主権者の立場からの集団的自衛権問題
-戦争違法化と集団的自衛権の登場-

2015.04.26.

「集団的自衛権」について理解するためには、国際関係・国際法とのかかわりにおいて戦争の歴史を知ることが不可欠ですので、その点についてお話しします。
 戦争違法化には長い歴史があります。
 まず前史ですが、戦争というのは人類の歴史が始まってからあるものです。しかし、第一次世界大戦の前から戦争はなるべく制限すべきだという考えはありました。
 それを最初に国際法としてまとめたのが、国際法の父と言われるグロティウスです。グロティウス『戦争と平和の法』(一六二五年)は、戦争には大義名分が必要と主張しました。これが人類史における戦争の制約化・違法化の出発点であったと言えます。その後、「戦争における法」=戦時国際法がつくられていくことになり、戦争に際しては戦闘員と非戦闘員の区別をしなければならない、民間人を殺していけない、目的と手段のバランスをとらなければならない、目的のためには手段を選ばずということは許されない、等々の原則が生まれました。
 また、三十年戦争の後、ウェストファリア条約が結ばれて、今では普通に言われている「国際社会」という概念が始めて登場しました。私たちの社会は市民を構成員とする社会ですが、国際社会というのは国家を構成員とする社会ということです。したがって、前述した自衛権も国家を主体にして考えることになったというわけです。
一七世紀に欧州で生まれた国際社会では、国内社会におけるような中央政府がないため、国家としては自分で自分を守る以外になく、国家には「自らを自らの力で守る権利(自衛権)」があるとされてきました。国内社会では、中央政府(統治機構)が治安を担当し、犯罪を取り締まる責任を担います。したがって、国内社会の構成員である個人には、正当防衛・緊急避難としての実力行使は例外的な場合だけに認められます。しかし、国際社会では今日なお、治安を担当し、犯罪を取り締まる責任を担う中央政府(統治機構)がありません。国連の役割については後でお話ししますが、いわゆる中央政府ではありません。そのために、国際社会の構成員である国家は、外部から暴力が加えられる場合には、最終的に自分で自分を守る以外ないというわけです。だから、国際社会では自衛権は国家の固有かつ基本的な権利として認められてきたのです。

<「自衛権」概念の明確化からパリ不戦条約へ>
 一八三七年、カロライン号事件という事件がイギリスとアメリカとの間で起こりました。詳しい内容をお話しする余裕はありませんが、イギリスがアメリカのカロライン号という船を攻撃して沈めました。アメリカがイギリスを難詰したのに対して、イギリスは、これは自衛権の行使だと答えたのです。この事件以後、慣習国際法上、自衛権行使は、切迫性、必要性、相当性という三つの要件が満たされる場合に認められるということとなったのです。この事件以後、戦争一般と自衛権行使の戦争とを分ける考え方が出てきました。
 ちなみに、法制局は従来、切迫性とは「急迫不正の侵害(攻撃)があること」、必要性とは「実力行使以外の手段がないこと」、相当性とは「必要最小限度の範囲内で実力を行使してその侵害(攻撃)を排除すること」と説明してきました。
 その後、第一次世界大戦(一九一四~一八年)が起こりました。この戦争の破壊のすさまじさに直面して、国際社会は国際連盟を作り、国際的に戦争を押さえ込む試みに着手することになりました。そして、不戦条約(一九二八年)が結ばれ、ここで初めて「非とされる戦争」と「是とされる自衛権行使としての戦争」の類分けが行われました。
 ただし不戦条約では、戦争は「非」とはされましたが、違法とまではされませんでした。つまり、自衛権行使以外の戦争はいわば灰色の扱いであり、自衛権行使としての戦争は合法とされたのです。
 集団的自衛権の歴史を考える上で、不戦条約にはひとつ無視できないことがあります。不戦条約を交渉した際、アメリカはモンロー主義適用地域での実力行使については、条約の適用の留保を主張しました。イギリスも英連邦地域での武力行使について同様の主張を行いました。この考え方がその後、集団的自衛権という概念を生みだすことにつながっているのではないかと思います。

<国連憲章で作られた「集団的自衛権」>
 しかし、戦争はやっていけない、非とするというモラル戦争を違法化したのです(憲章第二条四)。
 国連憲章での自衛権の位置づけは、「違法化された戦争(一切の「武力の行使」)」の例外としてかつ一時的に認められる実力行使の権利(憲章第五一条)というものです。具体的には、憲章第五一条は次のように定めました。

国連憲章第五一条 「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。」

 ここでいう「個別的自衛権」と「集団的自衛権」とは、平たく分かりやすく言えば、前者は「自分で自分を守る権利」、後者は「自分たちで自分たちを守る権利」ということです。集団的自衛権は、自衛権とともに「固有の権利」とされていますが、実はこの規定によってはじめて認められた権利です。つまり、「集団的自衛権」は国連憲章で作り出された「新しい権利」なのです。
 国連憲章は何故、集団的自衛権という「新しい権利」を作り出したのでしょうか。国連憲章を作った戦勝国は、二度にわたる大戦の惨禍に学び、戦争を違法化しました。また、「平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為」に対して「国際の平和及び安全を維持し又は回復する」(憲章第三九条)ことを目的として、「国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍または陸軍の行動をとる」(憲章第四二条)集団安全保障体制の仕組みを設けました。集団安全保障体制については、また後で触れます。
 しかし、憲章作成交渉時にはすでに米ソの対立は決定的になっており、互いの反対で、集団安全保障の仕組みを起動させる安保理決議が大国の拒否権でできない事態になることを考えた米ソ(特にアメリカ)は、二度の大戦の経験から、一国で戦う場合(自衛権の行使)だけではなく、他の国々と一緒に戦うことを法的に可能とする根拠を設けておく必要があると考えたのです。そのために編み出されたのが「集団的自衛権」でした。
 つまり、戦争が違法化されていない時代には軍事同盟を作れば済む話だったのですが、戦争が違法化された今はそういうわけにはいかず、戦争違法化の対象に含まれないと理解されている「自分で自分を守る」自衛権を拡張して、「自分たちを自分たちで守る」集団的自衛権という権利を作り上げて、従来の軍事同盟と実質的に変わらないものを合法的に作ることができるようにしたというわけです。

<集団的自衛権行使の3要件>
 自衛権行使を正当とするための要件として憲章第五一条はいくつかの条件を設けています。
 まず、「武力攻撃が発生した場合」であること。これは慣習国際法における「切迫性」(法制局:「急迫不正の侵害」)に対応します。「切迫性」・「急迫不正の侵害」という場合は、武力攻撃が現実にはまだ発生していない場合を含むという理解から、「先制的自衛権」を行使することができるという主張を生みました。しかし、憲章第五一条では、「武力攻撃が発生した場合」とされていますから、「先制的」な自衛権及び集団的自衛権の行使は認められないことを意味するというのが多数説です。
 ただ、国連憲章は慣習国際法を排除するものではないとする説もあり、アメリカや日本は先制的に自衛権及び集団的自衛権を行使できるという立場を取っています。日本政府は従来から、朝鮮によるミサイル攻撃が切迫しているときには、朝鮮のミサイル基地を攻撃できると主張しています。
 次に、「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」に限って認められる一時的な権利であること。これは、慣習国際法に言う「必要性」に対応するものですが、憲章第五一条は自衛権及び集団的自衛権の行使を時間的に制限しているのです。ということは、安全保障理事会が措置を取るまでは軍事力行使が事実上無制限に認められるということを意味します。しかも、大国の利害がからむときは大国の拒否権で安保理が行動できないわけですから、時間的な制限は活かされないことになります。要するに、「一時的な権利」であるはずのものが実際上は無制限に行使されることになるのです。
 もうひとつの要件は、「とった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない」ということです。この規定が設けられた趣旨は、自衛権及び集団的自衛権の行使と主張されることの中身の「相当性」を安保理の監視の下におく――好き放題をさせないということと考えられます。しかしこの要件も、大国の拒否権を考えると、どれほど意味があるかは大いに疑問です。アメリカ主導のイラク戦争やアフガニスタン戦争に対して、安保理が無力であったことは極めて示唆的です。
集団的自衛権に固有の留意点としては、自らが攻撃されていない国家が、攻撃されている国に支援・協力することが認められているということがあります。ただし、集団的自衛権は、攻撃された国家の要請があった場合にのみ行使できるとされていることも重要なポイントです。
 以上から明らかなように、憲章第五一条の規定自体が重大な問題を含んでいます。即ち、集団的自衛権の行使が認められるための三条件のうちの二つは実質的に意味を持たないのです。後で詳しくお話しするように、第五一条は、集団的自衛権行使を正当化することによって、国連憲章(第二条四)が違法化したはずの戦争を広く「合法化」する役割を果たすことになります。実際にも集団的自衛権は、NATO、日米安保条約をはじめとするアメリカ主導の国際的な軍事行動を正当化する根拠として利用されてきました。「国連は正義の味方」という類の「国連信仰」が根強い私たち日本人は、国連憲章自体が重大な問題を内包していることを認識することが極めて必要だと思います。