日本の進路を見据えた野党共闘を望む
-参議院選挙と東京都知事選挙を踏まえてー

2016.08.04.

東京都知事選挙は、鳥越俊太郎氏に1票を投じた私としては非常に残念な結果に終わりました。もっとも、事前の様々な世論調査が軒並み示していた結果予想と大差ない結果に終わったという点では、残念だけれども想定内ということでしたが。私の情報源も大方の皆さんと同じでメディア報道しかありませんが、今回の東京都知事選挙の経過と結果を見ている中で、先の参議院選挙の結果と合わせることで、今後の日本政治のあるべき方向を考える上での、野党共闘のあり方に関する提言を行いたいと思います。皆様のご判断の参考及び刺激材料になれば幸いです。

1.都知事選挙結果と参議院選挙東京選挙区との結果との比較

 今回の都知事選挙での主要3候補の得票数は次のとおりでした。

 小池百合子 2,912,628
 増田寛也  1,793,453
 (両者計) 4,706,181
 鳥越俊太郎 1,346,103

 参議院選挙東京選挙区での主要政党候補の得票数は次のとおりでした。

 民主党2候補 1,931,276
 共産党候補   665,835
 社民党候補   93,677
 (計)    2,690,788
 自公3候補  2,300,157

 以上の数字から、直ちに以下の事実が分かります。
 第一に、小池及び増田両候補の得票合計数は参議院選挙での自公3候補の得票合計数を140万票以上上回っていること。
 第二に、鳥越候補の得票数は、同候補を支援した民進・共産・社民3党の候補が参議院選挙で得票した合計数を130万票以上下回っていること。
 以上の2点から分かることは、今回鳥越候補を支援した政党の参院選立候補者に投票したかなりの部分(130万票以上)が小池または増田候補に流れたと見られることです。そして、事前の各種世論調査結果及び様々な報道から判断するとき、その原因としては、以下の要素が働いたことが分かります。
 一番大きい要素としては、参議院選挙で190万票以上を獲得した民進党が、知事選挙期間中から、共産党との共闘の是非をめぐって深刻な内部対立が起こったことがメディアで広く報道されており、民進党支持者の中の「反共」層(連合を含む)が小池または増田候補に投票したと判断されることです。
第二に、本来は比較的堅いはずの共産党支持層ですが、前の2回の都知事選挙で共産党が中心になって擁立した宇都宮健児氏が今回も立候補に最後まで意欲を持ち続け、最終的に断念したものの、鳥越候補に対する支持を明確にしなかったことが、参議院選挙で共産党候補に投票した人々の投票行動に影響を与えた可能性があることです。
 第三に、参議院選挙では9万4千票弱しか獲得しなかった社民党ですが、私がある会合で社民党の内部事情に詳しい人から直接聞いたところによると、宇都宮擁立を強く推したのは社民党の福島副党首をはじめとするいわゆる市民団体であったとのこと(私の情報源はこれだけですので間違っていたらお許し下さい)で、参議院選挙で社民党候補に投票した人々の投票行動にも影響があった可能性があります。
 このように、鳥越支持の主要3党それぞれに複雑な内部事情が働いたのですから、同候補に勝ち目はなかったことは容易に理解できます。つまり、民進・共産・社民などが一枚岩になってはじめて自公と互角以上に戦えるというのが参議院選挙結果の示しているところですが、そういう前提が崩れた状況下では到底勝負にならなかったと言えるでしょう。
以上に加え、私の当初からの懸念材料は鳥越氏の準備不足と年齢でした。立候補表明当初の鳥越氏の発言では、参議院選挙の結果(改憲政党が2/3を占めたこと)に対する危機感が都知事選出馬の最大の動機だったとのことであり、都知事選への準備不足の様子がありありと伝わってきていました。また、個人的には、鳥越氏と私はほぼ同年齢なので、彼の決断と行動(その点ではアメリカのサンダース氏も)には元気づけられました。また、石原慎太郎氏のことを考えれば年齢という要素は問題ないとも言えるのかもしれません。しかしやはり懸念材料だったし、有権者のマイナス的判断材料となった可能性は否定できないと思います。
さらにつけ加えるならば、民進党の岡田代表が投票日直前というおよそ考えられないタイミングで9月の党代表選への出馬断念を表明したことは、彼自身の政治家としての識見のなさ(政治家としての資質の問題)を露呈しただけでなく、彼の行動に呆れ、怒った少なくとも一部有権者の投票行動に影響を及ぼしたことも間違いないでしょう。
また、宇都宮氏の態度も一部有権者の投票行動に影響を及ぼしたことは間違いないでしょう。宇都宮氏が鳥越氏の応援に登場しなかったことに関する本人の説明(私はネットで紹介された内容だけしか知り得ていませんので、間違っている可能性はあります)によれば、いわゆる「女性問題」に関する宇都宮氏の質問に対する鳥越氏の回答内容が不十分であり、人権問題を一貫して重視してきた宇都宮氏としては納得がいかなかったからとされています。この報道が正しいとするのであれば、私としては宇都宮氏の行動には納得できません。
そもそも、選挙の最中に週刊誌(しかも名うての「暴露もの」を手がける2つの週刊誌)がこういう問題を持ち出すことが政治的悪意によるものであったことは明らかです。宇都宮氏の行動は、そういう週刊誌の行動に客観的に加担し、正当性を与えてしまっています。また、宇都宮氏の行動は、少なからぬ有権者の投票行動に影響を及ぼす公人としての責任意識が伴っていなければならなかったはずですが、宇都宮氏の発言からはその意識を窺うことができません。
 小池氏が勝利し、増田氏が敗れた原因については正直あまり関心がないのですが、2,で検討する今後の日本政治のあるべき姿を考える上で見逃していけないと思われるのは、小池氏の立候補に対して自民党都議会(及び自民党都連)が突き放して、増田氏擁立に走ったことは大きいと思います。特に一部メディア(ネットを含む)は、自民党都議会のドンが桝添氏をかばうことに最後まで動いたことや、自民党都議会への「仁義を切る」ことなしに小池氏が立候補表明したことに対してこのドンをはじめとする勢力が強く抵抗したことを面白おかしく報道しました。これは、「自民党をぶっつぶす」と大見得を切ったかつての小泉現象の小型版ともいうべく、「自民党と縁切りした」小池、「自民党に担がれている」増田というイメージが浸透し、その結果が多くの保守層の投票行動を小池氏に向かわせたことは間違いないと思います(余談ですが、こういう形勢のもとで、安倍首相が公然と増田氏支持で立ち現れなかったことは、「賢明」な選択だったでしょう)。

2.「野党共闘」:今後の日本政治を考える上でのポイント

 私は、今後の日本政治のあり方を考えるために、今回の都知事選挙の中から私たちが学びとらなければならない教訓が示されていると思います。それは優れて「野党共闘」のあり方の問題を考える上でのポイントです。
 第一に、野党はもちろん、各野党を支持する主権者・国民も、戦術的共闘と戦略的共闘という二つの次元を明確に意識し、整理した上で「共闘」を組み立てる必要があるということです。
 参議院選挙における一人区での野党候補一本化は、共産党の提案に、いわゆる市民勢力の積極的働きかけも加わり、民進、社民及び生活3党が応じる形で実現しました。それは、改憲勢力が参議院で改憲発議に必要な2/3を占めることを阻止すること、つまり改憲阻止を目標に設定した戦術的共闘であったと言えます。
 この戦術的共闘について、2つの側面から評価することが必要だと私は考えます。
 まず、改憲阻止という目標設定について、今回の参議院選挙で「2/3阻止」を一気に実現するということではなく、次回の参議院選挙、さらには来たるべき衆議院総選挙をも含めた、「改憲阻止」を明確にした、息の長い目標として提起するべきだったと私は考えます。ところが、その点をハッキリさせ得なかったために、「2/3」という数字を一人歩きさせてしまい、マス・メディアは自公(改憲派)勝利を強調することになってしまいました。しかし、冷静に考えれば、6年前の参議院選挙結果は民主党ブームのもとにあったときのものであり、その当時の議席を民進党が今回死守することは、たとえ野党共闘があっても無理であることははじめから分かっていたことです。
次にしかし、この戦術的共闘の積極的成果を無視するのは明らかに誤りです。私が7月12日のコラムで書いたように、民進党は惨敗した前回参議院選挙より獲得議席数は倍増近く(17→32)まで伸ばしましたし、4野党が候補者を一本化した32の一人区の11で勝利しました。特に東日本大地震のあった6県のうちの5県及び沖縄で勝利したことは、安倍政治の矛盾・問題が山積している地域における批判の表れとして、特筆すべき成果でした。野党共闘は肯定すべき成果を挙げたのです。
したがって、野党共闘に踏み切った民進党の岡田代表の判断は正しく、彼に対する同党「右バネ」勢力(その多くは9条改憲に積極的)の批判(2/3を阻止できなかったとするもの)は的外れです。野党共闘がなかったならば、民進党を待ち受けていたのはもっと惨憺たる結果だったに違いありません。岡田代表はもっと自信を持って野党共闘路線の必要性と正しさを主張すべきでした(そうしていれば、今回の唐突で無責任な代表選不出馬表明も避けられたでしょう)。
それに対して、今回の東京都知事選挙における統一候補擁立は、参議院選挙における野党共闘をさらに進めるという野党4党の基本認識の一致だけが先行し、その上で4党が一致できる「勝てそうな」候補者を探すという、ドタバタの戦術的共闘でした。1.で述べたような各党の内部矛盾を無視してしゃにむに突っ走ったのですから、惨敗に終わったのはある意味必然だったと言えるでしょう。
参議院選挙及び東京都知事選における最大の教訓は、戦略的目標を共有しない戦術的共闘の限界ということです。私が言う「戦略的目標」というのは、「21世紀の日本が取るべき進路・目標」ということです。そして、戦略的共闘というのは、その進路・目標に関する各野党内部、野党間及び「市民勢力」の立場・考え・政策を付き合わせ、徹底して議論を闘わせ、その上で一致できる最大公約数に基づいて、主権者・国民に訴えていく共闘を組み立てるということです。 野党内部における徹底した議論の必要性をも含める必要性は、民進党内の共産党との共闘をめぐる岡田代表と「右バネ」勢力との対立、あるいは、「鳥越擁立先にありきで、宇都宮氏に立候補断念を迫った共産党の強引な手法」について考えれば直ちに理解されるでしょう。
 ちなみに、「徹底した議論を尽くす」ということはデモクラシーが生命力を持つ上での大前提であり、その命綱ですが、日本の政治土壌を考えるとき、実は極めて難しい課題です。自民党にしても民進党にしても、政権・権力の座につくことを至上課題とし、それだけを一致点とした様々なグループの寄合所帯です(思想信条は二の次、三の次)。ですから、民進党の寄合所帯的性格は「共産党との共闘」というテーマをめぐって直ちに露呈するのです。安倍政権は一見難攻不落に見えますが、アベノミクスの破綻が明らかになれば一気に政権交代論議が熱を帯びるでしょうし、私は「一寸先は闇」だと判断しています。徹底した議論を尽くすというデモクラシーの基本からいうと、公明党及び共産党についても別の問題があります。それは基本的に「上意下達」の組織であって、党内デモクラシーが欠落(言い過ぎ?)していることです。しかし、政党政治に代わる有効な仕組みが現れない限り、日本の各政党が以上の課題を克服することは、日本政治が真にデモクラシーを実現するための欠くべからざる前提条件です。
 話を元に戻します。戦術的共闘と戦略的共闘とを分ける分水嶺は、後者がとりあえず一致できる点に基づいて共闘する(ほかの諸問題に関するそれぞれの立場・考え方は不問にする、いわば「臭いものにはフタをする」)のに対し、前者は共闘を目指す勢力がそれぞれの立場・考え方を洗いざらいぶちまけ(「臭いものであればあるほどフタを開ける」)、徹底して議論し、その上で共闘できる最大公約数をまとめて共闘体制を組み立てるということにあります。
 参議院選挙では、安倍政治の暴走で危機に直面している日本の立憲主義を守るということが、野党共闘における柱だったし、そのことが野党共闘に求心力を持たせたことは間違いありません。その限りでは、戦略的共闘の要素が原初的に含まれていたことは否定できません。しかし、私が言う「戦略的目標に基づく戦略的共闘」というのは、憲法、内政、安保、外交のあらゆる分野で日本が直面する基本問題について、各政党内部及び各政党間で徹底した議論を闘わせ、その過程を通じて得られた最大公約数に基づいて、主権者・国民に訴える共闘体制を組み立てるものでなければなりません。そういう真摯な取り組みのみが、自公政治に最終的に引導を渡し、日本政治を根本から主権者・国民の手に取り戻すことができるのです。
 第二に、「戦略的目標に基づく戦略的共闘というのは、憲法、内政、安保、外交のあらゆる分野で日本が直面する基本問題について、広汎な国民各層を巻き込んで、各政党内部及び各政党間で議論を闘わせ、その過程を通じて得られた最大公約数に基づいて共闘体制を組み立てるものである必要」ということの具体的中身として、私は内政問題には基本的に素人なので、憲法・安保・外交に即して、原則的なポイントにしぼって問題提起を行います。
 最大の出発点として議論を徹底的に尽くすべき問題は、21世紀の世界の基本的性格・特徴をどのように捉えるかについて共通認識を達成することです。日本政治に決定的に欠落しているのは、国際情勢に関する正確な認識です。しかし、鎖国の徳川時代であるならいざ知らず、21世紀の日本の進路を誤らないためには、正確な国際情勢認識は不可欠です。
 21世紀の世界を特徴づける基本的要素は、国際的相互依存の不可逆的進行、人間の尊厳・人権・デモクラシーという普遍的価値の確立、地球規模の諸問題の激発、大量破壊兵器(特に核兵器)の存在、そしてICT革命の進行などにまとめることができるでしょう。以上については、よほど極端な考え方をするもの以外、大方の共通認識が得られるところだと思います。そして、これらの諸要素の存在から導き出される最重要ポイントの一つは、大国間の大規模の戦争はもはやあり得ないし、大規模戦争の勃発を防止することは人類の生存と繁栄にとって不可欠ということです。
 しかし現実としては、アメリカは世界の平和と安全を保障するのは同国の世界的リーダーシップだという確信に基づいて行動しています。また、戦後日本の保守政治も一貫してそういう認識(日米同盟が基軸とする考え方)に基づいて行動してきています。民進党の「右バネ」勢力も基本的に同じです。したがって、国際情勢認識について徹底した議論を闘わせる基礎の上で共通認識を達成することは現実的課題です。
次に徹底した議論を尽くすべき問題は、21世紀の日本政治の出発点・原点を何処におくかということです。具体的には、敗戦を受け入れ、戦後日本の出発点を据え付けたポツダム宣言・憲法に基づくのか、それとも、ポツダム宣言・憲法を無視し、邪魔者扱いしたアメリカの対日政策に基づくサンフランシスコ平和条約・日米安保条約に基づくのか、という問題です。実は、ポツダム宣言を法的に受け入れ、同宣言の諸条項を誠実に履行することを約束した降伏文書(国際条約)を想起するものであれば、結論は前者以外にはありません。しかし、戦後70年余にわたってこの厳正な法的事実が無視され続けてきた以上、改めて国民的議論を尽くして戦後日本・21世紀日本の出発点・原点に関する国民的コンセンサスを確立することが不可欠です。
 次に国民的議論を尽くすべき問題は、憲法9条に関する国民的コンセンサスを確立するというポイントです。この点についても、9条の制定経緯及びその文言を忠実に踏まえる限り、結論は明白です。簡単にまとめれば、ポツダム宣言が要求した日本の徹底した武装解除を具体化したものが9条であること、また、9条の主語は「国民」であり、主権者・国民が、国家が伝統的に有していると国際法的にも理解されてきた、国家の戦争する権利(自衛権行使を含む)を放棄するということが9条の意味することであることは明らかです。しかし、この基本的事実についても、戦後70年余にわたる現実政治によって曖昧にされてきましたので、改めて国民的議論をつくし、確認し直す必要があります。そして、日米安保条約は当然のこととして、1990年代以後変質強化されてきた日米軍事同盟をどうするかについて結論を出す必要があります。
 さらに、外交・安保問題に関しては、今や多くの国民を含めて当然の前提扱いされる「日米関係は基軸」というポイントを真正面から検証し直す必要があります。具体的には、アメリカのリーダーシップは世界の平和と安全に不可欠なのか、それとも、アメリカの核を含む軍事戦略こそが21世紀国際関係の平和と安定を危殆に瀕せしめる元凶ではないのかを、国民的に考え直さなければなりません。
以上で述べた野党共闘に関する提言は、いうまでもなく最終的・究極的な「理想型」です。現実には、最終的共闘に至るまでの様々なレベルでの戦略的共闘があり得るでしょう。当面のもっとも原初的な戦略的共闘として考えることができるのは、「改憲阻止」を戦略目標として設定する共闘体制です。
しかし、重要なことは、そういう原初的共闘の段階から、ありとあらゆる重要問題について活発な議論を闘わせることであり、「臭いものにフタをしない」ことです。そうしてのみ、次のより高度な戦略的共闘への展望が開かれるはずです。例えば、現実の世論状況に即していえば、「9条は守りたい」、しかし、中国や朝鮮の脅威に鑑みれば、日米同盟は必要、という広範囲に共有されている認識に関して、「中国や朝鮮は日本に対する脅威」という受けとめ方は正しいのか、という検証は絶対に不可欠です。また、アメリカのいうことは基本的に正しいとする私たち日本人の受けとめ方(対米観)も改めてまな板に乗せる必要があるのです。要するに、アメリカというプリズムを通して物事を見ることに慣らされている日本の世論状況は徹底的に再検証される必要があります。こういう具体問題について認識を正しいものにするためにも、正しい国際情勢認識を培うことが大前提となるのです。