」と積極性を見せた。しかし、先月27日の放送記者クラブ招請討論会では「(北朝鮮核の)対話の局面が造成されなければ、開城工団などの再開は難しい」とし、事実上条件付き再稼動の立場に退いた。文当選人はまた、離散家族再会や病院の建立など北朝鮮に対する人道的支援を交換するいわゆる「フライカウフ」("自由を買う"という意味。ドイツ統一前の西ドイツが東ドイツの政治犯送還時の対価として現金・現物を支給した方式)を推進し、国軍捕虜・拉致被害者の送還など多様な解決策を講じると約束した。南北対話で北朝鮮人権問題を議題化するという考えも明らかにした。  南北首脳間の合意などについては、国会批准同意を約束した。汎国民的共感と安定的合意の履行のためだ。また、南北間の東海圏エネルギー・資源ベルトと西海岸産業・物流ベルトなどを建設し、南北間の市場統合へと進む経済共同体推進の意思も明らかにした。文当選人は先月23日、「大胆な朝鮮半島の非核平和構想」発表の席で「南北間の経済統合が実現すれば、年平均0.8%の追加成長が可能で、毎年働き口5万件が新規創出される効果がある」と見通した。
 北朝鮮核問題の解決も約束した。これまでの対北朝鮮制裁一辺倒から脱し、制裁と対話などあらゆる手段を活用するという政策の方向性も明らかにした。また、「北朝鮮が先に(核を)放棄しなければならない」という「北朝鮮先行動論」の代わりに、北朝鮮と米国など関連当事者の段階別「同時行動」原則を提示した。同時行動原則は、北朝鮮が取るべき非核化措置とその対価として韓米などが提供する補償措置を、段階ごとに同時に推進する案であり、6カ国協議の9・19共同声明に適用されている。しかし、「今は対話をする局面ではない」とし、北朝鮮の行動を圧迫する米国と立場調整が必要になるものと思われる。文当選人は、究極的に完全な北朝鮮核廃棄と平和協定締結を包括的に推進し、相互軍備統制で戦争の可能性を根本的に除去するという青写真を示した。
 北朝鮮の軍事挑発に対しては「容認しない」とし、韓国型ミサイル防衛(KAMD)やキルチェーンなどの早期戦力化を約束した。戦時作戦統制権(戦作権)は任期内に(韓国への)移譲を公約した。戦作権は当初、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代の2012年4月に移譲することで韓米間で合意したが、李明博(イ・ミョンバク)政権が2015年12月に延期した。さらに、朴槿恵(パク・クネ)政権は「時期を固定せず条件が整えばその時転換する」とし、2020年代半ば以降に再延期した。また、兵士の月給は2020年までに最低賃金の50%になるように年次的に引き上げ、現在21カ月の服務期間は、漸進的に18カ月まで短縮すると公約した。任期内の民間人出身の国防部長官の任命、国防部と防衛事業庁の民間人補職の割合を70%に引き上げるなど、国防文民化の推進も約束した。
 早期配備強行で物議を醸したTHAAD(高高度防衛ミサイル)問題は、国会批准同意を推進すると述べた。文当選人は、THAAD配備問題の公論化と外交カードとしての活用のため、(国会の批准同意が)必要だという立場を再三示してきた。すでに慶尚北道星州(ソンジュ)に一部配備されたTHAADの撤収を念頭に置いた公約とは言い難い。2015年12月に日韓が電撃的に締結した12・28慰安婦合意については、再交渉を約束した。弾劾局面が高潮していた昨年11月に強行締結された韓日軍事秘密情報保護協定(GSOMIA)は、効用性の検討後、有効期間(1年)を延長するかどうかを決めると明らかにした。

 なお、同日付の朝鮮日報WS(日本語)も文在寅氏の経歴を紹介しています。ハンギョレほど詳しくはありませんが、若い時代の文在寅氏に関してハンギョレには載っていない点もありますので、この記事も参考までに紹介します。

「文在寅氏当選:脱北避難民の長男、盧武鉉氏側近から大統領へ」

 文在寅(ムン・ジェイン)氏は4月5日、慶尚南道梁山市上北面にある父の墓を訪れた。2日前に共に民主党の党内予備選で大統領候補に選ばれたことを報告するためだった。文氏はキム・ジョンスク夫人と共に墓参し、焼酒(ソジュ・韓国式蒸留酒)を供えた。共同墓地にある平凡な墓には小さな碑石が立っているだけだ。5月7日の遊説中、江原道の横城サービスエリアではユッケジャンの食事を取った後、随行秘書の分まで食器を片付ける様子が撮影されて話題になった。このように、文氏は政界に足を踏み入れるまでは一般人と大差なかった。
 文氏は1953年1月、慶尚南道巨済島で脱北避難民の家庭の5人きょうだい(2男3女)の長男として生まれた。姉と妹は主婦で、弟は遠洋漁船の船員として働いた。咸鏡南道興南出身の両親は50年12月、興南撤収作戦で南側に移り、巨済島で文氏が生まれた。当時誰もがそうであったように家計は苦しかった。父は捕虜収容所で肉体労働をし、母は文氏を背負って卵売りの行商をした。家は貧しかったが文氏は成績優秀で、、慶南中学、慶南高校を卒業した。文氏は「姉は大学進学をあきらめ、弟や妹のために働き、一番苦労した」と振り返った。富裕層の子どもが多い名門校で貧富の差と世の中の不公平を目にした文氏には反抗心が生じた。酒を飲み、たばこを吸いながら友人と遊びふけり、「問題児」と呼ばれ、4回も停学処分を受けた。
 文氏はソウル大商学部の入試に失敗し、浪人の末72年に慶熙大法学部に入学した。大学進学後も反独裁学生運動に没頭した。大学4年だった75年には「維新独裁火刑式」を主導したとして、西大門拘置所に4カ月にわたり収監された。失望した父は一度も面会に訪れなかった。文氏は「監獄から出てきたのに、父からたしなめられることもなかった」と話した。
 釈放後、特戦司令部に強制招集された文氏だったが、後に「自分が意外にも軍に合っていることを発見した」と振り返った。「学校では処分ばかり受けていたが、軍では賞をもらった」とも話した。当時は全斗煥(チョン・ドゥファン)旅団長から表彰され、76年に板門店で起きたポプラ事件では、ポプラの木の除去作戦に精鋭要員として投じられた。選挙運動期間に陸軍特殊戦司令部を部隊を訪問した文氏は、銃の照準を合わせる前に空を見上げ、瞳孔をすぼめる当時の訓練の様子を再現して見せた。
 78年に除隊したが、逮捕歴のせいで学業を続けることも就職もできず、浪人生活を送っていたさなか、父は心臓まひで死去した。文氏は「息子が成功する姿を一度も父に見せられなかったことに悔いが残る」と話した。葬儀を終えた文氏は、全羅南道海南郡の大興寺で司法試験に向け準備した。80年の「ソウルの春」デモで逮捕され、清凉里警察署の留置場で司法試験合格の報を受けた。81年に慶熙大の2年後輩で声楽科を出たキム・ジョンスク氏と7年越しの恋愛の末に結婚し、1男1女をもうけた。
 文氏は司法研修院を次席で修了したが、逮捕歴のせいで判事としては任用されず、釜山で人権弁護士としての道を歩んだ。そして、82年に盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領と出会った。7歳上の盧元大統領に初めて出会った文氏は「似た者同士」だと感じたという。2人は合同法律事務所を立ち上げ、釜山・慶尚南道一帯で政治的事件の弁護を担当した。88年に盧元大統領が統一民主党の金泳三(キム・ヨンサム)総裁から政界入りを誘われると、文氏は「後は任せて政界に行ってください」と告げた。
 「法務法人釜山」を設立し、弁護士生活をしていた文氏は2002年、大統領選に出馬した盧元大統領の釜山地区の選対本物長を務めた。その後は、大統領府で民情首席秘書官、市民社会首席秘書官、秘書室長を務め、任期いっぱい盧元大統領を支えた。激務とストレスで歯が10本抜けた。盧元大統領の死去後、文氏は10年から盧武鉉財団の理事長を務めた。文氏は11年に自叙伝「運命」を書き、現実政治に足を踏み入れた。12年4月の総選挙で釜山市の沙上選挙区から当選。同年12月に民主統合党の大統領候補として、野党候補では過去最高となる1468万票(得票率48%)を得たが落選した。
 文氏はその後、本格的に政界で活動。15年2月に党代表選挙で朴智元(パク・チウォン)議員に勝利した。文氏は「革新」を推進したが、結果は党分裂で国民の党が発足する事態に発展した。安哲秀(アン・チョルス)氏と中道傾向の全羅道出身議員が離党し、民主党の党内人事は入れ替わった。文氏はそれを「革新」と呼んだが、他方では「分裂」「覇権」と呼ばれた。文氏が後ろに退き、金鍾仁(キム・ジョンイン)非常対策委員長の体制下で戦った総選挙では民主党が第1党となり、今年3月に大統領候補となった文氏はついに韓国の第19代大統領に当選した。