日米安保と沖縄の歴史・位置づけ

2015.05.15.

*ある雑誌から寄稿の誘いがあり、書いたものです。

<三回にわたる琉球処分の歴史>
  沖縄の今日の状況を正確に認識し、沖縄社会が直面する数々の負の遺産を取り除くためには、沖縄が押しつけられたその苦難に満ちた歴史を直視することから始めなければならない。その歴史とは、明治政府による「第一の琉球処分」、対日占領から対日平和条約及び旧日米安保条約締結に至る間の米国の対沖縄政策・戦略における「第二の琉球処分」、及び沖縄返還協定締結過程での「第三の琉球処分」である。第一の琉球処分に関しては多くの先行研究の成果があり、素人の私がつけ加えることはない。ここでは、第二及び第三の琉球処分について簡単に素描を試みる。
  日本に降伏を迫ったポツダム宣言は、第8項で「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」と明記した。当然ながら、「吾等ノ決定スル諸小島」には沖縄も含まれていた。早くも1946年1月29日に出された連合国最高司令部訓令(SCAPIN)第677号では、沖縄は、小笠原諸島、竹島等とともに、政治行政上、日本から分離される地域に指定されていた(原貴美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点』)。
  米国の沖縄の帰属先に関する政策は、米ソ冷戦の本格化とともに変化した。当初の段階では、琉球諸島は日本に返還され、非武装化されるべきであるとされていた。しかし、地域の安全保障環境の変化に伴い、軍部が沖縄に対する支配を強く主張するようになった。『昭和天皇実録』にも記載がある、沖縄に対する米軍の軍事占領を希望した「天皇メッセージ」(1947年7月)を踏まえたであろうマッカーサーは、同年9月1日付の米国務長官宛て書簡で、沖縄は「我々の太平洋前線防衛に絶対に不可欠であるため、米国に属さなければならない」と主張し、「日本人もその保有が認められるとは期待していない」と書き添えた(前掲原貴美恵書)。その後も紆余曲折を経て、最終的に対日平和条約によって「第二の琉球処分」となる。
  第三の琉球処分である沖縄返還交渉に関してはすでに多くの研究成果があるので、ここでは私自身の3つの苦い記憶を述べることで代える。私は、沖縄返還交渉当時、外務省条約課に在籍しており、交渉の成り行きを傍観していた。「傍観」というのは、同課の末席に近いポストだった私には交渉の中身が知らされず、労務費及び海底ケーブルの問題で補助的業務にかかわったほかは、返還交渉以外の案件を処理する悶々の日々を送ったからだ。条約課に身を置きながら沖縄返還交渉関係の仕事について「蚊帳の外」だったこと、また、私が補助的にかかわった労務費及び海底ケーブルの問題も含め、沖縄返還交渉が主権者・国民に内容実態を告知できない極秘事項だったことは、今に至るも私にとっての二重の苦い記憶だ。
次に、沖縄返還交渉に関して基本的に傍観者に過ぎなかった私でも、沖縄「返還」とは名ばかりで、「核抜き」の実現、日本への施政権の返還を除けば、米軍の沖縄駐留の実態にはなんの変化ももたらさないことは察しがついた。それは、佐藤首相の返還公約に形をつけるための、沖縄不在の政治的な狂騒劇に過ぎなかった。しかも鳴り物入りで喧伝された「核抜き」も、佐藤・ニクソン密約で骨抜きであることを後日知ることとなった(若泉敬『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』)。これが私にとっては実に重苦しく、苦い第二の記憶である。
  第三の苦い記憶はいわゆる沖縄密約事件にかかわる。1972年に外務省極秘電のコピーをもとに、日米交渉における密約の存在が国会で追及された。日米密約の存在という重大な事実が本質であったこの事件は、周知のとおり、検察当局によって「機密漏洩事件」にすり替えられ、もみ消されてしまった。そのこと自体もはなはだ苦々しいことだが、当時外務省内部では、「誰が極秘電を漏洩したのか」として徹底的な「魔女狩り」が行われ、条約課にいたというだけで、極秘電の存在を知るよしもない私までもが訊問を受けた。他人様(主権者・国民)に申し開きできないことをしておきながら、ひたすら「魔女狩り」をする外務省の体質に心底苦い思いをさせられた。その記憶は今もなおわだかまっている。

<「沖縄の米軍基地負担軽減」政策とその実態>
  果たせるかな、1972年以後今日に至る沖縄の状況は何も本質的に変わっていない。変わっていないどころではない。本土世論の圧倒的無関心及びそれにあぐらをかいた政府・与党の対米重視政策によって在沖米軍基地の返還・縮小が遅々として進まない中で、その現実と如何に向きあうかをめぐり、沖縄社会・世論が二分されるという、実にやりきれない状況が生まれ、進行してきた。
沖縄の本土及び政府・与党に対する不満は、早くも1981年9月(14日)に、首相としてはじめて沖縄を公式訪問した鈴木善幸に対して、首相来冲糾弾県民総決起大会開催という形でぶつけられた。翌1982年9月(4日)には、沖縄県議会が、高校日本史教科書への日本軍による県民虐殺の記述を復活することを要求する意見書を採択した。沖縄県民の怒りは、1990年11月(18日)の沖縄県知事選挙で、革新統一候補の大田昌秀を当選させた。
1995年9月(4日)には米兵3人による少女暴行事件が発生した。日米地位協定の規定の壁によって日本の捜査当局が手をこまねいたこともあり、県民の反基地感情が空前の勢いで高まり、10月(21日)の県民総決起大会には8万5千人の県民が参加した。これを契機として、在沖米軍基地反対運動、普天間基地返還要求運動が本格化することとなった。この事態に直面して、日米両政府もようやく重い腰を上げざるを得なくなり、日米安全保障協議委員会(「2+2」)は同年11月に、沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会(SACO)の設置を決定した。ちなみに、1996年6月(21日)には、沖縄県議会が米軍基地に関する県民の意志を問う県民投票条例を可決し、同年9月(8日)に行われた米軍基地の整理縮小と日米地位協定の見直しを問う県民投票では、実に80%以上が賛成票を投じた。
  SACOにおける検討を経て、1997年11月(5日)に政府は、米軍普天間基地を名護市のキャンプ・シュワブ沖に移設する構想を沖縄県に示した。それを受けて沖縄の動きは複雑化した。翌年1月(14日)に太田知事は反対を明言したが、同年2月(8日)に行われた名護市長選挙では、基地建設推進派の岸本建男が当選したのだ。しかも、1998年11月(15日)に行われた県知事選挙では、条件付建設容認を掲げた自民党推薦の稲嶺恵一が当選した。
  しかし、2004年8月(13日)に普天間基地配備の米軍ヘリコプターが沖縄国際大学に墜落する事件(米軍ヘリ墜落事件)が発生し、再び普天間基地早期返還要求の声が強まることとなった。2006年11月(19日)の県知事選では、基地建設容認派が推し、稲嶺県政の継承を主張した仲井間眞が当選したが、仲井間県政に対する評価が最大の争点となった2008年6月(8日)の県議会議員選挙では野党勢力が議席の過半数を占め、県議会は同年7月(18日)に辺野古移設反対を決議した。そして、2010年1月(24日)に行われた名護市長選挙では、辺野古移設反対派が推薦する稲嶺進が初当選し、同年9月(12日)に行われた名護市議会議員選挙でも辺野古移設反対派が過半数を占めた。
  2009年8月(30日)の衆議院議員総選挙で民主党が勝利して政権交代が実現した。鳩山由紀夫首相は県外移設を模索したが迷走して辞任に追い込まれ、その後を襲った菅直人首相は再び日米合意を遵守する考えを示した。そして、2012年12月(26日)に成立した安倍政権は普天間基地の辺野古移設を推進して今日に至っている。
しかし、最近の沖縄社会・世論は、辺野古移設反対を中心とした「オール沖縄」の声を強く主張するようになっている。即ち、2014年1月(19日)に行われた名護市長選挙では稲嶺進が再選され、同年11月(16日)の沖縄県知事選挙でも翁長雄志が当選した。また、同年12月に行われた衆議院議員総選挙でも、4つの全選挙区で「オール沖縄」でまとまった候補者が完勝した。
   「オール沖縄」を可能にしたのは、戦後70年近くにわたって続いてきた、米軍基地問題に無関心を決め込んできた本土による米軍基地の沖縄への押しつけに対する反対だった。沖縄は、そうした本土側の無関心(その根底にあるのは対沖縄差別)に対して明確な「ノー」を突きつけたのだ。それが根本において意味することは、沖縄の犠牲にあぐらをかいてきた本土の戦後政治のあり方に対する根本的な異議申し立てである。私たちは、その異議申し立てが、政府・与党に対してだけではなく、沖縄の痛みを自分自身の痛みとして捉える感性(他者感覚)を持ち得ない本土のすべてのものに対して向けられていることを認識することが厳しく問われている。

<米国の対APR戦略と沖縄の位置>
  米国がアジア太平洋地域(APR)における戦略的軍事的拠点として日本列島を重視する政策は、米ソ冷戦が本格化した1947年以来今日まで一貫しており、微動だにしていない。米ソ冷戦の終結も米国の対沖縄政策になんらの変更をも生じさせなかった。それにはいくつかの要因が働いてきた。
まず、米国は今や世界唯一の軍事大国として世界的に軍事ヘゲモニーを推進する戦略をとったことが挙げられる。次に、1993-4年に起こったいわゆる「北朝鮮の核疑惑」を契機(奇貨?) として、米国は日本に対する軍事要求を強化するとともに、朝鮮半島に対する出撃拠点としての沖縄を重視する姿勢を強めた。第三に、改革開放政策を採用した中国の急台頭、特に21世紀に入ってからの軍事力の拡充に対して、米国は軍事的に抑止する戦略を強化した(特にオバマ政権の「リバランス戦略」)。第四に、プーチンのもとでロシアが自信を回復し、軍事大国としての存在感を強め、APRにおける軍事プレゼンスを強化していること、さらに、主として米国の軍事ヘゲモニーに対抗することを念頭においた中露関係の緊密化も、米軍の前略的前方展開拠点としての、沖縄を含む日本を重視する米国の姿勢をさらに強めている。米国が普天間の代替基地を名護に建設することを強硬に要求するのは、以上の戦略的考慮に基づく。
  在沖米軍基地の軍事的脆弱性の強まりを理由に、その軍事的価値は低まっているとして縮小・返還を要求するべきだとする主張も耳にすることがある。確かに、中国(及び朝鮮)の核ミサイル戦力は在沖米軍基地を射程内に収めているから、その意味での「脆弱性」は確かに否定できない。しかし、この主張には少なくとも2点で致命的な欠陥がある。
第一に、中国(及び朝鮮)の核ミサイル戦力はあくまでも米国からのあり得る先制攻撃の可能性を抑止するために存在しており、中国(及び朝鮮)が在沖米軍基地に対して無謀な先制攻撃を仕掛けるという政策的選択肢はゼロということだ。重要なことは、米国もそのことは先刻織り込み済みだということである。日本国内で流布・喧伝される「中国脅威論」、「北朝鮮脅威論」の類は噴飯物以外の何ものでもない。
第二に、米国の前方展開戦略は抑止と対抗という2本柱からなり立っているということだ。日本国内ではもっぱら「米国の軍事プレゼンス(を含む日米同盟)が戦争を抑止し、日本の平和と安定をもたらしてきた」とする、抑止効果を強調する主張が幅を利かせている。しかしこの主張は、米国の前方展開戦略の「対抗」という、いわば「殴り込み」の側面にはひたすらだんまりを決め込んでいる。しかし、日米新ガイドラインが強調するように、「平時から戦時まで、あらゆる事態にシームレスに対処できる日米軍事同盟」とは、正にこの「殴り込み」にかかわるものなのだ。「殴り込み」の最前線にある在沖米軍基地の米日両政府にとっての重要性は微動だにしない。
したがって、沖縄の基地負担を軽減・除去する現実的可能性は、日米軍事同盟の存在を支持・肯定する限り生まれるはずがない。私たちに求められるのは、「米軍の存在が戦争を抑止し、日本の平和と安定をもたらしてきた」とする政府・与党の主張が本当に正しいのかを正面から問うことである。米ソ冷戦終結後に世界各地で起こった軍事衝突の数多くに米国が直接間接に密接に関与している事実を見て取ることは難しいことではない。新ガイドラインが実行に移されれば、日本は否応なしに米国の「殴り込み」戦略に加担することになる。沖縄の基地の整理・縮小は夢のまた夢となるだろう。私たちは、この正念場の今こそ、日米軍事同盟の清算及びそれに基づく在沖米軍基地の全面撤去という正道に舵を切るべきであると確信する。