安倍・戦争法を許さないために

2015.06.09.

*以下の短文は、「教科書全国ネット21ニュース」からのお誘いで書いたものです。

以下の文章は、安倍政権が強行している集団的自衛権行使を「可能」とする憲法第9条「解釈」の閣議決定、そしてその解釈に基づいて日本を再び「戦争する国」に変質させる戦争法成立への動きの本質を解き明かすに十分のものがある。

  「国民の実質的参与なしに作られ、「与えられた」憲法は、他日不当な圧力による蹂躙の危機に曝された場合、国民はこれを擁護することにいくばくの責任を感じ、またいくばくの熱意を持つであろうか。」
  「変革(浅井注:「戦後の民主化」と読みかえよ)がまったく外面的であったということから、やがてなんらかの機会に反動的な情勢(浅井注:「湾岸戦争後のアメリカの対日軍事要求の強まり」と読みかえよ)が出てくると、昔簡単に捨て去った古い意識(浅井注:「安倍政治に代表される軍事大国化を目指す動き」と読みかえよ)がすぐ頭をもたげてくる。」
  「日本がかつての植民地帝国時代にもっていたような実力と威信を国際社会において復活しうるということはほとんど考えられない。(新たに)動員されるナショナリズムは、それ自体独立の政治力にはなり得ず、より上位の政治力-おそらく国際的なそれ(浅井注:「アメリカ」と読みかえよ)ーと結びつき、後者の一定の政治目的の手段として利用性を持つ限りにおいて存立を許されるのではないか。この方向を歩めば、日本は決定的に他のアジア・ナショナリズムの動向に背を向ける運命にある。」
  「日本におけるファシズムの実質的な復活が考えられるとすれば、現在の支配機構が「合法的」にそのままファシズム支配に転ずるコースの方がはるかに蓋然性が多い。」
  「現代民主政治が原子的に解体された大衆の行使する投票権に依存しているところに、形式的な民主主義の地盤の上に実質的な独裁政が容易に成立する所以がある。通信報道手段を左右しうる力を持った政治指導者は大衆の衝動性に点火することによって、たちまち圧倒的な「世論」を喚起して、特定の外国に対する大衆の憎悪(浅井注:「中国脅威論」と読みかえよ)をかき立て、自己の政治目的(浅井注:「憲法改正」と読みかえよ)を達成する。」
  「次々と新しい問題の解答(浅井注:「集団的自衛権行使の「限界」に対する政府答弁を引き出すこと」と読みかえよ)に気を奪われて、我々の基本的な立場(浅井注:「憲法第9条は戦争を放棄していることを常に確認するという基本的立場」と読みかえよ)をどんどん移動させてしまうことは危険なことだ。それは結局、問題提出のイニシアティヴをいつも支配権力の側に握られて、我々はただ鼻面を引き回されるだけという結果に陥ってしまう。我々にとって大事なことは、以前の争点(浅井注:「憲法第9条のもとで武力行使は禁じられているという争点」と読みかえよ)を忘れたり、捨て去ったりすることでなく、むしろそれを新しい局面の中で不断に具体化すること(浅井注:「憲法第9条は戦争法の成立を許さないということ」と読みかえよ)でなければならない。その基本的態度を誤ると、結局いつしか足をさらわれて、気がついた時は自分の本来の立場からずっと離れた地点に立っているということになる。」

 しかし、以上の引用はすべて、1946年から1952年にかけて丸山眞男が戦後の日本政治のあり方に関して発言したものの抜粋である(ただし、若干の字句の微調整は施したが、実質には何の変更も加えていない)。何故、敗戦直後の60年以上も前に丸山はかくも鋭く今日の日本の政治状況を予想し得たのか。
丸山は、日本の敗戦から1952年の「独立」回復までの約7年間、私たち日本人の「精神の真の変革」が行われない限り、つまり私たちが日本のデモクラシーを担うに足る主権者としての自覚と主体性(「個」)を確立しなければ、日本は再び支配権力によって「もと来た道」に引き戻されてしまうことを繰り返し警告していた。そして私たち日本人は、丸山が警告したとおり、この70年間、主権者としての自覚と主体性を確立するという「精神の真の変革」を成し遂げなかったために、安倍政権の暴走を許す羽目になってしまっているということなのだ。
では、変革されるべき「精神」とは何か。丸山はそれを「国民の心的傾向なり行動なりを一定の溝に流し込む心理的な強制力」と指摘し、具体的に「権威信仰」、「権力の偏重」、「家族主義的イデオロギー」の3つを挙げた。
「権威信仰」とは、「権力を行使する方もされる方も権力それ自身に価値があるように考える傾向」を指す。つまり、主権者である国民が戦前の「服従者」のメンタリティを克服できず、権力という「支配者」に正面切ってもの申すこと自体を何か悪いことのように考えてしまうのだ。
「権力の偏重」とは、「一切の社会的関係において強弱大小関係にしたがって実質的な価値が一方に集中する日本社会の特異な構造」を指す。確かに、大は日本全体から小は町内会に至るまで、社会のメンバー(成員)間の関係は今日もなお、タテ割り(垂直的・権力的)であってヨコ割り(横断的・民主的)ではない。
「家族主義的イデオロギー」とは、「日本という国家が天皇を中心とした家族的な結合であるという考え方」を指す。家族的なもの内部、即ち身内(「うち」)では持ちつ持たれつのなあなあ主義が支配するが、家族的秩序外にいる者、その内に入ることを拒む者、即ちよそ者(「そと」)に対してはいびり、抑圧、排除を強行する。なあなあ主義のもっともらしい表現が「和」であり、「絆」である。平等者間の「和」「絆」であるならば問題ないのだが、日本社会で強調されるのは、タテ割り関係を前提とした「和」「絆」であるところに問題がある。
以上の3つの心理的な強制力は相互補強的な関係にある。権威信仰がもともとあるから権力の偏重という社会構造が生みだされるのだし、権力の偏重が固定すればするほど、権威信仰という傾向も助長され、増幅される。しかも、権威信仰も権力の偏重も、日本という「閉じた社会」(うち)で生みだされたものであり、そこでは「うち・そと」を基軸とする家族主義的イデオロギーが支配するのだ。
こうした心理的強制力を克服する最大のカギは、私たち一人一人がなんとかして、日本のデモクラシーを担う主権者としての自覚と主体性(「個」)を確立することであり、それ以外にない。そのためにはどうすれば良いのか。
丸山はその点に関して、「普遍的なものへのコミットだとか、人間は人間として生まれたことに価値があり、同じ人は二人とない、そうした個性の究極的価値(浅井注:人間の尊厳)という考え方」を体得することの重要性を指摘している。「普遍的なもの」とは、一神教における絶対者であり、あるいは、真理、正義、歴史的法則など、要するに物事を判断する際の基本的な規準になるもの(モノサシ)を指す。丸山だけではない。日本思想史の相良亨も、「日本人として一番、今日的に問題になる点は、判断の規準を客観的に追究する姿勢をめぐる問題」であり、「これは、宇宙の究極を捉える捉え方の問題にかかわってくる」と指摘している。
「急がば回れ」という諺もある。安倍政権が繰り出すあの手この手に振り回されず、私たち一人一人の主権者としての主体性を確立するというもっとも基本的な問題を、今だからこそ凝視しようではないか。