「終戦」70年と東アジア
-憲法に基づく外交と東アジアの平和を考える座標軸-

2015.02.12.

*同じテーマで、一方ではお話しすることを、他方では寄稿することを頼まれました。お話しの方は一昨日でしたが、時間が短くて意を尽くせなかったこともありますので、寄稿した文章をそのまま紹介します。

1.日本人の歴史観と戦後政治

70年という時を経た今日なお、1945年8月15日という日をどのように受けとめるか、という問題から説き起こさなければならないこと自体に、私は「戦後」日本・日本人の本質的にゆがんだ歴史観のありようを改めて確認せざるを得ない。そのありようとは、日本人及び日本という国家が一度として真剣に自らの負の歴史と向きあおうとしないで70年をやり過ごしてきたということである。
「終戦」という言葉は、私たち日本人の思考に滲み込んで、もはや体質化している観がある。もちろん、「終戦」という言葉は、本来であれば価値中立的であるし、日本以外の国々にとってなんら問題はない。しかし、日本において「終戦」という言い表し方は、優れて当時の支配者層が自らの行った戦争に対する批判を躱し、自らを正当化する認識のあり方を国民的に共有させるために意図的に選択し、「現人神」昭和天皇の「詔書」という、臣民が疑いを差し挟む余地のないものとして一方的に宣布したいわく因縁がある。その結果、今日に至る事実が示すとおり、8月15日は「敗戦」の日ではなく、「終戦」の日であるという受けとめ方が浸透し、日本人の歴史認識を本質的に歪めさせてきたことを、私たちは確認しなければならない。
私は、「自らの行った戦争に対する批判を躱し、自らを正当化する認識のあり方」と表現したが、そのことは、昭和天皇の終戦詔書の中身を検証することによって直ちに確認されるだろう。

<終戦詔書の歴史観>
第二次大戦を日本と戦った米英中三ヵ国は、1945年7月(26日)にポツダム宣言を発表し、日本に対して無条件降伏を要求した(後にソ連も加わった)。日本は当初これを無視したが、広島及び長崎に対する原爆投下そしてソ連の対日参戦に直面して万事休し、御前会議を経て同宣言を受諾し、「終戦詔書」即ち「天皇の大権に基づいてポツダム宣言受諾に関する勅旨を国民に宣布した文書」(国会図書館「日本国憲法の誕生」の解説)を「玉音放送」を通じて国民に周知せしめた。
問題はその中身である。詔書は冒頭で、宣言を「受諾する」とは述べているが、その内容はおよそ「受諾」からはほど遠い代物だった。具体的には、①戦争の正当化(戦争目的は東アジアの安定のためとする)、②侵略意図の否定(侵略は天皇の意図ではないとする)、③宣言受諾の不本意性(戦局の悪化、独伊敗北による日本の孤立という世界の大勢、原爆投下等によって民族滅亡の危機に直面したためとする)、④皇国日本再興の呼びかけ(神州の不滅を信じ、国体の精華を発揚することを訴える)ことであった。 そこには、侵略戦争を行ったという認識・反省も、また侵略を受けた国々及び人々に対する謝罪もまったく欠落している。万事休し、臣民の窮状に思いを致せば終戦以外の選択肢はないが、それは他日の再起を期した戦術的決定であるにすぎなかったのである。

<詔書と戦後日本政治>
 詔書は、その後の日本人の歴史認識のあり方に対してレールを設定した。しかし、それだけではない。詔書はまた、二つの点において、今日に至る日本政治の基調を設定したと言わなければならない。
 一つは、今や安倍晋三に代表されるいわゆる戦後保守政治の主流的イデオロギーは、詔書において表明された上記4点に集約されているといっても過言ではないことだ。国民的な戦争の記憶とこのイデオロギーとの間にはゼロサムの関係がある。戦争の記憶が薄れるにつれて、このイデオロギーの自己主張が強まり、今日の政治状況を生みだしているのだ。
 もう一つは、天皇の臣民にしか過ぎなかった当時の日本人は、敗戦を「終戦」と強弁する詔書をそのまま受け入れるほかなかったのだが、私たちはこの受動性を70年経た今日もなお主体的に克服、清算しえないままでいるということである。戦後保守政治が自己主張を強めるごとに、私たちはその時々の政治の「現実」に屈伏し、その積み重ねが今日の政治状況を招致する日本特有の土壌を分厚いものにしてきた。

2.ポツダム宣言再考

正直に告白するが、私が憲法問題及び日本外交のあり方を考えるに当たって、ポツダム宣言を原点に据えなければならないという、今にして思えばごくごく当然の認識を我がものにしたのは比較的最近のことである。きっかけとなったのは、2010年に尖閣問題をめぐり日中間に軍事的緊張が高まったことだった。尖閣領有権に関する日中双方の主張を改めて検討する中で、宣言(特に第8項)に立ち戻らざるを得ないことを痛切に再認識したのだ。
 自戒を込めて言うのだが、後で述べるように、敗戦後の日本政治の出発点をポツダム宣言に置くのではなく、サンフランシスコ体制に置くことは、日本では今や常識となっている。それはとんでもない誤りであるのだが、私自身も、外務省で実務体験を積み重ねる中で、知らず識らずその「常識」に染まっていたのだ。そういう「常識」の呪縛を解くきっかけを与えてくれたのが尖閣諸島という領土問題だったというわけである。
 しかし、領土問題は宣言の一部を構成するにすぎない。宣言が発表された当時の国際政治状況、宣言の第二次大戦全体における位置、戦争にかかわる人類史の歩みの中での宣言の意義、宣言が日本に降伏を要求した諸条件、日本の宣言受諾に基づく降伏の国際法的意味、宣言からマッカーサー・ノートを経て日本国憲法制定に到る経緯等々に問題関心が及ぶのは自然な流れであった。

<宣言の歴史的・国際的背景>
 ポツダム宣言は、巨視的にみれば、戦争を違法化し、廃絶する人類史の流れの中に位置していると言えるだろう。戦争は人類の登場とともにあったが、グロティウス『戦争と平和の法』(1625年)を嚆矢とする国際法及び30年戦争を終結させたウェストファリア条約(1648年)によって欧州に登場した国際社会は、戦争を野放しにせず、規制する上で車の両輪としての役割を担うこととなった。
 ところが、産業革命を背景とする兵器の多様化及び殺傷破壊力並びに兵器運搬手段の飛躍的革命的発達は、戦場で雌雄を決する、今からみれば「牧歌的」とも言える戦争から、軍民を問わない無差別殺戮・破壊の戦争へと、戦争の性格を変質させた。広島及び長崎に対する原爆投下はその頂点を画したものである。
 他方、欧州においては、ルネッサンス、宗教改革を経て人間存在の固有の尊厳が認識され、アメリカの独立宣言(1776年)、フランス革命(1789年)によって自由と人民主権の思想が確立した。
 このような二つの展開は、国際社会が国際法によって戦争を違法化する流れを促進することとなった。具体的には、第一大戦終結後の国際社会の枠組みを定めた国際連盟規約(1921年)の制定と戦争を一般的に「非」とした不戦条約の締結(1928年)、継いで第二次大戦終結後の国際社会のあり方を定め、戦争を違法化した国際連合憲章(1945年)の制定である。
 国連憲章の制定を導いたのは、第二次大戦における連合国側の戦争遂行目的を掲げた大西洋憲章(1939年)であった。ポツダム宣言は、いわば大西洋憲章のアジア版として、日本を降伏させた後の敗戦・日本を含む東アジア国際秩序のあり方を規定した。

<ポツダム宣言と憲法>
 ポツダム宣言は、明治憲法の改廃を明示して日本に降伏を迫ってはいない。しかし、軍国主義勢力の永久の除去(第6項)、日本軍の完全武装解除(第9項)、民主主義復活強化と基本的人権尊重確立(第10項)を日本の降伏条件として明記した。そして、宣言を誠実に履行することを約束(降伏文書)した日本に対して、日本を占領支配したアメリカ(GHQ)は直ちに、明治憲法に代わる新しい憲法の制定を、宣言の具体化の重要なステップとして日本に要求した。
 憲法制定過程の詳細については、古関彰一『新憲法の誕生』に譲る。しかし、はっきり指摘しておかなければならないのは、終戦詔書が体現するイデオロギーにどっぷりつかったままだった当時の日本政府にとって、宣言の要求内容を体した憲法案を作成することは、まったく想定の範囲を超えていたということだ。
明治憲法の焼き直しにすぎない日本側提示の案文に接したマッカーサーは業を煮やし、いわゆるマッカーサー・ノートとして知られる、憲法草案に盛り込むべき必須要件たる3原則を示し、GHQ民政局に案文を作成することを命じた。改憲論者が主張する改憲理由の一つとして、「押しつけ憲法論」があるが、それこそが宣言及びその受諾という行為の意味することに対する無理解と傲慢な挑戦以外の何ものでもない。
 ちなみに3原則とは、①天皇の地位、②戦争(「自己の安全を保持するための手段としての戦争」を含む)廃止、③封建制度廃止について、憲法草案に盛り込むべき指針を示したものだ。その第2原則は、今日的表現を用いるならば、固有の自衛権行使をも含めた戦争放棄を明記していたことを忘れてはならない。制憲議会の質疑に明らかなとおり、第9条は自衛権行使も禁止しているという理解は、少なくとも当時は日本国内でも共有されていたのである。

3.サンフランシスコ体制の成立

第二次大戦を連合国として戦った米ソ両国の対立は、大戦終結とともに顕在化した。その結果アメリカは、自らが主導して作成した、脱権力政治を打ち出した大西洋憲章を受け継いでいるポツダム宣言が、権力政治を前面に押し出した自らの対アジア政策遂行上の桎梏となるという根本的な矛盾に直面することとなった。
この事態に直面したアメリカが選択したのは、同宣言をひたすら無視することだった。そのことは、アメリカの単独占領に置かれた日本のその後の進路に決定的な影響を及ぼすこととなった。

<アメリカの対日政策の転換>
 アメリカが対日政策をカナメとする対アジア政策へと転換した背景には、米ソ対立の本格化に加え、東アジア情勢の急激な変化が大きく働いていた。
アメリカがポツダム宣言において予定していた戦後東アジア国際秩序は、アメリカと蒋介石が率いる中国・国民党政権との緊密な協力関係が存続することを前提としていた。即ち、米中協力及び日本の徹底的無害化こそが、アメリカが当初予定していた、戦後東アジアの平和で安定的な国際秩序を保障する二大要素だったのだ。
ところが、抗日戦争に一致して対処するために実現していたいわゆる国共合作は、その勝利後に破れ、激しい内戦が再燃した。そして、アメリカが支援する国民党軍が人民戦争を挑んだ共産党の軍事力によって敗北し、中華人民共和国の成立が宣言される(1949年10月1日)に及んで、アメリカは対アジア戦略の根本的な見直しを強いられることとなった。
宣言が予定した戦後東アジア国際秩序及びアメリカの戦後の対アジア政策の双方に対してさらなる打撃を加えたのは朝鮮半島情勢の変化だった。即ち、日本の降伏後、朝鮮半島は米ソ両国によって南北に分断されたが、1950年6月(25日)に朝鮮戦争が勃発したのだ。
アメリカは、以上の二つの事件のいずれをもソ連の指導・支援によるものと見なし、米ソ冷戦は今や東西冷戦として東アジアをも巻き込むこととなった。少なくともアメリカはそのような情勢認識に立った。したがって、アメリカにとって、ポツダム宣言の存在はもはや桎梏以外の何ものでもなくなったというわけだ。
中国の対米協力を前提にして構想されていたアメリカの対アジア戦略は、中国に代わる対米協力国をつくり出すことを喫緊の課題とした。特に、太平洋を跨いだアメリカのアジアにおける軍事プレゼンスを確保するためには、アジア大陸を取り巻く、北はアリューシャン列島から南は東南アジアに至る列島群を支配することが不可欠と認識され、その中でも日本はカギと見なされた。また、より当面の直接的課題として朝鮮戦争の兵站支援基地を確保するためにも、日本の協力を確かなものとすることが至上課題となったのだ。

<サンフランシスコ体制の成立>
 アメリカは、中国大陸の情勢変化を受けて憲法第9条の解釈変更を主導し(マッカーサーの1950年年頭の辞)、朝鮮戦争の勃発後には日本の再軍備を指令した(7月8日)。さらにアメリカは、日本の対米軍事協力体制を確かなものとするため、日本の独立回復と日米軍事協力のシステム作りを急いだ。具体的には、サンフランシスコ対日講和条約と日米安保条約をセットにしたいわゆるサンフランシスコ体制の構築である。
 ちなみに、サンフランシスコ体制にはもう一つの柱が含まれていた。それは、アメリカの強力な働きかけを背景とした日華平和条約の締結である。これにより、日本は台湾に逃げ込んだ蒋介石政権との間で日中戦争状態を終了することを約束し、蒋介石政権は対日賠償請求の権利を放棄した(日華平和条約議定書)。しかし、共産党政権がこれを認めるわけはなく、日中の戦争状態の最終的解決は日中国交正常化実現(1972年)まで待たなければならないこととなった。
 なお、私自身は、日韓基本関係条約締結(1965年)もサンフランシスコ体制の不可分の一部として位置づける。この条約もまた、アメリカの強力な働きかけの下で実現し、日本が朝鮮半島の一部(韓国)との間で国交を樹立したという点において、日本が東アジアにおける対決の構図を固定化する一翼を担ったからである。

<ポツダム宣言とサンフランシスコ体制>
 ポツダム宣言とサンフランシスコ体制とは根本的に矛盾し、両立しえない。正にそうであるが故に、日本政治を一貫して支配してきたいわゆる戦後保守政治は、「戦後」日本の法的・政治的出発点をサンフランシスコ体制に置き、ポツダム宣言の存在とその日本に対する法的拘束力をことさらに無視してきた。政治に対して受動的な日本人の圧倒的多数もまた、戦後日本の法的出発点はサンフランシスコ体制にあるという認識に慣らされてきた。
 このような状況は、アメリカの国際的な発言力が圧倒的である限り、そして日本の自己主張が抑制的である限りにおいて、国際的に破綻する事態に直面しない。しかし、この二つの前提条件が崩れれば、話は別である。21世紀に入った今日、正にこの二つの前提条件が崩れつつあり、ポツダム宣言に再注目せざるを得ない国際的な状況が生まれつつある。
 しかし、そこへ議論を進める前提としてまず、ポツダム宣言とサンフランシスコ体制との間にどのような矛盾があるかについて改めて整理しておく必要がある。ただし、仔細に検討することは省略し、主要な2点だけに絞り込むことをあらかじめ断っておく。

<脱権力政治か権力政治か>
 ポツダム宣言とサンフランシスコ体制との間の最大かつもっとも根本的な矛盾は、第二次大戦後の国際秩序のあり方に関して両者の根底に据えられた基本認識の違いに基づく。端的に言えば、脱権力政治か権力政治かということである。
 ポツダム宣言及びそれに先立つ大西洋憲章が打ち出したのは、一言にしていえば、脱権力政治である。憲章及び宣言の作成者(ルーズベルト及びチャーチル)が権力政治の権化であったにもかかわらず、両文書が脱権力政治を打ち出さざるを得なかったことにこそ、人類史の巨視的な流れを読みとらなければならない。
 改めて言うまでもなく、第二次大戦は日独伊の枢軸国と米英ソを中心とする連合国との一大決戦だった。大戦は帝国主義諸国間の戦争という性格があったことは確かである。
しかし、この大戦争は同時に、全体主義対民主主義の最終決戦という思想的及び人類史的な意味合いを持っていた。したがって、連合国を代表した米英両首脳が大西洋憲章において、人間の尊厳と親和性が強い脱権力政治を標榜したのは、決して一時しのぎの方便として片づけることはできない。そうであればこそ、国連憲章は戦争を違法化することにまで踏み込むことが可能となったのである。
ちなみに、大西洋憲章において脱権力政治への決意を明らかにしているのは第8項である。権力政治から脱権力政治へと向かう人類史的な流れを確認する上で、この規定の重要性を再確認すべきだろう。あえて、全文を紹介しておく。

「両国ハ世界ノ一切ノ国民ハ実在論的理由ニ依ルト精神的理由ニ依ルトヲ問ハス強力ノ使用ヲ抛棄スルニ至ルコトヲ要スト信ス。陸、海又ハ空ノ軍備カ自国国境外ヘノ侵略ノ脅威ヲ与エ又ハ与ウルコトアルヘキ国ニ依リ引続キ使用セラルルトキハ将来ノ平和ハ維持セラルルコトヲ得サルカ故ニ、両国ハ一層広汎ニシテ永久的ナル一般的安全保障制度ノ確立ニ至ル迄ハ斯ル国ノ武装解除ハ不可欠ノモノナリト信ス。両国ハ又平和ヲ愛好スル国民ノ為ニ圧倒的軍備負担ヲ軽減スヘキ他ノ一切ノ実行可能ノ措置ヲ援助シ及助長スヘシ。」

第1文が脱権力政治の思想を宣明したものである。第2文は侵略国の武装解除を不可欠とした。また第3文は、後の国連憲章における集団安全保障体制として具体化される。最後の第4文は軍縮にかかわるものだ。

<非武装・日本か武装・日本か>
第二の矛盾は、上記矛盾と密接不可分の関係にあるのだが、戦後東アジア国際秩序に占めるべき日本の位置づけに関する両者の立ち位置が根本的に異なるということだ。
 即ち、ポツダム宣言は、「平和、安全及正義ノ新秩序」実現の前提として、「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス」と要求した(第6項)。言うまでもなく、この第6項は大西洋憲章第8項の第2文を受けたものだ。そして、その趣旨を体したのがマッカーサー・ノートの第2原則であることはすでに述べたところから明らかなはずである。
 これに対して対日平和条約は、「日本国が主権国として国際連合憲章第51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する」(第5条C)という規定を置いた。
 パッケージとして日米間で締結された旧日米安保条約はさらに踏み込み、「日本国は、武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない」(前文第1文)という表現で、独立回復後の日本の再武装を当然の前提としている。
しかも、その正当化理由として、「無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていない」(前文第2文)というのだ。つまり、ポツダム宣言が念頭においた軍国主義は日本だったが、旧日米安保条約ではそれがソ連、中国にすり替えられているというわけだ。

4.サンフランシスコ体制の動揺

サンフランシスコ体制は、70年近くにわたって、政治・経済・外交・軍事・文化などあらゆる分野において、日本のあり方を規定してきた。その結果、同体制は所与の前提として私たちの思考そのものを緊縛してきた。
 しかし、同体制が成立した1952当時と今日とを比較すれば、いくつかの重要な点で決定的な変化が生まれている。それらの変化は、サンフランシスコ体制ひいては権力政治そのものに対する再考を迫るものである。そして、それらの変化は、脱権力政治を標榜するポツダム宣言に今一度立ち戻ることを私たちに促すものでもある。

<アメリカの国際的比重の相対的低下>
 まず指摘しなければならないのは、権力政治の元締めであるアメリカの国際的比重の相対的低下である。確かにアメリカは、米ソ冷戦終結後に世界唯一の軍事的超大国として君臨することになった。国連安保理においても、ソ連を継いだロシアの衰退と低迷、及び天安門事件によって国際的に孤立した中国が対米協力姿勢を取らざるを得なかったこともあり、1990年代にはアメリカが国際関係を取り仕切る構図が一時的にせよ強まったことは事実である。
 しかし、21世紀に入るとともに、急速な経済成長を背景として自信を深める中国及びプーチンの下で自信を回復したロシアが、アメリカの行動に待ったをかけるケースが増えてきた。中国とロシアは特に、アメリカが自らの価値観を基準にして国際関係を力で仕切ろうとすることに警戒感を深めている。
 中露両国がアメリカの行動を牽制するに当たって根拠としているのが国連憲章であり、東アジア国際秩序に関してはポツダム宣言である。国連憲章は、国際関係のあり方として、国家主権の対等平等、紛争の平和的解決、内政不干渉の原則を定めるとともに、すでに述べたように戦争を違法化している(第2条)。つまり、中露両国は、アメリカの権力政治に対して国連憲章の脱権力政治を対置しているのである。
 ただし、確認のために付言すれば、国連憲章は脱権力政治に全面的にコミットしているわけではない。国連憲章は、「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為」に対して軍事的措置を含む強制行動を予定している(第7章)。したがって正確に言えば、国連憲章は大西洋憲章(第8項)の忠実な具体化として作成されたというべきである。
 また、中国及びロシアも、安全保障理事会の拒否権を持つ大国として、大国主導の下で運営される安保理のあり方については積極的に擁護する立場だ。むしろ、安保理常任理事国として有する拒否権に基づいてアメリカの行動に対して是々非々に対応するということだ。このことは、大国の利害が一致するときには、中小国の権利が侵害される危険性を常に内包していることを忘れてはならない。
 アメリカの国際的比重の相対的低下について詳説する余裕はない。朝鮮半島の非核化に関する関係6ヵ国の交渉(いわゆる6者協議)は中国のイニシアティヴ及び主催の下で開始されたこと(2003年)、シリア内戦に際してアサド政権打倒を目指すアメリカが空爆作戦を行おうとしたのをプーチン外交が押しとどめたこと(2013年)、アメリカ以下の西側諸国が直接、間接に関与した旧ソ連邦諸国の「カラー革命」やアラブ諸国の「アラブの春」がことごとく不首尾な結果に終わっていること、G7に対するG20、BRICSの発言力強化、アメリカ中心の軍事同盟網に対する中露中心の上海協力機構の活動などを指摘するに留める。

<日本の自己主張の強まり>
 サンフランシスコ体制は、日本がアメリカに全面的に協力することを前提としている。この前提は、米ソ冷戦時代には基本的に機能していた。しかし、1990年代以後に変化が起こった。しかも、そのきっかけを作ったのはアメリカ自身の対日政策の変化に基づくものだった。
 米ソ冷戦時代には、アメリカは日本が基地を提供するだけで基本的に満足していた。しかし、米ソ冷戦が終結に向かうさなかに起こった湾岸危機・戦争に対処するに当たり、アメリカは同盟国及び友好国の積極的な軍事的参加を要求した(いわゆる多国籍軍の結成)。このこと自体、もはやアメリカが大規模かつ長期にわたる戦争を単独では行う能力を失ったことを露呈するものだった。
 問題は、アメリカが日本に対しても「血を流せ」と要求してきたことだった。詳しい経緯を述べる余裕はないが、その後の日本は、自衛隊の海外派遣、いわゆる有事法制の制定を通じて積極的にアメリカの軍事戦略に加担していった。
 さらなる問題は、以上の対米軍事協力を積極的に推進した戦後保守政治が、昭和天皇の終戦詔書に体現されるイデオロギーに深々とコミットしており、対米軍事協力強化を推進することを通じて「国体の精華を発揚」(終戦詔書)する政策を露骨に追求するに至ったことだ。対米関係に即して言えば、従来はアメリカに付き従うパートナーたる地位に甘んじていたが、今や対等のパートナーとなることを公然と追求するようになったということである。

<岐路に立つ日米関係とサンフランシスコ体制>
 今日、日米関係は極めて微妙な段階を迎えている。そのことは、サンフランシスコ体制の存立基盤を根底から揺るがす破壊力を秘めている。
 急台頭する中国を軍事的に牽制する戦略(「リバランス」戦略)を追求するアメリカ(オバマ政権)にとって、日本の戦略的比重は高まる一方だ。端的に言って、日本の協力なしにはリバランス戦略そのものが成り立たない。したがってアメリカは、日本(安倍政権)が推進する集団的自衛権行使及び憲法改正を公然と支持する。
 しかし、アメリカは同時に、アメリカ経済の浮沈を握るアジア太平洋地域(APR)の重要性を認識している。したがって、APRの中心に座る中国との戦略的互恵関係を、軍事面での日米関係と同じく重視せざるを得ない。
アメリカは、この二つの関係を両立させるため、中国のダミーとして朝鮮を脅威として強調することによって、自らのAPRにおける軍事プレゼンスを正当化する。その軍事プレゼンスは中国の台頭を牽制することに主眼があるのだが、アメリカは日中間の軍事紛争に巻き込まれることは絶対に回避したい。
ここで、中国を脅威とすることで対米軍事協力(集団的自衛権行使)、憲法改正を国内的に正当化しようとする日本との重大な齟齬が生まれる。しかも、戦前回帰を露骨に追求する日本の保守政治のイデオロギーは、アメリカのそれとは根本的に相容れない。
 もちろん日本(安倍政権)は、対米軍事協力の枠組みの中で、できる限りの対米対等性を実現しようとしている。つまり、自らのイデオロギー的目的をしゃにむに追求することはアメリカという虎の尾を踏むことになる危険性を自覚していると思われる。
 しかし安倍政権は、歴史認識の問題及び領土問題については、中国(及び韓国)の意向をも念頭においてアメリカが繰り出す様々な牽制球に対して、応じる可能性はまずない。したがって、日本からする日米関係も決して盤石とは言えないのである。

5.21世紀の国際環境

以上、サンフランシスコ体制を内側から腐蝕する要素を検討してきた。しかし、同体制特にその基盤である権力政治は、21世紀にはっきり姿を現しつつある国際環境、諸要素によって根本から問い直さなければならない状況が生まれ、かつ、進行している。つまり、21世紀の国際環境はますます脱権力政治の国際関係を必要かつ必然としているのだ。
 21世紀の国際環境を構成する要素としては、人間の尊厳の世界的確立、国際的相互依存の不可逆的進行、地球規模の諸問題の登場と深刻化の3つを挙げなければならない。

<人間の尊厳>
 人間一人一人には固有の尊厳が備わっており、その尊厳は何ものを以てしても奪うことはできず、また、奪うことは許されないという思想は、17世紀の欧州に起源を持つ。しかし、国連憲章は「基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認」(前文)すると宣明し、人間の尊厳は普遍的価値として今や世界的、客観的に確立している。
 もちろん、人間の尊厳が普遍的価値として世界規模で確立したからと言って、それが地球上であまねく尊重されているということを意味するものではない。現実の世界は人間の尊厳の実現にとって極めて厳しい状況にある。新自由主義の支配によって、貧富の格差は世界的に拡がる一方だ。平均寿命も先進国と途上国とでは雲泥の差がある。世界各地の軍事紛争は無辜の人々を殺め、あるいは難民化している、等々。
 しかし、人間の尊厳が承認されたからこそ、権力政治から脱権力政治へという人類史的な転換という軌道が設定されたことは間違いのない事実である。戦争を違法化することも、人間の尊厳をあまねく実現するための努力の一環として位置づけられる。新自由主義原理に対する根本的批判の高まりも、この原理が人間の尊厳とは両立しえない利潤至上主義に立つことに基づいている。
 権力政治の根幹にあるのは、私流に言えば「力による平和」という考え方だ。安倍晋三の「積極平和主義」はその典型である。しかし、力(暴力)は人間の尊厳を殺めずにはすまない。したがって、人間の尊厳が普遍的価値として承認された今日においては、権力政治は歴史的に淘汰されなければならない運命にある。脱権力政治、私流に言えば「力によらない平和」観のみが、人間の尊厳との親和性が高いものとして、今後の国際関係を規律する原理として受け入れられていくことは歴史的な必然である。

<国際的相互依存>
 18世紀に欧州で始まった産業革命は、人類の歴史を大きく変えることとなった。確かに産業革命は、戦争対象を無差別化するという負の側面を持った。しかし、19世紀に開始された通信革命、20世紀に本格化した運輸・交通革命、そして20世紀後半以後とどまることを知らない勢いで進行する情報革命は、様々な分野で地球全体を覆うネットワークを形成し、国際相互依存の不可逆的進行を促進している。
 そのことは、地球上の森羅万象が相互にがんじがらめに絡まりあい、相互に依存しあう状況を生みだしている。かつては、戦争は「政治の延長」「政策の実現手段」として位置づけられていたが、国際相互依存が進行する今日では、もはや戦争という選択肢はあり得ないし、許されもしないのだ。
 私たちは、ギリシャの財政破綻に起因した経済不安がまたたく間に世界経済全体を揺るがせる事態になったことを思い出さなければならない。それこそが国際相互依存の不可逆的進行が意味することである。
 ましてや、ほんの少しでも想像力を持ち合わせているものであれば、仮に日中間で一発の銃声が響くようなことがあれば、東アジア経済は激震に見舞われ、その結果生じる大津波が世界経済を呑み尽くすであろうことが手に取るように理解されるはずだ。国際相互依存の不可逆的進行は、権力政治を歴史の屑箱に放り込むことを不可避とする。

<地球規模の諸問題>
 地球規模の諸問題とは、温暖化、砂漠化をはじめとする気候変動、グローバルに進行する貧富の格差拡大、エボラや新型インフルエンザに代表される疫病の蔓延、経済発展が生みだす生態系の深刻な影響・破壊、致命的欠陥がある原子力発電の世界的広がりなどの諸問題の総称である。
私は、テロリズムの問題もこの範疇に置いて考える必要があると思う。テロリズムを生みだしたのは、優れてアメリカの対中東政策(イスラエル庇護、産油国腐敗政権に対する肩入れ)の所産であり、貧富の世界的拡大に起因する人間存在(尊厳)の否定に根本的な原因がある。
したがって、テロを根絶するためにはこの根本的な原因にメスを入れなければならない。端的に言って、アメリカが主導する、軍事力という暴力によってテロという暴力に対抗することでは、問題は解決するどころか、深刻化するだけであることははっきりしている。
根本的にメスを入れるということは、アメリカの中東に対する権力政治を断念させると同時に、世界的な貧富の格差拡大という問題を解決し、人間の尊厳を実現するための取り組みを本格化させること以外にないのだ。

6.日本国憲法と東アジア外交

以上から明らかになったことを整理すれば、次のようにまとめることができるだろう。
第一、21世紀の国際環境は、20世紀までの権力政治に基づく国際関係のあり方を、脱権力政治に基づく国際関係に転換させることを客観的に要求している。
第二、東アジアにおいては、大西洋憲章のアジア版と言うべきポツダム宣言が、不完全であるにはせよ、脱権力政治に基づく新しい国際秩序の創出を予定していた。
第三、しかし、東西冷戦に対して権力政治で立ち向かう戦略を追求したアメリカは、ポツダム宣言を無視し、日本をパートナーとするサンフランシスコ体制を構築し、同体制が今日まで東アジア国際関係を規定している。
第四、サンフランシスコ体制を受け入れた戦後保守政治は、今や戦前政治への回帰を目指しており、脱冷戦後のアメリカの対日軍事依存が強まることとあいまって、サンフランシスコ体制は内部から腐蝕が進行している。
第五、脱冷戦後のアメリカの権力政治に危機感を強めた中国及びロシアは、国連憲章に基づく民主的な国際関係(脱権力政治)を対置させるとともに、東アジアにおいてはポツダム宣言が予定した国際秩序の実現を呼びかけている。
第六、同時に中国(及びロシア)は、戦前回帰を志向する日本(安倍政権)に対して、ポツダム宣言の遵守を要求する姿勢を明確にしている。
第七、日本としては、21世紀の国際環境のもと、サンフランシスコ体制及びその根本に座る権力政治を清算し、ポツダム宣言の具体化として制定された日本国憲法に基づく脱権力政治の外交、即ち真の意味での平和外交を積極的に展開することが求められている。
紙幅がもはやないので、憲法に基づく平和外交の具体的な中身を詳細に検討する余裕はない。領土問題、歴史的な負の遺産、第9条、外交的アプローチ、日本人の主体性の5点にしぼって、平和外交のあり方の基本を簡潔に示すにとどめる。 なお、平和外交のあり方として「東アジア共同体」構想が提起されることが多い。しかし私は、そういう具体的外交テーマを論じる前に、平和外交を進める上での私たちの共通認識を確立しておくことが先決であると考える。この5点は、その中心的ポイントであることを強調したい。

<領土問題>
日中、日韓、日露の領土問題に関して、国内では「固有の領土」論が横行し、国民的に「常識」となっている観がある。しかし、この「常識」はポツダム宣言を受諾して降伏した日本の国際法上の立場を忘れた、いわば国際的に通用しない「非常識」であると言わなければならない。
ポツダム宣言第8項後段は、「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」と明確に定めている。つまり、沖縄を含む「諸小島」の主権的帰属は「吾等」即ち米英中ソ(露)4ヵ国が決定するのであり、日本としてはその決定を受け入れるしかないのだ。
日本が「固有の領土」論を主張することがあたかも当然であるかの如き状況があるのは、同宣言作成を主導したアメリカが、すでに指摘したように、同宣言を無視した対日政策を追求することによって可能となっているにすぎない。
東アジアの平和を目指す日本外交の出発点の一つは、宣言第8項の規定を遵守することを対外的に明確にすることでなければならない。それによってのみ、中韓(朝)露を含む東アジア諸国は日本の平和外交への転換を額面通り受け入れることとなるだろう。

<歴史的な負の遺産>
 21世紀に入って日中及び日韓関係が緊張を深めている今一つの原因は、日本の歴史認識、即ち、日本が侵略戦争を否定し、美化しようとする動きを強めてきたことである(特に安倍首相の靖国参拝、従軍慰安婦問題)。このことは、軍国主義勢力の永久的除去を要求したポツダム宣言第6項に対する真っ向からの挑戦である。日本が歴史的な負の遺産をキッパリ清算することは、宣言の予定した平和で安定した東アジア国際秩序実現の大前提なのだ。
 ここでもまた、アメリカが曖昧な姿勢に終始してきたことが日本の保守政治勢力に乗じる余地を与えてきたことを指摘しなければならない。しかし、すでに指摘したとおり、最近、ようやくアメリカ政府内部からも日本の歴史認識を警戒する声が公然と発せられるようになっている。

<第9条>
 第9条はポツダム宣言の具体化であり、東アジアの平和と安定を実現する大前提の一つは、日本が戦争を放棄し、軍隊を持たないとする第9条を堅持することにある。伝統的国家観に対する第9条の革命的意義は正にこの点にある。
 第9条に対する批判は、それがあまりに理想主義的であり、権力政治の国際関係においては非現実的すぎるというにある。しかし、21世紀の国際環境は脱権力政治への流れを必然としている。憲法制定当時には理想主義的すぎたかもしれないが、今日においては、第9条を堅持することこそがもっとも現実的な選択なのだ。そのことを国民的な共通認識としなければならない。

<外交的アプローチ>
 第9条に基づく平和外交を唱えるものは少なくない。しかし、その主張が広範な国民的支持を得られないでいる原因の一つは、日本には大した外交力が備わっていないという一種の国民的な諦観が働いていることにある。
 しかし、すでに指摘したとおり、中国及びロシアは、アメリカの権力政治に対して国連憲章に基づく脱権力政治を対置する状況が生まれている。その基本的な方向性は第9条に基づく日本の平和外交と一致している。したがって、日本としては、志を同じくする国々と協力して、東アジアの平和と安定の実現を目指す条件が確実に生まれ、成長していることを認識するべきである。

<日本人の主体性>
 以上に述べたとおり、東アジアの平和と安定を目指す日本の平和外交の基本的要素は極めて明確である。最大の問題は、日本外交を担うべき私たち日本人の主体性が決定的に不足していることにある。私は、そのことを1.で「日本人の受動性」としてすでに指摘した。
 最近、『丸山眞男集別集第1巻』が刊行され、1946年当時に丸山が執筆した数編の文章を読む機会に恵まれた。「憲法研究委員会第一次報告」、「孫文と政治教育」、「政治とは何ぞや」、「近代日本政治の諸問題」の4編を貫くのは、敗戦日本の政治を担うべき日本人の主体性を確立することが喫緊の課題であるとする丸山の痛切な問題意識である。
 丸山の1946年当時の問題意識が2015年の今日においてもまったく色あせていないことこそが、今日に至る70年間、私たちが本質的になんら変わり得ていないことを示して余りあるものがある。この本の帯は、「戦後70年を前に日本が「曲がり角」に立つ今、われわれが立ち返るべき原点」と記している。正に的確な指摘だと思う。
 この文章を読んでくださる読者には、私の浅薄な問題提起に代えて、この本を熟読することを通じて、「日本人の主体性」を確立するためには何が求められているのかを自ら考えることを期待する。丸山の問題意識の的確性を理解できる文章として2箇所だけ紹介して、結びに代える。

 「(憲法)原案作成の過程に於て民意の作用する余地は極めて局限せられざるを得ない。斯くの如くして成立した憲法は、たとえその内容に於ていかに民主的であったとしても、果して真に民主的な憲法として国民大衆の意識と生活の裡に深く根を下し得るであろうか。国民の実質的参与なしに作られ、「与えられた」憲法は、それが他日不当なる圧力による蹂躙の危機にさらされた場合に於て、国民は之を擁護することに幾許の責任を感じ、又幾許の熱意を持つであろうか。我々は民主日本の将来の為に切にこの点を憂うるのである。」(「憲法研究委員会第一次報告」p.82)
 「被治者としての意識しかもたない国民大衆に、国家のことを主体的に担うところの精神、国家あるいは政治というものをみずからのこととして自分の肩に主体的に担っていくような精神、そういうものを、人民大衆の中に起こさせていくということが孫文の第一の課題である。」(「孫文と政治教育」p.88)