「ポピュリズム」再考

2016.12.18

私は、前回(12月17日付)のコラムで次のように記しました。

 「トランプが勝利した今一つの要因は、皮肉なことに、デモクラシーに内在する本質的矛盾の表れであり、その結果であるということです。つまり、マス・デモクラシーの時代においては、一方で権力の高度な集中が有効なガヴァナンスを確保するために不可欠であるという要請があります。そして他方では、そのように高度に集中された権力を主権者である人民(マス)が有効にコントロールするという要請があります。(中略)
 今日のアメリカは、「集中された権力をいかに民衆の意思に根拠づけるか」というマス・デモクラシーを辛うじてデモクラシーたらしめる根本についてはまったくなすところなく今日に至っています。そのために主権者である人民(マス)は、「他人に対して寛容な精神をもち、自己に対して良心の制約を課する」判断力を養う術はなく、マス・メディアに判断をコントロールされるし、感情に訴えるトランプのような人物に共感することになるのです。これがいわゆる「ポピュリズム」としてエスタブリッシュメントが批判・非難する問題‥です。」

 西側のいわゆるエスタブリッシュメント及びその意向を代弁するメディアにおいてポピュリズムの例として指摘されるのは、Brexit、Trumpのほかに、ロシアのプーチン、トルコのエルドアン、フィリピンのドウテルテ、イタリアの五つ星運動、さらにはヴェネズエラのチャベス、ペルーのフジモリなどがあります。第二次大戦後にマイナス・イメージとしての「ポピュリズム」のレッテルを最初に貼られたのは確かアルゼンチンのペロンでした。
 私が滑稽としか思えないのは、日本のマス・メディアが欧米メディアの垂れ流すこれらの「ポピュリズム」批判の言説を鵜呑みにしてそのまま自らの言説として国内で吹聴していることです。しかも日本のマス・メディアこそ日本における「大衆扇動」「大衆迎合」の旗手なのです。
 まず私たちが正確に認識する必要があるのは、西側のエスタブリッシュメント及びメディアがいわゆる「ポピュリズム」として批判する上記諸々の事象に共通する要素は何かということです。私は、大きく言って三つの要素を指摘できると思います。
 第一は、デモクラシーにおける制度的基本要素である普通選挙が特定の野心家(個人・集団)によって「悪用」されているという批判です。個人というのはいうまでもなく、プーチンであり、エルドアンであり、ドウテルテ等々です。また、集団というのは、Brexitに反対した勢力であり、イタリアの五つ星運動ということになります。  第二は、その「悪用」の核に座るポイントとして、これらの野心家が、有権者(マス)に対して理性的な判断に訴えるのではなく、その感情を刺激し、共感を得るためのアピールに徹し、目的のためには手段を選ばないという、デモクラシーを逸脱し、これに反する手段に訴えているという批判です。
 第三は、その「悪用」を通じて、特定の野心家が自らの個人的・集団的な野心・主張の実現を図ろうとしているという批判です。
 しかし、以上の「ポピュリズム」批判には、以下の重大な問題が伏在していることを見逃すわけにはいきません。
 最大かつ最重要なポイントは、以上の批判は、マス・デモクラシーを辛うじてデモクラシーたらしめる点で、普通選挙(一人一票)という古典的制度は今日においてこそ核心的な存在理由があるということを無視して(というよりは、見て見ぬフリをして)、有権者(マス)の投票行動及びそれを利用する野心家による選挙結果のみを批判しているということです。
 次に重要なポイントは、有権者(マス)の問題意識を活性化し、可視化させることは、マス・デモクラシーをデモクラシーたらしめるための本質的な要請であるということです。エスタブリッシュメントの敷いてきた路線・方向性に反するという理由だけで、いわゆる「野心家」の行動を否定するのは本来「お門違い」というべきでしょう。私自身は、イギリスにおけるBrexitにしても、イタリアにおける五つ星運動にしても、新自由主義市場原理の席巻に対する有権者(マス)の批判感情がBrexit及び五つ星運動に対する支持表明という形を取ったものであり、「大衆扇動」「大衆迎合」という批判・非難はまったく当たらないと考えます。
 「ポピュリズム」批判のもう一つの問題点は、マス・デモクラシーにおいてはますます「有効適切なる行政の迅速かつ能率的な遂行のため、能ふ限り権力を集中」(丸山)するという要請が客観的にあるのであって、まして難問山積のロシア、フィリピン、トルコなどの国々において、プーチン等の強力なリーダーシップを備えた指導者が権力の座に就くことは、いわば起こるべくして起こっていることだということです。それを、西側エスタブリッシュメントの言いなりにならないからといって、批判の対象とすることはまったく的外れです。そのことは、大恐慌を受けたアメリカにおいて、ルーズベルト大統領が強力な指導力を発揮したことを想起すれば、直ちに理解できるはずです。
 私たちが考えるべき本質的問題は、マス・デモクラシーに即した制度を構築するということでなければなりません。それは正に、「有効適切なる行政の迅速かつ能率的な遂行のため、能ふ限り権力を集中し、しかもかく集中された権力をいかに民衆の意思に根拠づけるか」(丸山眞男)ということです。ここでは、有権者(マス)側の問題と「権力」側の問題とを考える必要があります。
有権者(マス)側の問題として私たちが最初に再確認するべきことは、普通選挙という制度はマス・デモクラシーの時代においても、デモクラシーの理念(「民が主」)を体現した制度であるということです。
その上で第二に、そしてこれこそが重要なことですが、有権者が、マス化の流れに身を委ねるのではなく、他人に対する寛容な精神を持ち、自己に対しては良心的な制約を課するというデモクラティック・スピリット(丸山)を涵養するべく、不断に自らの政治意識を高めていくことが必要です。しかし、そのプロセスは、「非政治的市民の政治行動」(丸山)の不断の積み重ねにより、有権者である主権者が自ら学びとり、修得することを通じてのみ可能になります(運動としてのデモクラシー)。
その過程においては、特定の野心家の政治支配を現出させるという「失敗」が個別的に起こることは覚悟しなければなりません。しかし、ヒトラーがワイマール憲法の下で権力を掌握し、世界に猛威をふるった事例(「ポピュリズム」の最悪のケース)は、21世紀の世界ではもはや再現することは不可能であることに、私たちは確信を持つべきです。
確かに、トランプ政権が国際関係に激震をもたらす可能性はあります。しかし、21世紀国際社会は20世紀前半国際社会とは、国際的相互依存の不可逆的進行(及び核兵器の登場)という点において様変わりしています。トランプが「第二のヒトラー」になることはアメリカの有権者(マス)が許さないし、21世紀国際社会が拱手傍観することはあり得ません。
 もちろん、19世紀に成立した諸制度をマス・デモクラシーの時代に適合させるための努力は常に必要です。デモクラシーの理念にそぐわなくなった制度を主権者側からの運動を通じて不断に更新していくべきことは当然です。
 また、マス・デモクラシーの時代においては、有権者(マス)の政治意識を不断に高めていく上での情報の重要性はますます高まります。正直私のような年代のものにとって、「情報革命」の人類史的意味を捉えることは至難です。しかし、人類の歴史は大筋において自らの道を誤ることはあり得ないはずです。
 もう一点つけ加えておきたいのは、マス・デモクラシーは普通選挙制度の確立によって始まったのですが、その本格的な自己主張はごく最近のことであるということです。つまり、第二次大戦及び米ソ冷戦という「重石」が取り除かれたことによって始めて、有権者(マス)は国家という権力に対して「民衆の意思」に自らの存在理由を根拠づけさせるための政治的条件を獲得しました。ところが、米ソ冷戦と時をほぼ同じくして新自由主義が自己主張を開始し、世界を席巻したために、有権者(マス)は再び翻弄されることになったのです。Brexitや五つ星運動は、マス・デモクラシーの新自由主義に対する最初の、正面からの異議申し立てです。このように、マス・デモクラシーの本格的実践は始まったばかりであり、今後も長い年月をかけた試行錯誤が不可避であることを、私たちは肝に銘じる必要があるのです。
 「権力」側の問題として考えるべき根本的な問題は、主権者の信託に応える権力を選出し、信託に応えなくなった権力を罷免できるメカニズムを構築するという課題です。具体的には、権力を担うに足る人材・指導者を登用・選出するメカニズムと、登用・選出された人材・指導者が主権者の信託に応えているかを常時チェックし、随時罷免・再任用できるメカニズムとを整備・確保する必要があります。この点で、マス・デモクラシー時代における制度的欠陥は明らかです。
 ロシア、トルコ、フィリピンなどの例に則していえば、西側メディアは好んでプーチン、エルドアン、ドウテルテ等を「独裁者」として描き出そうとしますが、彼らはそれぞれの憲法下で選出され、権力を行使しており、国内的には高い支持率を得ています。シリアのアサド大統領についても同様です。西側メディアの報道によると、アサドはとんでもない独裁者とされてしまいますが、アサド政権が5年にわたる内戦に持ちこたえてきたのは、国軍の結束した支持とそれなりの国民的支持(内戦下では世論調査を行うすべがないので、数字的に確認することは不可能)を抜きにしては不可能なことです。
 また、国際相互依存の進行という21世紀国際社会にあっては、Brexit、五つ星運動のケースに端的に示されるように、国家という権力のほかに、国際機関という権力の問題も考えなければなりません。つまり、主権国家を主要なメンバーとする国際社会において、主権国家(国家の主権者である人民(マス)ではない)から構成され、その同意の下で活動することが義務づけられている国際機関を、如何にして有権者(マス)である各国人民に対して有責である組織に作り替えていくかという課題です。

 以上から、いわゆる「ポピュリズム」批判は問題の本質をそらす実に有害無益な言説であるかということを理解できると思います。私たちが考えるべき課題は、マス・デモクラシーを真にデモクラシーたらしめるためには何を考え、何をなすべきかということです。そのことを考える具体的材料として、Brexitがあり、Trumpがあり、プーチンがあり、五つ星運動があるということなのです。