被爆70年の節目に思うこと (長崎の証言の会)

2015.06.28.

*長崎の証言の会から、標題の下での寄稿のお誘いがあって書いた文章を紹介します。

 私は2005年4月から6年間広島に住み、被爆という問題について考える貴重な時間を得ました。まったくの偶然とは言え、広島での任期が終了ずる直前の2011年3月11日に東日本大震災が起こり、福島第一原発「事故」が起こりました。「事故」とカギ括弧付きにするのは、原子力平和利用神話で覆い隠してきた原発という欠陥商品の致命的本質が大震災によってもっとも深刻な形で露呈されたに過ぎないからです。事故ではなく、人災そのものです。そのことは今の主題ではないので、これ以上立ち入りません。
  東京に戻ってから今日に至るまで、私が一貫して疑問に思い続けていることは、福島第一原発「事故」の問題と広島・長崎に対する原爆投下の問題とが、圧倒的に多くの人々の意識の中で結びあって捉えられることがないのはなぜかということです。もっと端的に言えば、被曝と被爆とは本質においてなんの違いもないのに、私たち日本人の意識においては、あたかもまったく次元を異にする事柄のように扱われるのはなぜかということです。
  確かに、歴史的にそういう意識が形成された事情を説明することは可能です。
まず、広島と長崎に原爆を投下したアメリカが、核エネルギーの破壊性・悪魔性のイメージを打ち消すために、早くから原子力の平和利用神話を作り出し、原発推進をその中心に据えたということがあります。
私は、1951年に出版された長田新編『原爆の子』を読んだとき、長田が冒頭の文章で、「原子力の平和産業への応用は、平和的な意味における所謂「原子力時代」を実現して、人類文化の一段と飛躍的な発展をもたらすことは疑う余地がない」と記していたことを知った時の驚愕を今も鮮明に覚えています。また、1956年に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が結成されましたが、その結成大会宣言でも、「破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を、決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向かわせるということこそが私たちの生きる日の限りの唯一の願であります」と謳っていたことも忘れられません。
しかし冷静に見れば、当時の長田や被団協の認識を責めるわけにはいきません。というのは、原爆、原発を含む核エネルギーの悪魔性は何よりもその放射能にあるわけですが、1951~1956年当時にはまだ被爆、被曝が如何に恐ろしい事態を引き起こすかは広くは知られていなかったからです。
国際的に見ても、1970年に発効した核不拡散条約(NPT)第5条は、「核爆発の平和的応用」について定めていることは示唆的です。核爆発は大量の放射線と放射性物質を放出しますから、「平和的」な利用などということはあり得ないわけです。そのことは、世界各地で核実験場とされた地域の今日の状況が物語るとおりです。ところが、1970年当時でもなお、今日では常識とされるこのような事実が国際的に広く認識されるには至っていなかったことをNPT第5条が物語っているのです。
しかし、被爆と被曝とを区別して考える理解が誤りであることは、1979年のスリーマイル原発の重大な「事故」によって国際的に広く認識されました。この点を端的に物語るのが非核兵器地帯条約における核爆発の扱いの変化です。
即ち、1967年に署名され翌年発効した中南米非核地帯のトラテロルコ条約は平和目的の核爆発を認めています(第18条)。しかし、1985年に署名され、翌年発効した南太平洋非核地帯のラロトンガ条約では、「使用目的の如何にかかわらず、あらゆる核兵器又は核エネルギーを放出することのできる他の爆発装置」(第1条)と定義される「核爆発装置」の「実験」を「防止する」(第6条)と規定するに至りました。
1996年に署名され、2009年に発効したアフリカ非核地帯のベリンダバ条約も「いかなる核爆発装置をも実験しない」(第5条)と定めていますし、2006年に署名された中央アジア非核兵器地帯条約も同様の規定を置いています(第5条)。ちなみに、1995年に署名され、1997年に発効した東南アジア非核地帯のバンコク条約は、平和的目的のための原子力の利用について定めた第4条で、「核爆発」に関しては言及もしていません。
日本では、スリーマイル「事故」に先立つ1975年に、森瀧市郎が原子力の平和利用をも含む「核絶対否定」を打ち出しました。不幸なことに、森瀧は日本原水爆禁止日本協議会(原水協)から袂を分かって発足した原水爆禁止国民会議(原水禁)の代表委員(後に議長)であったため、その考えが広く国民的に共有されることが妨げられてしまいました。しかも、原水禁の活動を支えた総評は1980年代に、原発を容認する電力労組を擁する連合に吸収され、今日では、森瀧の存在自体がほとんど忘れられています。
こうして日本では、福島第一原発「事故」が起こるまで、原発容認論は、政財官学労挙げての圧倒的世論として君臨しました。世界では、スリーマイル「事故」以後は被爆と被曝は同義語になりましたが、独り被爆国・日本では両者が意識的に切り離されてきたのです。
福島第一原発「事故」は、そういう日本の異常な認識状況の見直しを迫ったはずです。しかし、現実が示すとおり、政財官学労を挙げての巻き返しはすさまじいものがあります。また世論の側においても、反原発運動が核そのものを問い直す契機を生みだすことは妨げられる状況があります。
詳しく述べるスペースがありませんが、私は「非核3原則」「非核都市宣言」を謳いながら、アメリカの「核の傘」(核抑止力) に依存すること即ち日米核軍事同盟に何の矛盾も感じない、平和・安全保障にかかわる日本の曖昧を極める世論状況に根本的な問題があると思います。この根本問題に私たちが主体的に取り組む決意をしない限り、被爆70年の節目も活かされないままに過ぎ去っていってしまうであろうことを、私は今恐れています。