日中関係:中国の他者感覚と自己内対話

2015.06.14.

 最近読んだ環球時報の日中関係に関する3つの社説は、中国側の他者感覚の成熟を示してあまりあるものでした。中国の識見を備えた人たちは、他者感覚を駆使して日本側(政府・国民)の中国に対する認識の所在を正確に読み切っています。それと引き替え、「中国脅威論」に染め上げられた日本側(政府・自民党のみならず、他の問題では相当の識見を備えたものをも含め)の中国に関する認識は恐ろしいまでに金太郎飴だと思わざるを得ません。
  人民日報WSの日本語版でこれら3つの社説の翻訳がでるのを心待ちにしていたのですが、目にとまらないので、私の翻訳で内容を紹介します。内容的に見て、これらの社説は日本人向けに書いたものであるというよりも、むしろ中国人読者に向けて書いたものであるように思われます。対中偏見に凝り固まった日本人読者にとっては、これらの社説の内容は中国に体する反感をかき立てるだけだという判断も働いているのかもしれません。しかし、私としては、日本国内でも、他者感覚を働かせて中国を中国の内側から理解する目をいい加減持つようになって欲しいという気持ちが募っています。

1.5月28日付社説「日本はなぜ中国にとって重要か 反対もまた然り」

 この社説に関しては、「中日国民の相手側に対する好感度は1970年代以来の最低水準にあるが、両国社会は互いの重要性について冷静な認識を保っている」、「中日間の矛盾においては、日本の中国に対するライバル意識という要素が極めて濃厚で、このことが中国社会の日本に対する情緒的な認識を刺激してきた」、「中日はともに軍事衝突の発生を避けたいとする強烈な意思がある」、「双方が相手側の重要性について実際に認めている」という冷静な判断を述べている箇所に留意して読んでいただきたいと思います。

  最近の一時期、中日関係にはさらなる改善のシグナルが多く現れている。習近平主席はバンドン会議の際に安倍首相と会談を行い、自民党の二階俊博総務会長は日本各界の3000人を率いて訪中し、習近平主席が接見した。
  しかし同時に、中日関係の複雑さも必ずしもなくなったわけではない。日本はアジアで1100億ドルの投資を行うことを表明するとともに、中国に対して悪態をつき、このことは内外において、日本がアジアインフラ投資銀行(AIIB)と対抗するために取った行動であると広く理解されている。また、安倍首相夫人はこれ見よがしに靖国神社を参拝し、歴史問題での頑固な姿勢を見せつけた。
  中日関係は、中国にとって一番対応が難しい二国間関係の一つである。それは、日本が中国の隣国であるとともに、すこぶる実力を備えており、中日間の争いは中国のナショナル・インタレストに深刻な影響を及ぼす試練となるからだ。中日関係改善を牽制する外部の要素を含めて多くの矛盾があり、本当のブレークスルーを実現することは極めて容易ではない。ここでは、中日関係の多くの要素について整理することだけを考え、人々がさらに考えられるようにしたい。
  まず、中日関係は、いずれの側にとっても、ふてくされて諦めるとか、気の向くままに悪化させて構わないというような二国間関係ではない。中日国民の相手側に対する好感度は1970年代以来の最低水準にあるが、両国社会は互いの重要性について冷静な認識を保っている。
  中日間で、どちらが相手にとってより重要であるかについては計算のしようがない。中国は急速に台頭しつつあり、日本が中国と長期にわたって戦略的に対立することは深刻な消耗となって、日本にとって次第に耐えられない負担となるに違いない。中国にとっては、日本が中国と緊張すればするほど、日本は日米同盟をますます強化する方に動くし、また、日本が中米間でどう動くかということは、アジア太平洋の地縁政治上の競争のあり方に影響する可能性があるから、中国のアメリカに対する戦略的主動性に影響する。
  中露米大三角関係においては、近年公知の変化が起こっている。中日米三角関係における中日対立が中国にもたらす結果は、米露関係の悪化がアメリカにもたらした結果と類するものとなるだろう。
  中国にとって、日本問題は当面の面倒であり、中日米三角関係は中国のアジア太平洋方面での戦略環境の様相にかかわっている。しかし、両者は互いに、一方を捨てて他方を保てば良いというような関係では必ずしもなく、いずれが軽くいずれが重いかという理屈は理論的に存在するとしても、実践において(いずれかの立場を)堅持するのは非常に困難である。
  中日は仲良くしたいと思えばすぐそうなるというような関係ではなく、中国が原則を放棄して妥協をしようとしても、恐らくうまくいかないだろう。原則を堅持し、必要な時にはあえて闘争するというのが、中日関係が緩和に向かう決め手の一つであることは証明済みである。
  中日間では、心理的な対立の方が実際的利益の違いよりも多い。中日間の矛盾においては、日本の中国に対するライバル意識という要素が極めて濃厚で、このことが中国社会の日本に対する情緒的な認識を刺激してきた。現在は、中日の世論が互いに刺激し合う状況を生んでおり、若干幼稚に見えるのだが、問題を解消しようとしても往々にして手のつけようがない。
  日本は第二次大戦中中国を侵略し、犯罪の限りを尽くした。日本の人々の「被害」は主にアメリカとの太平洋の戦場からのものであり、なかんずくアメリカの原爆によるものである。ところが、日本の世論はそれ以上に「嫌中」であるということはすこぶる考慮に値するし、変化の余地があるということをも意味している。
  中日関係は過去において、「以経(経済)促政(政治)」「以民促官」という多くの経験があり、日本からの3000人の代表団の訪中は、日本人民と右翼勢力を区別して異なる対応をするということが今も一定の基礎があることを告げているようだ。
  中日はともに軍事衝突の発生を避けたいとする強烈な意思があるが、それが時として十分に表現されない時がある。両国社会においてはポピュリズムがすこぶる大きな影響力を持っており、その声がそれぞれの世論の場で時として出現する。
  以上から、中日関係の難しさは明らかだが、ブレークスルーを実現する潜在的な道筋もないわけではない。双方が相手側の重要性について実際に認めている以上、一定の勢力の圧力があるからといって、この願望を押し隠すべきではない。中国は大国として認識上のおおらかさを維持すべきであり、対外的に善意を示すことはいかなる状況のもとでも決して恥ずかしいことではないし、そうすることにより、世人をして中国の実力と自信を認識せしめ、中国に対する敬意と尊重を深めることになるだろう。

2.6月9日付社説「日本はAIIBのことで強情を張り、自らを貶める必要はない」

 この社説を読んだ私の強烈な印象は、中国はもはや安倍政権の日本を見限っているということです。中国から見た日本は、お釈迦様(中国)の掌の上でしゃかりきに騒ぐ孫悟空(日本)というところでしょう。しかし、残念なことに、今の日本はまさにお釈迦様の掌の上の孫悟空そのものであるということです。

  日本外務省の報道官は、G7サミット期間中に、中国が人権、債務、環境保護等の問題に関する世界の関心について解決しない限り、AIIBに加入するか否かについての決定を行わないと表明した。報道官はさらに、安倍首相は特に中国が腐敗問題に対してどう対応するかを重視しており、日本政府としては中国当局がこれらの問題に対して明確な対応を取ることを要求すると述べた。
  日本の以上の態度表明は、AIIBをめぐる世界のすべての経済関係当事者の態度表明の中で唯一のものであり、きわめて異常であり、あたかも何かの刺激を受けたものが言葉を取り繕って無理に落ちついているふりをするかのようであるが、逆に内心の動揺をさらけ出している。
  日本側のこの発言が3ヶ月以前に行われていたならば、まだそれなりの意味はあっただろう。AIIB加入と人権、環境保護等の問題とを関連づけることは的外れであるとしても、3ヶ月以上前にそういう態度表明をしていたとすれば、それはそれなりに日本の態度、気位を示すものであっただろう。
  しかし、現在になってそんな発言をしたところで、人々は日本が「すごい」と思うだろうか。AIIBにはすでに57ヵ国が創設メンバー国に名乗りを上げており、G7の中だけでも4ヵ国が含まれているのだ。提案国である中国は、それでもなお日本が世界に「模範を示し」、この件に関して「持ち上げてくれる」必要があるだろうか。このニュースに接した中国のネットユーザーが余裕綽々かつ異口同音に「どうぞご勝手に」と書き込みをしたのも頷けることだ。
  「どうぞご勝手に」という言葉の意味は、「日本がいつでも来ることを歓迎するし、来ないのならお好きなようにであり、AIIBは日本だけが欠けているわけではない」ということだ。
  ハッキリ言って、もっとスッキリと日本に「お返し」する言い方は「日本は永遠に来ない方が良い」、さらには「日本が入りたくても、中国は要らない」ということだ。なぜならば、日本が参加しなくても、AIIBは健全に運営できるからだ。
  しかし、中国人は以前に比べて自信があり、したがってはるかにおおらかになっている。中国人が日本のことでくよくよする興味はますます減っており、日本がわざと「強情を張る」時があっても、中国人の怒りの程度はもはや以前ほど大きくはない。
  多くの中国人の見るところ、日本はあたかも「取り憑かれている」ようであり、言い掛かりをつけて中国と「とことん対立」したがっているようだ。中日はかつて友好関係にあったが、近年は「絶交」状態だ。中国の気持ちとしては、「正常な関係を回復」し、その後は「それぞれの好きなようにする」ということだ。しかし、日本は「好きでなければ憎む」ということのようであり、とことん中国に絡みついている。
  これはいささか中国にとってはやりきれないことだ。中国は何も日本に対して申し訳ないことをしていないし、歴史的にいえば日本がいつも中国を傷つけてきたのだし、近年において中国は少しばかり進歩したとは言え、特に「お高くとまっている」わけではなく、中国が少しよくなったからといって、日本はそんなに耐えられないのだろうか。
  日本はそんなにふがいないようではダメだ。この点ではアメリカに学んだらどうか。アメリカもAIIBに参加せず、同盟友好国にアメリカと歩調を揃えることを薦めたし、英仏独伊が「変節」して恥をかくとは考えてもいなかった。しかし、アメリカは現在まで品格を保ち、公然とはAIIBの悪口を言わないし、心に反してではあるとしても、世界銀行がAIIBと協力することを支持している。米日は同じように受け身の立場にあると言わざるを得ないとしても、アメリカの振る舞いは日本に比べてはるかに尊厳を保っている。
  今日の日本人と中国人は、それぞれかつての侵略者と被侵略者の後裔であり、当時の歴史は双方にとって釈然としないものであるが、我々がどうしても納得できないのは、日本人の中国に対する憎しみが中国人の日本に対する憎しみより遙かに強いのは何故なのかということだ。日本に対して原爆を投下したのはアメリカだというのに、日本の右翼はアメリカに対しては媚びへつらっている有様だ。
  まあいいだろう。中国は何と言っても日本とは正常で友好的な関係を維持したいと願っている。日本社会が中国の発展の速さのためにいささか自己喪失に陥っていることに対しては理解できるし、日本が「だだをこねる」行動を取ることに対してしつこくすることもあり得ない。超スピードで成長している中国はもっとも忙しい時であり、隣国が鬱になったとしても、中国としては日本と見解を同じくしないということはできても、そのお供をすることはとてもできない。
  日本の今日における中国に対する言動はきわめて異常であるが、その根本原因は、中国の台頭に対する日本の強烈な危機感である。しかし、日本は相変わらず技術面における得がたい先進性を維持しているし、将来の長い時間を取っても、現代化の分野において中国の先を歩み続けるだろう。中国の日本社会に対する忠告は、気を楽にして焦らず、少しは自信を持ちなさいということだ。

3.6月11日付社説「我が中国人よ、二度といかなる国家をも「憎む」ことがないようにしよう」

 この社説はすぐれて中国人読者に向けられたものであり、他者感覚を自分自身にも向けて自己内対話を行うことを勧奨したものです。「中国の台頭による自然のエネルギー放出が各国の中国に対する心情の変化の根源に影響を及ぼしている」、「我々中国人が自らの価値システムから離れて、周囲の世界を実事求是で眺めてみる必要がある」、「少数の国々が中国と対立する地縁政治上のロジックを理解し、外部からの挑発に対して情緒的に反応することを減らし、鷹揚に理性に基づいて対抗する組み立てを行う」、「成長途上の社会にとって、これをやり遂げるということはチャレンジではある」、「中国が挑発を受ける根本の原因は、中国の国力が成長することに対する嫉妬であり、それがパニックを引き起こしているのだが、中国の強さはまだ日比などがアメリカを尊重する程度までには大きくはなっていない」、「中国民間のイライラは少なくなく、各国でしばしば見られる、外国に対して非友好的な憎しみの感情に陥っている人びとがいる。この情緒が世論の中で膨張しすぎると、政府がナショナル・インタレストの立場から行う外交を縛る可能性が出て来る」、「中国は、大国となることについて学習し、力の持つ意味を理解し、国際政治の深刻な根源についても理解する必要がある」などの指摘は、中国国内における自己内対話の深みを物語るものであると思います。

  中国は明らかに、周辺に多くの困難と面倒が発生する時期を経験している。日本とフィリピンはしきりに挑発を引き起こしているし、ヴェトナム発の摩擦も時としてかなり深刻だ。これらの問題のすべてがその先に深い外部的原因の所在を指し示している。それは即ち、アメリカの煽動、たき付けである。しかし、さらに考えていく時、中国の台頭による自然のエネルギー放出が各国の中国に対する心情の変化の根源に影響を及ぼしているようにも見える。こうした重要な関連性を整理するためには、我々中国人が自らの価値システムから離れて、周囲の世界を実事求是で眺めてみる必要がある。
  日比米などの国々が中国の利益を損なっていることは間違いなく、このことは一部の中国人がこれらの国々を憎む理由となっている。本文が提起したいのは次のことだ。中国が急速に世界レベルの大国に成長している時、我々は心理的な調整を行い、少数の国々が中国と対立する地縁政治上のロジックを理解し、外部からの挑発に対して情緒的に反応することを減らし、鷹揚に理性に基づいて対抗する組み立てを行うということだ。
  言い方を変えるならば、日比米などが「悪らつ」だとしても、我々としては彼らを「憎む」必要はないということだ。我々に必要なことは、彼らが中国に対して「悪い」原因をハッキリさせ、戦術的に直接対応する以外に、戦略的にそれらの原因を取り除くことに力を注ぐということだ。もちろん、成長途上の社会にとって、これをやり遂げるということはチャレンジではある。
  アジアのすべての国々においてナショナリズムがこだましており、その程度にはそれほどの差異はない。現在の世界の構造のもとでは、ナショナル・インタレストが各国の対外政策の出発点であり、国際的行為の正誤の基準は、時に国際法によって決定されるのではなく、もっとも力がある国家によって決定されている。しかし、一国の中においては、正誤の基準はまずは自国の利益に基づいており、国家間の衝突は実は利益の衝突なのだ。
  中国が挑発を受ける根本の原因は、中国の国力が成長することに対する嫉妬であり、それがパニックを引き起こしているのだが、中国の強さはまだ日比などがアメリカを尊重する程度までには大きくはなっていない。これらの国々が島礁摩擦に対して抱く感情の角度は中国人とは正反対であるとともに、これら諸国と領土紛争を抱える強大な中国と平和的に共存する経験も欠いているために、キレがちになるのだ。
  中国と日比が互いに「恨み憎む」ということには、それぞれの国内事情として十分な理由があるが、問題をぶっちゃけて見るならば、互いの衝突は明らかに局部的であり、日比がこのことがもとで抱いている戦略的妄想というのは、かなりの部分が情緒的なものであり、その実際的な中身は極めて薄っぺらだ。少なからぬ中国人もそのために対抗心に駆られ、対外的強硬を主張している。
  国際関係は極めて簡単に腹を立てやすい分野であると言わざるを得ないが、歴史的経験が我々に物語っているのは、怒りや「憎しみ」に任せてカードを切る方が往々にして割を食うということだ。なぜならば、怒り及び憎しみは往々にして認識をかき乱し、誤った戦略的判断を導き、拡大させ、一時的には痛快かもしれないが往々にして間違った道へと自らを押しやるからだ。
  アメリカが2001年にアフガン戦争を発動し、2003年にイラク戦争を発動したのは、ともに冷静さを欠いていたからだと言うべきである。前の戦争は明らかに報復目的であり、後の戦争ではブッシュ一家とサダムとの間の個人的な恨みがさらに加わった。その結果、アメリカ人は「腹いせ」のために代価を支払うことになった。
  中国外交は、保つべき統括能力と理性とを維持するとともに、原則性と弾力性をも示してきた。しかし、中国民間のイライラは少なくなく、各国でしばしば見られる、外国に対して非友好的な憎しみの感情に陥っている人びとがいる。この情緒が世論の中で膨張しすぎると、政府がナショナル・インタレストの立場から行う外交を縛る可能性が出て来る。
  中国の台頭がもたらしているかつてない対外接触において、中国は力の角逐という舞台で次第に主役となりつつあり、尊敬されることもあれば、空前に警戒され、対抗されることにもなっている。中国人としては、心理的にこのような変化に対応し、ますます増えるだろう外部からの批判及び難癖に適応する必要があり、一定の勢力が中国に対してヒソヒソと語らい合い、彼らの「団結」を誇示することに対して余り意に介さないようにする必要がある。「意に介さない」とは、相手の動きで「怒る」とか「カッとなる」とかしないということだ。我々が意に介するとすれば、政策面で対策を講じ、情勢の変化を促すということであるべきである。
  中国は、大国となることについて学習し、力の持つ意味を理解し、国際政治の深刻な根源についても理解する必要がある。我々は、現在の日本がひっきりなしに「怒り」、しかも「怒りの程度が軽くない」ようであり、そのために明々白々の戦略的愚行を犯す様を見て取るべきである。