オバマ大統領の広島訪問決定と日本政治の病根

2016.05.14.

G7サミットで訪日するオバマ大統領が広島を訪問するということで、日本国内は再びオバマが2009年にチェコのプラハで「核のない世界へ」演説を行ったときと同じような、私から見ると「日本人は本当に学ばない民だな」という思いを再確認するしかない、浮ついた反応一色になっています。もちろん、プラハ演説のおかげでオバマはノーベル平和賞をもらったのですから、当時浮ついたのは日本人だけではなかったことは認めなければなりません。しかし、プラハ演説から7年が経った今、オバマ政権下のアメリカの核政策は微動もしていないという厳然たる事実を前にするとき、日本社会が今回再び浮き足立って歓迎ムード一色になるというのはどう見ても異常ですし、まともな国際感覚の欠如の典型的表れという以外にないと思います。
 私は、広島滞在中にオバマのプラハ演説に接しましたが、オバマの「核のない世界へ」というキャッチ・フレーズは「うるわしい未来に向けたビジョン」の表明にすぎず、「核兵器廃絶に向けた真剣な政策」表明ではないことは直ちに明らかでした。ビジョンと政策とがまったく別ものであることは誰にも分かることです。ところが、2001年の9.11事件以後に「対テロ戦争」を引き起こして世界をパニック状態に道連れにしたブッシュ政権の本質が露わになっていたことを背景に、アメリカ史上最初の黒人大統領を選出する「アメリカン・デモクラシー」に対する驚き(私もその点は共有しました)が、多くの人々(日本だけではない)をして、オバマならば核兵器廃絶に向けて本気で動くのではないかという根拠のない期待感(プラハ演説を詳しく検証した私が当時から指摘したこと)を抱かせたのでした。
 国際社会は、その後のオバマ政権の対外政策の実績に対しておおむね厳しい評価です。特に、オバマ政権の2期にわたる核政策に対するアメリカ内外の評価は極めて厳しいものがあります。彼が鳴り物入りで開始した核セキュリティ・サミットも、核兵器は完全に棚上げ(というより議題にすら載せない)で、もっぱら核物質の国際的管理と原発推進に明け暮れするというお粗末さでした。朝鮮の核兵器開発は、日本国内では「北朝鮮脅威論」の格好な材料となっています。しかし、国際的には、ブッシュ及びオバマ両政権の強硬一本槍の対朝鮮政策が朝鮮をして核兵器開発に追いやった元凶であるという認識が明確に存在しています。
核兵器に関するオバマ政権の牢固とした政策は、プラハ演説ですでに明確にしていたとおり、「核兵器が存在し続ける限り、アメリカは信頼できる核デタランスを維持する」ということです。核兵器の最大最強の保有国であり、したがって世界の核兵器廃絶を妨げている張本人のアメリカが率先して動きを取らなければ、核兵器廃絶は画餅にしか過ぎないことはあまりにも明らかです。ところがオバマは、「核兵器が存在し続ける限り」という前提を掲げることによって、アメリカが核兵器廃絶に率先して取り組む意志がないことをハッキリさせていたわけです。これでは、他の核兵器保有国が動くはずはありません。したがって、この7年間のオバマ政権の核政策を冷静かつ客観的に評価するからこそ、核兵器廃絶を主張する国際世論の評価は厳しいものとなっているわけです。だからこそ、冒頭に述べた日本社会の浮ついた反応というのは、「あり得ない」類のものであることも分かるのです。
 しかし、このような日本社会の浮ついた反応の根底には非常に深刻な問題が潜んでいます。すなわち、私は広島に滞在していたときから何度も確認せざるを得なかったのですが、「唯一の被爆国」、「核廃絶」は広島の人々を含め、圧倒的に多くの日本人にとっていわば呪文みたいな意味しかありません。その呪文を唱えさえすれば、後は「何でもあり」(何をやってもお咎めなし)というわけです。こうして、まともな国際感覚からいったらあり得ない、「非核三原則」を言いながらアメリカの「核の傘」(拡大核デタランス)すなわち日米核安保を肯定するという摩訶不思議な国民世論状況がまかり通る状況が数十年にわたって続いてきたのです。
オバマの広島訪問は、こうした曖昧模糊とした国民的な核意識にとってはもっとも好都合なものとして歓迎されるわけです。なぜならば、オバマは「核廃絶」を願う「日本国民」の心情を理解した上で広島訪問を決断したのであり、その意味においてオバマは「核廃絶に対して真剣な気持ちを持しているに違いない」と多くの国民(ほとんどのマス・メディアを含む)は勝手に解釈するからです。しかもこれまた多くの国民(再びほとんどのマス・メディアを含む)は、政権末期のオバマが核兵器廃絶に向けて本気で取り組む意思も能力もないことを見極めており、したがって「世の中」が激変することはあり得ないことに日常保守的な安心感を抱くこともできるからです。しかし、このような状況こそ日本社会の深刻な病理を浮き彫りにしているのです。
 より根本的に、オバマの広島訪問決定に対する国内の反応状況を眺めるとき、私は、安倍政権の集団的自衛権行使「合憲」解釈及び安保法制(戦争法)強行に反対する国内世論状況がダブって見えてなりません。私にダブって見えてならないのは、アメリカに対する透徹した認識(眼差し)の意識的無意識的な欠落ということです。核兵器廃絶に真剣に取り組む意志がない日本政府を批判し、集団的自衛権行使に突進する安倍政権を批判するという点で、これまでの日本国内の反核運動と安倍政権反対運動とは共通しています。そして同時に、核兵器廃絶に対する根本的障碍であるアメリカの核政策を真正面から問いたださず、安倍政権の安全保障政策を支配し、牛耳っているアメリカの世界軍事戦略を真正面から問いたださないという点においても、二つの運動のアプローチは軌を一にしているのです。
しかし、これだけアメリカに首根っこをつかまれている日本の政治である以上、アメリカという要素を素通りしたいかなる世論・運動も日本の政治を根本から問いただす内発的な力を備えることは極めて困難であると、私は判断します。安倍政権に反対する私たちに必要不可欠なのは、安倍政権の安全保障政策を規定しているアメリカの世界軍事戦略を厳しく批判する視点の確立です。そして、核兵器廃絶を目指す私たちのオバマの広島訪問に対する態度決定に必要不可欠なのは、オバマが「広島・長崎に対する原爆投下はあってはならなかったこと」を認めることを厳正に要求する姿勢の確立です。