主権者の立場からの集団的自衛権問題
-私たちの憲法論と安全保障論-

2015.04.26.

<戦後日本の出発点はポツダム宣言>
 最後に、私たち自身の憲法・安全保障問題にかかわるあるべきアプローチについてお話します。
私たちは、憲法論にしても、安全保障論にしても、集団的自衛権論にしても、極めて受け身的な議論を強いられています。つまり、政権側が設定した土俵に乗せられて議論することに慣らされているのです。しかし、土俵を設定する政権側が有利な立場に立つのは当然で、私たちはどうしてもかなわない。例えば、憲法第九条の解釈改憲は認められないと言っても、法制局はこれまでどんどん解釈を変えてきて、それが既成事実化してきたという現実があります。そして今、最終的に集団的自衛権行使も認めていいはずだという議論になっているのです。憲法第九条の文言の解釈だけの議論となれば、絶対ダメだとする主張には必ずしも説得力はなく、「声が大きいほうが勝ち」となるのです。
 ですからこそ、私たちは自らが議論の土俵を設定しなければならないと、私は強調したいのです。私たちが憲法論、安全保障論を展開するに当たっては、四つの段階(ステップ)を経なければならないと思います。
 第一のステップは、日本の憲法論、安全保障論の大前提は戦後日本の出発点がポツダム宣言にあることを確認することです。徹底した非武装と軍国主義の清算、民主化の実現が私たちに課され、それは今も守らないといけない国際約束として厳然として存在しているということです。つまり、大前提として確認しなければならないことは、ポツダム宣言は今日もなお日本を縛る国際法規範だということです。ところが、ほとんどの日本人はポツダム宣言の存在すら忘れてしまっています。なぜ忘れてしまったのでしょうか。それは、アメリカがポツダム宣言と矛盾する対日平和条約と日米安保条約を日本に押し付けたからにほかなりません。
 いまアメリカは、日本にアメリカと一緒になって戦争をやってほしいから、ポツダム宣言のことはもう言いません。しかし、対日平和条約に参加していない、また、日米安保条約に賛成していない、ポツダム宣言の当事国である中国とロシアにとって、日中関係、日ロ関係を律する基本文書は今もなおポツダム宣言です。日本は、中国及びロシアとの関係において、ポツダム宣言に背馳する行動を取ることは法的に許されないのです。
 また、アメリカが未来永劫にポツダム宣言に立ち返らないという保証もありません。仮に、安倍政権及び今後の保守政権が「アメリカ何するものぞ」とでも言いだすようなことがあれば、アメリカはたちどころにポツダム宣言に立ち戻り、中国、ロシアと一緒になって日本を押さえにかかるでしょう。そういう意味でもポツダム宣言は死んでいないのです。

<国際環境の根本的変化認識を>
 問題は、一九四五年にポツダム宣言が作られたときの国際環境と今日の国際環境は明らかに違うということです。したがって、今日の国際環境の下で憲法は本当に生命力があるのかという議論はあり得ます。したがって、国際環境の変化とはどういうものを踏まえることが第二ステップとなります。
 どのような憲法論、安全保障論も、正確な国際情勢認識の裏づけを抜きに説得力を持ちません。その点、日本における憲法論は、護憲論者も改憲論者も含め、正確な国際情勢認識の裏付けがありません。
護憲論者の多くは、戦争こりごり、「戦争は絶対ダメ」というだけです。国民的に過去の戦争の記憶が共有されていたときはそれでも一定の支持は得ていました。しかし、国民的な戦争の記憶が薄れるに従い、説得力を失うことになるのは必然です。特に、若い人にとって「そんなことを言ったって」となってしまうのです。
逆に改憲論の側の国際情勢認識も、二〇世紀までの冷戦思考から一歩も踏みだしていません。二〇世紀までの国際環境と二一世紀のそれとの間には根本的な違いが生まれており、もはや冷戦思考にしがみついている時代ではないのです。
 したがって、二一世紀の今日、国際環境はどのような状況にあるのかをまず正確に踏まえなければなりません。
二一世紀の国際環境の根本的変化を示す第一の特徴的要素は、人間の尊厳が普遍的価値として国際的に確立したことです。人間の尊厳を一番危めるのは何でしょうか。それは戦争です。ですから、人間の尊厳を普遍的価値として承認する以上、安倍首相のいう「積極的平和主義」、つまり、私流に言えば力による平和観はもはやあり得ない、あってはならない代物なのです。
 二一世紀の国際環境を規定する二番目の特徴的要素は、国際的相互依存が不可逆的に進行していることです。今日では、世界中の国々が互いにがんじがらめに依存しあっています。地球上のどこで起こった事態でもたちまち世界に波及します。あのちっぽけなギリシャで起こった財政危機で世界経済が危機に瀕したのは象徴的です。いま、仮に日中間で一発銃声が響いたとしても、世界経済は即刻ぺしゃんこになるでしょう。ですから、日中が戦争するなどということは考えることすらできません。「中国脅威論」などというばかげた虚構を信じ込まされている私たち日本人は本当に異常なのです。国際的相互依存というと、なにか経済的次元の話のように受けとめる人々が多いですが、そうではありません。経済、政治、軍事をひっくるめての国際相互依存なのです。
 第三の特徴的要素は、地球規模の諸問題が登場し、山積するようになっていることです。地球上の限られた資源・資金をそれらの問題の解決に振り向けないと、人類の意味ある存続は保証されない状況が出てきているのです。貴重な、限られた資金を軍事力増強に振り向けている時代ではないのです。
 国連憲章によって戦争は違法化されましたが、以上の三つの特徴的要素を踏まえますと、戦争という選択肢は、二一世紀においてはもはやあり得ないし、あってはならないということです。これからの人類的課題は、法的に禁止された戦争を地上から根絶することでなければなりません。

<これまでの憲法論の有効性検証>
 私たちの憲法論・安全保障論の第三ステップは、以上までにお話しした国際環境の根本的変化を踏まえて、これまでの憲法論(護憲論・改憲論)及び「集団的自衛権行使論」(「脅威論」「抑止論」)の有効性を検証することです。ただし、従来の護憲論のほとんどは、国際情勢認識の裏付けがありませんので、有効性を改めて検証するまでもありません。改憲論についていえば、「自主憲法」制定論と対米軍事協力推進論とのゴッタ混ぜで、二一世紀における国際環境の変化を視野に収めていないことはすでにお話ししました。
 安全保障論に関して国内で大いに喧伝されているのは「中国脅威論」や「北朝鮮脅威論」ですし、「日米同盟が戦争を抑止する」という議論です。本日は、これらの論点に立ち入る余裕はありません。私はむしろ、そういう議論がまかり通ってしまうことを許す私たち日本人の思考のありよう、つまり、私たちの平和観、国際観について皆さんに考えてほしいと思います。
例えば、日本では今や、「憲法も安保も必要だ」という意見が国民世論の三分の二を占めています。しかし、先ほどからお話しているように、憲法は力によらない平和の立場に立っています。日米安保は力による平和という立場です。二つの平和観は根本的に対立するものですから、両立のしようがありません。しかし、「憲法も安保も」という世論は正に双方の平和観を同時に受け入れているということですから、国際的に見たらこれほど異常を極めることはないのです。
 同じように、日本国内では「非核三原則もアメリカの核抑止力も」という議論がなんの違和感もなくまかり通っています。これまた、国際的にはまったく異常な感覚の表れなのです。欧州諸国は、欧州がロシアによって攻撃される事態に備えるため、アメリカの核抑止力に依存する政策をとっています。この点では、日本政府の立場と同じです。しかし、アメリカが欧州の防衛の約束を本気で守るようにするために、欧州諸国は、アメリカが欧州に核兵器を持ちこむことを認めるのです。アメリカをして、欧州と「死なば諸共」という覚悟を持たせるためには、欧州としてもそれ相応の覚悟を示さなければならないということです。これは良し悪しの問題ではありません。
 それに対して日本はどうでしょうか。ありていに言えば、「アメリカが核を持ち込むことはごめんだが、いざという時は、アメリカは核で日本を守ってください」と言っているに等しいのです。そのような身勝手な日本をアメリカが本気で守るはずがありません。
 私たちが本気で核兵器の日本への持ち込みに反対するのであれば、アメリカの核の傘に頼るという安易極まる発想はきれいさっぱりと清算しなければなりません。アメリカに核で守って欲しいのであれば、欧州諸国のように、アメリカが核を持ちこむことを認めるほかないのです。私たちの曖昧を極める国民感情が、佐藤・ニクソン核密約を生む根本の土壌としてあることを、私たちは直視しなければならないはずです。
 私たちの平和観のいい加減さを示す今一つの例は、「安保(日米同盟)は必要だが、自分の住んでいる地域への米軍基地受け入れはゴメン」という、これまたわがままを極める発想です。本当にアメリカ軍に守ってもらう必要があると判断するのであれば、自分の住んでいる地域に米軍基地が来るのを受け入れるだけの覚悟を持たなければ筋が通りません。
 もうひとつ指摘したいのは、以上のような珍論・迷論を生みだす日本の思想的土壌の問題です。日本思想史の相良亨、日本政治思想史の丸山眞男が共通して指摘していることの一つに、日本の思想には普遍という要素が欠落しているということがあります。「普遍」とは、真理、正義、歴史的法則などです。そういう要素が日本の思想の中にはないのです。私は、素朴な実感としてこのことを感じてきたのですが、相良亨と丸山眞男が膨大な研究の蓄積に基づいて指摘していることを目の当たりにして、私の実感は間違いではなかったことを知りました。
 普遍がないということは、価値判断の客観的なモノサシがないということを意味します。そうなるとどうなるか。まず、自己を客体視できません。したがって、自分が物事を正しく判断しているのかどうかを判断するモノサシがないということです。また、他者がやっていることが正しいのか間違っているのかを判断するモノサシもないということになります。その結果、物事の判断が常に恣意的・主観的・ご都合主義になってしまいます。すべて自分に都合がいいように解釈するのです。だから自己中心主義になる。
あるいは、国際観に関しては、すべてが自分(日本)を中心にして回っているとする天動説的国際観になってしまいます。例えば、日本と中国の間、日本と韓国の間、日本と朝鮮の間で問題が起こりますと、日本は悪いはずはないから、悪いのは相手だということになります。それが「中国脅威論」、「朝鮮脅威論」、「嫌中」、「嫌韓」となって噴出するわけです。
 もうひとつ考えてほしいポイントは、日本人の歴史意識です。これは丸山眞男の受け売りですが、日本人の時間に関する起点は常に「今」しかありません。過去は干からびた過去にしか過ぎないのです。こういう受けとめ方からは、ヴァイツゼッカー演説の「歴史を忘れるものはその歴史を繰り返す」、中国の「歴史を以て鑑と為す」という歴史感覚は育ちません。
 また、日本人の「未来志向」も独特です。真理、正義、人間の尊厳、歴史的法則性などの「普遍」があれば、それへ至る努力の過程としての未来志向になります。つまり、今を良い方向に変えていく基準として未来はある。ところが、日本人には普遍がありませんから、その未来志向は、「こうしたい、ああしたい」という類の主観的願望の域を出ることがありません。

<二一世紀にふさわしい憲法論・安全保障論を>
 そして最後の第四ステップとして、二一世紀にふさわしい憲法論・安全保障論とは何かを考えることになります。大前提としてはポツダム宣言を踏まえた憲法論・安全保障論であることが必要です。その上で、二一世紀の国際環境とポツダム宣言が予定した国際環境の間に親和性があるかどうかを検証するのです。仮に、親和性が弱い・ないと国民的に判断する場合は、ポツダム宣言当事国である米中露英に対して宣言の改廃を申し入れる手順を踏まなければなりません。そして、米中露英が同意すれば、その改廃を行うことになります。その上で第九六条改憲に進むか否かを国民的に決定することになります。
 しかし、ポツダム宣言の改廃に米中露英、特に中露の同意が得られない場合には、日本は引き下がるしかありません。これら諸国の反対を無視してあくまで改憲しようとするならば、ポツダム宣言を破棄する覚悟が必要となります。ということは、特に中露両国との間では戦争状態に戻るということを意味します。それだけの覚悟を持つかどうかが国民的に問われるのです。しかし、ポツダム宣言の存在すら忘れてしまっている日本国内では、そういう根本の問題がまったく等閑視されています。
 私自身の結論を述べます。二一世紀の国際環境はポツダム宣言が予定し、第九条を含む憲法に基づく平和外交を展開するための肥沃な土壌を提供しています。私たち主権者・国民は、平和憲法に基づく外交、第九条に基づく安全保障政策を自信をもってやるべきです。それに対しては、中国、ロシアはもろ手を挙げて賛同するでしょう。アメリカも、日本がポツダム宣言に基づいて国のあり方を決めますと言うとき、それを認めないとは言えません。なぜならば、ポツダム宣言はアメリカが主導して作ったものだからです。
 以上が、憲法及び安全保障に関して安倍政権批判の根底に据えられるべき議論です。