主権者の立場からの集団的自衛権問題

2015.04.26.

*ある集会でお話ししたものを主催者がテープ起こしをし、私がさらに手を加えたものです。「集団的自衛権行使」を具体化する「法整備」が行われようとする今、もう一度、根本に立ち戻って憲法第九条及び集団的自衛権にかかわる問題を考え直す必要があるという問題意識に立ってお話ししました。拙著『すっきり!わかる 集団的自衛権Q&A』における問題意識をさらに深めたものという位置づけです。この本を読んでくださった方は、拾い読みをしていただければ十分かと思います。
  分量は2万5千字に上るので、テーマ毎に分割し、何回かに分けて紹介します。今回は「はじめに」ということでお話しした部分だけを紹介します。

集団自衛権問題を考える上では、最低限、国際連盟規約以降の諸文書を振り返る必要があります。先日も弁護士会のシンポジウムで私たちの憲法・安全保障問題へのアプローチのあり方について話をさせていただいたのですが、今日はそもそも集団的自衛権とはなにかというところからお話ししたいと思います。
 集団的自衛権というと、何か自衛権(個別の自衛権)とは異なる法的概念であるかのように受けとめられがちです。特に日本では、「国家固有の自衛権の行使は憲法上認められるが、国際法上の集団的自衛権の行使は憲法上認められない」とする法制局主導の政府の憲法解釈が基準になっていて、「集団的自衛権の行使は是か非か、可か不可か」という形での議論になっています。そのために、集団的自衛権と個別的自衛権を別ものとして理解している人が多いように思われます。
 しかし、国連憲章第五一条は「個別的又は集団的自衛の固有の権利」と規定しています。国際法上の概念としては両者を分ける考えはないのです。
 自衛権に関して国際法上問われることは、①慣習国際法で認められている自衛権と国連憲章で認められている自衛権との間の「異同」の問題(特に慣習国際法上要求される自衛権行使の三要件と第五一条で要求される自衛権行使の三要件との関係性)、②憲章第五一条に言う「武力攻撃」の定義・含意、③憲章第二条四の「武力の行使」と第五一条の「武力攻撃」との異同、④「先制的自衛」(「予防的自衛」、「先制攻撃」)、「海外にいる自国民保護のための派兵」、「武装集団による攻撃に対する第三国の支援」に対する反撃、「サイバー攻撃」に対する反撃などの個別ケースは認められるか否か、ということです。(詳しくは浅井基文『すっきり!わかる 集団的自衛権Q&Å』(大月書店))
 先日の弁護士会シンポジウムでも、改憲派で安保法制懇メンバーの坂元一哉氏が「そもそも集団的、個別的と分けるのがおかしい。自衛権を認める以上は集団的自衛権も入る」という発言をしていましたが、国際法上は、個別的、集団的と分ける意味はないという議論はそのとおりなのです。
 にもかかわらず、日本国内で二つの自衛権が区別されて扱われてきた所以は、国際法上云々の前に、日本国憲法という判断基準があるからです。
 私たちが自衛権の問題を考えるに当たっては、日本国憲法が何に基づいて成立したかをまず考えなければなりません。国内の憲法論では九条の文言の解釈からすべて出発していて、個別的自衛権は憲法上認められるけれども、集団的自衛権は認められないという議論になっていますが、文言の解釈だけがすべてということであれば、極端に言えば、どんな強引な解釈を導き出すことも不可能ではないことは、これまでの法制局の憲法「解釈」の融通無碍さからも分かることで、これでは解釈改憲論には対抗できないのです。
 九条がなぜ集団的自衛権を認めていないのかを理解する上では、ポツダム宣言までさかのぼらなければなりません。日本は、ポツダム宣言を受諾し、その条項を誠実に履行することを約束した上で降伏しました(降伏文書)。ポツダム宣言と明治憲法は根本的に相容れず、したがって、同宣言を受諾した以上、明治憲法に代わる新しい憲法を作ることが要求されたのです。したがって、憲法第九条の解釈の幅も、当然にポツダム宣言によって制約されているのです。
 ポツダム宣言に基づく憲法は、私の言葉で言えば、力によらない平和観に立っています。もう実力行使はしない。集団的自衛権の行使はもちろん、自衛権行使もありえないということなのです。
 新憲法制定の前後から米ソ冷戦が激化し、アメリカは自らポツダム宣言を主導して作っておきながら、日本を反ソ反共国家として目下の同盟国にしないとならないと判断するに至りました。そこで彼らはポツダム宣言を無視して、対日平和条約を作り、日米安保条約を日本に押し付けたのです。ポツダム宣言に基づく憲法第九条と日米安保条約とは水と油の関係で両立できっこないはずですが、両者の間には矛盾はないと強弁するために、法制局が無理やりひねり出したのが、国家固有の自衛権行使は認められるという解釈でした。したがって、ほかの国のために戦うことを正当化する法的根拠となる集団的自衛権の行使は含みうるはずがない、というのが法制局の立場だったのです。
 もうひとつ注目していただきたいのは憲法第九条の主語です。主語は「日本国」ではなく、「日本国民」です。即ち第九条は、国家としての自衛権ではなく、主権者人民の自衛権と位置づけているということです。
 国際法上、自衛権という権利が国家の権利として扱われてきたことは事実です。しかし、アメリカ憲法、フランス革命を経て人民主権の原則が確立してきました。その結果、国家が主体ではなく、国家を動かす人民が主体であるという考え方が確立しているのです。
もちろん、今日でも、国連憲章がそうであるように、国際法上は国家の権利として自衛権を扱います。しかし、日本国憲法においては、主権者である国民(人民)が自ら自衛権をどうするのかという議論をしなければならないはずなのです。現実には、そういうものとして議論されていませんが、そういうものとして議論しないと、問題点を整理できないのではないかと私は考えます。この点については、後でもう一度立ち返りますので、ここでは問題提起に留めます。