韓国における核武装の主張に接して思うこと

2016.11.02.

ハンギョレ統一文化財団と釜山市が共同主催する、「アメリカ新政府下の北朝鮮の問題と朝鮮半島の平和」を主題とする第12回「ハンギョレ-釜山国際シンポジウム」(10月27-28日)に出席しました。もっとも強烈な印象を受けたのは、朝鮮の核開発の急速な進展を前に、「韓国も核武装を」とか、それが無理ならば「アメリカの核兵器の韓国への再配備を」とかの主張、議論が当たり前のように飛びかう会場の雰囲気でした。私は1ヶ月半前ごろから、毎朝チェックするニュースの対象として、韓国最大発行部数と言われる朝鮮日報(内容的にも日本の読売に相当?)、中道右寄りとされる中央日報そしてもっともリベラルとされるハンギョレの3紙のWSを取り上げています。朝鮮日報ではこのような主張、議論が堂々と掲載されているのを見ていたわけですが、ハンギョレ主催のシンポジウムでもこのような主張、議論が飛びかっているのはさすがにショックでした。
 メイン・スピーカーとして登場したアメリカの元駐韓大使ドナルド・グレッグと金大中政権で南北首脳会談実現に大きな役割を果たした林東源(現在は財団理事長)が対談した際にも、モデレーターを勤めた延世大学名誉教授ムン・チュンインが以上の主張、議論が韓国では盛んに行われていることを紹介しつつ、両氏の見解を引き出そうとしました。さすがというか、当然というか、グレッグ氏も林東源氏も、NPT体制との矛盾、アメリカ政府の核政策との矛盾などを上げて、このような主張、議論の非現実性、真剣に議論するに値しないことなどを指摘していましたが、その後の会場からの質問においてもさらに同じ主張、議論が提起される異常さがありました。
 他方、過般の国連第1委員会では、「核兵器禁止条約」交渉開始を求める決議案に対して、日本政府はアメリカに同調して反対票を投じるという、わずか数年前ですら想像もできない現実が現れています。
 この2つの「異常さ」はまったく無関係ではありません。反対票を投じた理由として岸田外相は、「北朝鮮などの核、ミサイル開発への深刻化などに直面している中で、決議は、いたずらに核兵器国と非核兵器国の間の対立を一層助長するだけであり、具体的、実践的措置を積み重ね、核兵器のない世界を目指すというわが国の基本的考えと合致しないと判断した」と述べており、韓国国内世論も日本政府も「北朝鮮の核の脅威」に対して反応しているという点では同じだからです。
 私はまた、釜山に行くわずかな時間の間に、機内で放映されていた「シン・ゴジラ」を何気なく見ていた(時間の関係で最期までは見届けず)のですが、その内容に肝をつぶしました。ゴジラを倒すために、アメリカによる核攻撃の提案を受け入れるという政府の決定云々などの発言がまかり通っていたのです。しかも、この映画は営業的に大成功を収めているのです(寡聞故か、私はこの映画の内容に対する正面からの批判については聞いていません)。
 これらの現象に接して私がつくづく感じたのは、「広島・長崎はもはや跡形もない」という思いでした。事実としてつけ加えますと、広島の原爆資料館を運営する広島平和文化センターの現理事長は外務省のキャリア外交官の経歴の持ち主です。また、私が6年間在職した広島平和研究所は最近、防衛省及び外務省出身者を研究員として採用しています。広島市の「平和行政」「平和研究」に対して、政府・外務省は大きな影響力を行使できるようになっているのです(長崎はまだ頑張っている要素があります)。
 どうしてこのような事態になっているのか。根本的な原因は、日本政府が一貫してアメリカの核政策に追随してきたこと、そして、国内屈指の保守王国である広島が核兵器廃絶に目の色を変えて取り組んでこず、むしろ日本政府の核政策に対して譲歩し続けてきたことにあります(「広島は日本の縮図」です)。その結果、広島・長崎の「原爆体験」が形骸化し、なんらの発信力をも持ちえなくなっているのです。韓国で核武装論が公然と飛びかうのは、核兵器を単なる巨大な破壊力を備えたデタランスとしての捉え方しかないためです。放射能という本質に関する認識が韓国国内の議論において欠落しているのは、「被爆国」日本からの強力な発信がなかったことの一つの重大な結果です。
 私たちは、岸田外相が上記発言をすることに対する批判を行うだけでは十分ではありません。そういう政府・外務省の増長を許してきた私たち自身の「平和意識」に根源的な問題があるということを直視しなければならないと、私は思います。