オバマ訪広に関する評価

2016.05.30.

オバマの広島訪問に関する私の評価は次のとおりです。私はすでに5月16日付コラムで私の判断を示していますが、その内容は毎日新聞が提起した質問に答えるものでしたので、ここでは、私自身の問題意識に即して、重複を厭わず記すことを予めお断りしておきます。

<オバマ訪広の本質は日米同盟変質強化の完成を記念するセレモニー>
 オバマ訪広の本質的意味については、5月16日付コラムで記した以下の内容をそのまま確認する。さらにつけ加えることはない。

「戦後の日米関係において、のどに刺さったトゲともいうべき要素は、日米開戦時の日本による真珠湾奇襲攻撃と日本敗戦直前の米国による広島・長崎に対する原爆投下である。他方、1952年当時の日米旧安保条約と、2015年の安倍政権による集団的自衛権行使「合憲」閣議決定及びその後の安保法制成立によって裏付けられた現在の日米同盟とを比較すれば一目瞭然であるように、日米関係は、アメリカが日本を一方的に取り仕切るいわば「おんぶにだっこ」の関係から、いまや日本が積極的に米国の世界戦略に協力する、いわば「持ちつ持たれつ」の関係へと様変わりしている。日米両国政府としては、こうした日米関係の変質を名実共に完成させるためには、上記2つのトゲ(歴史的遺産)を抜き去る必要があると認識することはごく自然である。今回のオバマ訪広は、変質強化された日米同盟関係を盤石なものに仕上げる最後のステップとして日米両政府に位置づけられていると見られる。」

 ただし、もう一つのトゲ(日本の真珠湾奇襲攻撃)の点に関しては、つけ加えておく必要がある。
5月25日の記者会見で安倍首相は、自らの真珠湾訪問の計画は今のところないと発言した。しかし、5月27日付のワシントン・ポストのウェッブ版に拠れば、アメリカ政府は本年12月に真珠湾攻撃75周年を迎えるに際して記念行事を行う準備を進めており、アメリカ政府高官の発言として、「安倍首相が真珠湾を訪問しないのであれば、極めて驚きだろう」という発言を紹介している。明らかに日米双方の立場は矛盾している。
 5月27日にオバマとともに原爆慰霊碑の前に立った安倍首相が行った演説を見ると、安倍首相自身としては、2015年に安倍首相が訪米し、米議会で演説を行ったことと今回のオバマ訪広とが対(セット)になっているという認識であることが理解される。安倍首相は次のように語った。

 「昨年、戦後70年の節目にあたり、私は米国を訪問し、米国の上下両院の合同会議において、日本の内閣総理大臣としてスピーチを行いました。(中略)あれから1年。今度はオバマ大統領が米国のリーダーとしてはじめて、この被爆地広島を訪問してくれました。」

そういう認識だからこそ、真珠湾訪問計画はないという上記発言だったのだろう。
 しかし、アメリカ側の理解は明らかに違う。上記ワシントン・ポストに拠れば、米日両政府は安倍首相の真珠湾訪問による追悼行事参加に関して検討したことがあったが、日本側はオバマの広島訪問と安倍首相の真珠湾訪問を結びつけることに難色を示したという。
安倍首相が真珠湾訪問に抵抗するのは、彼に代表されるいわゆる修正主義史観を奉じる勢力にとって、自らの歴史観を否定する意味を持つ真珠湾訪問には抵抗があるということだ。ホワイト・ハウスは、日本の立場を理解すると同時に、やはり安倍首相の真珠湾訪問を歓迎するという立場を表明したという。
29日から30日にかけての報道では、安倍首相の間接税増税実施延長発言をめぐって自民党内部で衆参同日選挙を含めた議論が起こっており、野党による安倍内閣不信任決議提出の動きと併せ、政局は波乱含みだ。12月の時点で安倍政権が存続しているかどうかは定かではない。
しかし、アメリカからすれば、安倍政権であるか否かにかかわらず、日本の首相が12月に真珠湾を訪問し、記念行事に参加することを要求する立場には変わりないだろう。それは、私が冒頭で述べたように、「変質強化された日米同盟関係を盤石なものに仕上げる最後のステップ」としての意味合いは微動もしないからである。したがって、この問題は、年末にかけての日米関係における大きなイッシューとなっていくと判断される。

<オバマ訪広・演説を「核なき世界」に結びつけるのは幻想>
オバマの訪広及び彼が行った演説に対しては、「核なき世界」に向けたオバマの決意を示したものとして積極的に評価する向きが多い。安倍首相も、上記演説の中で、「「核なき世界を信じてやまない世界中の人々に大きな希望を与えてくれました」と強調して、そういう評価の後押しをしている。
しかし、2009年のオバマのプラハ演説の内容と今回の演説の内容を比較し、また、過去7年余にわたる施政期間中のオバマ政権の政策を検証すれば、以上のような積極的評価にはなんらの根拠もないと指摘するほかない。正直言って、私はBSフジが夜のニュース番組でオバマの演説をノー・カットで放映するのを見ていて、胸に突き刺さる発言を今か今かと待っていたが、結局は中身のない冗長さに辟易するだけだった(プラハ演説の方がまだマシだった)。過去7年余に誇るべき実績があれば、オバマは当然それを指摘しただろう。しかし、オバマは自らの実績については何も語らなかった。いや、語りうる何ものをも持っていなかったのだ。例えば、5月29日付新華社電に拠れば、同月27日付のワシントン・ポストは、ペンタゴンが公表した最新データによると、オバマ政権が削減した核兵器の数量は1980年以後の歴代政権中でもっとも少なく、しかも年ごとに削減数が減ってきたという。
オバマは、「私の国のように核を保有する国々は、恐怖の論理にとらわれず、核兵器なき世界を追求する勇気を持たなければなりません」と指摘した。しかし、この7年間にオバマ政権が追求して止まなかったのは、(イラン及び朝鮮の脅威を口実にした)ロシアと中国の核戦力を裸にするためのミサイル防衛システムの開発と配備だった。核分野で行った唯一のことといえば核セキュリティ・サミットだが、それは核兵器廃絶・核軍縮とは無縁であったし、原子力発電を世界的に推進するという意味でも、潜在的核拡散を助長するものだった。
しかもオバマは、「私の生きている間に、この目標(核兵器なき世界)は実現できないかもしれません」と述べた。この発言こそ、私がプラハ演説に接したとき、オバマは「ビジョン」を述べているのであって、核兵器廃絶・核軍縮のための具体的政策を展開する意志・決意は備えていないと判断したカギとなるものだった。オバマはご丁寧にも、広島演説でもこの発言をくり返したのだ。
昨日(5月29日)付のコラムで、私は日本のマス・メディアの報道姿勢を厳しく批判したが、メディアが読者に対してほんの少しの責任感を持ち合わせているのであれば、私が以上に指摘した問題点に対する自らの判断を示した上でオバマ演説を評価するのは当然ではないだろうか。

<アメリカに対する正確な認識を養うことが必要不可欠>
私は、5月14日付のコラムで次のように指摘した。

「核兵器廃絶に真剣に取り組む意志がない日本政府を批判し、集団的自衛権行使に突進する安倍政権を批判するという点で、これまでの日本国内の反核運動と安倍政権反対運動とは共通しています。そして同時に、核兵器廃絶に対する根本的障碍であるアメリカの核政策を真正面から問いたださず、安倍政権の安全保障政策を支配し、牛耳っているアメリカの世界軍事戦略を真正面から問いたださないという点においても、二つの運動のアプローチは軌を一にしているのです。
 しかし、これだけアメリカに首根っこをつかまれている日本の政治である以上、アメリカという要素を素通りしたいかなる世論・運動も日本の政治を根本から問いただす内発的な力を備えることは極めて困難であると、私は判断します。安倍政権に反対する私たちに必要不可欠なのは、安倍政権の安全保障政策を規定しているアメリカの世界軍事戦略を厳しく批判する視点の確立です。そして、核兵器廃絶を目指す私たちのオバマの広島訪問に対する態度決定に必要不可欠なのは、オバマが「広島・長崎に対する原爆投下はあってはならなかったこと」を認めることを厳正に要求する姿勢の確立です。」

オバマの広島訪問及び彼の広島演説に対する国内の反応を目の前にして、私は再度以上のことを特筆大書したい衝動を抑えられない。内閣府の調査に拠れば、アメリカに対して好意的感情を持つものは80%を超えており、しかもほぼ一貫して右肩上がりの傾向にある。そういう世論は、アメリカの実像・本質を感情的にはねつける傾向が強く、今回のような「歓迎一色」のマス・メディアの報道姿勢に対しては積極的に共鳴する(真逆なのが中国及び朝鮮のケースであることは改めていうまでもないだろう)。
しかし、正確な国際観を備えないいかなる世論・運動もしょせん「井の中の蛙」に過ぎない。1990年までの自民党主導の「一国平和主義」の時代であればそれで済んだかもしれない。しかし、21世紀の今日、私たちが本当に主権者として、日本の政治の主人公としての主体的能力を確立するためには、正確な国際観(対米認識、対中認識を含む)を備えることは絶対不可欠である。オバマ訪広に対するマス・メディアを含めた国内の反応を見るとき、私としては改めて以上のことを強調せざるを得ない。