南シナ海問題に関する仲裁裁定

2016.07.17.

7月12日に仲裁裁判所が下した裁定(award)については、フィリピンが全面勝訴で、中国が全面的に敗訴したという「評価」が日本及びアメリカのメディアでは流布されています。しかし、このような見方は極めて皮相的なものと言わなければなりません。
仲裁裁判所が本件についてそもそも管轄権があるのかという根本的問題(中国は、英仏露等30ヵ国と同じく、国連海洋法条約(以下「条約」)第298条の規定に基づく「海洋の境界画定、歴史的海湾または所有権、軍事及び法執行などの分野の紛争に関しては、条約の紛争解決手続から排除する」という排除宣言を行っています。この条の(a)(i)では、「海洋の境界画定に関する‥規定の解釈若しくは適用に関する紛争又は歴史的湾若しくは歴史的権原に関する紛争」が紛争解決手続から排除されうると明定していますから、本件仲裁は不法かつ無効とする中国の主張は十分な法的正当性があります)に加え、国連海洋法条約にいう「島」・「岩」に関する裁定内容は、日本を含む多くの国々の法益に直結する重大な問題を含んでいます。このほかにも、中国の「九段線(中国語では「断続線」とも)」及びそれに基づく「歴史的権利」に関しても、裁定はフィリピンに一方的に有利な判断を示しています。それらの諸点について検討を加え、安倍政権の「大はしゃぎ」及びそれを丸呑みにする日本メディアの報道姿勢が如何に誤ったものであるかを指摘したいと思います。

1.「島」及び「岩」

(条約の規定)
 条約第121条1は、「島」について、「自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるもの」と定めます。島は、領海、接続水域、排他的経済水域及び大陸棚を持つことができます(同条2)。「岩」は、以上の島の定義を満たすものであっても、「人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない」(同条3)ものをいい、「排他的経済水域又は大陸棚を有しない」(同)と定められています。つまり、岩は、領海及び接続水域を持つことはできますが、排他的経済水域及び大陸棚については主張できません。
 ちなみに、条約はさらに、「自然に形成された陸地であって、低潮時には水に囲まれ水面上にあるが、高潮時には水中に没するもの」を「低潮高地」と定めます(第13条1)。低潮高地に関しては、「その全部が本土又は島から領海の幅を超える距離にあるときは、それ自体の領海を有しない」とされます(同条2)。

(中国政府の法的立場)
 裁定が出された7月12日に、中国政府は、「交渉を通じて中比間の南海における関係紛争を解決することを堅持する」白書とともに、「南海の領土主権及び海洋権益に関する声明」を発表しました。その中で中国ははじめて、南海における領土主権及び海洋権益に関して以下のとおり表明しました。

 中国人民及び中国政府の長期の歴史的実践並びに中国政府の一貫した立場に基づき、中国国内法及び国連海洋法条約を含む国際法に基づいて、中国の南海における領土主権及び海洋権益には以下のものを含む。
(1)中国は、東沙諸島、西沙諸島、中沙諸島及び南沙諸島を含む南海諸島に対して主権を有する。
(2)中国の南海諸島は内水、領海及び接続水域を有する。
(3)中国の南海諸島は排他的経済水域及び大陸棚を有する。
(4)中国は、南海において歴史的権利を有する。

 これは、中国科学技術大学の袁嵐峰教授が「まったく新しい表明」と述べた(7月14日付環球網所掲文章)ように、中国がはじめて南シナ海における中国の法的立場を表明したものです。つまり、中国は南沙諸島を含む南シナ海の島礁が条約にいう「領海、接続水域、排他的経済水域及び大陸棚を持つ」「島」を含むこと、また、「中国は、南海において歴史的権利を有する」として、南シナ海における歴史的権利を明確に主張したのです。ちなみに、仲裁裁定が出された日(7月12日)に王毅外交部長は、「裁定結果に関する談話」を発表しましたが、そこでは、「中国の南海における領土主権及び海洋権益は、今日初めて提起する新たな主張ではなく、南海断続線内を含め、長期の歴史的過程の中で形成された客観的事実であり、歴代中国政府が堅持してきたものである」として、上記声明(4)が九段線にかかわる歴史的権利について述べたものであることを明確にしました。「九段線」に関しては、項を改めますので、ここではこれ以上立ち入りません。

(仲裁裁定)
 裁定は、南シナ海の島礁が条約に言う「島」に該当するか否かについて、極めて恣意的な解釈を行うことで、すべてが「島」ではなく「岩」だと断定することにより、中国は一切の法的権利を主張することはできず、フィリピンの有する排他的経済水域の権利に対抗することはできないという判断を示して、フィリピンの全面勝訴という結論を引き出しました。
 すなわち裁定は、スカボロー礁、ジョンソン・リーフ、クアテロン礁、ファイアリー・クロス礁、ガベン礁(北)、マッケナン礁は高潮時も水中に没しないと認定します。これに対して、スビ礁、ヒューズ礁、ミスチフ礁及び第二トーマス礁は低潮高地だと認定しました。
 問題なのは、中国が主張する12カイリ以上の権利を主張できる島であるか否かについて、裁定が示した解釈でした。すなわち、条約に言う「人間の居住又は独自の経済的生活を維持すること」ができるか否かに関して、裁定は、「島」と言えるための条件として、「安定した人々のコミュニティを維持できる」かどうか、さらには「外部の資源に頼らず、完全に抽出的でない経済活動を維持できること」をも要求したのです。そして裁定は、南シナ海の各島礁における現実として、「外部の資源に依存した」ものであり、各島礁における政府関係者の駐在は「安定した人々のコミュニティ」が維持できているものと言うことはできないと断定しました。そして結論として、南沙諸島のすべての島礁は、排他的経済水域及び大陸棚を有しない「岩」だと断定したのです。

2.「九段線」及び歴史的権利

 条約の交渉過程では、歴史的権利をどのように扱うかについても議論が行われましたが、結局意見がまとまらず、したがってこの権利に関する規定は設けられませんでした。しかし、冒頭で紹介したように、条約は「歴史的湾若しくは歴史的権原に関する紛争」については紛争解決手続の適用を排除できると定めているように、歴史的権利そのものを否定しているわけではありません。
 ところが裁定は、条約交渉の過程で歴史的権利に関する主張は退けられたとし、条約で認められたのは、排他的経済水域における漁業にかかわる制限された権利だけであると指摘しました。そして、南シナ海で中国が保有していた(と中国が主張する)資源に対する歴史的権利は条約の効力発生により、条約と矛盾する部分については消滅したと断定しました。
 さらに裁定は条約発効前に、中国が南シナ海における資源に対して歴史的権利を実際に有していたか否かという設問を行い、当該海域は公海であり、中国が当該海域に対して排他的管轄を及ぼしていた証拠は存在しないとして、中国の歴史的権利そのものを否定しました。
 ただし、裁定は「九段線」の存在そのものを否定したわけではありません。中国の学者の中でも、裁定は「九段線」の存在そのものを否定したと憤慨する論調もありますので、念のために事実関係を紹介しておきます。
すなわち、フィリピンの訴訟内容は、「いわゆる「九段線」内の南海海域で中国が主張する主権的権利、管轄権及び歴史的権利は条約に違反するものであり、条約で認められる範囲を超える権利の主張は法的効力がない」とするものでした。つまりフィリピンは、九段線そのものが合法かどうかについて判断を求めたわけではなく、九段線内の南シナ海海域で中国が主張する主権的権利、管轄権及び歴史的権利が条約上認められるものかどうかを問題にしたのです。そしてすでに述べたとおり、裁定はこのフィリピンの訴えの内容に即して判断を示したというわけです。

3.仲裁裁定の問題点

 以上から明らかなとおり、今回の仲裁裁定については主に、①仲裁管轄権ありとする強引な立論、②「島」と「岩」に関する牽強付会的判断、③歴史的権利そのものの否定、という3点に関して重大な問題があります。この3点は、条約の権威性、十全性、有機的統一性のいずれをも根底から突き崩すものであり、今回の裁定に対しては、客観的に、公正かつ厳正な批判を行うことが不可欠です。

(管轄権の有無)
 この点については、冒頭に述べた以上に深入りする余裕はありません。むしろ、この裁定に対しては、国際司法裁判所(ICJ)は本件仲裁裁判がICJとは無関係であるとする立場を対外的に明らかにしたこと、国連事務局も裁定結果に対して立場を明らかにしないとするコメントを出したことを紹介しておきます。また、EUも南シナ海の紛争に関しては交渉による解決を希望するという立場を明らかにしました。つまり、米日のはしゃぎぶりは対突出した異常なものだということです。

(「島」と「岩」)
 「島」と「岩」に関する裁定内容については、中国の学者だけでなく、ドイツ及びアメリカの学者も厳しい批判を行っています。
 まず、ボン大学国際法学教授のステファン・タルモン(Stefan Talmon)は、「ドイツの声」(Deutsche Welle)でのインタビューで、「もっとも意外だったのは、裁定が南シナ海には一つの島もないとしたことだ」と指摘し、今回の裁定に示された観点が独り歩きするならば、その影響を受けるのは中国だけではなく、アメリカ、カナダ、フランス、イギリス、日本など、島礁の存在によって海洋権益を獲得しているすべての国々が影響を被ることになる、と指摘しました(7月14日付中国新聞網)。
 また、ヴァージニア大学海洋法・政策研究センター副主任のマイロン・ノードクイスト(Myron Nordquist)は中国新聞社記者の質問に対し、南シナ海の太平島を「岩」とし、「島」ではないとしたのはいかなる定義に基づいてなのか、まったく理解できないと述べました。また彼は、太平島は島として200カイリの排他的経済水域を有しており、仲裁裁判所はこれに対して管轄権を有していないと指摘しました。そして。アメリカ自身にかかわる問題として、太平島が「岩」であって「島」でないとするならば、太平洋中部に位置するジョンストン礁の扱いはどうなってしまうのかと問題提起しました。
 日本にとってもまったく他人事ではありません。中国の学者も指摘していることですが、沖ノ鳥島を「島」とし、200カイリの排他的経済水域を主張することは到底許されないことになります。もともと、日本のこの主張は国際的には認められていないのですが、今回の仲裁裁定を高く評価し、中国に受け入れを迫る安倍首相は、沖ノ鳥島に関する日本のこれまでの主張・立場を誤りとして認め、国際的に撤回しなければ筋が通らないのです。
 なお、中国としては、南海諸島の中のどれが「島」であるかを明確にする責任があると言えるでしょう。

(歴史的権利)
 条約に先だって成立した歴史的権利の存在そのものを条約が否定しているとする裁定の認識は明らかに誤りです。むしろ本来問われるべき問題は、中国はいかなる歴史的権利を南シナ海において有しているのかということでしょう。実は、この点に関しては中国国内においても定論があるわけではないようです。
 例えば、7月13日付の法制日報WS所掲の宋勝男(法制WS評論員)文章は、「歴史的権利については国際法上の定義はない。筆者の考えでは、大まかに言えば、領海、接続水域、排他的経済水域、大陸棚に関する権利、漁業権、海底資源開発権、関係水域に対する一定の管轄権、合理的軍事防衛権を含む総合的権利である」と主張しています。しかし例えば、九段線内部の海域がすべて領海であるとすれば、中国自身がくり返し認めている、南シナ海における航行及び飛行の自由と真っ向から矛盾するわけですから、宋勝男の主張には明らかに無理があります。
 私たちが取るべきアプローチとしては、中国政府が今回初めて「中国は、南海において歴史的権利を有する」としたことに即して、その意味内容を中国が明確にすることを求めていくことでしょう。