21世紀国際社会と大国(中国の論調)

2015.04.05.

中央政府が存在しない国際社会においては、大国が国際関係のあり方を大きく左右することは否定しようのない客観的事実です。かつて私が多くを学んだヘッドレー・ブルは、20世紀の国際秩序を維持する制度(institutions)として、外交、国際法、バランス・オブ・パワーと並んで大国を挙げているほどです。
  しかし、赤裸々な権力政治(power politics)が支配した20世紀と異なり、21世紀に入った国際社会においては、圧倒的な国際相互依存の進行によって国際社会のあり方は決定的に左右されるようになっています。したがって、大国と言えども、国際的相互依存のもとで自らの振る舞いかたを考えることが求められるようになっているのです。
  ところで日本国内においては、安倍首相に代表されるような古くさい国家観がますます羽振りを利かせるようになっている一方で、多くの日本人の「日本はどうあるべきか」という国家観は相変わらず曖昧模糊とした状態にとどまっています。即ち、古くさい国家観にはついていけない。しかし、「一国平和主義」の殻に閉じこもることは四囲の情勢から見てもはや許されないことは分かる。とは言え、国家という存在を肯定的に捉えること自体に抵抗感がある。ましていわんや大国・日本というような提起に対しては拒否感・反発しか覚えない。こういったところが多くの日本人の最大公約数ではないでしょうか。
  私は常々、私たち日本人はまともな国家観及び大国観を我がものにしない限り、国際関係に積極的にかかわっていくことは不可能だと考えてきました。その考えはますます強いものがあります。1995年に『大国日本の選択』(労働旬報社)、また、1997年に『平和大国か 軍事大国か』(近代文芸社)を書いたのも、私の問題意識を少しでも多くの日本人に共有してもらいたいと思ったからでした。残念ながら、私の願いは叶わず、日本人の曖昧模糊とした国家観、大国観は今日も基本的に変化がありません。国際的相互依存の不可逆的進行という人類史的意味を持つ潮流も、私たち日本人の国際認識にほとんど変化をもたらすに至っていません。
  最近、中国が提唱したアジアインフラ投資銀行(AIIB)の設立が、イギリスの参加表明を決定的な潮目として実現に向けて大きく前進しています。日米両国政府及びその言動によって物事を受け身的に考えることに慣らされている日本のメディアは、AIIBに関する中国の狙いを警戒的・対立的に捉える傾向が強いのが現状です(ただし、アメリカ国内では、オバマ政権の対応に対する批判も強く、「中国に対して国際関係に積極的にかかわることを促してきたアメリカが、AIIBに対して消極的に臨むのは筋が通らない」とする主張も公然と出ています)。
  こういう日米の状況と比較しますと、中国国内における議論は、総じて言えば極めて冷静です。その冷静さの根本にあるのは、国際的相互依存のもとにある21世紀の国際社会は、権力政治が支配した20世紀までの国際社会とは決定的に異なるという、人類史的流れを踏まえた大局観です。そして、その大局観のもとで、急台頭を遂げつつある大国・中国が21世紀国際社会とどう関わっていくべきかという問題に対する、自らを客体視した(つまり他者感覚を働かせた)真剣な考察(自己内対話)が行われているのです。この問題意識は同じようにアメリカに対しても批判的に向けられています。
  そういう中国の国家観、大国観を理解する上で格好の文章として、4月1日付環球時報社説「大国としての心構えを構築することは中国にとっての難しい闘いである」、4月2日付同紙社説「21世紀は中国の世紀でもなければ、アメリカの世紀でもない」、同じく4月2日付人民日報所掲の華益文署名文章「時代を認識するものを俊傑という」を読みました。皆さんにも一読していただきたく、内容(要旨)を紹介します。

1.4月1日付環球時報社説「大国としての心構えを構築することは中国にとっての難しい闘いである」

  中国の伝統文化においては、大国心理という要素は備わっている。古代中国は一貫して自らを天下の中心と称し、周囲の世界を野蛮な夷狄と見なしていた。東アジアにおいては中国を囲んだ朝貢システムが断続的に存続し、万邦が朝貢に来ることは中国人にとって「繁栄の時代」のシンボル的風景だった。
  中国社会は、歴史的ペシミズムから大国心理へと回帰する必要があるが、封建的な帝国的うぬぼれに再び陥らないようにする必要がある。我々に必要なのは、現代の台頭する大国にふさわしい国民心理であり、それを我がものにする上での最大の障碍は、近代中国が屈辱的に味わった陰影及び、その陰影と古代中国の栄光との間の巨大なギャップによって生じる当惑とである。
  中国の台頭のスピードが速すぎるため、社会の心理をこのスピードに適合させることは容易なことではない。例えば、中国は最近まで最大の経済支援受け取り国だったのであり、今日国家として強大になったとは言え、その経済発展は不均衡であり、地域によっては少なからぬ貧困現象が続いている。そのため、国が対外援助を行うことに対しては、常に婉曲な批判があり、本来であれば大いに宣伝するべき対外援助について政府はロー・キーを強いられ、時には「黙って行う」こともある。
  さらにまた、人々は対外摩擦問題には非常に敏感で、しばしば政府に対して「勝つだけで負けはなし」、ひいては「前に出るだけで退くことはなし」と要求し、そのために外交上の柔軟性を発揮することを大幅に制約することになる。時には、小国の指導者が中国に対して強く出てくるときでも、人々は腹を立てる始末だ。官から民に至るまで、外部の挑発が「中国人民の感情を傷つけた」という表現が盛んに使われることもあった。
  世界の舞台中央に歩み出た中国は、精神的に不断に強くなっていかなければならない。この強さというものは、決して指導者レベルの意志だけによって生まれるものではなく、民間レベルの心理的成熟が決定的な要素を構成する。
  中国が提唱して成立したAIIBは世界を驚かすほどの初期的成功を収め、昨日までに47ヵ国が加入の申請を行い、その数は米日が主導したアジア開発銀行の時をはるかに上廻っている。この一事だけでも、中国をして「真の大国」の地位へと押し上げている。しかし、加入する国家が増えれば増えるほど、AIIBをめぐる今後の事務はますます「船頭多くして船山へ登る」となり、シャンシャンの拍手で中国の思いどおりになるというのはますます非現実的となるのだ。多国間銀行の「主導者」という椅子が如何に「座り心地の悪いもの」であるかは遠からず実感することになるだろう。
  しかし、AIIBが設立できるということ自体が中国にとっては最大に喜ばしいことなのだ。今日の世界においては、喜ばしいことが大きくなればなるほど、面倒なこともますます増えるに決まっており、しかも、いかなる「リーダー」も「勝者による独り占め」などは考えないことだ。大国であればあるほど、ますます愚痴にぶつかるし、良いことをやればやるほど、ますます難癖をつけられるのだ。
  大国となるということは「複雑な行動を取る」ということであり、粘り強さが必要だし、出処進退をわきまえ、弾力的に対処するなどを通じて、八面六臂のやりとりの中で消耗しきってしまうのではなく、総合的に勝ちを収めるということが求められるのだ。
  中国はますます多くの国際的責任を担わなければならないが、それは「割を食う」ということではない。世界において中国が占めるシェアは引き続き増大していくのであるから、世界の健全な秩序から得られる利益は同じ歩調で広がっていく。これからの中国は、対外援助面で小さいそろばんをはじくということはできず、中国と世界全体がウィン・ウィンとなるというスケールの大きい構想を持つだけの矜恃を持つべきである。
  世界の「リーダーシップ」を分担するということは持ち出すべき代価も大きいということだ。中国の発展は慣性的であり、中国としては国家の実力を縮小するという退路はないし、永久に「韜光養晦」でやっていくという自由気ままな選択をすることもできない。大国となるのは骨が折れることであり、他国を励ます必要があるだけではなく、自分自身をも叱咤激励する必要があり、時には「バカになる」ことすら余儀なくされるのだ。
  中米露のような大国について言えば、それを引きずり倒すような外部的な力は事実上存在しない。中米露にとっての真のライバルとは実は自分自身である。国家も人間と同じで、精神的な「鍛錬」が不可欠である。つまり、他の大国の弱点は外からは見つけやすいが、自分だけは完全無欠であるということはあり得ないのだ。公衆の主流的な思考様式及び集団的な視野と大国の使命とをマッチングさせるという問題こそが、中国社会が必ず勝ち取らなければならない難しい闘いである。

2.4月2日付同紙社説「21世紀は中国の世紀でもなければ、アメリカの世紀でもない」

  アメリカのジョセフ・ナイ教授の近著『アメリカの世紀は終わったか』は、国際戦略学界の広い注目を集めた。ナイ本人も最近この本に度々言及し、世界は複雑さをましており、アメリカは経済総合力では中国に追いこされる可能性に直面しているが、政治的軍事的には引き続き強大であり、「アメリカの世紀」は今後も数十年間にわたって続くと強調している。しかし、彼の言う「アメリカの世紀」という概念に関しては、20世紀中葉以後すでに成立しなくなってきたのであり、20世紀全体の総括としては説得力があるとしても、この定義を固定化して、日進月歩の世界にも強引に使うというのは極めて無理がある。
  昨年12月、アメリカの経済学者であるスティグリッツは、2015年は「中国の世紀元年」と述べたが、ナイの「アメリカの世紀」とともに誇張があり、ゼロ・サム的思考の影響が極めて強い。我々の見方から言えば、21世紀は「中国の世紀」ではあり得ない。しかし、中国の経済総合力が次第にアメリカに近づいており、AIIB問題でアメリカが同盟国の態度を決定できなくなった状況のもとで、21世紀が引き続き「アメリカの世紀」だと言い張るのも水増し感を免れない。
  20世紀の多くの概念ではもはや21世紀について語ることができなくなっているということは、ナイをはじめとするアメリカのエリートが考えてみる必要があることだろう。歴史的経験に基づいて成立した思考様式を数学的定律として堅持することはできない。世界の変化は、往々にして古い視角で見るよりもさらに深刻であり、新しい視角で物事を見ることを拒否するのは危険である。
  21世紀をアメリカなり中国なりの特定の大国の名前で括るやり方は、グローバル化ということについて単一帝国の権力という烙印を無理やり押そうということである。世界の戦略学界に必要なことは、旧思考の桎梏を振り払い、斬新な概念を創造することによって、今日の世界における大国ともども、歴史及び経験が張り巡らした包囲網から抜け出すことである。
  特段の予想外が起きないとすれば、アメリカは将来の長きにわたって総合力で世界最強の国家であり続けるだろうが、アメリカの世界に対する影響の及ぼし方及び世界的な役割の性格に関しては次第に変わっていくだろう。将来においてアメリカに取って代わるような国家が現れることはなく、帝国という政治的遺伝子の影響力も過去半世紀の間に不断に下落しているのであって、この遺伝子が再び息を吹き返すことはあり得ない。
  21世紀には中米両国に様々なことが起こるだろうし、その他の大国も冷静時代の米ソの衛星国のようになることもないだろう。シンガポールのような小さな国家でも、問題によっては政治的中心的役割を担うことができるわけで、将来的にはもっとそうなるだろう。
  中国の政治システムは独特なものがあるが、中国の「和」という考え方は中国が強大になるに従って全人類的な影響を持つことになるだろう。中国周辺の地縁政治環境は、アメリカが台頭した頃と比較してはるかに複雑であり、「和」を堅持し、かつ、才能を大いに発揚することによってのみ、中国は世界という舞台の中心に立つことが可能となるだろう。「和」はこの舞台全体の構造の中に溶け込んでいくだろう。
  「アメリカの世紀」あるいは「中国の世紀」という概念は簡単かつ明瞭であるが、それらは本質的に極めて複雑な世界に無理やりラベルを貼るようなものだ。世界がこのラベルに合わせようとすることは、足を削って靴に合わせるの類であり、国際政治全体にとって悲劇となるだろう。人類はすでに国家間の協力共嬴の気配をかぎ取るようになっているが、古くさい考え方はそういう新しい気配を乱暴に損ない、元来た道に舞い戻るという誤りを犯させる可能性がある。

3.4月2日付人民日報所掲の華益文署名文章「時代を認識するものを俊傑という」

  (アメリカがAIIBに反対したのに、アメリカの同盟国を含めて多くの国家が参加申請した事実について、ワシントン・ポストなどがアメリカ外交の「挫折」「失敗」と形容したことを紹介し、「アメリカはどうしてこのような状況に陥ったのか」という問題提起をした上で以下のように述べる。)
  まず、世界は変化し、時代も昔のままではない。冷戦終結後は、平和と発展を主題とする時代的な特徴が日増しに明らかになってきた。世界のほとんどの国々及び人民にとっての最重要課題は何か。この時代が直面しているもっとも切迫した任務は何か。平和と発展を追及することこそが時代の潮流であり、世界の大義であると言えるだろう。
  次に、アジアは変化し、求めることは昔のままではなくなっている。ほとんどのアジア諸国は、長期にわたって貧困状態にあり、世界銀行、アジア開銀などの国際金融機関は貧困救済面で間違いなく重要な貢献を行ってきた。しかし現在は、アジアは発展の道路において新しい段階に上る必要が出ている。貧困からの脱出に加え、アジア諸国は新しい発展の動力を獲得し、さらに確実な発展の基礎を構築する必要がある。中国の経験に基づいて言えば、「富むためにはまず道を敷く必要がある」ということだ。潜在力を発揮するにはどうしたよいのか。インフラ建設はその急所である。アジアのインフラ投資は需給ギャップが大きく、現有の国際金融システムではこの巨大な胃袋を満たすことが困難だ。AIIBはいわば雪中に炭を送り、錦上に花を添えるものである。
  第三に、中国は変化し、その影響力は昔とは違っている。中国は、真剣に大国の興亡の歴史を研究し、平和発展の道を自覚的に選択し、歴史上の大国台頭の古い道を歩まないことを決心し、協力共嬴を外交戦略の中心的内容としている。AIIBは中国の協力共嬴という理念を体現したものである。
  アメリカがAIIBと折り合いがつけられないのは、おおっぴらに言えない事情があるのだろう。AIIBに関して、アメリカは地縁戦略的考慮が経済貿易上の考慮に優先し、国際関係に対する主導権という考慮がAIIBの運営のあり方に関する考慮に優先してしまった。一言で尽くせば、中国に対する戦略的猜疑心、覇権に対する未練がアメリカの判断力に影響を与え、自ら時代の潮流に逆らうという格好の悪い境地に陥ったというわけだ。アメリカの目からすれば、他の国々がAIIBに加盟することは中国に「迎合した」ということだろうが、事実はそうではない。西側の学者の中にも、アメリカは中国の台頭に如何に対応するかを改めて反省するべきだとするものもいる。