日本人人質事件と日米両政府の対応

2015.02.03.

「イスラム国」が2人の日本人の人質を殺害したことに対する私のやりきれない思いは、おそらく多くの日本人と共通するものだと思います。しかし、今回の不幸な事件からくみ取る教訓は何かという点に関しては、率直にいって、私はマス・メディアに登場する多くのいわゆる専門家の発言に強烈な違和感を覚えています。語られるべき、提起されるべき論点が伏せられているからです。
  最大の論点は、安倍首相の掲げる「積極的平和主義」の当然の帰結として今回の事件が起こってしまったのではないか、ということです。したがって、お二人の死を無駄にしないために私たちがまなじりを決して考えなければいけないのは、平和憲法に基づく非軍事・反暴力の道に立ち返るのか、それとも、日米軍事同盟に基づく軍事・暴力の道を突き進み続けるのかという根本的な問題を直視することだと確信します。私は、今こそ敗戦・日本の政治的原点に立ち返るべきだと主張します。
  「テロに立ち向かわないで良いのか。きれいごとでは済まないではないか」という反論はもちろんあると思います。しかし、テロリズム、特にイスラム過激主義に基づくテロが起こった根本的な原因はについては、アメリカの二重基準に満ちた対中東政策にあることは国際政治における基本常識の一つです(本日(2月3日)付の朝日新聞が紹介したシンポジウムでの専門家諸氏の発言が裏づけているとおりです)。平和憲法に徹する日本は、テロリズムの根本原因であるアメリカの対中東政策を改めさせることにこそ全力を注ぐべきです。
  アメリカの二重基準の政策は、実は今回の人質事件に対する対応でも露骨な形で示されたのです。アメリカは、昨年タリバンに捕らわれていた米兵を解放させるために、アメリカが捕らえていたタリバンのメンバー数名と交換したことは記憶に新しいことです。9.11事件後にブッシュ大統領がアフガニスタンに戦争を仕掛けたとき、「テロリストをかくまうものも同罪」として、当時アフガニスタンを支配していたタリバン政権に対する攻撃を正当化したのです。そのアメリカが、米兵を釈放するためにタリバンと取引したのです。そのようなアメリカに、捕虜の交換取引は反対という資格はゼロです。

 中国の2月2日付の各メディアも今回の事件に関していくつかの見解表明と分析を行っています。環球時報社説「2番目の人質殺される ダメな安倍の救急力」、京華時報所掲の同紙特約評論員の洪琳署名文章「アメリカのタリバンに対する態度の変化は何を物語るか」、新民晩報所掲の上海国際問題研究院の日本問題専門家・呉寄南発言「安倍政権が人質危機に名を借りて乗っ取りするのを警戒しよう」、新京報所掲のコラムニスト・趙霊敏署名文章「日本の人質事件の背後にある様々なレベルの外交」、中国網所掲の中東問題評論家の雷希頴署名文章「想定範囲内の「斬首」 想定内の各反応」、北京青年報所掲の国際問題研究学者の向腸河署名文章「日本人人質危機の多重信号」などがあります。
  ここでは、私の第一の問題意識(問われているのは日本外交のあり方)にかかわるものとして環球時報の社説を、また、第二の問題意識(アメリカの二重基準)にかかわるものとして洪琳署名文章を紹介します。

<環球時報社説>

  最初の人質が殺された後の数日間、安倍政権は第2番目の人質を救出できるのではないかという観測もあり、多くの見方は実際の結果より良いものだった。安倍政権は、中東の複雑な情勢に対処する能力に欠けていることを再度証明させられることとなった。日本の中東外交ひいては対外政策全体がアメリカ外交に縛り付けられており、アメリカ主導のグループの中では「かき集めの非正規軍隊」の役割を担ってきたが、「非正規軍」は「正規軍」よりも自らを守る能力は往々にしてより弱く、より危険なことがしばしばだ。
  グローバルな反テロリズムの形勢は現在、かつてなく多面的であり、単純な総括を行うことは難しい。一方では、ビン・ラディンは除去され、アルカイダは重大な打撃を受けた。しかし他方では、アメリカの対テロ戦略の決意は大幅に削がれ、もはや巨大な国力をかけて新しく台頭してきた「イスラム国」に対処する気持ちはなく、イラク、アフガニスタンという反テロ前線からも撤退しつつある。ワシントンは、2日前には、過去において「テロ組織」としてきたタリバンについて新しく定義し直したし、対中東政策全体を見直している最中だ。
  日本が中東のテロ問題に対してより強硬になり、犠牲を引き受けること対してより積極的になることは、世界にとっては良いことかもしれない。「イスラム国」のような組織に対処するためには、虎をも恐れぬ「生まれたての子牛」となろうとするものが必要だ。
  しかし、安倍政権が中東の怨念の中に身を投じることを恐れず、目下のところもっとも残忍なテロ組織ととことん対立しようというのは、必ずしもテロに対する道義感や責任感から出たものではなく、反テロに名を借りて日本の軍事力が「外に向かってでていく」のを実現しようという考慮に基づく可能性がある。安倍が一貫して軍事的台頭のための憲法改正を推進してきたことから、外部がこういう疑いをもつことは極めて当然のことだ。
  安倍がアメリカという大船を引っ張って外に向かおうというのは、そうすることが日本政治における軍事面でのボトルネックを打破し、様々な複雑さを乗り越えるカギだと考えているからだろう。
  アメリカは、日本人人質を解放することに何の協力もしなかったし、オバマの態度表明も日本を慰める言葉だった。仮に日本がそれで満足するとすれば、あまりにお人好しというものだろう。
  日本は、安全保障面で中国に対して注意を向けすぎており、中国はその仮想敵となり、日本の大部分の外交及び安全保障の資源を使い尽くしている。しかし、日本はグローバルな貿易立国の一つであり、その直面する挑戦は多面的であって、今回の人質が殺されたことでそのことに気付くことになるかもしれない。
  中日両国は同じ東アジアにあり、中東の戦略的意義は中日でほぼ同じだ。中日は中東の平和を望んでおり、戦争がないことがもっとも望ましい。米欧の中東政策はそれぞれの利益に基づくものであり、仮に日本が中東問題ひいてはグローバルな問題に対する態度がアメリカと高度に重なるとするならば、そのこと自体が日本にとって損失となる含意があるということだ。

<洪琳署名文章>

  アフガニスタンのタリバンはテロ組織ではないのか。アメリカはこの問題に答えたがらないが、どうにも逃げ切れなくなっている。ここ数日、「イスラム国」の捕虜交換交渉が国際的な焦点となり、メディアの関心は自然とアメリカが昨年、タリバンと行った捕虜交換のことを思い出している。迫られたホワイトハウスの副報道官は、「アメリカの捕虜交換は原則に立ったものだ。なぜならば、タリバンは「武装反乱」であり、ISこそがテロ組織だから」という発言をひねり出した。
  ホワイトハウスの副報道官がタリバンは「武装反乱」として問題を一時しのぎした翌日、ホワイトハウス報道官が再度質問され、タリバンは「異なるカテゴリーであり、アルカイダのようなグローバルな目標を持っておらず、全世界のアメリカ人及びアメリカの利益に対してテロ活動を行うものではない」と述べた。二人の報道官は「タリバンはテロ組織ではない」という表現は使わないようにしたが、メディアは、アメリカはもはやタリバンをテロ組織とは見なしていないと解釈した。外交舞台においては、永遠の友人も、永遠の敵もいないのであり、あるのは永遠の利益だけだという道理を、アメリカはそらんじているというだけのことだ。
  9.11事件のあと、アメリカは、タリバンとアルカイダを一緒くたにして攻撃し、両者を区別しなかったし、タリバンがその後アルカイダと距離を取るようになってからも、アメリカの立場は変わらなかった。しかし、2009年にアメリカ兵が捕虜になってから、アメリカは立場を変えた。昨年、アメリカは5名のタリバンのメンバーとの交換で米兵を取り返したのだが、アメリカとタリバンの間ではその前から微妙な動きがあった。
  2013年、タリバンはカタールの首都・ドーハに事務所を設立したが、これは明らかにアメリカの許可を経たものだった。これに対して、アフガニスタンのカルザイ大統領は激怒し、大統領を辞めるまでアメリカとの協定に署名を拒んだ。元はといえば、カルザイがタリバンと交渉しようとしたのをアメリカが絶対に許さなかったのだ。その後、アメリカはアフガニスタンからの撤兵を進めるために、アフガニスタン政府を素通りしてタリバンと交渉した。これこそがアメリカであり、異常なまでに現実のアメリカなのだ。
  時に応じて態度を変えるということは絶対に不可ということではなく、アメリカが情勢に従うこともあり得ることだ。アフガニスタンに新大統領が登場し、タリバンを含む各武装勢力が大局を重んじ、和平交渉で問題を解決しようと明確に呼びかけたとき、アメリカが政治的和解プロセスの積極的推進者になることはまったく問題がない。しかし、アメリカの問題はそのことにあるのではない。問題のカギは、戦争を発動して国内の交渉プロセスを阻止したときも、自分がこっそりとタリバンと交渉したときも、アメリカは一度としてアフガニスタン当局を意思疎通しなければならない当事者として扱ったことがないということにある。