2015年のプーチン外交(中国専門家総評

2015.12.31.

12月26日付の中国青年報は、ロシア問題専門家で同紙シニア・ライターでもある関健斌による2015年のプーチン外交を総評する文章を掲載しました。中露の戦略パートナーシップは今や揺るぎないものがありますが、関健斌文章は正に歯に衣着せぬ率直さでプーチン外交の2015年の成果と問題・困難を指摘しています。内容的にも極めて興味深い分析が行われており、私にはとても勉強になりました。中露関係を考える上でも参考価値が大きいと思いますので、要旨訳出して紹介します。

  (編集部コメント)
  2015年も終わりに近づいているが、ロシアは相変わらず経済における「厳冬」に苦しんでいる。それにもかかわらず、ロシアはこの1年、国際舞台ではアメリカを出し抜いて2015年という「国際反テロ年」のトップ・スターとなった。ロシアの2015年内外政の道程はどのようなものだったか。プーチンのグランド・デザインは2016年にはどう展開するだろうか。本紙は関健斌に解読してもらうこととした。読者の「いいね」を期待する。
  (本文)
  2015年、プーチンは「新ミンスク協定」でウクライナ東部の衝突を暫定的に凍結させ、ユーラシア経済連盟で子分の国々と苦楽を共にし、赤の広場での閲兵式で自らを「非西側世界」の人物であることを際立たせ、上海協力機構及びBRICSの首脳会議で国際秩序を改革する強烈な意欲を顕示し、国連演説で国際舞台におけるロシアの存在感を示し、シリアにおける空襲でロシアの「中東リバランス」戦略を開始した。
これらすべては「苦境打開」という目標のためであった。「苦境打開」こそはロシアの2015年外交のキー・ワードであった。同年前半は欧州に迫ってともにウクライナ危機を「軟着陸」させ、最大限度に「ストップロス」を図った。同年後半にはシリア問題でアメリカに「激迫」し、最大限にアサド政権の「延命」を図った。1年にわたる手練手管を通じて、ロシアは「西緩東進、北穏南下」の勢いをつくり出したが、露米の駆け引きにおいて、戦略全体としては守勢である状況は必ずしも変化がなく、アメリカ以下の西側諸国によって孤立している外交的現実もまた変化がない。ロシアの「怒りを解く」外交は未だ「困難を解く」目標を実現しておらず、鑑賞には十分堪える以上のものがあるが、持続性においては明らかにまだ足りないものがある。
<対米関係>
ロシア外交の「困難」は主にアメリカに源がある。プーチンが3度目のクレムリン入りした後、露米関係は、メドベージェフ時代の「仕切り直し」から「休眠」さらには「フリーズ状態」に陥った。ウクライナ危機を引き金として、露米関係は冷戦後の最低レベルまで転げ落ち、両大統領の下にある21のワーキング・グループのすべてのコミュニケーションが止まってしまった。2014年における露米間の意思疎通は主として空を隔てて怒鳴り合うか電話するかのどちらかだった。不完全な数字によれば、この年、プーチンとオバマは10回電話し、ラブロフとケリーは48回電話し、「電話外交」は露米が必要なコミュニケーションを取る上での重要なチャンネルとなった。
しかし2015年になると、大統領及び外相の直接接触が次第に回復するようになった。ケリーは5月と12月の2度ロシアを訪問し、いずれにおいてもプーチンの接見を受けた。9月28日には、プーチンとオバマは、国連成立70周年の一連のサミットの機会に、ニューヨークで2年ぶりとなる正式会談を行った。しかし意味深長だったのは、両者の90分にわたる秘密会談の後72時間も経たないうちに、ロシアは突如、シリア政府の要請を受けて、シリア国内のイスラム国に対して空襲を開始したことだ。
ロシアの突然の反テロ作戦はアメリカの中東における戦略をかき乱し、アメリカから主導権を奪いあげ、反テロ指導権をめぐってアメリカと争う勢いを示した。その結果、オバマはわずか半月の間に、G20サミット及びパリにおけるCOP21の機会に、衆目を集める中でプーチンと2度にわたって非公式の会話を交わし、露米関係冷却期における一種のインタラクションを開始した。
オバマとプーチンとの「仏頂面での熱い会話」は正にプーチンの「弱者の奇襲戦術」のめざましい成果である。ウクライナ危機以後、オバマはプーチンに対して「シカト戦術」を取り、ロシアはたかだか「ローカルな国家」だとして冷遇してきた。しかしオバマの狙いに反し、このようにことさらにロシアを矮小化する言動は、プーチンの満幅の闘志をかき立てることになった。ロシアは、リスクを冒してアメリカと「平和攻勢ゲーム」を始め、シリアという「古いカード」を再び持ち出したが、結果は何度やっても同じことになった。すなわち、2013年の化学兵器と平和を交換するという「9月の意外」から2015年の鳴り物入りのテロ攻撃という「9月の急襲」へと、プーチンは2度にわたってシリア問題を利用してアメリカに対してロシアとの限定的な「選択的協力」を行うことを迫った。この1年間、プーチンは機会ある毎に「アメリカと対等に渡り合う」平等の地位を獲得しようとしてきたが、そういう地位を獲得するのは極めて骨の折れることだった。
<対欧関係>
2015年12月18日、EUサミットはロシアに対する経済制裁を2016年7月末まで、再度6ヶ月延長することを決定した。このことは、プーチンは欧州の債務、難民、反テロなどの危機という機会を捉え、独仏を引っ張り込んでロシアがウクライナ東部危機を凍結させることを手伝わせたものの、EUとしてはそのことによっても対露制裁を放棄するまでには至らなかったことを意味するものだった。
ウクライナ危機は露米の争いであるが、欧州はアメリカによって最前線にかり出され、露米の地縁上の軍事対決の餌食にさせられた。欧露間の「制裁と反制裁」は双方の傷を深くし、双方は体面を保つ形での収拾策を模索してきた。地縁上の宿命により、欧州としてはいやいやながらであってもロシアとは交際せざるを得ず、ウクライナ危機を解消するための出口を探してきた。
2015年2月上旬、メルケルとオランドはひっきりなしにキエフとモスクワとの間の斡旋に奔走し、ついにプーチンとポロシェンコを交渉のテーブルに引っ張り出した。2月11日、プーチン、オランド、メルケル及びポロシェンコはミンスクに集い、16時間にも及ぶマラソン会談を行い、ついに4頁の宣言と「ミンスク協定を実行する総合措置」なる文書をまとめ上げ、ウクライナ東部危機を凍結するための突破口をつくり出すことに成功した。これは、プーチンの外交的勝利であり、ポロシェンコにとっては「城下の盟」すなわち屈辱的な条約であると見なされている。その後、キエフ政権がウクライナ東部でコソコソ動き、危機という「寝た子を起こす」意図を露わにすると、プーチンはまたもや10月2日の「ノルマンディ・フォーマット」による4指導者によるパリ会合で、メルケルとオランドの力を借りて、ポロシェンコに対して「新ミンスク協定」を確実に実行することを約束させ、「3対1」のロシアにとって有利な局面をつくり出した。
仮に独仏露間の黙契がなかったならば、ウクライナ危機が2015年に凍結されることはなかったと言うことができるだろう。露欧がウクライナ問題で一種の枠組み的な妥協を達成した後は、すでにクリミアを掌中に収めたプーチンは、その勢いを駆って露欧関係の新しい1頁を開こうとした。すなわち、11月13日のパリのテロ事件後、プーチンは直ちにロシア軍に命令して、あたかも同盟国を支援するかのごとくフランスと協力し、地中海に配備していた戦艦「モスクワ」がフランスの空母「ド・ゴール」と連携してシリアにおける作戦計画を協議するように命令した。それと同時に、プーチンはG20サミットの期間中にイギリスのキャメロン首相と1年ぶりとなる首脳会談を行った。1時間近くにわたって行われた会談の後、キャメロンは、シリア問題に関する英露間の隔たりは狭まったと述べた。
プーチンは、欧州大国との接触回復に努力すると同時に、欧州南部で「井戸掘り」することも忘れなかった。2月には、プーチンはハンガリーを訪問し、キプロス大統領をロシア訪問に招いた。4月及び5月には、ギリシャのチプラス首相及びチェコのゼマン大統領が相次いでロシアを訪問し、セルビアは赤の広場での閲兵式に部隊を派遣した。ロシアと欧州東南部諸国のインタラクションに対し、米欧は、「ロシアは、その魅力とカネ、さらには歴史的及びイデオロギー的余燼によって、計画的にEUのもっとも弱いところに狙いを定め、欧州のもっとも混乱し、安定していない地域に対する影響力を固めようとしている」と見なしている。
<独立国家共同体(CIS)との関係>
CISはプーチンの「ユーラシア・ドリーム」のベースである。これなくしては「ユーラシア・ドリーム」は蜃気楼となる。しかし、CISは近年はもはや地域的組織体という概念よりは地域的地理概念にまで落ちぶれつつある。キエフの離脱の決意はもはや決まっている。それにもかかわらず、プーチンは相変わらず「子分たち」との感情的連係を放そうとはしていない。ロシアが引っ張るCISの車の両輪であるユーラシア経済連合と集団安全保障条約は厳しい状況の中で無理やりにせよ動いている。
2015年1月1日、ロシア経済が困難に見舞われているにもかかわらず、プーチンはあたかも「ヴォルガ河の船頭」のように、ユーラシア経済連合を無理やり出帆させた。1月2日にはアルメニアが加盟した。8月には、キルギスタンがすったもんだの揚げ句やはり加盟した。また、5月にはユーラシア経済連合とヴェトナムとの間で自由貿易協定が署名された。ロシアのメディアの報道によれば、40近い国々がユーラシア経済連合との自由貿易協定締結の意向があるといい、現在、イラン、モンゴルなどとの間で協議が行われている。しかし、ロシア経済の困難、メンバー国間の経済力の格差及び利害の違いにより、ユーラシア経済連合の今後の道筋については不確定要因が充ち満ちている。
ユーラシア経済連合がCIS一体化の経済的エンジンであるとすれば、集団安全保障条約機構はその安全保障上のエンジンである。9月14日の同機構のサミットから10月16日のCISサミットにかけて、シリアという域外問題が中心的テーマとなった。注目されるのは、9月14日のドシャンベ・サミットにおいて、メンバー国の参加及び責任意識を強化しようとする目的からか、ロシアは、組織の秘書長のポストを譲り、それまでロシア人が一貫して占めていたポストをメンバー国の輪番制にしたことである。ただし12月21日のモスクワ・サミットでは、現在のロシア人秘書長の任期をさらに2017年1月1日まで延長する決定を行った。
<対テロ>
中東におけるロシアの対テロ作戦は突発的なものではなく、入念に計画したものである。中東における「古くからのプレーヤー」として、ロシアの中東回帰の足取りは2015年に突如としてスピードを上げた。9月30日、ロシアはシリア国内のイスラム国に対する空襲を開始した。周りを驚かせたこの挙は、「首の皮一枚」だったアサド政権に息を吹き返させただけではなく、多くのプレーヤーの計算をかき乱した。ロシアの中東回帰は、大国の地縁政治の駆け引きの中での中東の地位をトップに据えることとなった。
中東における対テロ行動において、ロシア、イラン、イラク及びシリアの間で情報の共有が行われているが、実力行使の点においては、ロシアは一騎当千である。敵を震え上がらせ、傍観者の息を呑ませるべく、ロシアは「鶏を殺すに牛刀を以てする」方法を採用し、巡航ミサイルを含む最新型兵器のすべてをひけらかしている。アメリカ・メディアの表現を借りれば、シリアはロシアが最新兵器及び理論を試す実験場になっている。
この表現はウソではない。今回の対テロ作戦は.ロシアが2008年にグルジアに対して行った「5日戦争」後はじめての海外派兵であり、ロシアのここ数年における軍事改革の成果のデモンストレーションの舞台となっている。9月30日から12月15日までの間、ロシア空軍は4201回の戦闘飛行を行い、そのうち戦略爆撃機を使用したのが145回ある。プーチンは12月3日に行った年次教書の中で、「ロシアの陸海軍隊はその戦略水準と実力とを証明した。先進的なロシアの兵器は大いに実力を輝かし、我が国の軍備及び兵器の更なる改善に貢献した」と述べた。もっとも、3ヶ月を経ても、ロシアのシリアにおける対テロ作戦は「はっきりした勝利」を収めるには至っていない。止むを得ず、ロシアは意識的にシリア反対派との協力も開始した。
<対アジア>
2015年という年は、ロシアと米欧との関係においては若干緩んだけれども、解きほぐすまでには至らなかったとすれば、ロシアとアジアとの間では「花も開き実も結んだ」と形容できるだろう。もっとも、ロシアの対アジア政策に関しては、ロシア内外の学者の見方は様々である。これらの論争に対して、メドヴェージェフは9月24日に発表した文章で、「ロシアの地理的及び地縁政治的位置からいって、ロシアがアジアとの協力を積極的に発展することは可能であるだけでなく、必要になっている。ここで言うのは中国、ヴェトナム、日本、韓国などであり、全体的に言えば、アジア太平洋諸国並びに上海協力機構加盟国及び世界各地に所在するBRICSである」と述べた。
実際、20年近い右顧左眄を経て、ロシアの多面外交戦略は日々成熟を遂げており、ますます多元化している。「ルック・イースト」はロシアの多元外交の一部分であり、対中関係発展もまたロシアの「ルック・イースト」の重要な一環だ。この1年、習近平は、モスクワ、ウランバートル、北京、アンタリア(トルコ)、パリにおいてプーチンと5回会談し、中露関係がハイ・レベルの発展を遂げることを保証した。両者は、国連の「第二次大戦勝利70周年」決議採択及び国連特別記念会議開催を推進するとともに、上海協力機構その他のマルチの枠組みでの第二次大戦勝利70周年記念活動を挙行した。両国元首が5月に署名した「シルク・ロード経済ベルト建設及びユーラシア経済連合との結合協力に関する中露共同声明」は2015年における両国協力の最大のスポットライトと呼ぶにふさわしく、両国が長年にわたって力を注入してきた全方位、協力共嬴のパートナーシップが獲得したもっとも重要な成果となった。