米新政権の対朝鮮政策及び朝鮮半島の平和と安定に関する政策提言

2016.10.25.

9月29日付のコラムで紹介しましたが、明26日から29日まで釜山に出かけます。私の発言時間は15分と短いので、私が特の強調したいポイントを2点にしぼった発言原稿を作成しました。以下に紹介します。

 第一のポイントは、オバマ政権を含めた米国の歴代政権は、自らの価値観を中心とした国際共同体(international community)の形成を対外政策の中心に据えてきましたが、21世紀の世界は、前世紀までと同じく、様々な価値観を奉じる主権国家を主要な成員(メンバー)とする国際社会(international society)であり、国際社会を「社会」としてあらしめているのは国際法であるということです。
 すなわち、国際社会(international society)と国際共同体(international community)とはまったく異なるのであり、間もなく行われる大統領選挙で選ばれる新政権は、国際社会の一員として、朝鮮半島の平和と安定の実現を含む国際的諸課題に対して、主権国家の対等平等、主権尊重、内政不干渉を基本原則とする国際法に従って行動することを学びとらなければなりません。この課題は、米国にとって極めてハードルが高いのですが、朝鮮半島を含む国際の平和と安定を実現する上で、米国はどうしてもこのハードルを克服することが不可欠です。
 米国にとって「国際社会の一員として国際法に従って行動する」ということが、他の国々と比べて特に難しい原因は、大きく言って2つあります。
一つは、「独立宣言の「生命、自由、及び幸福の追求」という価値を体現する米国は、理想の国として世界から仰ぎ見られる存在」であるという建国以来の自信です。したがって、世界が米国と同じようになることが良いことなのだ、という確信と使命観を持つことになるのです。  もう一つは、第一次大戦前から世界第一の経済大国になり、第二次大戦を経て世界第一の軍事大国となったことです。その結果、米国は、「世界を米国と同じようにする」という使命感の実現のためにその実力を行使することを当然と考えるようになりました。
 この2つの要素は、国際社会を規律し、国際社会を「社会」たらしめている国際法を、米国が軽視することにつながっています。すなわち、米国が体現する価値の実現という要請は、国際法に従うという要請よりも価値が高いと見なされます。そして、米国の政策実現のための圧倒的な実力行使を重視する考え方は、本来米国をも縛るべき国際法を、米国の政策実現のための手段という位置づけにするのです。その結果、米国にとって都合が良いときには国際法をふりかざし、都合の悪いときにはこれを無視し、さらにはそれに従わないということになります。
 20世紀までの国際関係では、そのような米国のアプローチが曲がりなりにも通用してきました。しかし、21世紀の国際社会は、もはや米国の思いどおりになる世界ではありません。
まず、新興諸国の台頭は、米国の世界における相対的地位の低下をもたらしています。例えば、朝鮮半島の平和と安定を実現するための6ヵ国協議という枠組み自体、米国だけでは朝鮮半島問題を解決できないことの端的な証明です。
また、国際的相互依存の不可逆的進行により、米国が軍事力を思いどおりに行使することは難しくなっています。例えば、米国は盛んに米韓合同軍事演習を行って朝鮮民主主義人民共和国(以下「DPRK」)に屈伏を強いる政策を追求してきましたが、DPRKに対して軍事力を行使する決断を本気で下すことはますます困難になってきています。なぜならば、DPRKの必死の反撃は、朝鮮半島だけではなく、世界の平和と安定を直撃するからです。それこそが国際相互依存の進行が意味することです。
 以上から明らかなとおり、米国の新政権が従来どおりの対外政策を続けることはもはやあり得ないし、許されないというのが、21世紀国際社会が米国に対して課している厳粛な事実です。したがって米国は、朝鮮半島の平和と安定を実現するという課題についても、国際社会の一員として、国際法に従って解決するという基本原則を我がものにしなければなりません。
 ちなみに、日本及び韓国も、米国とは異なる背景ではあるにせよ、「国際社会の一員として国際法に従って行動する」という大原則を我がものにしていません。したがって、米国新政権がこの基本原則を我がものにすることは、日本及び韓国のDPRKに対する認識及びアプローチを改めさせることにつながります。
 第二のポイントは、米国をはじめとする大国は、国連憲章を含む国際法の解釈と運用において恣意的であってはならないということです。朝鮮半島の非核化という問題に関しても、米中露による国連憲章の恣意的な解釈と運用こそが問題の解決を複雑にし、困難にしています。
 端的に言えば、DPRKの核ミサイル開発に対する米中露のアプローチは、国際法上重大な問題があります。それは、DPRKの核兵器開発及び人工衛星打ち上げの双方についてです。
 まず、DPRKの人工衛星打ち上げに関して言えば、DPRKが宇宙条約に基づく権利の行使として人工衛星を打ち上げることに対して、米中露が国連安保理決議をもって禁止することは許されるはずがないし、許されてはなりません。なぜならば、宇宙条約はもっとも基本的な国際条約であり、国際法であって、それに基づいてすべての国家が有する宇宙の平和利用の権利を、安保理決議が禁止し、制限する権限はあり得ないからです。そのようなことが許されてしまえば、国際法は土台から崩されてしまい、国際社会は一部の大国が支配する19世紀に戻ってしまうことになりかねません。
 米中露は、国連憲章第25条により、安保理は加盟国に対して拘束力ある決定を行うことができると主張します。しかし、宇宙条約は、宇宙の平和利用に関する加盟国の権利について定めたもっとも基本的、原則的な国際法です。それは、国連加盟国観の対等平等、内政不干渉を定めた国連憲章と同等の重みをもった国際法です。宇宙条約に基づく加盟国の権利を安保理決議が勝手に制限できるならば、国連憲章に基づく加盟国の基本的権利も安保理決議で制限できる、という議論がまかり通ることにつながります。国連憲章第25条が、国連憲章そのものを否定する権利を安保理に与えているはずがありません。DPRKが安保理決議を無効とし、無視するのは当然です。
 次に、DPRKの核開発に対する米中露のアプローチに関しても、国際法上、重大な問題があります。すなわち、「条約は当事国のみを拘束する」という大原則に基づき、核拡散防止条約(NPT)を脱退した上で核実験を行う周到さを示したDPRKに対して、米中露が安保理決議を利用して、「NPT違反」として取り締まる権限はあり得ません。米中露は、NPTはもはや一般国際法であると強弁するかもしれません。しかし、仮にそうであるとすれば、インド、パキスタン、イスラエルを野放しにするのは許されないはずです。米中露は明らかに「NPTの二重基準の適用」という重大な誤りを犯しています。DPRKが安保理決議を無効とし、無視するのは当然です。
 したがって、米国新政権は、中露とともに国際法に則ったアプローチを行わなければなりません。
 まず、DPRKの人工衛星打ち上げの権利に関しては、これを認め、尊重することを出発点に据えることが不可欠です。また、ミサイル発射実験に関しても、これを取り締まる国際法は存在せず、例えば、日本も韓国も自由に実験をしていることを踏まえれば、米中露は安保理決議によって取り締まるという発想自体を捨てるべきです。さらに、DPRKの核開発に関しては、米国は中露両国の協力を得つつ、DPRKが安心してNPTに復帰することを促す政策を採用するべきです。
 具体的には、米国新政権は、DPRKの安全保障上の最大の関心が米国による軍事的脅威であることを直視しなければなりません。DPRKが提起している停戦協定の平和協定への転換、さらには米朝国交正常化の提案を真剣に検討するべきです。この前提条件が充たされるならば、そのための具体的ステップとして、米朝直接交渉あるいは6ヵ国協議のいずれにもDPRKは応じるでしょう。この外交交渉の中でDPRKの非核化を含む朝鮮半島の非核化、そしてDPRKのNPT体制への復帰を話し合うことが可能になります。ちなみに、以上のことは6ヵ国協議の9.19合意に盛り込まれていることであって、米国にとって何ら譲歩ではありません。米国オバマ政権が採用している、DPRKの非核化同意を前提条件とする政策こそが9.19合意を逸脱しています。
 結論として、特定の国家を脅威と見なすパワー・ポリティックスのゼロ・サム的発想は、国際相互依存の不可逆的進行を特徴とする21世紀国際社会においてはもはや時代錯誤です。米国新政権が時代の巨大な変化という潮流を直視し、国際社会の責任ある一員としての自覚と責任感を我がものにすることを、私は心から期待しています。