「言論の自由」の限度・限界について考える

2015.01.12.

1月7日にフランスの新聞社『シャルリ・エブド』が襲撃された事件及び昨年12月17日にソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント(SPE)が、サイバー攻撃を受けて、映画『インタビュー』の上映をいったん中止した事件は、基本的人権の根幹をなす「言論の自由」に対する挑戦として深刻に受けとめられています。
両事件における加害性は、前者がテロそのものであるのに対して、後者はテロの脅迫であるという違いがあります。しかし、テロ・脅迫の対象となった「言論の自由」の中身に関しては、宗教(イスラム)または一国の最高指導者(金正恩)を、「言論の自由」の行使という大義名分のもとで風刺の対象(笑い種)にしたという点で本質的に同じです。つまり、両事件は「言論の自由」には限度・限界というものが一切ないのかどうかという問題を客観的に提起していると思います。そのように問題の本質を捉えるとき、在特会による朝鮮学校に対するヘイト・スピーチにも考えを及ばさないわけにはいかなくなると思います。
  以下においては、まず、「言論の自由」の本家本元を自認する欧米諸国においては、風刺が「言論の自由」として無条件に肯定されていることについての事実関係を確認します。その上で、欧米諸国で当然視されている理解がはたして普遍的な妥当性を主張できるのかどうか、具体的には「言論の自由」には如何なる限度・限界もないのかについて、在特会のヘイト・スピーチの問題を含めて考えてみたいと思います。

1.「言論の自由」と風刺

 正直に白状しますが、私はこの問題をこれまで突っ込んで考えたことがありませんでした。しかし、上記の二つの事件を引き起こしたとされる元凶に対して、「言論の自由」を前面に押し出して全面的に糾弾する欧米の論調に対してもやもやした違和感を覚えたのです。そして、その違和感のよってくる原因を考えた場合に、「言論の自由」にも踏み越えることが認められない限度・限界はあるのではないかと疑問を感じたというわけです。
  私のそういう問題意識は、中国のメディアでも共有されています。例えば、1月9日付の環球時報は、「欧州の政治マンガが矢面に 基準に関して激しい論争」と題する記事を掲載しています。
同じ問題意識からでしょう。同日付の中国新聞網は、1月7日付のフィナンシャル・タイムズWSに掲載された 、コロンビア大学教授(歴史学)のサイモン・シャマ(Simon Schama)の「自由と笑いは生き続ける」(Liberty and laughter will live on)と題する文章を詳しく紹介しています。この文章は、「言論の自由」における笑い(laughter) の占める地位を、欧州における歴史を踏まえて詳しく解説したものです。私にとっても新しい知見であり、英文の原文に即して、その要旨を紹介します。

  風刺を殺害することは決して笑い事ではない。不遜こそは自由の活力源である。自由と笑いは3世紀以上にわたって欧州の伝統の中で双子の関係にあったし、双方あいまって風刺する権利として貴重なものと見なされてきた。
  グラフィックな風刺は、カソリックとプロテスタントの間の宗教戦争の中で武器として登場したのが最初である。プロテスタントは、印刷物において法王を怪物に、そして王侯貴族を虐殺者に描き出した。17世紀半ばにイラスト入りの新聞を発明したオランダ人は、スペイン王国に対する反抗を描く図解の歴史を描き始めた。
  最初の偉大なグラフィックによる風刺家は、フランスのルイ14世と戦ったオランダ王ウィリアム3世に登用され、17世紀末に活躍したRomeyn de Hoogheである。彼は、フランスに対するオランダの戦いを、宗教的専制に対する自由を代表するものの戦闘として描き出すマンガをものした。プロテスタントの国々にとって、こうした風刺家を野放しにしておくことが利益に合致したのだ。
  制約の一切ないグラフィックの風刺の黄金時代は18世紀であり、特にイギリスでは、特定の政治力または制度が権力を独占できない状況のもとで可能となった。様々な政治勢力は、敵対勢力をやっつけるために風刺画家の助けを求めた。こうしてイギリス人は、政治をコメディに仕立て上げたし、舞台にしたり印刷物にしたりすることに猛烈なエネルギーを傾けた。グラフィックによる攻撃的な政治の時代には、イギリス国教会からイングランド銀行、さらには指導的政治家からイギリス王室に到るまで、コメディの対象とされることから逃れることができるものはなかった。風刺は政治にとっての酸素となった。冷やかすという偉大な伝統は、イギリスからアメリカへと受け継がれ、その後欧州にまで引き継がれた。
   1月7日には我々から笑みを消し去ろうとする血なまぐさい試みが行われた。しかし、彼らは風刺家を殺したが、風刺そのものを絶滅することはあり得ないだろう。

 以上の文章から分かることは、風刺が「言論の自由」において占める地位は、優れて欧州という政治の舞台において、歴史的に形成され、確立してきたものであるということです。ということは、「言論の自由」という基本的人権そのものに内在する、不可分で一体の構成要素というわけでは必ずしもない、ということです。
したがって、欧州の政治的歴史的背景を共有しないものからすれば、「自由と笑いは3世紀以上にわたって欧州の伝統の中で双子の関係にあったし、双方あいまって風刺する権利として貴重なものと見なされてきた」という欧州の歴史を認めるとしても、「不遜こそは自由の活力源である」、「風刺は政治にとっての酸素」という主張、したがって風刺・笑いは「言論の自由」の不可分の一部とする欧米諸国の主張をそのまま受け入れなければならないということにはならないでしょう。

2.「言論の自由」とその限度・限界

 以上の問題意識を踏まえて、まず、『シャルリ・エブド』紙襲撃事件に即して「言論の自由」には限度・限界がないのかということに関する、私にとって納得できるイラン及び中国の論調を紹介します。その後で、ソニー・エンタプライズの事件を取り上げ、私なりの考えを示すことができれば、と考えます。

(1)『シャルリ・エブド』紙襲撃事件

 1月9日にアラビア半島のアルカイダは、この新聞社を襲撃した実行犯の行動を指導したことを宣言しました。しかし、この襲撃事件を支持したのは「イスラム国」(ISIS)だけで、米欧諸国はもちろん、中国、イラン、朝鮮(浅井注:1月9日付の朝鮮中央通信は、同8日に李洙墉外相がファビウス外相に、「週刊紙シャルリ・エブド本社に対するテロ攻撃事件で多数の人命被害が発生したことで」慰問電を送ったことを伝えました)を含め、テロリズムとして糾弾しています。
  他方、私が毎日チェックしているイラン放送日本語版及び中国メディアの論調においては、テロを糾弾することは当然とした上で、①イスラムに対して侮辱的な欧米メディアの姿勢さらには欧州に移住したムスリムに対する欧州社会の差別がテロの温床になっているという指摘、②欧米諸国のテロリズムに対する二重基準的対応に対する批判、が行われています。
  まず、イランについて見てみます。
1月8日付のイラン放送日本語WSは、ミルーターヘル解説委員による「代償を払わされるフランス」と題する論評を掲げ、次のように述べています。これは、上記①にかかわるものです。

  明らかにこのような事件は原因なしに発生することはなく、事件が発生した原因に目を向ける必要があります。シャルリ・エブドは繰り返し、預言者ムハンマドを扱った反イスラム的な風刺画を掲載しており、フランスや世界各国のイスラム教徒による大規模な抗議にもかかわらず、言論の自由を口実に、このような侮辱的な行為に及び、また、フランスの政府関係者の支持も受けていました。…彼らは宗教的な問題を無視し、それを重要ではないとして、イスラム教に反対する極端なアプローチを取り続けていたのです。…シャルリ・エブドの極端なアプローチの継続が暴力的な反応を引き起こすことは予測できたことでした。

次に、1月10日付のイラン放送日本語WSは、マッキー解説員による「フランスのテロ事件の根源」と題する論評を掲げ、次のように述べています。これは上記②にかかわるものです。
ちなみに、イスラム国(ISIS)が今日のような脅威にまで成長した背景には、彼らがシリアのアサド政権の打倒を目指す諸グループの一員であった時期に、欧米諸国から支援を受けていた事実があることはアメリカの専門家によっても指摘されています。

  ローハーニー大統領は、「テロ行為はバグダッド、ダマスカス、カーブル、パリ、ニューヨークなど、世界のどこであれ、非難されるべきものだ」と語っています。一方、西側政府にとってテロ行為はどこであっても非難されるべきものなのか、という疑問も提示されます。…
  残念ながら西側諸国は、よいテロと悪いテロがあるとしています。西側諸国やその同盟国の人々の生命や、これらの国々の利益を危険にさらすテロは悪いテロです。しかしテロ・グループが西側政府の政策に従って行動し、イスラム諸国にいる西側以外の人々数千人を殺害するテロに対しては、反応を示さず、それをイスラム世界における暴力や過激主義として、イスラム教に結び付けています。
西側政府はこれだけに満足せず、多くのケースにおいて、自分たちの政策を推進するために、このようなテロ・グループを利用します。その例として、イラクやシリア、レバノンにおけるテロ組織ISISやそのほかのタクフィール主義団体への対応をあげることができます。フランスをはじめとする西側政府がISISなどのテロ組織の強化に大きな役割を果たしているのは、周知の事実です。彼らはシリアのアサド政権の転覆や、シリアの自由を求める人々の防衛を口実として、テロ・グループやタクフィール主義者など、あらゆる手段の行使が合法的だとしています。ISISは西側政府や、サウジアラビア、トルコなどの同盟国の支援を受けて、世界各地に広い経済的、人的ネットワークをもつ世界最大のテロ組織に成長しました。

次に中国メディアの論調を紹介します。国内で多くのテロ事件に悩まされている中国のメディアにおいても、「言論の自由」を振りかざす欧米諸国に対して疑問を提起する論調が少なくありません。中国のメディアが異口同音に指摘するのは上記①にかかわる問題です。ただし後で紹介するように、1月9日付の環球時報社説及び同日付の光明日報WS所掲の王徳華署名文章は、②の問題にもさらりと言及しています。
ちなみに、テロリズム批判・非難における二重基準という問題は、ひとり欧米諸国だけの問題ではなく、欧米メディアの圧倒的影響力のもとにある日本でも浸透しています。具体的には、中国で起こるテロ事件がチベットや新疆の少数民族によるものであるとき、日本のメディアはテロとして扱わず、少数民族を圧迫している中国政府に問題があると描くケースが多いのです。その結果、ただでさえ歪められている多くの日本人の対中国観はさらに「嫌中」感情となって増幅させられるのです。
本論に戻ります。環球時報は、1月8日付社説「フランス及び欧州全体が深刻な試練に直面している」、及び翌9日付社説「テロリズムを糾弾することと議論があるマンガを支持することとは同じではない」で、次のように論じています。

<1月8日付社説>
西側に生活する少なからぬムスリムが尊重や信頼を得られないというやりきれない思いを味わっているが、西側のメディアでは、イスラムの先覚者を風刺することは「言論の自由」に属するとし、中にはこの風刺する自由を守ることが西側の価値観を堅持することであると見なすものもいる。…
テロリズムは非難されるべきである。同時に異なる文明間の相互尊重も唱えられるべきである。ムスリムは今日すでに西側の大部分の地域に移民しており、就業などの社会参画の多くの面で弱者であり、そのことについてセンシティヴになっている。どうすればムスリムが尊重されていると感じることができるようになるかという問題は、西側社会及び多宗教社会が共通で抱える課題である。
多元的社会においては、異なる文化的背景の人間の間で摩擦が生まれることは避けがたいことだ。もっとも避けなければならないのは、この摩擦を単純に「宗教的衝突」あるいは「民族的衝突」と割り切ってしまうことだ。ところが、西側社会においては往々にしてこの点に関する警戒感が高くなく、そのことが個別の衝突を社会問題にまで拡大させ、エスカレートさせることになっている。 現在フランスは試練に直面しており、フランス政府のみならずフランスの主流をなす社会が今回のテロ事件を宗教問題と切り離して扱うことができるかどうかは、今後のフランスの政治的雰囲気を左右することになるだろうし、欧州全体にも影響するだろう。

<1月9日付社説>
今回のテロ事件に関しては、多くの国家が一致して非難している。しかし、非西側社会特にイスラム社会においては、民間の反応はもっと複雑である可能性がある。
価値観は多元的であるにせよ、テロに対する非難は無条件であるべきだ。この人類共同の利益にかかわる原則問題に関しては、非難以外の選択の余地はない。ところが、中国でテロ事件が起こったときの西側世論の立場は常に確固たるものがあるとは言えない。中国やロシアでテロが起こると、西側世論は往々にして言を左右にする。我々としては、中露等のテロに対する確固とした態度を西側にも見習って欲しいと強く希望する。
東側の視点からするとき、シャルリ・エブドのやり方には議論の余地がある。ムスリムが同紙のマンガによって傷つけられたと感じることは理解できることだ。しかし、如何なる原因を以てしてもテロを起こす理由とするべきではない。シャルリ・エブドに対する攻撃はあらゆる社会の文明的なボトム・ラインを突破してしまっている。世界各地のテロを仔細に見れば、そのほとんどすべてにそれぞれの「深層原因」があるが、しかし、テロに対する人類の態度はそれに断固として反対し、これに打撃を与えるということ以外にあり得ない。
しかし、テロに反対し、打撃を与える方法については考える必要がある。西側の多くの指導者及び主流メディアは、ことさらに「報道の自由に対する支持」を強調している。我々は、この点については議論の余地があると考える。
西側における報道の自由は、その政治制度及び社会のあり方の一部であり、西側社会における核心的価値でもある。しかし、グローバル化した時代において、西側のやり方と西側以外の社会の核心的価値との間に衝突が起こったときには、西側は衝突を緩和させる意思を持つべきであり、自らの価値を中心にしてゼロサム的に摩擦をエスカレートさせるのはよくない。
西側は、グローバルな世論の場において絶対的に優勢であり、西側と非西側の対話は、往々にして西側による一方的な説教となってしまう。非西側社会が西側に対して意見があるときも、世界に対して効果的に伝える力はほとんど持っていない。西側は、彼らが好まない社会に対して「言葉の暴力」をふるう能力を備えており、西側としてはそのことを認識し、その「ソフト・パワー」を使うことに抑制的であるべきである。
西側が自らの報道の自由に間違いはないと考えているとしても、相手側の受けとめ方を考慮することは、それを無視することよりも奨励されるべきだ。「グローバル化とは特定の価値観の絶対的拡張及び勝利である」とはとても想像しがたいのであり、このような信念を以てグローバル化に対処しようとするならば、果てしないかつ尽きることのない衝突の中に自らを投げ入れることになるだろう。西側が文化的衝突の原因に関する表現をより穏健なものにし、非西側世界の絶対的多数の人々の受けとめ方に配慮するならば、尊厳ある報いがあることだろう。

この二つの社説は、中国側の見方の最大公約数ということができると思います。私流に言えば、「報道の自由」を含む「言論の自由」には、他者の尊厳を傷つけ、貶めることはあってはならないという限度・限界があるはずだ、ということになります。すべての人間存在が備える尊厳を踏まえた他者感覚を働かせること、これが「言論の自由」が備えなければならない限度・限界だと思います。
そのほかの論調についてはさわりだけを紹介します。
1月8日付の中国新聞網は、中国現代国際関係研究院のテロ問題専門家である李偉の発言を紹介しています。李偉は、テロ反対という認識では国際的一致があるが、それを如何に具体化するという点では様々な考え方が存在していると指摘します。そして、文明・文化・宗教が多元的である状況のもとでは、多元性の存在こそが合理的であること、文明と宗教に関して優劣はないことを西側諸国は承認するべきであり、それを承認しない限り、テロを生みだす土壌が存在し続けると強調します。
1月9日付の光明日報WSは、環球時報WS特約評論員の王徳華署名の「如何なる自由も他者を傷つけることは許されない」と題する文章を掲載しています。王徳華は、中国もテロに苦しむ国家であり、中国人の気持ちはフランス人と同じだとし、西側メディアは中国のテロ事件に対して白黒を混同するけれども、理性的な中国人は今回のテロに「いいね」とコメントするものはいないと指摘します。その上で王徳華は、言論の自由を提唱すると同時に、文明の多様性及び様々な信仰を尊重するべきだとして、言論の自由を含め、如何なる自由にも他者を傷つけてはならないという境界があると強調しています。彼の言う「境界」とは、私の限度・限界という問題意識と同じだと思います。
1月9日付の北京青年報は、「「特別なテロ事件」の血と痛み」と題する標題のもとで、吉林大学公共外交学院教授である孫興杰署名文章と浙江省党校教員である卜永光署名文章を掲載しています。孫興杰文章で特に印象に残るのは、「欧州の人々は、数百年に及ぶ宗教戦争を戦い、最終的に世俗化及び政教分離が平和の道であり、多元的な信仰及び平和共存にとって、寛容こそが選択の余地のない選択であることを学びとったではないか」と指摘している点です。
また卜永光文章は、王徳華と同じく「言論の自由における境界」の問題を取り上げています。卜永光は、清朝末期に翻訳家及び教育者として名を馳せた厳復が、「自由」という言葉について"群己 権界"という解釈を施したことを紹介し、この解釈は、「自由が、個人と集団及び集団と集団との間の権利の境界という問題にかかわることを適切に言い表している」と指摘します。そして、「言論が他の集団の信仰及び感情を傷つける場合、それはもはや自由の「権界」を超えており、したがって必要な制限を受けるべきだということではないだろうか」と問題提起するのです。
1月9日付の京華時報は、メディア評論家である徐立凡署名の「パリのテロがもたらした挑戦と啓示」と題する文章を掲載しています。徐立凡が強調するのは、今回のテロは文明間の衝突ということではなく、逆に異なる文明が互いに融合することの必要性だということです。つまり、テロ事件の発生を減らすために必要なのは、経済及び文化の融合を強め、それによってテロに対する抵抗力を強化することだというのです。そして徐立凡もまた、言論の自由の境界という問題を立ち入って考える必要があるという認識を表明しています。彼によれば、「言論の自由を保障するとともに、異質な文明の伝統文化習俗を尊重し、文化の違いに基づく隔たり及び理解の違いを縮めるということも深く考えるに値することだ」となるのです。

(2)SPEの映画『インタビュー』

まず、事実関係をごく簡単に整理します。SPEは当初、2014年12月に映画『インタビュー』の公開を予定していました。問題は、この映画が喜劇仕立てで金正恩を暗殺するというストーリーだったことです。それに対して「平和の守護者」を名乗るハッカーから、上映すれば9.11式の攻撃を映画館に対して行うという脅迫が届き、それに対してSPEはいったん試写会を取りやめました。これに対してオバマ大統領は、SPEの上映中止は誤りだとし、サイバー攻撃の出本は朝鮮であることが証明されたとして、朝鮮に対して「相応の対応措置」を取ると発言しました(12月19日)。最終的に、SPEは上映に踏み切りました。
朝鮮はアメリカ政府の動きに激しく反応しました。オバマの上記発言の翌日(12月20日)、朝鮮外務省スポークスマンは、具体的証拠も示さないまま、朝鮮の仕業だとするアメリカの主張を批判し、「米国側と今回の事件に対する共同調査を行うこと」を提起しました。また、映画に対する朝鮮の基本姿勢として、「我々は、我々の最高の尊厳を冒瀆しようとする不純分子らを絶対に放置しないが、報復する場合にも映画館の無辜の鑑賞者らを目標としたテロ攻撃ではなく、反共和国敵対行為に責任のある連中とその本拠地(21日に出された朝鮮国防委員会政策局声明は「ホワイトハウスとペンタゴン、テロの本拠地である米本土の全体」と明示)に対する正々堂々たる報復攻撃を加えることになるであろう」として、テロに訴えることはあり得ないと否定しました。
若干横道にそれますが、この事件に対する中露両国政府の対応も、ある意味興味深いものがありました。朝鮮のハッカー攻撃は中国経由だとするアメリカ政府は、朝鮮によるハッカー攻撃に対処するために中国の協力を要求しました。これに対して中国外交部の華春瑩報道官は12月22日の定例記者会見で、「一切のハッカー攻撃およびネットを通じたテロ行為に反対する」という原則論を述べた後、朝鮮の仕業だとするアメリカ政府の主張に対しては、「如何なる結論を出すに当たっても、十分な事実の裏付けが必要だ。中国は、事実に基づき、関連する国際法の原則と国内法に従って処理する」という婉曲的表現でアメリカの要求を退けました。
これに対してロシア外務省のルカシェヴィッチ報道官は12月25日の記者会見において、次のように踏み込んだ発言を行いました。

映画の狙いそのものが非常に攻撃的で恥ずべきものであり、北朝鮮側の反応は極めて理解できるものだ。平壌がSPEウェブサイトに対するサイバー攻撃に関与しているという非難をめぐって、アメリカとDPRKの緊張がエスカレートする可能性を懸念している。アメリカは、これらの行為が平壌によるものだとする如何なる直接的証拠も示していない。さらに注意を喚起したいのは、平壌は、緊張を緩和するチャンスにつながる共同調査の実施を提案していることだ。そのことは、本件を詳細に調査したいとする北朝鮮の誠意の証拠である。
アメリカによる報復の脅迫及び他国に対するDPRK非難呼びかけは、完全に非生産的であり、危険である。なぜならば、極めて複雑な朝鮮半島情勢をさらに複雑にし、紛争のエスカレーションを導く可能性があるからだ。そのようなことは、すべてのもの、特に地域の安全上の利益に100%背馳する。

中国とロシアのリアクションの違いは、現在の中米関係と米露関係のありようを反映しています。ウクライナ問題で冷え切っている米露関係のもと、活路の一つをアジア太平洋地域との関係強化に求めているロシアは、朝鮮との関係強化にも積極的です。したがって、SPEにかかわる事件に関しては、遠慮会釈なくアメリカを非難し、朝鮮を全面的に支援したというわけです。 これに対して、中朝関係が微妙な状況にあるもとで、米中新型大国関係の構築を目指す中国としては、今回の事件で米中関係をさらに複雑化するのは避けたいという思惑が働いていることは明らかです。
中国外交部の慎重な態度表明とは対照的に、12月20日付の環球時報社説「金正恩に対する悪ふざけ ハリウッドにはわきまえがない」は次のように批判しました。

SPEが「テロの脅迫に屈した」ことは、アメリカ国内に大きな議論を呼び起こし、アメリカの世論は「言論の自由を裏切るものだ」と批判した。文明世界はハッカーの攻撃やテロの脅迫には反対だが、我々としては同時に、この映画は実にくだらなく、アメリカに敵対する小国の指導者を笑いものにするということは、ハリウッド及びアメリカのメインストリームにとって決して自慢になることではないと言いたい。
アメリカ人は、自国の指導者を批判し、からかうことができるのだから、他の国家の指導者に対してもずけずけ物言いする権利があると思い込んでいる。しかし、これは強弁というものだ。ハリウッドはかつて中国を標的にすることもあったが、中国が日増しに強大になり、映画市場が大いに発展してくると、中国市場に参入するために中国に敬意を払うようになった。今日では、ハリウッドが意の向くままに悪し様に言うことができる相手は、イスラム過激派か、朝鮮、イランなどの少数の国々になってしまった。
ハリウッドは、すべての国々の人々が彼らと同じ「ユーモア」を解すべきだと要求するが、実際に監督たちが探しているのは扱いやすい対象だ。仮にハリウッド製の喜劇映画の暗殺対象がサウジアラビアまたはタイの国王であり、インドネシアまたはシンガポールの元首であるとすれば、これらの国々は間違いなく激しく抗議するだろうし、制作した監督をこっぴどくやっつける方法を探すだろう。ところが朝鮮はアメリカと隔絶しているから、ハリウッドとしては心置きなく羽目を外すのだ。
アメリカ社会が朝鮮及び金正恩をどのように見ているかとは関係なく、金正恩はれっきとした朝鮮という国家の現役の指導者である。ハリウッドの自制心を欠いた文化的な傲慢さが金正恩に対する悪ふざけを何とも思わせなくしているのだ。
アメリカ社会は、グローバルな文化的競争において絶対的な優位に立っており、だからこそある程度のわきまえというものがあるべきであって、委細構わず居丈高に振る舞うべきではない。アメリカのエリートは恋に迷った怒れる若者のように挑発するべきではないし、紳士的な態度言辞だけではなく、紳士的な矜恃と処世哲学を身につける必要がある。
もしも中国の映画史上がでっかくなかったならば、ひっきりなしにハリウッド映画の格好の獲物になっている可能性がある。西側世論では、中国がその経済的実力によってハリウッドの「創作の自由」に圧力をかけていると不満をこぼす向きもある。しかし、我々からすれば、中国はハリウッドの商売人たちに対しては「原則堅持」である必要がある。ハリウッドを相手に道理を説いても、彼らには理解できず、利害関係をはっきりさせる方がよほど効果があるのだ。これまでのところ、ハリウッドは中国に対してボトム・ラインを慎重に遵守している。今後も彼らにこのボトム・ラインを守らせる上では、誠意ある言葉・忠告だけに頼るわけにはいかないだろう。

この環球時報社説は、「言論の自由」は無制限なものではないということ、また、ハリウッド映画における「言論の自由」にも二重基準という問題があるということを指摘している点で、『シャルリ・エブド』紙襲撃事件に関する同紙の二つの社説の扱い方と共通しています。違いがあるとすれば、シャルリ・エブド事件に関しては、事態の深刻さに鑑み正面から論じようとする姿勢が顕著だったのに対して、SPE事件については、余りに映画そのものが低俗であり、またハリウッドの商業主義的本質が露骨すぎるので、環球時報社説は半ばふざけ気味に論じているということでしょうか。
あるいは、「極悪非道」の金正恩に対しては尊厳を云々する余地はない、したがって、「言論の自由」の限度・限界という問題として考えること自体に同意できない、という立場からの反論はあるでしょう。
アメリカにおいては、9.11を契機に対テロ戦争を始めたブッシュ大統領は、アルカイダを「邪悪」(evil)と規定しました。また、ビン・ラディンを殺害したオバマ大統領は、「我々は彼を裁いた」(We've brought him to justice)と公言しました。この言葉に接したとき、私は大きなショックを感じましたが、アメリカ人の発想からすれば、金正恩も「同じ穴の狢」という発想かもしれません。しかし、人間の尊厳は生を受けたすべての人間に備わっているわけですから、アメリカ人の人権感覚には危うさを感じるほかありません。
日本国内では、尊厳、人権を云々する以前の問題として、とにかく「北朝鮮はけしからん」という感情論が圧倒的に支配していますから、「言論の自由」の限度・限界という問題として位置づけ、考える土壌そのものがほとんど存在していません。そういう意味では、日本の事情はアメリカよりも深刻とも言えます。もう一つつけ加えるならば、日米両国に共通する問題として、天動説的国際観が朝鮮に対する差別的見方を生んでおり、朝鮮に対しては何をしても許されるという安易な姿勢を生んでいるという問題もあります。在特会のヘイト・スピーチの問題は正にこういう思想的土壌にあぐらをかいているところに真の問題があると思います。