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韓国人学者による他者感覚のすすめ

2017.3.26.

3月23日付のハンギョレWS(日本語)は、オスロ国立大学教授の朴露子署名文章「北朝鮮の目で韓国を一度見てみよう!」を掲載しています。私が日ごろ強調する「他者感覚」の必要性を説いたもので、嬉しくなりました。
 特に、次の指摘は本当に味読する価値があると思います。

約1年前から韓国の保守マスコミは先を争って「金正恩除去特殊部隊」、「北朝鮮指導部斬首作戦」について報道した。今で言えば「有事の際、金正恩除去任務を引き受ける」韓米特殊部隊が一緒に訓練をしているという便りも間断なく聞こえてくる。もちろん、どの保守マスコミもこうしたニュースに文句をつけようとはしない。国連に加盟している主権国家の元帥を殺す準備を公開的にしているということは、侵略行為を禁止した国連憲章第2条第4項(「すべての加盟国はその国際関係において他の国家の…政治的独立に対し…武力威嚇や武力行使を慎む」)に全面違反した事実上の"国家的テロリズム"を彷彿とさせるが、私たちに「私がすればロマンス」の原則は徹底している。ところで一度考えてみよう。もし北朝鮮側が特殊部隊を創設して、有事の際に韓国の三府要人を殺す準備をすると特筆大書したとすれば、韓国の予想される反応は果たしてどうだろうか?「挑発」という言葉が再びすべてのメディアの紙面を埋め尽くさないだろうか?そのように考えて、韓国やアメリカ側の行動に対する北朝鮮の視角を一度想像してみよう。(中略)
果たして韓国で米帝国を脱中心化させて世の中を見ることは今日、どの程度普遍的か?韓国の主流は北朝鮮粛清の残酷性に批判を浴びせるが、何の裁判手続きも踏まずにビンラディンとその家族を殺した米軍部隊が金正恩まで殺すという言葉に何の違和感も感じない。"世界の中心帝国"の暴力は、私たちには"不倫"ではなく"ロマンス"なのに、果たしてそのような見解を持って朝鮮半島の衆生を戦争の惨禍から守ることができるだろうか?

 私はかねてから、日本人の圧倒的多数がアメリカというプリズムを通して世界を見ることに慣らされていると指摘してきました。以下の文章を読むと、韓国人の多くも私たち日本人に負けず劣らず、アメリカというプリズムを通して物事を見ることに慣らされているらしいことに気付かされます。ということで全文を紹介します。

 多くの韓国人の場合は、世界には固定された中心があると、意識的あるいは無意識的に信じている。もちろん、中国ではなくアメリカがまさにその中心で、アメリカの文物制度を概してコピーした韓国はその中心にかなり近いと意識してもいる。北朝鮮は「たとえ同じ民族ではあっても」、この中心からかなり外れた、18世紀ならば"夷狄"に近いと感じている。
 洪大容(ホン・デヨン)は清帝国を脱中心化させたが、果たして韓国で米帝国を脱中心化させ世の中を見ることは、今日どの程度まで普遍的だろうか?韓国の主流は、北朝鮮粛清の残酷性に批判を浴びせるが、何の裁判手続きも踏まずにビンラディンとその家族を殺した米軍部隊が、金正恩(キム・ジョンウン)まで殺すという言葉に何の違和感も感じずにいる。
 私たちは普通、開港期の社会・経済・政治的変化を近代の出発点としたりするが、知性史次元での途方もない変化はおよそ18世紀中盤に起きた。まさにその時、近代的知識体系に初めて接した朝鮮人は、この世界に固定された中心などないことを初めて認識することになった。漢の時代に漢四郡と朝鮮半島の準国家が初めて関係を結んだ時から、中国は世界の固定された中心軸と見なされたりしたが、18世紀中盤の実学はこの長い伝統に終止符を打つことを本格的に始めた。洪大容(1731~83)の有名な『医山問答』(1766)には、彼が北京で地球儀と西洋宣教師が作った世界地図を見た所感が出て来る。大地は丸いので、地球上の正界と倒界は決まったものではないという事実が、洪大容には最も重要なことだった。西洋人には西洋人が正界、すなわち中心で、中国の立場では中国が中心だが、それは一つの主観的な"立場"に過ぎない。事実こうした脱中心、自分と他者の相対化が可能になってしまったために、個人や国の次元での主体性確立を語ることができるようになった。
 近代的な"中心の相対化"は18世紀になって可能になったが、相対性の原理自体は東アジア哲学の中で数千年間かけて発展してきた。仏教も自我と他者を縁起論の網で連結されている「二ではなく一つ」と見て主体を相対化するが、儒教や道教にも相対主義的要素は強い。孟子の『尽心』にも、孔子に対して「小山に登ってお前の口は小さいと言い、泰山に登って天下が小さいと言った」と出てくるではないか。故郷の魯の国の小山に上がった見地では魯は小さく見えるが、天下の泰山に登れば天下全体が小さく見える。結局、この"見地"こそが意識を決定するということだ。道家思想の場合には、この相対性論理をより一層深化させた。すでに私たちがいつも使う言語の一部分となった「井の中の蛙」のような表現は、荘子の「秋水」篇に出てくるカエルとスッポンの対話から取ったものだ。井戸の中の楽しみが最上だと考えるカエルは、スッポンから海の話を聞いて、自身が立っている見地を他人の視線を通じて相対化し客観化してから初めて客観的な真実に若干でも接近できることになった。
 それでは、私たちも井の中の蛙の境遇を免れるために、我々自身を私たちにとって最も重要な他者である北朝鮮の目で眺める試みを一度してみてはどうだろうか?多くの韓国人は、洪大容が批判した18世紀の頑迷固陋な知識人と同様に、世界には固定された中心があると、意識的または無意識的に信じている。もちろん中国ではなくアメリカがまさにその中心で、アメリカの文物制度を概してコピーした韓国はその中心にかなり近いと意識していたりする。これと同時に、多くの韓国人にとって北朝鮮は「たとえ同じ民族だとは言っても」、この中心からかなり外れた、18世紀ならば"夷狄"に近いと見ている。ところが、こうした中心と周辺の構想は、あくまでも主観的なものに過ぎず、いかなる客観的実体もないということを、他者の視角を意識して悟ることは重要なようだ。
 韓国メディアはよく北朝鮮の何らか軍事と関係ある動きに対しても「挑発」と決めつける。例えば2012年の光明星3号2号機発射に対して、韓国では「挑発」と激しく非難した。もちろんその3年前に韓国がナロ号を最初に発射しようとした時、これに対する韓国放送(KBS)報道のタイトルは「夢と挑戦の記録、大韓民国宇宙発射体ナロ」であった。自分たちがすれば夢と挑戦で、彼らがすれば挑発だ?「私がすればロマンス、他人がすれば不倫」と同じ論理だが、韓国側で格別の考えもなしにしている行動に対する、北朝鮮側の視線がどうなのかを一度考えてみよう。
 約1年前から韓国の保守マスコミは先を争って「金正恩除去特殊部隊」、「北朝鮮指導部斬首作戦」について報道した。今で言えば「有事の際、金正恩除去任務を引き受ける」韓米特殊部隊が一緒に訓練をしているという便りも間断なく聞こえてくる。もちろん、どの保守マスコミもこうしたニュースに文句をつけようとはしない。国連に加盟している主権国家の元帥を殺す準備を公開的にしているということは、侵略行為を禁止した国連憲章第2条第4項(「すべての加盟国はその国際関係において他の国家の…政治的独立に対し…武力威嚇や武力行使を慎む」)に全面違反した事実上の"国家的テロリズム"を彷彿とさせるが、私たちに「私がすればロマンス」の原則は徹底している。ところで一度考えてみよう。もし北朝鮮側が特殊部隊を創設して、有事の際に韓国の三府要人を殺す準備をすると特筆大書したとすれば、韓国の予想される反応は果たしてどうだろうか?「挑発」という言葉が再びすべてのメディアの紙面を埋め尽くさないだろうか?そのように考えて、韓国やアメリカ側の行動に対する北朝鮮の視角を一度想像してみよう。
 韓国のマスコミは、張成沢(チャン・ソンテク)など一部の権力層に対する粛清について、大概は"暴君"金正恩の"残酷性"を声を高めて糾弾する。取るに足らない者でも公卿大夫でも、誰を死刑にしようが死刑は残酷行為であることに間違いない。もちろん、あえて張成沢など北朝鮮の権力層に対する死刑を批判しようとするなら、韓国人にとって世界の中心と認識されるアメリカこそ毎年数十人を刑場の露として消している国家だという事実も念頭に置くことが適切だろう。ところが、一度「中華 対 夷狄」のような空間的序列化フレームに閉じ込められた人々は、こうした客観の試みをしようとしない。自分自身の姿も正しく見ようとしない。2013年9月、臨津江(イムジンガン)を越えて北朝鮮に渡ろうと試みたある韓国人男性が、韓国軍によって射殺される惨劇が起きた。コメディのような裁判をして誰かを粛清したことも残酷行為であることに間違いないが、まったく裁判手続きも踏まずに脱走を試みた人をこのようなやり方で殺すのは果たして何だろうか?小山に登ることだけに慣れた人々にとって魯の国が世の中の全部に見えたように、北朝鮮を"夷狄"と見ることに慣れた人々には、北朝鮮に渡ろうとする人を殺すことも当然に見えるかも知れない。 それでは金正恩を「敬愛する最高司令官同志」と呼ぶことに慣れた人々が、張成沢の除去を当然視するのを果たして咎めることができるだろうか?
 この文を読んで、私を"親北派"と見る人がいるかも知れないが、私は"親南"することも"親北"することも、一生ないと思う。私が望むのは、朝鮮半島の平和と民衆の幸福だけだ。私は韓国の「井の中の蛙」的な偏狭なアメリカ中心世界観に批判的であると同様に、ある意味では18~19世紀の衛正斥邪思想家たちの小中華論を彷彿させる北朝鮮の行き過ぎた自国中心的な見解にも批判的だ。いかなる偏狭も平和作りに役立つどころか害になるのみだろう。私たちが平和を望むならば、必ず"私"の主観性を越えて"私"と"他者"を合わせて結局合せる自己相対化の論理を必要とする。私はそれゆえに洪大容の先駆的な中国相対化こそが、現在を生きる私たちに示唆するところが大きいと見る。私たちはこうした方式で私たちに空気のように慣れたアメリカ中心主義を相対化し、北朝鮮と私たちを平等に観察してこそ平和を作るのにはるかに適合した見地に立てるだろう。
 洪大容は清帝国を脱中心化させたが、果たして韓国で米帝国を脱中心化させて世の中を見ることは今日、どの程度普遍的か?韓国の主流は北朝鮮粛清の残酷性に批判を浴びせるが、何の裁判手続きも踏まずにビンラディンとその家族を殺した米軍部隊が金正恩まで殺すという言葉に何の違和感も感じない。"世界の中心帝国"の暴力は、私たちには"不倫"ではなく"ロマンス"なのに、果たしてそのような見解を持って朝鮮半島の衆生を戦争の惨禍から守ることができるだろうか?