オバマ政権の核政策:核デタランスと「核先制不使用」

2016.08.25.

7月30日付のコラムで、「オバマ氏は任期の最後に「核の先制不使用を含む核政策の重要な調整」を検討しているといいます。広島訪問で刺激を受け、「核なき世界」という初心に立ち返る衝動に駆られたのかもしれません」と指摘し、しかし、「オバマ氏の核政策の再検討は共和党の強硬な反対に直面しており、安易な期待は禁物です。それに「先制不使用」は、米国内のみならず、米国の「核の傘」にしがみつく安倍政権、韓国・朴政権の強い反発で実現できない可能性が高いと考えざるを得ません」とも指摘して、日本国内が安易な「期待」を持つことは早計だという私の判断を示しておきましたが、その後の流れは私が指摘したように動いているようです。
 「先制不使用」に関しては、アメリカ国内では、共和党は当然のこととして、米軍部さらにはケリー国務長官なども反対していると報道されています。安倍首相も、ハリス米太平洋軍司令官との会談の中で、「朝鮮に対するデタランスが弱まる」ことを理由として反対したことが伝えられました(ただし、8月21日付朝日新聞によれば、安倍首相はそういう発言を行ったことを否定。もっとも自らの考えを示すこともなし)。
 私が驚いたのは、8月17日付の朝日新聞(朝刊)で、外務省幹部が「もし米政権が核の先制不使用を宣言すれば、日本を守る米国の拡大抑止は成立しなくなる。あり得ない話だ」と強く反発した、とする記事が掲載されたことです。取材した記者が聞き違えてこのような「引用内容」になったのか、それとも外務省幹部が本当に引用された発言を行ったのかは判断のしようがありません。もし前者(朝日新聞記者の聞き違い)であるとすれば、拡大デタランスが何であるかに関する無知をさらけ出す、とんでもない誤った内容(後述参照)であるだけに、当然外務省から記事訂正要求が出て、その旨の訂正記事が出るはずですが、そのような動きはありません。ということは、くだんの外務省幹部自身がそういう無知をさらけ出す内容の発言を行った(あるいは、そういう引用のされ方を行われたことに対してなんらの問題も感じないほどのあやふやな認識しか持っていない)と考えるしかありません。
そうだとすれば、「朝鮮に対するデタランスが弱まる」という発言を行ったとされる安倍首相も、以上の発言を行った外務省幹部も、核デタランスの本質をまったく弁えていないという恐るべき事実をさらけ出しているということになります。彼らがそういう無知を自覚もしないで日本の安全保障政策を取り仕切っているということは実に寒心に堪えないことです。
 しかし安倍首相や外務省幹部に限らず、今日の国内の核デタランスに関する認識水準はおしなべて極めて低いものがあると思われます。安倍首相と外務省幹部の発言はむしろ日本人の平均値を反映しているに過ぎません。しかし、原爆体験を持つ私たちがあやふやな理解・認識で核問題をやり過ごすのは許されることではありません。核デタランスに関して私たちが押さえるべきポイントをまとめて参考に供しようというのが今回のコラムの目的です。
 ちなみに、私は、「デタランス」に対する日本語訳として用いられている「抑止」という言葉は意図的誤訳ですので使いません。その点については、2015年8月29日付のコラムを参照してください。

<「核(拡大)デタランス」理論・政策の登場>
 そもそも「核デタランス」という考え方(戦略)は、東西冷戦及び米ソの核軍拡競争という2つの要因を背景として、アメリカ(及び英仏)において理論化・政策化され、さらにその後の状況を踏まえて精緻化されてきたものです(ソ連も中国もおおむね米欧によって発展させられた核デタランスの理論・戦略・政策を踏襲してきました)。
 その出発点は、ソ連による攻撃(主に米ソ直接対決の戦争と欧州正面における戦争を想定)に対しては、核による大量報復攻撃を行うというアメリカの意思と能力をソ連に確信させることによって、ソ連をしてそもそもの攻撃を行うことを思いとどまらせるということでした(大量報復戦略)。すなわち、米ソ直接軍事対決に際して、「圧倒的な殺傷破壊力を持つ核兵器の大量使用という威嚇によって相手(ソ連)の攻撃を思いとどまらせる」というのが「核デタランス」の本質です。欧州に対するソ連の攻撃をアメリカの核報復攻撃の威嚇によって思い止まらせる場合が「核拡大デタランス」ということになります。以上のように、拡大デタランスは欧州正面を念頭にしたものですが、グローバル規模での対ソ対決戦略を推進したアメリカは、アジアにも核兵器を配備し、拡大デタランスをアジアにも適用しました。
 正確に言えば、「デタランス」という戦略は核兵器の出現による産物であり、「デタランス=核デタランス」と理解するのが正しいのです(ローレンス・フリードマン)。ところが米ソ冷戦終結後、アメリカの軍事的一極支配状況が出現したことを背景として、アメリカの世界規模の軍事プレゼンスを正当化するべく、「アメリカの核・非核の軍事力による威圧・威嚇が戦争への誘惑に駆られる勢力を思いとどまらせる力(デタランス)となる」という主張が唱えられることになったのです(日本国内で流布される「日米同盟は抑止力」さらには「沖縄海兵隊は抑止力」とする謬論は、こういう主張を野放図に拡大したものです)。
 しかし、1990年代から今日に至る世界では、様々な武力衝突・紛争がひっきりなしに起こっています。核兵器の圧倒的な殺傷破壊力を持たない通常戦力(非核戦力)がデタランスの機能を営み得ないことは実証済みです。最近の例としては、南シナ海の領土紛争の係わりで、中国がいくつかの島礁で造成構築工事を行っていることに対して、アメリカは「航行の自由」を脅かすとして米海軍による示威行動をくり返していますが、中国はまったくそれに動じることはありません。結論として、「デタランス」は今日でも核兵器の属性(圧倒的な殺傷破壊力)と結びついた概念であり、理論・戦略・政策であると理解するべきです。
 もう一点、2015年の8月29日付のコラムのおさらいですが、「デタランス」と「脅威」とは一種の相似関係にあります。つまり、攻撃する意思と能力をともに備える場合に「脅威」というのに対し、報復する意思と能力を備える場合に「デタランス」というのです。核兵器の途方もない殺傷破壊能力が認識されるに従い、米ソともに、自らが相手に対して攻撃を仕掛ける、脅威として位置づける選択肢が非現実的であると認めざるを得なくなりました。しかし、厳しい冷戦構造のゼロ・サム的発想が支配する状況のもと、相手が攻撃を仕掛けてくる可能性に対して、報復する意思と能力を持つことによって、相手をして攻撃を思い止まらせる必要性があるという考え方は牢固としたものがあり、これが「デタランス」という理論・戦略・政策を産みだしたのです。

<柔軟反応戦略と「核の先制不使用」問題>
 しかし、1960年代以後、主に2つの軍事的要因によって、「デタランス」の理論・戦略・政策はさらに精緻化されることになりました。一つは、欧州正面における東西の軍事力バランスにかかわる問題、もう一つは「限定的核デタランス」という問題です。
 まず、欧州正面における東西の軍事力バランスにかかわる問題とは、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構(WTO)の通常兵力がNATOの通常兵力を圧倒していると、アメリカ以下の西側諸国が認識したという問題です。つまりアメリカをはじめとするNATO諸国は、アメリカが米ソ共滅(共倒れ)に直結する核報復戦争に訴えることはない(=アメリカは西欧諸国を見捨てる)とソ連が判断して、WTOの優勢な通常兵力によって欧州に対する侵攻作戦を開始する可能性は排除できないと考えたのです。
この軍事的可能性に対処するべく、NATOはWTOの侵攻を未然に防止し、食い止め、断念させるために、通常兵力における劣勢を補うものとして、戦術核兵器、(それでもWTOが侵攻を断念しない場合には)戦域核兵器を使用することによって対抗する(このように反撃を段階的にエスカレートする目的は、NATOがあくまで報復する意思と能力を持っていることをWTOに確信させ、共滅となる全面的な核戦争に至る前の段階で戦争を収拾する時間稼ぎをすることにある)ことを考えました(「柔軟反応戦略」)。ここで、「核の先制使用」が採用されたのです。つまり、「核の先制使用」の理論・戦略・政策は、通常兵力における劣勢をカバーするために必要な対抗手段として採用されたということです。逆にいえば、通常兵力において相手に対して劣勢でないのであれば、「核の先制使用」を考えるべき軍事的理由はないのです(アメリカが対ソ軍事的優勢にあるアジア正面では「核の先制使用」を考える必要性はありませんでした)。

<「拡大デタランス」と非核3原則>
 ちなみに、先に紹介した外務省幹部の「日本を守る米国の拡大抑止」という発言にあるように、日本国内ではアメリカの拡大デタランス(「核の傘」)が日本の安全にとって不可欠という主張が今や「当たり前」のごとくまかり通っています。しかもその一方で、「日本は唯一の被爆国」という国民感情を無視できなかった佐藤栄作首相が言いだした「非核3原則」(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませない)が「国是」(水戸黄門の御印籠?)として受け入れられています。
 しかし、この「核の傘も非核3原則も」と言って恬として恥じない厚かましさは、「平和憲法も日米安保(日米同盟)も」という無神経さと並んで、私たち日本人の平和・安全保障に対するこの上ないいい加減な認識水準を世界にさらけ出す双璧をなすものです。
 佐藤首相が言いだした当時の非核3原則の重要なポイントは、アメリカの核兵器を日本に持ち込ませないという点にありました(ただし、核兵器製造に使用可能なプルトニウムを30トン以上保有する今日の日本に関しては、持たず、作らずという他の2つの原則の重要性はますます重要になっています)。それは取りも直さず、「いざという時にはアメリカに核で守ってもらいます。しかし「持ち込ませず」ということは、核兵器使用に伴う危険負担はアメリカに一手に引き受けてもらい、日本自身は危険負担をしません」ということと同義です。そんな自分勝手な日本をアメリカが本気で守る気になるはずがありません。欧州諸国は違います。アメリカが本気で欧州を守る気にならせるために、核兵器配備を進んで受け入れるのです。有り体に言えば、非核3原則は、沖縄の「核抜き本土並み返還」を公約に掲げた佐藤首相の国内向けジェスチャーでした。佐藤首相が本気で非核3原則にコミットしたわけではありません。
 佐藤首相がニクソン大統領との間で核密約を結んだのは、私たちの常識からすれば「けしからん」ことです。しかし、佐藤首相としては、アメリカに日本防衛に本気でコミットさせるため、非核3原則を曲げて核持ち込みを認めることが不可欠と考え、それを核密約という形で行ったのです。つまり、主権者・国民に対して、「「核の傘」と非核3原則は両立しない。私としては「核の傘」を優先する」と真正面から問題提起することを避け、核密約という禁じ手に訴えたのでした。
 非核3原則と「核の傘」は両立しえない絶対矛盾であるという厳然たる事実は今もなお私たちの目の前にあります。私たち主権者は、この問題に対して主権者としての判断を下さなければならない責任があるのです。

<朝鮮半島と「核の先制不使用」問題>
本論に戻ります。朝鮮半島における軍事情勢は1960年代の欧州の軍事情勢とはまるきり異なります。朝鮮半島における米(日韓)の朝鮮に対する軍事的な絶対的・圧倒的優位性については自明であり、朝鮮も知り尽くしています。しかも朝鮮は、アメリカの「おあつらえデタランス」、韓国の「積極的デタランス」、そして米韓の「米韓共同局地挑発作戦計画」によって、国際法的に議論がある「先制的自衛権」の行使を名目とする先制攻撃(核攻撃の選択肢を含む)の脅威に直面しています。
 つまり、朝鮮半島では、アメリカが朝鮮にとって脅威以外の何ものでもない「核の先制使用」を盛り込んだ戦略をすでに採用しているのです。朝鮮に対して絶対的軍事的優位にあるアメリカが「核の先制使用」を盛り込むことは、朝鮮にとっては脅威そのものであり、朝鮮の軍事的警戒心をかき立てるだけで、すでに述べたデタランスの本義から言えばなんの意味もありません。したがって、オバマが「核の先制不使用」を提起したことは、朝鮮に対する「おあつらえデタランス」戦略の見直しにつながる可能性は確かにあります。つまり、オバマの提起は、客観的に言って、朝鮮半島における不測の事態を回避するという観点から言えば「建設的」なものです。すなわち、アメリカが「核の先制不使用」政策を朝鮮に対して採用しても、米(日韓)の「朝鮮に対するデタランスが弱まる」とか、「もし米政権が核の先制不使用を宣言すれば、日本を守る米国の拡大抑止は成立しなくなる」とかの事態はあり得ません。安倍首相及び外務省幹部の発言が如何に核デタランスの本質に対する無知をさらけ出しているかが分かるはずです。
 それなのに、米軍部、安倍首相、外務省幹部がオバマの思いつきに猛烈に反発するのは、朝鮮に対する先制攻撃の戦争を本気で考えているからにほかなりません。朝鮮が核デタランスを完成させる前の段階で、なんらかの口実を設けて叩きつぶすことを真剣に考えていることは間違いありません。そのことを知るからこそ、朝鮮はハリネズミの心境で身を逆立て、核開発に邁進するのです。

<限定的核デタランス>
 次に、「限定的核デタランス」という問題です。まえに、「脅威」と「デタランス」とは、「意思と能力がともに備わることが要件である」という点で一種の相似的な関係にあると言いましたが、英仏中の核戦略・政策は、相手(英仏の場合はソ連、中国の場合は米ソ)に対して攻撃を仕掛ける意思と能力はないけれども、相手からのありうる攻撃に対して、相手が到底耐えることができないだけの核による報復を行う意思と能力はある」ことを確信させ、攻撃を思い止まらせることに目的があります。具体的に言えば、アメリカにしてもソ連にしても、人口が密集する大都市に対して核兵器による反撃が行われる蓋然性が高いと考えれば、たとえ戦争に最終的に勝利する確信はあっても、被る被害がとてつもなく大きく、したがって戦争を仕掛けること自体を思いとどまらざるを得なくなるということです。これが「限定的核デタランス」の理論・戦略・政策の要諦です。
 「限定的核デタランス」に関してはいくつかの補足説明が必要です。一つは、英仏の核政策です。もう一つは中国の「核先制不使用」政策です。さらにもう一つは、朝鮮の「核先制打撃」明言政策です。

<英仏の核政策>
 かつてのド・ゴール時代のフランスはともかくとして、アメリカの拡大核デタランス(核の傘)のもとに入っているNATOの一員である英仏両国が独自の核戦力を保有する政策に対しては、特にイギリス国内で強い批判があります。ましてや、ソ連が崩壊し、WTOも解体した21世紀において、英仏が独自の核戦力を保有する軍事的必要性を説明する理論的根拠は薄弱と言わざるを得ません。イランのいわゆる「核疑惑」が喧伝された時期には、アメリカの欧州におけるミサイル防衛システム構築の正当化の根拠としてだけではなく、英仏の核保有政策の正当化の論拠としても持ち出されたことがあります。しかし、JCPOAという核合意ができた今日、イランをスケープゴートに仕立て上げる主張も崩壊しました。
 しかも、核不拡散条約(NPT)は、非核国による核兵器保有禁止義務とともに、核兵器国の「誠実に核軍縮交渉を行う義務」を定めています。その点からしても、英仏の核保有政策はますます正当性が失われています。極論すれば、英仏による核保有政策は、第二次大戦後に国連憲章で成立した大国協調システム(安保理における5大国の拒否権)を維持するための政治的役割しか担っていないと言っても過言ではありません。「NPT体制堅持」という美名のもとに英仏の核保有政策が看過されている状況は厳しく問い糾されるべきです。

<中国の「核先制不使用」政策>
 中国の「限定的核デタランス」戦略・政策の最大の特徴は、他の核保有国、特にかつてのソ連及び今日のロシアと異なり、「核の先制不使用」に一貫してコミットしてきた点にあります。それは、自らが相手(かつての米ソそして現在のアメリカ)に対して脅威となる意思と能力を持たないことを宣明することで、相手が中国を脅威と認識する可能性を極力取り除くとともに、相手がそれに乗じて核攻撃を仕掛ける場合には、相手が堪えられない規模の報復を行う断固とした意思と能力を持っていることを相手に確信させるものです。
 今日の中国の通常戦力はアメリカよりも明らかに劣勢です。しかし、中国は、1960年代のNATOがWTOに対して抱いていた、通常兵力による侵攻という可能性をアメリカについて警戒していません。その根拠は、一つには日中戦争で明らかな中国の戦略的縦深(朝鮮戦争及びヴェトナム戦争の苦い経験を持つアメリカは、長期にわたる戦争を忌避する強い傾向がある)への自信、もう一つには、西太平洋という限られた戦域において軍事的にアメリカに対して相対的に優位性を確立しているという自信です。
 しかし、アメリカが韓国にTHAADを配備する政策は、中国の限定的核デタランス戦略・政策を根底から揺るがす可能性を持っています(少なくとも中国はそう受けとめています)。私自身は、ミサイル防衛システムの軍事的有効性・信頼性に対しては極めて懐疑的です(中国国内でもそういう認識を持つものがいます)。しかし、軍事戦略・政策としては最悪の事態を想定するのが常道であり、中国も例外ではありません。つまり、理論的可能性として、アメリカが中国の限定された核戦力をすべて無力化する規模のミサイル防衛システムを配備すると、中国は丸裸にされ.限定的核デタランスが崩壊するということになります。したがって、中国としては、従来の核戦略・政策の根幹にかかわる問題としてTHAAD問題を捉えているのです。
 中国にとってもっとも望ましいのは、米韓がTHAADシステム導入を撤回することです。そうすれば、中国としてはこれまでの核戦略・政策を継続することができるからです。米韓がそれに応じない場合に対する対応のあり方に関しては、中露の戦略的連係の強化、THAADを無力化する核戦力の開発促進などを含め、中国国内の議論が活発化しており、新たな核軍拡競争が引き起こされる危険性が生まれています。

<朝鮮の「核先制打撃」明言政策>
 総合的国力が貧弱な朝鮮が追求しているのも限定的核デタランス戦略・政策です。しかし、朝鮮は米(韓日)による先制攻撃が切迫していると判断した場合には、核による先制打撃を加えること(「核先制打撃はアメリカだけの専有物ではない」とする主張)を明言しています。朝鮮が核先制打撃に踏み切った場合、次の瞬間にはアメリカの核を含む全面攻撃で朝鮮全土が灰燼に帰すること、朝鮮の国家としての存続自体が不可能になることは明白です。したがって、朝鮮の「核先制打撃」政策は、一見して「報復」を本質とするデタランスの範疇から逸脱しています。
 しかし、朝鮮の立場に立って考える場合、朝鮮が直面しているのは米韓が先制攻撃の戦略・政策を朝鮮に対して突きつけている(しかも毎年の合同軍事演習で「予行演習」を大々的に行っている)という厳しい現実です。昨年8月30日付のコラムで明らかにしたとおり、朝鮮からすれば、2015年に起こった「8月危機」は正に米韓が口実をでっちあげて(38度線沿いでの韓国軍兵士の地雷による負傷事件を朝鮮の仕業と断定し、朝鮮から砲撃があったと韓国前線部隊が判断して「反撃」を加えたこと)先制攻撃を仕掛けようとした、正に一触即発の事態でした(朝鮮はそう受けとめ、対応したことは間違いありません)。しかも米韓は、8月危機のきっかけとなった米韓合同軍事演習の開始に際し、作戦の初動段階で朝鮮指導部と朝鮮の核戦力を無力化する計画をことさらに公言していたのです。
 このような切迫した米韓による侵略戦争の脅威を押しとどめるには、ありきたりなデタランス理論・政策は有効ではないと、朝鮮指導部が判断したとしても何ら不思議ではありません。朝鮮指導部は、「何をしでかすか分からない、予測不能な朝鮮」という米韓で広く共有されている朝鮮観を逆手に取って、一見自殺行為に等しい「核先制打撃」政策を打ち出したのではないかと思われます。そして、「8月危機」を乗り切った後の黄炳瑞及び金正恩の発言(昨年8月30日付コラム参照)は、「核先制打撃」を構成要素とする朝鮮の限定的核デタランス戦略・政策の有効性を自ら確認したものと受けとめることができるのです。朝鮮が核兵器開発と経済建設の「並進路線」を先の労働党第7回大会で戦略的に堅持することを明言し、アメリカが朝鮮敵視政策を改めない限り朝鮮の核政策を変えることはあり得ないとする立場を明確にしたことは、朝鮮半島の非核化を考える上でもはや到底無視することが許されなくなりました。

<オバマ政権(アメリカ)の核政策の危険性>
 日本国内では、オバマ大統領の「核の先制不使用」発言に飛びつき、これを評価する傾向があります。そして、これに抵抗する安倍首相や外務省を批判することにつながっています。しかし、このような議論は、アメリカの核戦略の本質を踏まえない、「木を見て森を見ず」の典型と言わなければなりません。
 確かに、すでに指摘したとおり、朝鮮半島における核戦争の危険性を少しなりとも減らす可能性があるという点で(また、その点に限って)、オバマの思いつき発言を肯定的に評価する余地はあります。しかし、朝鮮を敵視し、朝鮮をして極度に警戒させ、身構えさせるという点で、2期にわたるオバマ政権はそれ以前の政権に勝るとも劣らない強硬な政策を行ってきましたし、その政策は、「核の先制不使用」が仮に実現したとしても、微動だにしないのです。金正恩政権が核開発と経済建設の並進路線を戦略として据え付けたのは、オバマ政権の対朝鮮敵視政策に最大の原因があります。また、オバマ政権がミサイル防衛政策を積極的に推進してきたことは、ロシアそして今や中国の警戒感を高め、核軍拡競争再発の引き金になろうとしています。「核のない世界」というビジョンを打ち出したオバマに期待を抱き、広島を訪問したオバマに核廃絶への誠意を確認しようとする日本国内の世論状況は絶望的なまでに「甘っちょろい」のです。

<問われる私たちの核意識>
 私は、広島で仕事をした6年間、日本人の曖昧を極める核意識について考え続けました。広島には日本人の曖昧な核意識を正す答があるのではないかという期待もありました。しかし、結論から言えば、「広島は日本の縮図」であるということでした。私たちは、1960年代に書かれた大江健三郎氏の『ヒロシマ・ノート』で理想化されたヒロシマを今日に至るまで「現実にある広島」と勝手に思い込んでいます。しかし、現実の広島は、「非核3原則と「核の傘」」の絶対矛盾にも正面から異議申し立てするだけの認識と勇気を持ち合わさず、オバマ訪広をひたすら歓迎するだけの、日本の他の大都市と何の変哲もない土地に成り下がってしまっているのです(私の広島総括に関しては、拙著『ヒロシマと広島』参照)。
 今回のオバマの「核の先制不使用」という思いつき発言をめぐって国内で起こっている現象も、要するにこれまでと何の変わりもありません。私としては、せめて以上に紹介した核デタランスに関する基本的論点を基礎に据えた、私たちの核意識を根底から問い直す議論が起こることを望むのですが、それはやはり「高嶺の花」でしょうか。