「抑止」という言葉の魔術を考え直す

2015.08.29.

*「抑止力は平和を持たすか」というテーマで原稿の執筆依頼があったのを受けて書いた一文を紹介します。

<「抑止」の濫用とその原因>
 近年(特に米ソ冷戦終結後)、日本では抑止という言葉が無雑作に使われる傾向がある。ネットで検索するだけでも以下の有様だ。
いわく、日米同盟(A)は戦争(B)を抑止するために不可欠だ。いわく、沖縄に駐留する米海兵隊(A)は侵略(B)を抑止する役割を担っている。いわく、死刑制度(A)は凶悪犯罪(B)を抑止する効果が期待できるので維持するべきだ。いわく、少年犯罪の厳罰化(A)は犯罪増加(B)を抑止するために必要だ。いわく、防犯カメラ(A)は侵入者・不審者(B)に対して心理的な抑止効果が期待できる。いわく、化石燃料を燃やしたときに発生する微粒子(A)は、温暖化(B)を抑止する効果がある。いわく、心臓ホルモン(A)には肺がん手術後の転移(B)を抑止する効果がある。いわく、在特会賠償判決(A)はヘイト・スピーチ(B)を抑止する効果が期待できる、等々。
 これらのケースで使われる「抑止」という言葉に共通する意味は、「あるもの・こと(A)の存在が望まれないもの・こと(B)の発生を抑え止める」ということだ。
 ところで、「抑止」という言葉は、英語deterrenceの訳語である。中国語では「威懾」という訳語が採用されている。その意味は「威嚇して恐れさせる」ということだ。何故、日中間でこれほどの意味の違いがあるのか。どちらの訳語が原義により近いのか。その点を理解するには、まず英語deterrenceの本当の意味内容を理解する必要がある。その点をハッキリさせることなしには、「抑止」という言葉を軽々しく使うことは避けるべきだろう。したがって以下では、「デタランス」という言葉に統一することにする。
<デタランスとは>
 大英百科事典でdeterrenceを検索すると、次のように説明されている。デタランスの意味・内容・特徴を的確にまとめているので、若干長いが紹介する。

 「(デタランスとは)国家が敵国からの攻撃を効果的に未然に防ぐために報復という脅迫を使う軍事戦略のこと(傍点は浅井。以下同じ)。
核兵器の出現により、デタランスという用語が主として核兵器国及び主要な軍事同盟体制の基本戦略に適用されてきた。この戦略が前提とするのは、それぞれの核兵器国がいかなる攻撃に対しても即時にかつ圧倒的な破壊を加える能力を保有することである。言い換えれば、攻撃国の第一撃から生き延びた被攻撃国の核戦力によって攻撃国が耐えられない損害を与える、明確で信頼できる能力とも定義できる。
デタランスが成り立つための不可欠なポイントは、被攻撃国が、甚大な被害を受けても、さらには報復することによってさらなる壊滅的損害を受ける第二撃を蒙る危険を賭してでも、攻撃国に対して報復する可能性について、攻撃国がどの程度の不安を持つかにある。
したがって、核デタランス戦略は2つの基本的条件によって成り立つ。一つは、(攻撃国の)第一撃に対して(被攻撃国が)報復する能力が確実にあると(攻撃国に)考えさせること。もう一つは、(被攻撃国が)報復する意思が可能性としてある(但し、確実である必要はない)と(攻撃国に)認識させること。」

以上から、「抑止」という日本語訳がデタランスの本義とかけ離れていること、「威懾」という中国語訳がデタランスの本義を忠実に体していることが分かる。「抑止」というのは明らかな誤訳であることをまず確認しておこう。

<デタランスのポイント>
 大英百科事典の定義及び説明は専門的すぎて、分かりにくいと感じる人のために、デタランスのポイントを整理する。
 第一、デタランスとはすぐれて軍事用語であり、しかも極めて厳密な意味合いにおいて用いられる用語である。したがって、軍事以外のケースについても「抑止」を濫用する日本の現状は異常であることが理解される(もっとも、これはもっと本質的な日本語の乱れという深刻な問題の一つの表れなのだが)。
 第二、デタランスのもっとも中心に座る含意は、「報復という脅迫」によって相手が攻撃を思い止まることを迫る点にあること。「報復という脅迫」が相手に通じなければデタランスは成り立たず、日本語でいう抑止にも繋がらない。デタランスに「抑止」という訳を当てることの初歩的な間違いが理解される。
 第三、デタランスという戦略は、究極兵器ともいわれる核兵器の出現及びいくつかの国々による保有を背景に生みだされた。
 核兵器の破壊力のすさまじさは、広島・長崎への原爆投下によって直ちに世界的認識となった。そのため、アメリカの核攻撃に身構えたソ連、ソ連の核攻撃に身構えた英・仏、米・ソの核攻撃に身構えた中国が次々に核兵器開発に走った。
 核兵器は途方もない破壊力(熱線・爆風・放射能)が最大の特徴であり、普通の兵器のように安易に使うことはできない。その結果、いずれの核兵器国も、「政治の継続・手段としての戦争」、「数多くある選択肢の一つとしての兵器」という伝統的な戦争及び兵器に関する理解では、自らが核兵器を持ち、戦争に備える理由を説明できないジレンマに直面する。このジレンマを解決し、核武装を正当化するための戦略として編み出されたのがデタランスである。 次のようにも言えるだろう。核戦争には勝者があり得ないことは誰もが認めるほかない。しかし、国家間の相互不信は根強い。相手が仕掛けてくるかもしれない攻撃の可能性に対しては万全の備えが必要だという考え方がはびこる。その考え方を核戦略としてまとめ上げたのがデタランスだ。
 第四、デタランスの本質については、伝統的な「脅威」(threat)という概念と比較すると理解しやすい。
 教科書的に言えば、軍事上の「脅威」とは、「攻撃する能力」+「攻撃する意思」の二つが備わることによって成り立つ。したがって、二つの要素のいずれが欠けても「脅威がある」とは言えない。
 能力がなければ脅威になり得ないことは誰にも分かるだろう。意思と脅威との関係については具体例で考えれば分かりやすい。
アメリカが日本に対する脅威と考える日本人は少ない。アメリカは圧倒的な軍事力を持っているが、日本を攻撃する意思を持っているとは多くの日本人は考えないからだ。
 他方、日本が日米同盟をやめるべきだという主張には多くの日本人が消極的だ。アメリカに楯突く日本には、アメリカが攻撃する意思を持つことになりかねないと考えるからだ。
 デタランスはどうか。大英百科事典の最後のくだりを読み返して欲しい。デタランスとは、「報復する能力」+「報復する意思」の二つが備わることによって成り立つ。
 即ち、脅威における「攻撃」を「報復」に置き換えたものがデタランスである。つまり、相手が戦争を仕掛けようとするならば、断固として核兵器で報復するという能力と意思を兼ね備える(より正確に言えば、そのように相手に認識させる)ことによってデタランスが成り立つ。
 しかし、脅威もデタランスも、「目には目を、歯には歯を」「やられたらやり返す」のパワー・ポリティックス(権力政治)の発想に立脚しているという本質において同じだ。したがって、脅威はもちろんのこと、デタランスも「平和」とは無縁の代物であることが理解されるはずだ。

<デタランスの歴史>
 アメリカがデタランスという核戦略を開発・展開し、ソ・英・仏・中さらには印・パが従った歴史からも、デタランスについての理解を深めることができる。
 核兵器の登場は、すでに述べたように、勝つためには手段を選ばないという伝統的な考え方がもはや通用しないことを認識させた。また、国連憲章は戦争そのものを違法化した。
 したがって、核兵器国にとっては、「如何にして戦争に勝つか」ではなく、「如何にして核戦争を引き起こさないで国際問題を自己に有利な形で解決するか」が主要なテーマとなり、その脈絡で核武装を正当化する理由づけが求められた。
 まず米ソ間では、アメリカの核独占体制はソ連の急速なキャッチアップで消滅し、核攻撃はできないが、互いに核報復する能力と意思を持つ「両すくみ」の状況となった。その現実を受けて、米ソは「相互デタランス」と呼ばれる核戦略を採用した。
 また、米ソ冷戦下の欧州では、東西の巨大な軍事力が対峙し、極めて緊張した情勢が続いていた。そして、ワルシャワ条約機構(WTO)の通常戦力がNATOの通常戦力を上回ると認識され、その攻撃の可能性に対して如何に対抗するかがNATOの最大の課題とされた。そこで編み出されたのが通常戦力の劣勢を核戦力でカバーするという戦略だ。
 具体的には、WTO軍の攻撃に対して、NATOは戦術・戦域核兵器で段階的に報復の度合いを高めるという脅迫を行うことでソ連に攻撃そのものを思い止まらせ、また、戦端が開かれても、被害が拡大する前に終結に持ち込むことを考えた。これが「柔軟反応戦略」というデタランスだ。
 軍事力が劣勢にあると考える国・陣営が優勢にあると考えられる相手に対して、核戦力で報復する脅迫を行うことで攻撃を思い止まらせることを本質とするデタランスは、英・仏がソ連に対して、中国が米・ソに対して、インドが中国に対して、パキスタンがインドに対して、それぞれ核兵器開発で対抗する際にも「限定的デタランス」として採用された。
 「限定的」というのは、攻撃国が攻撃を思い止まらざるを得ないだけの限られた核報復能力を持つことで、十分なデタランスとなるという意味だ。ちなみに、朝鮮の核兵器開発もまた、圧倒的に軍事的優位に立つ米韓の攻撃を思い止まらせる限定的デタランスである。
 以上のデタランスの歴史からも明らかなとおり、デタランスは、相手の攻撃を思い止まらせるために、こちらが核報復する能力と意思を持つことを中心的内容としている。デタランスが云々される世界がおよそ平和とはかけ離れていることが確認されるはずだ。
 次に、日本にかかわるデタランスのいくつかの問題について検討する。

<拡大デタランス(「核の傘」)>
 拡大デタランス、いわゆる「核の傘」とは、アメリカの同盟国に対してソ連が攻撃しようとする場合に、アメリカがソ連に対して核報復する脅迫を行うことで、ソ連に同盟国に対する攻撃を思い止まらせることを狙う戦略を指す。すでに述べたことから分かるように、この戦略は当初NATOで採用された。
 同時にアメリカは、ソ連に対する世界戦略の一環として、1950年代から沖縄、韓国を含むアジア太平洋地域にも核兵器を配備・展開し、NATOと同じく拡大デタランスと位置づけた。当時の日本国内では「中国脅威論」ならぬ「ソ連脅威論」が強く、日本政府はアメリカの「核の傘」を積極的に受け入れた。
 しかし、日本は被爆国である。核兵器に対する国民の拒否感は強い。したがって、「報復という脅迫」(「殴られたら殴り返す」)を本質とする拡大デタランス(「核の傘」)を受け入れることには世論の反発が懸念された。
 そこで、デタランスの本質を覆い隠し、相手に対して攻撃を思い止まらせる意味合いを強調する工夫をこらした「抑止」という訳語が作られたというわけだ。この意図的な誤訳は滲透し、定着した。その結果が、冒頭に述べたとおりの「抑止」という言葉の一人歩きというわけだ。

<「核の傘」と「非核三原則>
 核兵器に対する国民的な拒否感を無視できない日本政府が打ち出した政策に、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」とする非核三原則がある。この三原則の最大のポイントは「持ち込ませず」にあった。つまり、アメリカが日本に核を持ち込むことを許さないということだ。
 しかし、「核の傘」を受け入れながら「非核三原則」を言うのは極めて身勝手である。しかも、その身勝手さをほとんどの日本人が自覚もしていないという恐るべき現実がある。つまり、「非核三原則も核の傘も」と言うことは、いざという時はアメリカに核兵器で守ってもらう、しかし、アメリカが核兵器を日本に持ち込むのは御免蒙る、と言うに等しい。
 日本のこの身勝手さは、欧州諸国と比較することで一目瞭然である。欧州諸国は、アメリカに核兵器で守ってもらう以上は、アメリカが欧州に核兵器を持ち込むことに同意しなければならないと考えてきた。つまり、アメリカに本気で欧州を守る意思を持たせる(核戦争の危険をアメリカ自身が背負う覚悟をさせる)ためには、欧州としてもその代償を支払う(欧州が核戦争の舞台になる)覚悟を持たなければならないということだ。
 「自分は身ぎれいでいたい、汚いことはアメリカに引き受けてもらう」と考える日本のために、アメリカが本気で核報復する意思を持つはずはない。これが軍事的常識というものだ。非核三原則を国内的に約束した佐藤栄作首相が、ニクソン大統領との間で「核持ち込み」の密約をしたのは、「日本もNATO並みの覚悟があるから、日本を守って欲しい」ということなのだ。
 「核の傘」と非核三原則は両立しない。「核の傘も非核三原則も」とする日本的「常識」は世界的非常識の極致だ。佐藤首相が根本的に間違ったのは、日本人の非常識に正面から向きあわず、「密約」という禁じ手を使ってやり過ごしたことにある。
 私たちはこれ以上身勝手を続けることは許されない。そして、デタランスの危険極まる本質を理解した私たちの結論はあまりに明らかだと言わなければならない。即ち、アメリカの「核の傘」にお引き取り願い、非核三原則を名実共に日本の政策の根本に据えるということ以外にない。

<「おあつらえデタランス」>
 「おあつらえデタランス」とは、管見によれば、2006年のアメリカ国防省「4年毎の防衛見直し」(QDR)で初めて登場したtailored deterrenceを私なりに訳したものである(私は以前、2013年10月11日付のコラムで、「狙い撃ち」と訳したことがあるが、「おあつらえ」に訂正する)。
 これまで述べてきたデタランスは、言ってみれば「出来合い(既製)」で、相手・対象の如何を問わず適用されることが予定されていた。しかし、米ソ冷戦終結後のアメリカは、クリントン政権以後、軍事的に対処する必要のある様々な「不安定要因」を脅威と位置づけるに至った。
その結果、特に9.11事件以後、ならず者国家、テロリスト集団、潜在的ライバル国家など、脅威対象の違いに応じた、言ってみれば「おあつらえ(オーダー・メイド)」のデタランスを考える必要があるという主張が登場したというわけだ。
 おあつらえデタランスの最初の適用対象とされたのが朝鮮である。即ち、2013年10月2日の米韓国防相会談後の共同記者会見で、韓国の金寛鎮国防部長(当時)が朝鮮に対するおあつらえデタランス(韓国では「積極デタランス」とも)に米韓が合意したことを明らかにした。また、おあつらえデタランスの具体化として「米韓共同局地挑発作戦計画」も明らかにされた。

(浅井注:韓国の「積極デタランス」については、8月25日付中国網所掲の王俊生署名文章が、「2010年の天安鑑事件及び延坪島砲撃事件以後に採用されたもので、朝鮮が攻撃してくる可能性がある場合または攻撃してくる場合には、前線部隊は、先制攻撃を加え、または反撃した後に報告することをみとめるもの」という紹介をしている。)

 この作戦計画で特に注目すべきは、朝鮮の攻撃の可能性または攻撃がある場合、前線部隊による先制武力行使または反撃後の報告が認められていることだ。
本年8月に南北間では、「地雷による韓国軍兵士負傷→韓国による朝鮮の仕業という断定及び謝罪要求と対抗措置としての対朝鮮向け宣伝放送→朝鮮による関与否定及び宣伝放送中止要求→韓国による、朝鮮から砲撃があったことに対する応射としての砲撃→朝鮮による、韓国のでっち上げという非難及び臨戦態勢突入」という経緯を経て、一触即発の軍事的緊張が起こった。
幸いにして、南北間の合意の成立によって武力衝突は辛うじて回避された。しかし、この危機に際して、朴槿恵大統領は、「米韓共同局地挑発作戦計画」を発動する強硬姿勢を取り、一時は最悪の事態も懸念された。

<おあつらえデタランスと先制攻撃>
おあつらえデタランス(積極デタランス)がそれまでのデタランスと決定的に異なるのは、朝鮮に対する先制攻撃の可能性を織り込んでいることだ(ただし、アメリカの核戦略においては核兵器の先制使用を排除していない)。朝鮮はおあつらえデタランスについて、米韓が「先端ミサイル、在来式兵器を含むすべての軍事力を総動員して朝鮮を先制攻撃することを基本内容としている」と非難したが、この指摘は本質を突いている。
問題は、国連憲章は戦争を違法化しており、先制攻撃は当然禁止されているのに、また、デタランスの本質は「報復という脅迫」にあるにもかかわらず、どうして米韓は先制攻撃を織り込んだおあつらえデタランスを打ち出したかということだ。この点を理解するには「自衛権行使」に関する国際法上の問題点を踏まえる必要がある。
国際慣行が積み重ねられることによって法的規範力を備えるに至ったと国際的に認識されるものを慣習国際法という。慣習国際法においては、武力攻撃が切迫している場合には自衛権を行使できるとされてきた。「切迫している」とは、まだ現実には起こっていない場合を含むということであり、そこから、相手の先を越して自衛権を行使する、いわゆる「先制自衛」の権利が認められるとされてきた。

しかし国連憲章第51条は、「武力攻撃が発生した場合」に限って自衛権の行使を認めている。したがって、「先制自衛」の権利はいまや国際法上認められないとするのが多数説だ。
ところが、アメリカは先制自衛の権利が国連憲章によって否定されたわけではないとする。日韓両政府もアメリカと同じ立場だ。したがって、朝鮮が日本、韓国を攻撃する切迫した危険が生じた時には、米日韓は、個別的及び集団的自衛権を行使して朝鮮に対して「先制自衛」の攻撃を行うというのだ。
安倍政権が成立を強行しようとしている「安保法制」はその具体化である。朴槿恵政権がアメリカと合意したおあつらえデタランス(積極デタランス)及びそれに基づく「米韓共同局地挑発作戦計画」も「先制自衛」を具体化したものにほかならない。
「先制自衛」の最大の問題は、「切迫した危険がある」と判断するのはアメリカであり、日韓両政府であって、極めて主観的に判断されてしまうということだ。8月の南北の軍事緊張では、韓国の前線部隊が朝鮮の砲撃があったとして「応射」したことが事の始まりだ。
前線部隊の判断及び軍事行動によって中央政府が引っ張られるという今回の事態は、盧溝橋事件に端を発する日中戦争を彷彿させる。おあつらえデタランスの危険な本質は、今回、余すところなく露呈された。
いわゆる安保法制が強行成立される暁には、朝鮮有事に際しても、日本が米韓の朝鮮に対する軍事力行使に、集団的自衛権の行使として加担することになる(厳密に言えば、韓国が日本の加担に同意することが条件だが)。米韓のおあつらえデタランスは、日本をも核戦争に直結させるのだ。

<デタランスは平和をもたらすか?>
最後に、以上の検討を踏まえて、「抑止力は平和をもたらすか?」という本稿のテーマに対する答えを示す。
第一、日本政府はアメリカの「核の傘」によって日本の平和と安全が守られてきたことを強調する。しかし、1962年のキューバ危機が最たる例だが、世界が核戦争の瀬戸際まで行った事例は数多く報告されている(例えば、私が読んだ労作としてB.G. Blair, "The Logic of Accidental Nuclear War"参照)。しかも、それらの事例の圧倒的多くがアメリカによって引き起こされている。核戦争が起こらなかったのはまったく奇貨というほかない。
「核の傘」は、日本の平和と安全を保障するどころか、日本全体を核戦争のただ中に陥らせる引き金となることを認識することが不可欠である。8月の朝鮮半島の軍事緊張は、日本が核戦争と隣り合わせにあることを示した直近の事例である。
第二、日本政府は、日米同盟の存在そのものが戦争を抑止し、日本の平和と安全を保障していると主張する。しかし、安倍政権が鋭意進めている離島防衛強化そのものがこの主張のウソを明らかにしている。
なぜならば、日米同盟が「抑止力」として有効に働いているのであれば、離島防衛を強化する必要はないはずだからだ。即ち、安倍政権の行動自体が、「日米同盟が抑止力」という神話のウソを証明しているのだ。
第三、すでに指摘したとおり、「抑止」「抑止力」という言葉は、「報復という脅迫」を本質とするデタランスをごまかすために編み出された意図的な訳(誤訳)である。
私たちは、政府の作った土俵(「抑止」)に乗せられて議論するのではなく、私たち自身が正しく作る土俵(「デタランス」)に政府を引っ張り上げて、その誤りを厳しく正すのでなければならない。
第四、「報復という脅迫」という本質を踏まえた上で、「デタランス」という言葉を核戦略以外の分野に使うということは考えられないことではない(私自身は適当なケースを思いつかないが)。ただしハッキリ言えることは、冒頭に紹介した事例のいずれに関しても、「抑止」ならぬ「デタランス」という言葉を当てはめることできないということだ。
最後に、「報復という脅迫」に対して恐れをなして静かになるというのは、およそ平和とは無縁なことは誰でも理解できるはずだ。「抑止」という意図的な誤訳がまかり通る日本語の世界においてのみ、「抑止力が平和をもたらす」という神話もまたまかり通る。
デタランスの本義に立ち返って、この神話を打ち破らなければならない。そうしてはじめて、安倍政治の危険性を認識し、安保法制を許してはならないという揺るぎない確信を我がものにすることができると確信する。