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フランス大統領選挙:マス・デモクラシーとポピュリズム

2017.4.18.

4月11日付の朝日新聞朝刊は、「前例なき仏大統領選」という表題で、パリ政治学院教授であるパスカル・ペリノーのインタビューを掲載しました。ご覧になった方も多いと思います。この中でペリノーは、今回の大統領選における特徴として政党政治という既存のシステムが機能しなくなっていること、そういう中で民衆に対するアピール力が強い人物が、左右いずれの陣営においても、大統領候補に名乗りを上げていることを指摘しています。そして最後に、いわゆるポピュリズムとの関係で次のように発言しました。

――台頭するポピュリズムは、私たちをどこに連れていくのでしょうか。
 「ポピュリズムはポジティブとネガティブの両面を持っています。民衆の訴えを直接表現している点では、民主主義の新たな姿だと評価できます」
 「一方で、危険な面も否定できません。民主主義は、制度の均衡と権力への制限があってこそ成立します。権力には、それに対抗する力が必要です。しかし、一部のポピュリストはそれを拒む。『民衆から負託を受けたから、法からも議会からも制限されない』などと主張する。このような権威主義に陥る恐れは拭えません」
――有権者の支持を得たプロの政治家が、エリート官僚を使いこなして統治する民主主義の原則が崩れかけているように思えます。
 「今は、戦後に定着した政治的世界が解体され、新しい世界が生まれようとしている時期だと考えられます。ポピュリズムは、その新しい世界の一つの要素です」
 「フランスの社会学者ギ・エルメ氏は、民主主義に代わる新たな政治制度の中心として、ポピュリズムとガバナンス(統治)を挙げました。ポピュリズムが人々の声を吸い上げる一方で、実際の政治はエリート官僚中心のガバナンスが担う。そこにかかわるのは一部の意識の高い人だけで、一般市民は無縁です。民衆の代表が政府をつくる時代は終わるのです」
――少し不気味ですね。
 「その意味で、米国のトランプ政権に注目しています。今のところ、この政権にはポピュリズムの要素しかうかがえません。でも、その裏で、いくつかのテーマについてはエリートがすべてを牛耳るガバナンスの要素が生まれていないでしょうか。ポピュリズムとガバナンスを備えた政権に変容しないでしょうか」
――そうなると、選挙を通じて市民の声を吸い上げる従来の「政治」は意味を持たなくなります。
 「だから、現代は本当の政治危機の時代です。『政治』が今後どうなるか、見えないのです」

 私は以上のペリノーの発言をとても興味深いものと受けとめました。と言いますのも、私は、昨年12月18日付のコラム「ポピュリズム再考」の中で、次のように述べましたが、それはペリノーの問題意識と非常に接近していると理解したからです。ペリノーの発言は問題意識の提起だけに留まっていますが、マス・デモクラシーの時代に生きる私たち(主権者)は、「マス・デモクラシーにふさわしい制度と権力との関係」について取り組むべき課題を明確に認識して行動していかなければならないと確信します。そのために、昨年12月18日付のコラムで書いた以下の文章をもう一度掲載し、皆様にもう一度読んでいただきたいと思い立った次第です。

 私たちが考えるべき本質的問題は、マス・デモクラシーに即した制度を構築するということでなければなりません。それは正に、「有効適切なる行政の迅速かつ能率的な遂行のため、能ふ限り権力を集中し、しかもかく集中された権力をいかに民衆の意思に根拠づけるか」(丸山眞男)ということです。ここでは、有権者(マス)側の問題と「権力」側の問題とを考える必要があります。
 有権者(マス)側の問題として私たちが最初に再確認するべきことは、普通選挙という制度はマス・デモクラシーの時代においても、デモクラシーの理念(「民が主」)を体現した制度であるということです。
 その上で第二に、そしてこれこそが重要なことですが、有権者が、マス化の流れに身を委ねるのではなく、他人に対する寛容な精神を持ち、自己に対しては良心的な制約を課するというデモクラティック・スピリット(丸山)を涵養するべく、不断に自らの政治意識を高めていくことが必要です。しかし、そのプロセスは、「非政治的市民の政治行動」(丸山)の不断の積み重ねにより、有権者である主権者が自ら学びとり、修得することを通じてのみ可能になります(運動としてのデモクラシー)。
 その過程においては、特定の野心家の政治支配を現出させるという「失敗」が個別的に起こることは覚悟しなければなりません。しかし、ヒトラーがワイマール憲法の下で権力を掌握し、世界に猛威をふるった事例(「ポピュリズム」の最悪のケース)は、21世紀の世界ではもはや再現することは不可能であることに、私たちは確信を持つべきです。
 確かに、トランプ政権が国際関係に激震をもたらす可能性はあります。しかし、21世紀国際社会は20世紀前半国際社会とは、国際的相互依存の不可逆的進行(及び核兵器の登場)という点において様変わりしています。トランプが「第二のヒトラー」になることはアメリカの有権者(マス)が許さないし、21世紀国際社会が拱手傍観することはあり得ません。
 もちろん、19世紀に成立した諸制度をマス・デモクラシーの時代に適合させるための努力は常に必要です。デモクラシーの理念にそぐわなくなった制度を主権者側からの運動を通じて不断に更新していくべきことは当然です。
 また、マス・デモクラシーの時代においては、有権者(マス)の政治意識を不断に高めていく上での情報の重要性はますます高まります。正直私のような年代のものにとって、「情報革命」の人類史的意味を捉えることは至難です。しかし、人類の歴史は大筋において自らの道を誤ることはあり得ないはずです。
 もう一点つけ加えておきたいのは、マス・デモクラシーは普通選挙制度の確立によって始まったのですが、その本格的な自己主張はごく最近のことであるということです。つまり、第二次大戦及び米ソ冷戦という「重石」が取り除かれたことによって始めて、有権者(マス)は国家という権力に対して「民衆の意思」に自らの存在理由を根拠づけさせるための政治的条件を獲得しました。ところが、米ソ冷戦と時をほぼ同じくして新自由主義が自己主張を開始し、世界を席巻したために、有権者(マス)は再び翻弄されることになったのです。Brexitや五つ星運動は、マス・デモクラシーの新自由主義に対する最初の、正面からの異議申し立てです。このように、マス・デモクラシーの本格的実践は始まったばかりであり、今後も長い年月をかけた試行錯誤が不可避であることを、私たちは肝に銘じる必要があるのです。
 「権力」側の問題として考えるべき根本的な問題は、主権者の信託に応える権力を選出し、信託に応えなくなった権力を罷免できるメカニズムを構築するという課題です。具体的には、権力を担うに足る人材・指導者を登用・選出するメカニズムと、登用・選出された人材・指導者が主権者の信託に応えているかを常時チェックし、随時罷免・再任用できるメカニズムとを整備・確保する必要があります。この点で、マス・デモクラシー時代における制度的欠陥は明らかです。
 ロシア、トルコ、フィリピンなどの例に則していえば、西側メディアは好んでプーチン、エルドアン、ドウテルテ等を「独裁者」として描き出そうとしますが、彼らはそれぞれの憲法下で選出され、権力を行使しており、国内的には高い支持率を得ています。シリアのアサド大統領についても同様です。西側メディアの報道によると、アサドはとんでもない独裁者とされてしまいますが、アサド政権が5年にわたる内戦に持ちこたえてきたのは、国軍の結束した支持とそれなりの国民的支持(内戦下では世論調査を行うすべがないので、数字的に確認することは不可能)を抜きにしては不可能なことです。
 また、国際相互依存の進行という21世紀国際社会にあっては、Brexit、五つ星運動のケースに端的に示されるように、国家という権力のほかに、国際機関という権力の問題も考えなければなりません。つまり、主権国家を主要なメンバーとする国際社会において、主権国家(国家の主権者である人民(マス)ではない)から構成され、その同意の下で活動することが義務づけられている国際機関を、如何にして有権者(マス)である各国人民に対して有責である組織に作り替えていくかという課題です。