丸山眞男の思想に学ぶ(公開講座)

2016.10.07.

第1回 思想形成のあゆみと丸山政治学の基線
 6月4日付のコラムで紹介しましたが、10月25日、11月15日及び12月6日の3回、大阪経法大学アジア太平洋研究センター(最寄り駅・地下鉄神谷町)主催の公開講座・市民アカデミアで、「丸山眞男の思想に学ぶ」と題して、私の個人的な丸山理解についてお話しします。10月25日の第1回は、「丸山眞男の思想形成のあゆみと丸山政治学の基線」ということで、丸山の思想形成にとって重要な事件・出来事に関する丸山の発言と、丸山政治学の基線となったポイントに関する丸山自身の指摘を整理しつつ、私の理解をお話しすることにしています。その構成は以下のとおりです。
もう一つ、私は被爆者としての丸山眞男の原爆体験に関する発言にも大きな関心を持っています。そのことについてもお話ししたいと思っています(大きなポイントとしてあると思うのは、丸山が核兵器独自の放射能という問題に目を向ける以前とその後では、丸山の視線に大きな違いがあるということです)。ただし、分量が多いので、ここでは紹介を控えます。
 このようにご案内する直接的理由は、センター事務局から、10月4日現在の受講応募者が19名であり、私自身ももっと宣伝するように「尻をひっぱたかれる」状況があるからです。私はもともと自己宣伝が好きでも得意でもないのですが、今回の3回シリーズのお話しには個人的思い入れ(幾多の先行研究に接してきましたが、私がもっとも重要だと確信している丸山眞男の思想に関する指摘・解明に接したことがないという「不遜な思い」から、私自身の丸山理解を是非皆様にも共有して頂きたいという思い入れがあります)もあり、一人でも多くの人に参加していただいて問題意識を共有してほしいので、あえてくり返し、ご案内させて頂く次第です。

1.思想形成のあゆみ

(1)幼少期の体験

〇関東大震災
 「(関東)大震災のとき、ぼくは小学校四年で、「恐るべき大震災大火災の思出」というのがぼくの書いた最初のルポルタージュで、そのあと付録でいくつか書いたんだけどね。その五番目には大杉栄の問題っていうのがあるんだけど、そこは空白で。……いくらぼくが生意気でもね、小学校四年生でね、大杉栄のことを書けるはずがないですよ。だけど非常なショックだったから。暴利取締令とかね、いろんな項目があるんだ。暴利取締令は何か書いたけど、最後は大杉栄問題とだけ書いて、何も文章は書いていない、空白です。だけど、頭に非常にあった。おふくろなんかは、(大杉の)甥っ子まで一緒に殺されたことで、「ひどい」って言って、小学生の時だけど覚えています。」(『自由』)
〇中学校での軍事教練
 「中学校で習志野に軍事教練に行ったときのことです。宿舎で何かいたずらの騒ぎをおこして先生から集合を命ぜられたことがありました。その時、先生は「首謀者は前に出ろ」といいました。私はまぎれもなく首謀者-すくなくともその一人でしたが、先生の形相がこわくて出そびれてしまいました。そのかわりほかの生徒が先生に主犯と目せられ、実は大した役割をしていなかったのに、可哀そうに大目玉を喰ったのです。すくなくとも十何人かの級友はこの光景を目撃しています。どんなに彼等の目に私はずるがしこい卑怯者と映ったことでしょう。私はいまでも中学のクラス会にあまり出たくないのは、このときだけでなく、中学生時代の自分自身について後々までむかつきたくなるほどの嫌悪感をもよおす思い出があるからです。…
 けれども、『君たちは……』(丸山:昭和十二年に『日本少国民文庫』の一冊として新潮社から出た『君たちはどう生きるか』)の叙述は、過去の自分の魂の傷口をあらためてなまなましく開いて見せるだけでなく、そうした心の傷つき自体が人間の尊厳の楯の半面をなしている、という、いってみれば精神の弁証法を説くことによって、何とも頼りなく弱々しい自我にも限りない慰めと励ましを与えてくれます。…自分の弱さが過ちを犯させたことを正面から見つめ、その苦しさに耐える思いの中から、新たな自信を汲み出して行く生き方です。」(『集』⑪ 「「君たちはどう生きるか」をめぐる回想」)
〇目に見えない何者か
 「(「先生のお話を聞いていますと、おばあさんやお母さんからの幼児の、子供の頃の宗教的環境といいますか、教育的環境が先生の意識の底に……」という問いに答えて)大きいですね。大きくなってバイブルを読んで感応するところがあるわけです、キリスト教徒にはならないですけれど。また普段南原先生を見ているとか、いろいろなことが。そうすると、もしこの目に見えない何者かを信じなければ、あの時代に、ルッテルじゃないけれど、「我ここに立つ」という勇気は出てこないんじゃないか。周りがみんな敵になっちゃっても、「我ここに立つ」。わたしはこれ以外にしかたがない。ヴェーバーも引用しているけれど、周りが全部非で、自分はここに立っている、いくら考えてもこれ以外やりようがない。満天下を敵として、神様のバックがなければできないですよ。総転向の時代でしょう。神様でなくてもいいんだ、何かそういう眼に見えないものを信じなければ、目に見えるものに引きずられる。それが多数であろうと、世論であろうと。目に見えるこの世の力に人間というのは弱いものだという、抜きがたい僕の戦中体験があったわけです。
 それから、マルクス主義者の非転向はほとんど獄中組でしょう。あれはつまり、世の中との接触がないから頑張れたの。一種の自然法なんだ。「我ここに立つ」で、みんな獄中にいたからできるのであって、毎日〔外界と〕接触していたら、ああはいかない。あれは「歴史の必然性」というのが信仰なんだ。歴史は必ずこういう方向に進むということ、それ自身が信仰なんだ。マルクス主義の歴史観からの、資本主義社会の行く末に対する信仰があったからなんだ。だから最後に自分を支えるものは、神様じゃなくてもいいんですね。どうしてもそういう考えになっちゃう。」(『手帖』52 「丸山眞男先生を囲む会」)

(2)一高時代の2つの体験

〇留置場体験
 「 (先生の留置場経験は、‥アイデンティティー・クライシスを通じて自己認識が変わったというだけではなくて、人間観一般にも影響するということがあったのでしょうか。‥人間観の転回につながるようなご経験があったのではないでしょうか。」) それは確かにそうです。自己分析というか自己批判の結果、自分のだらしなさというか、自分の弱さというか……。」(『回顧談』上)
 「高等学校時代に捕まったときに、留置場というのは絶対な孤独の世界です。ぎっしり詰め込まれているんですけれども、精神的には全く孤独でしょ。国家権力と自分しかいないという。そういうときに、オーバーに言えば、絶体絶命の危機に臨んだときに、学問とか知識とかいうものが、自分を支えるのに足りないという経験です。消極的に言うと、高等学校のときに学んでいるわけです。‥ぼくが自分の経験を通して学んだのは、経験的な科学を超えた、なにものかへのコミットメントがないと、時代に対する抵抗もできないし、たんなる経験的学問では自分を支える精神的支柱にもならないのではないかということです。」(同上)
 「僕がつかまって、あと解放されたとき、灯のともった本郷通りを歩いたときの感想! バナナ屋は相変らず、バナナを人々の前にぶらさげてたたき売り、ゴモク屋の前には人だかりがしてみな言葉もなく、ゴバンの「問題」をみつめている。そうして、本富士署の壁一つ隔てたあのなかでは、すさまじい拷問がいま行われているのだ。政治の世界とその「外面」性。」(『自己内対話』)
 「私が最初に留置場から釈放されて、街灯のついた本郷通りを出たときに私の頭を瞬時にかすめたものは、本富士署の壁一つへだてた「内」と「外」との二つの世界の極端な対照だった。内では凄惨なゴウモンと悲鳴、外では寮歌のひびきと、バナナ屋が客を呼んでいる陽気な声!」(同上)
 「私は不覚にも一睡もできない留置場で涙をながした。そのことがまた、日頃の「知性」などというものの頼りなさを思いきり私に自覚させた。‥この留置場での、感化院を数回脱走した不良少年、あるいは、不渡手形を出した会社社長-しかも、奥さんがいまにも出産しようとしており、二たこと目には看守にその心配を訴えていた社長とか、自分の名前さえ明かそうとせず、凄惨なリンチを受けて房に帰ってくる朝鮮人運動者とか、「しっかり」している東大細胞のキャップらしい松山高校出身の学生(ほとんど大人(おとな)に見えた!)とか、いろいろの人種との「つき合い」は、軍隊体験にまさるとも劣らぬ深い人生についての経験をまだ満二十歳にも満たぬ私に植えつけてくれた。ただ、釈放される前に、東京高校の寡黙な学生から依頼されたルポをことわったことは、私の心の奥底の傷としていまでも残っている。
 本郷通りの夕暮れのバナナ売りの光景のことは前にのべた。‥あまり記憶が定かでないが、ほとんど本能的なまでのナチぎらいになったのは、大学入学以後のことだったように思う。」(同上)
「留置場から解放された時、もう夜なんですけれど、本郷通りでバナナ屋がバナナを売っているんですよね。その隣には賭け碁の屋台が出ていて、人たかりしている。本郷通りにずーっと夜店が出ているんですよ。‥で、本富士署から釈放されて、トボトボと寮に帰って行くわけですけれど、そこをずーっと帰って行くわけ。すると、五〇銭! なんてやっているわけですね。あの時の感じは忘れられないなぁ。
物凄い世界から出て来たんですね。拷問されると、もう血みどろになって、顔中包帯してまた帰って来るという、本当に陰惨な世界ですよ。僕は全くその意味では実に平凡な普通の家庭に育ったわけですから。‥それがパッとそういう世界に出て来る。壁一重のあそこでは、今でもあの拷問が行われているというのに、ここでは何事もなかりし如くに、バナナを売っているわけですね。そこから来る実感というのは僕の中に非常に深く入っている。一種のニヒリズムですね。…
二つのナチの暴圧。「現代における人間と政治」(『丸山集』第九巻)にもちょっと書いたけれど、ああいうことです。つまり、ナチの暴圧と言ったって、民衆は、暴圧もヘチマもなくて呑気に暮らしているじゃないかという。‥何か、そういう国家権力もむなしいけれど、国家権力を打倒するとか、革命とか、何かそういったむなしさというか。そういうことを上の方でちょこちょこやっていて、民衆というのはいつもただ、バナナを売ったり、パチンコしたりしているじゃないかという、そういう感じですね。
それがどこから出て来たかというと、どうもあの実感は、留置場から釈放された時の、壁一つ向こうではあれだけのことが行われている。朝鮮独立の奴もいるわけです、朝鮮人のね。これなんかも凄いですよ、半殺しです、取り調べから帰ってくる毎に。ほとんど気を失って帰って来るけれど、爪抉(えぐ)られて。ぐるぐる包帯してね。それでも名前も言わないんですよね。‥凄いもんだなぁと思ってね。左翼の奴は、凄い奴がいますよ、東大の奴でも。悲惨なところがちっともないんですよね。留置場の中で冗談ばかり言っているんですよ。そりゃ看守が来れば、みんなパッと止めちゃうけれど、向こうへ行っちゃうとエヘラエヘラしているんですね。そりゃ凄い闘士でしょう。やっぱり凄いな、僕なんかとってもああいう人間にはかなわないな、と思った。」(『手帖』47 「丸山先生にきく 生きてきた道 その2」)
 「高等学校二年生の終りごろ、私はまったく思いがけなく、本富士署に逮捕される目にあいました。…そのときの私はまさしく不覚をとったのです。…今後どういう運命が待っているかまったく可測性のない思想犯の烙印を押された自分は一体どうなるのか、このことが親に知れたら……といった、さまざまの思いが混乱した頭の中で飛びかう第一日の晩に、私の頬をポロリと涙が伝いました。‥「不覚」をとって涙をこぼした自分のだらしなさ、しかもそのことを同じ房につかまっている-このほうは本物の-思想犯の学友に見られたことの恥しさの意識は、これまた長く尾をひいて私の心の底に沈澱しました。けれどもそのときのだらしなさと恥しさの意識が、何ほどかその後の私をきたえたこともまた事実です。戦中のあの状況では、どんな事態が突如自分を襲うかもわからない、という心構え-つまり「不覚」と反対の心構えがいつしか身についたせいもあるでしょう。どんなに弱く臆病な人間でも、それを自覚させるような経験を通じて、モラルの面でわずかなりとも「成長」が可能なのだ‥。」(『集』⑪ 「「君たちはどう生きるか」をめぐる回想」)
 「(唯物論研究会の講演会に出かけて捕まったとき)特高が言ったのは、「如是閑なんていうのは、戦争が始まったら真っ先に殺される人間なんだ」って。‥昭和八年ですね、ぼくが捕まったのは。殺されるという意味はね、決して死刑になるとかそういうことじゃない、虐殺なんですよ。特高がそう言うときには。国家のためには虐殺してもいいということなんです。ぼくはね、子どものときから如是閑を知ってるでしょ、目の前が真っ暗になりました。‥殺されるというと、ぼくはすぐ大杉栄を連想した。」(『自由』)
 「その時はそのまま済んでたんですけど、一年か一年半くらい経って、いきなり特高がウチへ来たんですね。それでまいっちゃったわけです。おふくろが泣きだしちゃうしね、それで実は捕まったんだと言った。ぼくはもう東大に入ってまして、そのとき白状したんですけども。それから盆と暮れは必ず特高です。このごろ何してんだとか言ってね、兵隊にとられるまで。…
 助手になってからも牛込憲兵隊へ「何月何日、出頭されたし」と、呼び出しがある。当日行ってみると、何しろ帝国大学助手ですからね、判任官です、お茶なんか出してきてね。それでね、ま、さすがに憲兵だな。もちろん私服で、、お茶おあがんなさいなんて言って。
 その前年(一九三六年)でしたか、社会大衆党が十何人か当選して、二・二六の前かでね、反ファッショの民衆の現れだなんて言われたことがあるんですよ。‥憲兵が、「私たちも、社会大衆党から何十人も出るようになったら、あんた方について社会主義の勉強しなくちゃなんなくなりましたなあ」なんて言ってたんだ。要するに、お前の動向は一挙手一投足ちゃんと見張ってるぞということですよ。その嫌な気分たるやね、忘れられないなあ、ぼくは。つまり、どこにいたって、こうやって話してたってね、どこかに盗聴器が仕掛けてあってみんな分かってるというようなことでしょ。今の日本からは想像がつかないですよ。あのいやな気分といったらないですよ。
 だから、軍隊へ行って、はじめてホッとした。特高が来なくなったから。それまでは、もう永久監禁みたいなものだから。必ず、盆、暮れには特高か憲兵。しかも、牛込憲兵隊の呼び出しのときはまだいい、お茶が出てきて、向こうも丁寧な言葉つかって言うけども。簡閲点呼というのがあるんですね。その日一日は大元帥のもとに入って、一日だけ兵隊になるんです。ぜんぜん待遇が違う。憲兵の態度が。杉並小学校の校庭二千人以上集まって、点呼司令官が、連隊区司令官ですが、「本日はご苦労であった、解散!」と号令かける。すると、そこに小さな紙もってくる。と、「ちょっと待った、丸山シンダンというの、この中にいるか、いたら手を挙げろ」ってね、「お前だけ残って、あとは解散!」。しょうがないから、ぼくは連隊区司令官のところへ行くと、運動場の隅へ行けという。で、そこへ行くと、牛込憲兵隊がいるわけですよ。そのときは待遇がまったく違う。それは統帥権のもとに入っているからですよ。こっちは二等兵になるわけでしょ、向こうは憲兵だからずっと上だ。「お前はこの頃どんな本を読んでいるんだ」ガラッと態度が違う。」(『自由』)
〇ストーム禁止案可決問題
 「ぼくが寮の委員のときに起こった大事件が‥ストーム禁止案が総代会で可決されたことです。…これは、ぼくにとっては非常に大きな傷になった。ちょっと極刑(退寮・退学)はひどいじゃないかと思いながら、副委員長のまくし立てるのに押されて、ノーと言わなかった。‥ティーンエージャーの子どもにとって、セルフガバメントというのは、あまりに重い課題なんです。」(『回顧談』上)

(3)大学時代以後敗戦まで

〇尾崎咢堂:自然権(国家以前の権利)
 「電撃のごとくぼくを襲ったのは、顎堂が「われわれの私有財産は、天皇陛下といえども、法律によらずしては一指も触れさせたもうことはできない。これが大日本帝国憲法の主旨だ」と言ったことです。ぼくは目からウロコが落ちる思いがしました。‥天皇陛下といえども、法律によらずして、私有財産に一指も触れることはできないと言う。そういう議論は聞いたことはないのです。‥いかなる権力も侵すべからざる権利としての私有財産というのはヨーロッパ的ですね。なるほど、そういうものかと思ったので強く印象に残っています。」(『回顧談』上)
 「そのとき、なぜショックだったかというか、ある意味では、目からウロコが落ちる思いがしたというのは、難しく言えば、自然権としての私有財産権、つまり国家以前の権利。そういうことがらはマルクス主義のなかには出てこないのです。すべて歴史主義的思考で、ブルジョア自由主義も歴史のなかに生まれたものとして見る。自然権という考え方はない、自然法という考え方もないから。顎堂の講演から受けたショックはそこなのです。私有財産は自然権だから、天皇陛下であろうと、一指も触れられないという。」(同上)
「咢堂については、まさに文字通り自由主義の再評価なのです。…咢堂は文字通りオーソドックスな自由主義です。自由民権から直接きたような、社会主義的な内包を少しも持たない自由主義でしょう。ぼくはまさに、そこに感銘したわけです。」(同上)
「尾崎咢堂の演説を聞いて愕然として考えたのは、自然権ということです。前国家的権利、実定法以前の権利としての私有財産権、個人の自由権というもの、いわゆる天賦人権説です。ホッブスから、ロック、スピノザ、ルソーにずっと伝わってくる自然法の考え方。カトリック自然法や中世スコラ的自然法と違った近代自然法ですが、咢堂は、そういうものの直接的な系譜として、非常に新鮮だった。」(同上)
「咢堂の演説だけで、そんなにびっくりするといううのはおかしいのですけれども、それが頭にあったということなしには、軍隊でポツダム宣言を読んだときの背筋を走った電撃というのは、理解できない。「基本的人権の尊重は、確立せらるべし」。ファンダメンタル・ヒューマン・ライツという言葉は英語では読んでいましたけれども、ほとんど日本語では言わなかった。自由主義の立場に立つ人も、個人の侵すべからざる権利とか言っていたけれども、基本的人権という言葉は言わなかった。ぼくにポツダム宣言の基本的人権がすぐピンときたのは、咢堂の講演が背景にあったからではないかと思う。それが、ポツダム宣言では「言論、宗教及思想の自由」に続くのです。」(同上)
〇南原繁:内面的な人格の自立
 「南原先生から受けたものは多様ですから、‥あまり大きすぎて、影響という言葉を使えば、影響が大きすぎて一言では言えないのです。ウル・カント〔原カント〕というのか、新カント派ではなくて、カントそのもの、つまり人格の自立ということ。それは自由主義の一つの要素であるかもしれない。‥だけど、南原先生は、もっと内面的な人格の自立ということで、レッセフェールとは関係ないのはもちろん、原子論的個人主義とも異なり、啓蒙的個人主義とも啓蒙的な理性とも異なる。ある意味では原プロテスタンティズムと言ってもいい。つまり、神と直結したような個人の良心の問題です。ぼくはもちろん信仰はないけれども、ぼくが圧倒的な影響を受けたものを、しいて概念化すれば、そういうものの持っている強さということです。強さというのは、周辺の情勢、自分の周りから、日本のあるいは世界の状勢や動向というものに左右されない内面的な確信です。」(同上)
「まさに南原先生的な、象牙の塔的学問を、ぼくはどっちかというと軽蔑していたでしょう。その南原先生に咫尺(しせき)の間(かん)に接した。時代批判の厳しさというか、時代の潮流に対して少しも動かされない、その確固としたもの。‥宗教があるかどうかは別として、南原先生のそれはむしろ実存的なものだから、学者というより、人間としてしっかりしていて、右顧左眄(うこさべん)しない。世を挙げて翼賛時代でしょう。だから、そのこと自身、大変なんですね。‥ぼくはかつて、存在と当為を峻別するなんてと、容易に新カント派を批判していたし、南原先生の立場を批判していたのだけれど、いずくんぞ知らん、存在と当為を結びつけるヘーゲルなんかをやっているのは、京都学派も含めて、ぜんぶ時代に流されてしまった。ぼくが学問的には批判の対象とし、資質的にも馴染まなかった、カントばかりやってる人のほうが、ちゃんとしていた。…
激動期だったけれども、そのときに得た一つの教訓は、どういう人間を信用するかということです。‥ぼくは、人を信用するかしないかについては、いざというときにこの人間はおれを裏切るかどうかという判断が、ぼくの唯一の基準だと言いました。右とか左とか、そういうことではないと。…自分が助かりたいために、手段を選ばないというのは、本当に恐いです。悪いといえば権力のほうがもっと悪いのだけれども。」(『回顧談』下)
〇福沢諭吉:心の支え
 「福沢はやっぱり心の支えでしたね。戦争中を通じて心の支えでした。繰り返し、繰り返し、読みました、福沢は。…
 ああいう〔福沢の〕思考方法というものを、できるだけ体系化してみようというふうに考えたのは、戦後でしょう、恐らく。
 戦争中はむしろ、痛快、痛快という気持ちで読んでいたんだから。武士の権力はゴムの如くってね。接する者にしたがって、膨張したり収縮したりすると。で、強いやつと向かうとへこんで、弱いやつに向かうと膨らむなんてね。全く痛快、痛快ですよ。〔福沢の言う〕武士ってのは、そのまま〔戦争中の〕軍人なんだ。だからそういう非常にイデオロギー的な見方です、むしろ戦争中は。福沢の儒教批判もそうですしね。〔福沢によって〕儒教と言われているものの中には、当時〔戦争中〕の国体論みたいなやつが入っているわけですから。」(『手帖』47 「丸山先生にきく 生きてきた道 その2」)

(4)敗戦

〇「無理は通らない」
 「戦争が終わってみると、いわゆる罵倒されていたインテリが考えていたことは間違っていたことは一つもなかった、という点で何か図太い自信みたいなものができていますね。つまり勘みたいなもので、こういうのは無理だなっていう、-安保じゃないけれどね。どこか無理があると思う時には、やっぱりその無理は通らないという感じね。どんなに勢いを得ていても通らない、まぁスターリンもそうだし。歴史というものは無理はやっぱり通らないっていう、そういう一種の感じというのは何か得たような気がするんです。」(『手帖』47 「丸山先生にきく 生きてきた道 その2」)
〇天皇制との決別
 「ぼく自身も「転向」をしているわけです。変な話だけれど、‥「超国家主義の論理と心理」〔丸山集三〕は、ぼくの自分史にとっては画期的でした。前から考えていたことを、言論が自由になって発表したということでは決してないのです。敗戦の翌年の三月ごろに執筆し、発表したのは五月号です。一気に書きましたけれども、しかし、敗戦からは半年たっているわけです。その間、迷いに迷いました。あそこで書いたことを自分の考えとするには。あそこでは、ポツダム宣言と同じ思想、つまり、国民が自由に発表した意志が日本の最終の政治形態を決定するという考え方を表明しているわけです。それは決してぼくの元からあった思想ではない。それまではもっと天皇と一体化したような国民という考え方でした。」(『回顧談』上)
〇全面的な自己批判
 「戦争直後の十何年間というものは、何と言うのかな、全面的な自己批判ですよね。そういうものが非常に苛烈だった。今までの学問じゃダメだ。今までというのは、生産主義ですね。それは非常に熾烈だった。だから、例えば真面目主義が出てくる、今までの政治学を批判する。ここで日本をたたき直さなければ、腐りきっていると。そういう気持ちは、若いしね、青年将校じゃないけれど。‥  だから過去の政治学にも否定的。あんなものは何の役にも立たないという気があるんですよ。」(『手帖』47 「丸山先生にきく 生きてきた道 その2」)

(5)戦後

〇普遍主義への自覚
 「(「先生はuniversalisticだと思うんですけれども、そういうことはいつごろから自覚なさいましたか」という問いかけに答えて)「それは、全然自覚しませんでしたね。外国へ行って自覚しました。つまり外国へ行くまで自覚しなかったんです。‥
 つまり、僕は外国へ行って自信をつけて、非常にコスモポリタンな人間になったと思うんです。‥ロンドンの地下鉄の中を歩いている感じと東京の地下鉄の中を歩いている感じが同じなんですよね、感覚として。俺は異郷にいると思ったこともないし、日本にいると思ったこともない。‥つまり自己意識がないわけですよ。人生至る処青山あり、というあの実感は外国へ行って感じた。だけど好(ハオ)〔竹内好〕なんかは偉いね、それをずっと前から言っていたんです。好さんに、なんだか面倒くさくってね、と言ったら、大丈夫だよ、同じ人間が住んでいるんだよ、と彼は言っていたんだけれど。彼は中国だよ、やっぱり。僕はそういうこと、実によく分かった。‥(「丸山先生のお帰りになった姿を見て、‥第二の開国に居合わせた人で、この人は和魂洋才なんだな、と思いました」と言われたのに答えて)洋魂なのかね。外国人から言われることで、非常に面白いと思うのは、実にwesternで、しかも徹底的に日本人的だって言うんです。」(『手帖』48 「丸山先生にきく 生きてきた道 その3」)
〇生きがい
 「価値体系っていうのはむずかしい哲学をいうんじゃなくて、何を何より重んずるかという、その価値の序列が価値体系なんです。人によってそれぞれ価値の序列が違うんです。…価値のスケール、価値の序列ですね。序列の多様性を認めて、その多様性を認識する能力がないとわからない。…
 つまり、俗な言葉でいえば、生きがいです。‥僕はそういう哲学的な、坊さんみたいなこと[を言うの]は嫌いなんだけれど、しいて言うならば、死ぬ時に「俺はやることはやった」という、そういう思いがあればいいんです。ところが死ぬ間際になって、俺は一体何のために生きてきたのかというのは、僕は不幸だというんだ。」(『手帖』11 「早稲田大学 丸山眞男自主ゼミナールの記録 第一回(下)」)

2.丸山政治学への基線

〇認識と価値判断を峻別することに対する懐疑
 「認識と価値判断を峻別することに対する懐疑がいつもあった。社会科学は、価値判断を完全に排除して成り立つのかというのは学生時代からの疑問で、従って南原先生に対する疑問でもあった。これは南原先生に対する誤解なのだけれど、南原先生の依拠している新カント派に対する疑問なのです。当為と存在の峻別に対する疑問。当為を峻別した完全な認識というのはできるのかという、まさにぼくが南原先生に提出した論文で言っている疑問です。社会科学では、認識主体と認識客体とは分離できないのではないか。認識すること自身が一つの実践になるのではないか。その宿命を負っているのではないか。影響といえばマルクス主義の影響になってしまうのかもしれませんけれども、その問題は学生時代から、ずっとつきまとっています。」(『回顧談』上)
〇非歴史的なもの(「普遍」)の持っている強み
「学問的に反省させられたのは南原(繁)先生です。これは自然権ではないけれども、新カント派でしょ。新カント派というのは非歴史的なのです。非歴史的なものの持っている強みというのかな。時代がどうだからというのではなくて、絶対的なある価値に照らして正しいかどうかということが、まず来るわけです。非常にはっきり、時代のほうが間違っているのだ、時代は間違った方向に歩みつつあるということを、当たり前のこととして言えるわけです。圧倒的に、時代がある方向に向いていますと、歴史主義だと、これが歴史の動向なんだという主張にかなわないのです。南原先生を通してうけたのは、歴史主義に対する反省でしょうね。」(『回顧談』上)
「私の思想へのマルクス主義の影響がいかに大きかったにしても、それを全面的に受け入れることに対しては、「大理論(グランド・セオリー)」への私の生得の懐疑と、それから人間の歴史の中で働いている理念の力への私の信頼との両者がつねに牽制要因となった。他方、唯名論の方へどんなに引き寄せられても、そのことが、有意味な歴史的発展という考えをまったく私から捨て去らせるまでには至らなかった。私は自分が十八世紀啓蒙精神の追随者であって、人間の進歩という「陳腐な」概念を依然として固守するものであることをよろこんで自認する。私がヘーゲル体系の真髄とみたものは、国家を最高道徳の具現として賛美した点ではなくて、「歴史は自由の意識に向っての進歩である」という彼の考え方であった。…私は歴史における逆転しがたいある種の潮流を識別しようとする試みをまだあきらめてはいない。私にとって、ルネッサンスと宗教改革以来の世界は、人間の自然に対する、貧者の特権者に対する、「低開発側」の「西側」に対する、反抗の物語であり、それらが順次に姿を現わし、それぞれが他のものを呼び出し、現代世界において最大規模に協和音と不協和音の混成した曲を作り上げている最中である。」(『集』⑫ 「「現代政治の思想と行動」英語版への著者序文」)
〇「デモクラシー」「国家」に対する早くからの問題意識
 「(大学)二年のときの、ぼくにとっての大きな思い出は、蝋山先生出題の「デモクラシーの危機を論ず」という緑会懸賞論文です。…面白いから懸賞論文を書こうと思って、このときに集中的にデモクラシーに関する本を読んだ。すでに、高等学校三年のときにナチが権力をとっているでしょう。そこで英米ではデモクラシーの危機ということが、さかんに言われた。コミンテルンの人民戦線の時代に入っていますから、ファシズムに対する統一戦線という意味もあって、デモクラシーが盛んに論じられたわけです。論文は、結局は出せなかったのですが、ラスキの『デモクラシー・イン・クライシス』と『理論と実際における国家』と、ラスキについてはその二つを読みました。‥
 三年のときに、二年のときに書けなかった緑会の懸賞論文が、こんどは南原先生が出題して「政治学に於ける国家の概念」です。それに応募したのです。‥二年と三年のときに、一生懸命勉強して緑会の懸賞論文を出そうとしたことは、ぼくにとって非常によかった。国家論と政治学は、ほとんどこの機会に読みました。」(『回顧談』・上)
〇絶対主義対相対主義という問題
「歴史的相対主義の問題と、実際はもう一つ、ぼくの中にはいつも、いわば哲学的相対主義の問題があるのです。ケルゼンが『デモクラシーの本質と価値』のなかで、相対主義的世界観という言葉を使っています。独裁制と対比して、民主主義は、はじめてそれで基礎づけられると。マンハイムも、歴史的相対主義のなかに入るといえばそうなんですけれども、この問題で非常に苦しんでいます。レラティビズムだとぜんぶが相対化されてしまう。そのかわりに、彼はレラツィオニスムス、相関主義という言葉を発明した。
そのころからぼくは、絶対主義対相対主義という問題とは、別の次元で捉えられないかと、一生懸命考えました。結局「あらゆる経験的理論は部分的真理を出ない。パーシャル・トゥルースだ。しかし、部分的には絶対的真理に参与している」と、ぼくのむかしのノートに書いたのです〔『自己内対話』pp.35-36に記される一九五一年の手帖への記入を参照〕。参与している限りにおいて、それは絶対的真理であって、相対主義とは言えない。ただ、それは部分的真理なのだ。つまり、いかなる経験理論もトータルな真理をつかみえない。トータルな真理をつかむのだと自称したら、それは嘘になる。問題は、全体的真理と部分的真理との関係にある。部分的真理も、その部分に関する限りは絶対である。絶対的真理に参与している。そうでないと、単なる相対主義になってしまう。単なる相対主義だと、自らの真理性自身の誤謬に対して説得できないではないか。‥
 ‥部分的真理と相対主義とを区別する必要がある。あらゆる理論は、トータルな真理ではなくて部分的真理しか語れない。しかし、その部分に関する限りは絶対だ。これを単に相対主義とは言えない‥。」(『回顧談』上)
「一生懸命考えたのは、党派性ということなのです。党派性というのは、そんなにプラスだけなのかと。プロレタリアートも、自分の党派的立場に制約されて、認識を誤るという可能性があるのではないか。ブルジョアジーが支配階級として現実を美化したり、都合の悪い面を隠蔽したりする。それと同時に、プロレタリアートないしプロレタリアートの立場にある政党も、たとえば革命の到来を非常に近いことと期待したり、マルクスも含めてそういう希望的観測によって認識が歪められるという可能性があるのではないか。そうすると、党派性というのは、マルクス主義が言うほど、ぜんぶプラスではないのではないかということです。マルクス主義との対話、それがいつでも非常に重くあったということです。マルクス主義は歴史主義ですから、相対主義に近いのです。にもかかわらず、プロレタリアートの立場における全体的認識というのが出てくる。それを認識論的に、いちばん見事にマルクス主義の立場から説明したのはルカーチだと思います。ルカーチの階級意識論。彼は、社会のトータルな自己認識、という言葉を使っています。社会を客観視して見るから、社会を全体として認識する立場というのは、どこにもないのではないかという疑問が出てくるのだ。社会の自己認識は誰ができるか。プロレタリアートのみが、つまり社会から完全に疎外されているプロレタリアートのみが、社会の自己認識ができる。それは、プロレタリアートの自己認識と同じことになるわけです。自己認識という言葉は、ヘーゲルなのです。‥ぼくは、『歴史と階級意識』の考え方というのは、マルクス主義の立場に立つかぎり見事だと思います。」(同上)
〇マルクス主義
「学生時代から研究室の生活にかけてひきつづき私の頭に重くのしかかっていたのは、ほかならぬマルクス主義の思想と学問でした。‥私が本格的にマルクス主義の社会科学(史学をふくむ)について勉強をはじめた大学生時代(一九三四-三六年)には、マルクス主義はすでに「実践」から切断された一つの知的体系としてしか、見はるかす光景のなかに事実上存在しませんでした。‥左翼華やかなりし時代が先輩の昔語りと化してから、マルクス主義文献と本格的にとり組むようになった者にとっては、戦後に通俗化し、現今でも流通している、マルクス主義をめぐる戦前の思想的構図‥にはどうしても違和感がつきまとうのです。その図というのは、日本共産党(あるいはコミンテルン)という核が真中にあって、その「本尊」の周辺に後光のようにマルクス・レーニン主義の思想圏が照りわたり、そのなかに、いわばいくつもの同心円を描いて「同伴者的」知識人がちりばめられていた、といった類のものです。‥そうした星座を、あるいはもっと非ロマンティックな比喩を用いれば、「党」を台風の目とする暴風圏を、戦前マルクス主義の天気図として当然のことのように目の前に示されると-良し悪しの評価の問題としてでなく-まさに個人の精神史的「事実」の問題として、「いやちがう、そうじゃなかったのだ」と叫びたい衝動を抑えることができません。私の精神生活のなかにマルクス主義の「学問」ががっしりと根を下ろして行ったその同じ時期に、私はコンミュニズムからリベラリズムまでの昭和初期の「イデオロギー」が目の前であわただしく後退してゆくザラザラした感触を素足の裏に覚えていたのです。」(『集』⑩ 「思想史の方法を模索して」)
 「マルクス主義の学問については、あまりにその「影響」が大きいために、むしろ逆の面から、つまりそれほどの「重圧」の下にあったマルクス主義の学問について全面的にコミットすることを私の思惟の内面で拒みつづけたものは何だったのか、という自問を発して、そこから考えた方がよいように思います。マルクス主義の基底にある思惟方法のなかでどういう点に私は違和感を感じ、その違和感にどう対応したでしょうか。‥能うかぎり記憶を反芻しますと、次のような諸点に思い当るのです。
 第一は、私が高等学校時代に、ヴィンデルバントとリッケルトの著作をかなり熱心に読んだ、ということです。つまり私はマルクス主義の原典ととり組む前に、新カント派それも西南ドイツ学派の哲学に、ある程度親しんでいました。…
 動機はともかくとして、私の記憶に鮮かな印象をとどめているのは、リッケルトの『認識の対象』‥を‥読んだ日々です。あの書物は、いってみれば電気掃除機で頭の中に溜っているゴミを一気に吸いとらせるたぐいの爽かな明晰さを具えています。「対象の認識」ではなくて、「認識の対象」というタイトルの付け方自体にも著者の周到な用意があるのを知って無邪気に感嘆しました。この読書がきっかけとなったのだと思いますが、今度はヴィンデルバルトに向いました。‥購入して丁寧に読んだといえるのは、『プレルーディエン』の二冊本‥です。…
 この論文によって私が触発され、‥私のなかに持続的な作用を及ぼしたのはおよそ歴史的成立や歴史的発展のプロセスから事物を説明する仕方の「限界」ということでした。事実のつみ重ねから純帰納的に特定の命題が引出せるというようなドグマに立っている「実証」史家にたいする私のどうしようもない不信感の一つの源泉は疑いもなくここにあります。これに比べて、マルクス主義史学にたいする場合にはもっと話がややこしくなります。西南ドイツ学派による著名な歴史的「個体性」と自然科学的「法則」との対比から私は私なりに示唆を受けましたが、その歴史哲学をそのまま受入れるべく、私はあまりにもマルクス主義的な発展段階説の、また、やや後にはヘーゲル哲学の、影響下にありました。ですから、右のヴィンデルバルトの論文の「後遺症」というのは、「批判的方法」への積極的なコミットメントにあるよりはむしろ広い意味での「発生的方法」への警戒心だったといえるでしょう。「実証」史学とちがって、自己の「公式」への依拠を自覚している筈のマルクス主義者も、実際の歴史の叙述になると、しばしば歴史的過程における「進歩」とか「反動」とか「停滞」とかをたんなる「変化」のなかから見分け、区別する規準自体を「事実史」のなかに解消する方法的混乱が見られました。こうした場合、「おや」という疑問をその都度私の脳裏によびおこしたのは、遡るならば右の論文のいわばオリの刺戟に帰せられます。…
 …いずれにしても、マルクス主義的な社会・国家理論の全面的受容から私をつとに沮んだ認識論的側面の一つが右の問題にあったことは否めないように思われます。」(同上)
〇マンハイムの知識社会学
 「マルクス主義の方法論への私のコミットメントに対して、「水をさす」役割を果した点で、西南ドイツ学派の批判にもまして大きな意味をもったのは、大学生時代にカール・マンハイムの知識社会学を知ったことでした。いやこちらの方は「水をさす」というような消極的表現では到底尽せません。それはなにより、マンハイムの知識社会学が認識論をも包括する社会理論であったからです。つまり、大学に入って、マルクス経済学理論や日本の近代史の勉強‥が進んだ頃には、新カント派とマルクス主義とは、魅力と不満との在り場所がちょうど裏腹の関係に立って私の精神のなかに共存していたのですが、マンハイムの知識社会学がまさにカント的認識論とマルクス主義のイデオロギー論との双方にたいする、いわば二正面的な「挑戦」を内包していたために、私の「中ぶらりん」の精神状態との間に一種の共鳴現象が起ったわけです。…大学の三年生のときにマンハイムの『イデオロギーとウトピー』を読んだのです。…この『イデオロギーとウトピー』や、ひきつづいて読んだ前掲『社会学辞典』のなかの「知識社会学」‥さらには「知識社会学の問題」‥などは、その後私の思想史・精神史へのアプローチに決定的に「影響」した著作でした。…
 マンハイムとの出合いが、あくまで世界観・哲学・宗教・芸術といった、観念形態の歴史的発展をつかまえるための模索の途上で起ったことであって、「社会学」をそれ自体として勉強し、その中でマンハイムを位置づけるというつもりはそもそもなかった、という事情が却(かえ)って、彼の「影響」を私の精神のなかで持続的なものにしたように思われます。…思想史あるいは精神史の方法にたいしてマンハイムが投げかけた問題ということに着目すれば、それは一方では、新カント派的な、因果連関と価値妥当との二元論にたいして、他方では、マルクス主義‥のイデオロギー論にたいして、見事に盲点をついたものでした。…  私に目からウロコが落ちる思いをさせたのは、彼の理論における遠近法的な見方です。「ペルスペクティヴィスムス」という認識方法の裡に、私は新カント派とマルクス主義とが(方向は正反対ですが)共有しているような対象と認識との一対一の対応関係をつきくずし、精神史を社会史の文脈の中におきながら同時に、精神史特有の発展形態を明らかにする鍵を見出したように思いました。精神史特有の発展形態の一つとして、先行する思惟形式や体系からの継承が、いわゆる加算的綜合‥として単線上で起らないで、問題設定の移動-思惟を組織化・体系化する際の中心点の移動として起る、ということがあります。ですから、過去の思想は後続する思想によって「のりこえ」られたり(こういう発想自体が単線上の継起を予想しています)、吸収され尽すのではなくて、逆に「のりこえ」られた筈の思想が、歴史的変化とともに再評価されたり、「何々にかえれ」というような「復古」運動が精神史上にしばしば起るわけです。しかも、そうした問題設定の移動は、先行する思惟様式・諸範疇を継受しながら、その意味転換が行われるという二重の過程を伴います。同じ範疇が存続しながら、思考を組織化し体系化する(狭い意味の理論「体系」をいうのではありません)中心が異るために、いわば「配置転換」が起って、遠近法的な位置づけが違ってくるわけです。
 マンハイムは、同時代におけるさまざまな世界観の分裂と、歴史的変動による精神構造の変動とを共に景観‥という独特の比喩で解明しようとしました。社会的な「立地」‥の変異は、遠近法的な視野の変動-これがつまり問題設定の変化です-をもたらしますが、その際、大事なことは一定の「景観」のなかにおさまる個々の樹なり湖なりは即自的(アン・ジヒ)には存在しつづけるのに、遠近法的な位置づけが異って来るために、全体としての展望は変化するということです。ある視野からはあれほど大きく目を惹いていた同じ樹木群が、他の景観では片隅に押しやられ、あるいはまるで存在しないかのように無視されます。それは、そもそもが湖の反対側からの展望だったり、あるいは次の「段階」で観察地点が丘の上に移ったりするからです。逆に長い時間的経過ののちに、同じ樹木群が、あたかも突如出現したかのように、映像に浮び上り、あるいは認識主体が意図的にそこにスポットを浴びせて「再評価」を迫ることも十分ありえます。しかしそれは一定の歴史的連関の中の「立地」からの照射、しかも認識主体の生活意欲と結びついた展望ですから、どんな「何々にかえれ」運動でも、原物はすでに配置転換されております。その意味で‥思惟主体の社会的立地が思惟内容に構成的に浸透するということが、ここにもあてはまるわけです。整序された普遍妥当的な認識か、それともカオスかという二者択一のかわりに、いまやプルーラルで、しかも動的な展望が現れます。それはそれぞれの仕方で実在に関与していて、「真」の認識対「虚偽意識」という絶対的対立はありません。けれども問題設定の多元的な可能性を容認すること自体を「相対主義」と呼ぶのではないかぎり‥、泥沼のような無差別の相対主義はそこからは帰結しないのです。
 思想史における思惟範疇の内在的な連続性と、後続する思想における同じ範疇の意味転換(非連続性)とを、どうしたら統一的にとらえることができるか、さらにまた、社会史的な「反映」論と、実体化された「精神」の自己発展論とのディレンマをどう脱出するか、という問題に苦慮を重ねていた一人の青年にとって、右のような視座構造の理論がどれほど大きな比重を持ったかは、およそ想像がつくと思います。‥ここで申したいのは、それ(右にのべた受けとり方)が思想史の方法論のための方法論として私の頭の中で浮遊していたのでなく、論文構成の具体的過程のなかに-良かれ悪しかれ-沈澱する結果になったということです。…年月の経過から言っても、マンハイムからのこうした暗示は、ほとんど下意識のレヴェルで作用していた、といった方がよいかも知れません。」(『集』⑩ 「思想史の方法を模索して」)
 「研究室に入って東洋政治思想史を専攻するようになって間もなくのころ、南原先生は雑談のなかで、「存在拘束性という考え方じゃ、君、思想史はダメだな」と念を押されました。‥先生が「存在拘束性」という考え方で意味していたものは、おそらくマンハイムの知識社会学だけでなく、広くマルクス主義の「存在が意識を決定する」という命題一般を含んでいました。‥けれども、‥初期マルクスの著作を読み、さらにマンハイムのソフィストケートされた(正統マルクス主義者の用語でいえば修正主義的な)イデオロギー論に接していた私は、‥学問的方法としては必ずしも先生の立場に従わずに来た‥。しかし他方において、当時の学者の、激しく動く「時局」にたいする現実の態度決定を見たとき、私は別の意味で先生の忠告をいくたびか噛みしめずにはおられませんでした。マンハイムはナチの権力獲得後、まもなくイギリスに亡命しましたが、広い意味で存在拘束性と歴史主義的立場に立っていた‥社会学者は、ズルズルとナチズムに追随して行きました。南原先生は、また私のヘーゲルへの傾倒ぶりを見て、「ヘーゲルは危ないよ、ドイツを見てごらん。ヘーゲリアンはほとんどナチの陣営に行ってしまった。頑張っているのはカント派の方だ」ともいわれましたが、‥傾向としては正鵠を射ていました。眼前にする日本の知的光景においても、知識社会学者からマルクス主義者にいたるまで、その知的転向は、おおむね「階級」を「民族」に置きかえることによって、歴史的存在による意識の拘束性という同じ命題を掲げながら進行していたのです。そうして、時潮や「世界の大勢」に押し流されずに「われここに立つ」という内的確信をあの時代にアカデミーの世界で貫きとおしたのは、方法論の次元でいえば、存在拘束性論者やヘーゲリアンから「非歴史的」と批判されていたカント主義者とか、カトリック自然法論者の間にヨリ多く見出されました。
 …けれども、さきのような南原先生の「警告」が、いかに「実践的」に思い当ったにしても、そうした「非歴史的」もしくは「超歴史的」な立場が態度決定のうえで実証した強みを、思想史をふくむ歴史的アプローチのなかに学問的にリンクさせるすべをついに見出せないまま、私は一九四四年に、応召によって研究生活から引き離されることになりました。」(同上)
〇文化接触
「もし私の戦前の研究と戦後の研究とをいちばん大きく区別するメルクマールがあるとしたら、文化接触による文化変容という視点を投入しなければならないと私が思いだしたことです。それで、異質的な文化接触による文化変容という、その視角で書いた最初の思想史の論文が「開国」(1959年)なんです。ですから、それが外国に二年間滞在して帰ってきた時に、決定的に「原型」という発想になるんですけれどね。
 ‥その文化接触という考え方自身が、普遍史的な発展段階論の否定を意味してるということなんです。したがって、『日本政治思想史研究』はまだ非常に大きく普遍史的な発展段階論を想定しているんです。つまりボルケナウ的な"封建的世界像から近代的世界像へ"という普遍史的な研究です。ところが、文化接触というのは、歴史を縦の発展とすれば、いわば横のぶつかり合いなんです。いわば怒濤のように横から異質的な文化がやってくる。開国がそうでしょ。つまり、異質的な文化がぶつかりあったときにどういうものが生まれるかという問題は、縦の歴史的発展段階という考え方の中にはないわけです。‥全く異質的な文化圏がぶつかり合うという文化接触の問題は、普遍的な発展段階論からは生まれない。
 だからそういう意味での文化接触という問題は、さっき言った意味の狭義の歴史意識に入ってこないんですよ。狭義の歴史意識、つまり時間的系列のもとに事件を取り扱うという発展段階論の系列ではなくて、文化人類学やなんかにもずっと問題が伸びていくような問題、つまり異質的な文化が二つぶつかり合ったときにどういう現象が起こるか、という考察です。‥それは伝統的なマルクス主義の影響のもとに発展段階論というものを想定していた日本政治思想史からの、良かれ悪しかれ、決定的な離反といえると思います。実は「開国」とか「古層」とかいうことを考えるときに文化接触の問題を意識したんです。つまり、大陸からの文化が日本に入ってきてどういう変容を受けるか、という問題です。そこでbasso ostinatoという結論が出てきたんです。」(『手帖』10 「内山秀夫研究会特別ゼミナール 第二回(上)」)
「一九七〇年代に急に私が「古層」とかアーキタイプとかいうものを考えついたわけではなく、そこに至る道筋がある‥。」(『集』⑫ 「原型・古層・執拗低音」)
 「戦後にはどっと「開国」になったわけです。「鎖国」から「開国」へという現象-それが一研究者としての私の目の前にひろがった現実だった。学問的な考察の以前に、日常現実の体験としてそれがありました。解放されたという感覚は、同時に思想的な開国を意味したわけです。
 そのときに私にダブル・イメージとして映ったのが明治維新だったのです。…軍隊から復員した直後に、私がこの目、この耳で見聞した戦争直後の世相といろいろな点でおどろくほど似ているのです。…私にとくに印象的だったのは感覚的な解放です。…それが、私には戦争直後の状況とダブル・イメージになって映った。…それを背景として、「開国」という問題の思想史的意味を考えようとした。…こうして戦後になって私は開国という問題を日本思想史の中に投入しようとした。」(同上)
 「例えば、一九五七年の講義を見ますと、その中に「視圏(perspective)の拡大と政治的集中」という章が設けてあります。ここで幕末維新を描いたわけです。…
 幕末における視圏の拡大ということも、地理的認識がひろがった、というような単純な問題ではないのです。永い間通用してきた世界イメージ、そのなかでの自分自身の位置づけが崩れることをも意味した。自分がいわば安住していた環境からほうり出されるのです。幕末の「開国」というのは、そういう精神的衝撃だったわけです。…この文化接触としての「開国」ということは、古代的・封建的・資本制的といった歴史的発展を縦の線で現わすなら、横の線-いわば横波を受けるという比喩で表わせます。…こうした「開国」-直接には幕末維新の歴史的開国-について考えて、文化接触の契機を日本思想史の方法に導入し出したのが、とうとう「古層」‥という考え方に辿りつくきっかけとなったわけです。」(同上)
 「私が文化接触というのは、-どんなに一方的な衝撃にせよ-何百年のちがった伝統をもった構造的に異質な文化圏との接触の問題なのです。…外来の-異質的な文化との「横の」接触というものと、それから日本史における段階区分の不明確さという問題、この二つの問題について思想史的にその意味を考えるということが、戦争の経験を経て、私にとって一層切実な課題になって来たわけであります。」(同上)  「右の二つの問題が具体的にどういう形であらわれるかと申しますと、どうしてもこれは‥日本の地理的な位置と、それに関連した日本の「風土」と申しますか、そういう要素を考慮せざるをえなくなる。…
 一九五八年(昭和三三年)度の講義のプリントによるとはじめの方で、「日本思想史の非常に難しい問題というのは、文化的には有史以来「開かれた社会」であるのに、社会関係においては、近代に至るまで「閉ざされた社会」である。このパラドックスをどう解くのかということにある」と言っております。…絶えず新しいメッセージを求めるということと、新しい刺激を求めながら、あるいはその故にか根本的にはおどろくほど変わらないということ-この両面がやはり思想史的な問題としても重要なものになってくるのではないか。たとえば、‥キリシタンの渡来とその「絶滅」の運命について…日本の場合にはおどろくべく速く浸潤するけれども、絶滅するときには、また‥おどろくべく速く姿を消す。これを私は集団転向現象というのです。集団転向してキリシタンになるけれども、また集団転向して棄教する。‥これが‥開かれた文化と閉ざされた社会の逆説的な結合にどうも関係があるのではないかという問題を私は一九五〇年はじめごろから考え出したわけです。…そういう観点(丸山:全体構造としての日本精神史における「個体性」)から、さきほど指摘した矛盾した二つの要素の統一-つまり外来文化の圧倒的な影響と、もう一つはいわゆる「日本的なもの」の執拗な残存-この矛盾の統一として日本思想史をとらえたいと思うのです。…日本が一面では高度工業国家でありながら、他面においては、それこそ以前から「未開民族」の特徴といわれた驚くべき民族等質性を保持しているのは否定できません。観察としてはそんなむつかしい事柄ではないのです。ただこの両面性が、思想的にどう現われるのかというのは、日本思想史を解明するうえに看過できない重大な問題だ、と思うのです。」(同上)
 「要するに私は右のような方法論的な遍歴を経て、古来日本が外来の普遍主義的世界観をつぎつぎと受容しながらこれをモディファイする契機は何かという問題を考えるようになったわけです。…外来思想の「修正」のパターンを見たらどうか。そうすると、その変容のパターンにはおどろくほどある共通した特徴が見られる。…私達はたえず外を向いてきょろきょろして新らしいものを外なる世界に求めながら、そういうきょろきょろしている自分自身は一向に変わらない。そういう「修正主義」がまさに一つのパターンとして執拗に繰り返されるということになるわけです。…
変化するその変化の仕方というか、変化のパターン自身に何度も繰り返される音型がある、といいたいのです。つまり日本思想史はいろいろと変るけれども、にもかかわらず一貫した云々-というのではなくて、逆にある種の思考・発想のパターンがあるゆえにめまぐるしく変る、という事です。あるいは、正統的な思想の支配にもかかわらず異端が出てくるのではなく、思想が本格的な「正統」の条件を充たさないからこそ、「異端好み」の傾向が不断に再生産されるというふうにもいえるでしょう。‥よその世界の変化に対応する変り身の早さ自体が「伝統」化しているのです。
「よそ」と「うち」ということは必ずしも外国と日本というレヴェルだけでなく、色々なレヴェル-たとえば企業集団とかむらとか、最後には個人レヴェルでひとと自分という意味でも適用されます。つまり一種の相似形的構造をなして幾重にも描かれることになります。…私達は、不変化の要素にもかかわらず、ではなくて、一定の変らない-といってもむろん天壌無窮という絶対的意味でなく、容易には変らない-あるパターンのゆえに、こういう風に変化する、という見方で日本思想史を考察するよう努力すれば、日本思想史の「個性」をヨリよくとらえられるのではないか、と思うわけです。」(同上)