第9条の人類史的意味:戦争を違法化するということ

2015.01.01.

*あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 年末に、かつて席を置いていた大学でお話ししたもののテープ起こしのチェックを依頼されました。年明け最初のコラムとしてふさわしいと思いますので、ここで紹介させていただきます。

私は学者でもなく、むしろ外交の実務をする体験の中から色々なことを考えるようになった人間です。したがって、9条の問題に至っては専門家でもなんでもありません。でもいろいろ考えることがあるということで、特に今日の日本の政治状況に至っては、まさか自分の目の黒いうちに世の中がここまで急速に悪くなるとは思ってもいませんでした。現在、私は72歳ですが、それでも長生きし過ぎたなと強く感じています。このような状況を見届けたくなかったというのが偽りのない実感です。しかし、何も出来るわけではありませんが、なんとかこの流れをチェックできないものかと毎日悶々と考えています。今回私がいただいたテーマである「第9条の人類史的意味」については、この数十年考えてきたことですが、特に最近は突っ込んで考えるようになりました。
私は日本における憲法論のあり方について、門外漢のくせに生意気だというお叱りを受ける覚悟で申し上げるのですが、ずっと飽きたらないものを感じ続けて来ました。特に私は、9条を含めた憲法を抽象的に考え、論じるのは、どうも違うのではないかという気がずっとしてきたのです。やはり、9条を含む日本国憲法については、人類史の中でその位置づけをしっかり行うべきだし、人類史の中で今後どういう意味を持つのか、もっと言えば、本当に捨てさってしまっていいのかということを考えなくてはいけないのではないかと思います。9条を含めた日本国憲法が、本当に人類史の流れの中で生命力がないものであるならば、それはどこかで消えなくてはいけない運命にあると思います。しかし、これからお話しするように、9条をふくめた日本国憲法は、21世紀の国際環境のもとでこれからますます輝きを持つと思います。さらに言えば、21世紀を超えて人類の歴史を導く役割を担うだけの思想的かつ実践的な中身を備えています。したがって、この憲法をなきものにしようという動きが、この日本において猖獗を極めようとしている状況は、とても理解し難いことだし、なんとしても食い止めなければいけないと思う気持ちは切なるものがあります。もしこの動きを食い止められなくて、この憲法が変えられてしまう、あるいは9条について解釈改憲が既成事実化してしまうようなことになってしまったならば、私たち日本人は、世界に対して、人類に対して、取り返しのつかない過ちを犯すことになるのです。なぜ私がここまで思いつめているのかということを理解していただくことが、本日私がお話しすることの目的です。

憲法の思想的源泉

まったくの私の個人的な理解ですが、日本国憲法の思想的源泉は、3つの要素から構成されていると考えます。一つは憲法の前文に言う「人類普遍の原理」という考え方です。
第二及び第三の要素は9条の思想的源泉を構成するものです。一つは大西洋憲章とポツダム宣言です。この点については、後で詳しく説明します。
\ もう一つは、国家観の革命的な転換ということです。旧来の国家というものは戦争する、戦争するから軍隊を持つということは、あたり前だったわけです。軍隊のない、戦争しない国家というのは歴史的にありえなかったのです。それをやってのけた9条は、それほどに人類史的な意味を持っているのです。この革命的国家観のもと元になったのがマッカーサー三原則の第二原則であり、広島及び長崎に対する原爆投下です。この点についても、改めて詳しくお話しします。
私の個人的な思想的遍歴を経た上での到達点としての見方を申し上げますと、人類の歴史とは、人間として生を受けたすべてのものの尊厳をあまねく実現することを目ざして歩み続ける歴史です。そして、すべての物事についてそれが正しいか間違っているかを判断するモノサシが、普遍的価値として確立した人間の尊厳なのです。
以上の私の理解を「平和」に即して説明しますと、次のようになります。平和という概念については、実に様々な理解、定義づけが行われてきました。しかし、私流に分類すると、「力による平和」と「力によらない平和」という二つの考え方に大別することができます。「力による平和」という考え方の典型は、安倍首相が唱える積極平和主義です。これに対して、「力によらない平和」という考え方を代表するのは、カント、ガンジー、マンデラなどの思想の系譜です。そして18世紀以来、力による平和観と力によらない平和観がお互いに鎬(しのぎ)を削りあって今日に至っています。
しかし、人間の尊厳という普遍的価値をモノサシとして当てはめてみますと、力による平和観というものは成り立ち得ないことが直ちに分かります。なぜなら、力とは暴力そのものです。暴力は人間の尊厳をあやめずには済みません。それに対して、力によらない平和観と人間の尊厳との間には、非常に親和性があると言えます。
このことから、人類史というのは、人間の尊厳の実現を目指す歴史と理解できますし、平和観に即して言えば、力による平和観から力によらない平和観に移行する歴史であると捉えることができます。したがって、9条というのは人類史的に意味を持つということが理解できるのです。
以下におきましては、21世紀の国際環境において、日本国憲法は生命力がほんとうにあるのかということを検討したいと思います。もし人類史の歩みが、日本国憲法の考えを否定する方向に向かっているのであれば、何をか言わんやということになります。しかし、21世紀の国際環境は、ますます日本国憲法の前文及び9条を支持する方向に向かって歩みを進めているといえます。このことを確認するとき、私たちはまなじりを決して、安倍首相以下の改憲派による改憲策動に対して異議申立てをしていかなければならないことになるのです。

日本国憲法前文及び9条

最初に、お話を進める上で必要ですので、日本国憲法の前文及び9条とその英訳とを紹介させていただきます。

(前文)
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

We, the Japanese people, acting through our duly elected representatives in the National Diet, determined that we shall secure for ourselves and our posterity the fruits of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land, and resolved that never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government, do proclaim that sovereign power resides with the people and do firmly establish this Constitution.
Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people. This is a universal principle of mankind upon which this Constitution is founded. We reject and revoke all constitutions, laws, ordinances, and rescripts in conflict herewith.
We, the Japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world. We desire to occupy an honored place in an international society striving for the preservation of peace, and the banishment of tyranny and slavery, oppression and intolerance for all time from the earth. We recognize that all peoples of the world have the right to live in peace, free from fear and want. We believe that no nation is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.
We, the Japanese people, pledge our national honor to accomplish these high ideals and purposes with all our resources.

(9条)
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
 (2) In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.

なぜ日本語だけではなく、英文をも紹介したかと言いますと、日本国憲法の前文と9条を日本語だけで見ていると、重大な点で理解を間違えると思うからです。
前文に関して言いますと、日本語の「国民」に対応する英語はthe peopleです。同じように、「権力」に対応するのはthe authority、「国政」に対応するのはgovernmentです。英語のthe peopleは、もちろん「国民」という意味も含みますが、本来的にはより広義の「人民」を意味する言葉です。the authorityにしても、governmentにしても、日本語の「権力」「国政」が意味する内容よりもはるかに広い含意があります。
9条では、日本語の「国権」に対応する英語はsovereign right of the nation、「国権の発動たる」に対応するのはas a sovereign right of the nationです。「国権」というと、いかにも「国家の権利」というニュアンスになりますが、英語としての本来的な意味としては、「集合体としての人民の主権的権利」とすべきところです。また、「国権の発動たる」というと、いかにも伝統的な「国家の権利としての」という意味合いになりますが、英語本来の意味としては「集合体としての人民の主権的権利である」と理解するべきものです。
もちろん正文は日本語ですが、本来の英語の原文がありますから、日本語で表現されたことの本来の趣旨はどういうことかということを理解することができるのです。詳しくは、改めてお話しします。

そこでまず、憲法前文についてですが、冒頭に

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」

とあります。これが前文の第一の柱です。この部分は、議会制民主政と人権の確立を謳い、同時に、今や主権者となった私たち人民が、過去において日本が軍国主義の戦争を行ったという反省に立ち、それを二度と繰り返さないという決意を表明しています。

次に

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」

とあります。これが前文の第二の柱です。この部分は、リンカーンの有名な「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉を想起させるものですが、これを「人類普遍の原理」と宣言しているのです。そして、この原理に反する明治憲法体系を根本的に否定したのです。

その後、ちょっと長い文章が続きます。この部分が前文の第三の柱です。即ち、

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」

この部分は国際関係に関することです。国際社会の中において、日本は如何なる位置を占めるべきか、また、そのためにどのように行動するべきかを指し示しています。

次に、前文の中身に即してお話しします。
前文の第二の柱に当たる部分の冒頭で、「国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて」云々と記しています。この「国政」という文言に相当する英語は、先ほど指摘しましたように、英語ではgovernmentです。つまり、国政ではなく、統治という意味です。「国政」という日本語としての言葉からは「国の政(まつりごと)」という趣旨の固定観念が連想されてしまうのですが、そういう意味ではないのです。それから、至るところで「国民」という文言がありますが、それに対応する英語はpeopleです。決して「国の民」、「国家に縛られた民」ではありません。「人びと」なのです。
「国政」、「国家」などについても、英語でどのように表現しているのかを注意して下さい。なぜ、このようなことをいうのかというと、私たち日本人は「国家」、「国」というと「お上」、即ち私たちの上に位置する存在という伝統的な観念に支配されているからです。
この点に関しては、憲法の人権条項で使われている「公共の福祉」について考えると、いっそう理解が深まると思います。
と言いますのは、「公共」という言葉の意味を私たちが受けとめるに際して、「公」が大きくのしかかってきます。つまり、私たちの手の離れたところにあって、私たちを支配する、より大きな存在、端的に言えば「お上」と考えてしまいます。しかし、「公共の福祉」という言葉に相当する英語はpublic welfareです。publicというのは、ひとりひとりの人間が集まって、ひとつの集合体をなすという意味です。決してその人達の上に何かがあるという意味ではありません。まさにamong themselves, among ourselvesということです。この点を理解せずに、「公共の福祉」というだけで私たちの固定観念装置を働かせてしまうと、とんでもないことになります。有事法制が作られたときの国会審議の場において、政府は、「公共の福祉」とは「国益」を意味するというとんでもない発言を行いましたが、そういう発言がまかり通るのは、「公共」の「公」に関する私たちの固定観念が働いてしまうからなのです。
また、9条では、「国権の発動たる戦争」を放棄すると定めています。その「国権」とは、英語ではa sovereign right of the nationです。これを「国権」と訳すのはとんでもない誤りです。「国権」とは「国家の権力・権利」ということです。しかし、英語での主語は「国家」ではなくてthe nationです。ここで言うnationというのは、stateという意味ではなく、「人民の集合体」という意味です。ですから、「人民集合体」のa sovereign right、主権的権利ということですから、国家が戦争する権利ではなく、要するに私たち人民の集まりが持っている主権的権利として、戦争するかどうかということを決めるということなのです。

人類普遍の原理

すでにお話ししたように、憲法前文は、この憲法が「人類普遍の原理」に基づくものであると宣言しています。その人類普遍の原理とは何であるか、その中身が何であるかを理解する上では、アメリカの占領当局者で憲法案文の起草に当たった人々の念頭にあったアメリカ独立宣言が非常に参考になります。
人類普遍の原理の根幹をなすものは、人間の尊厳です。それを独立宣言は、「全ての人間は生まれながらにして平等である」と謳っています。なぜ平等なのか。それは人間一人一人が固有の尊厳を備えていて、その尊厳において、あらゆる人間がその性別であろうが人種であろうが何であろうが、いかなる違いにかかわらず対等平等な存在であるからです。「全ての人間は生まれながらにして平等である」という独立宣言の言葉を今日的な言葉で言い表せば「人間の尊厳」といえましょう。
これは、決して私自身の勝手な思い込みではありません。
私が自分自身の思想を鍛える上で、一番多くを学んだのが丸山眞男です。丸山は、「人間は人間として生まれたことに価値があり、どんなにいやしくても、同じ人は二人とない、こうした個性の究極的価値」という表現で「人間の尊厳」の本質を見事に捉えています。人間ひとりひとりが個性を持っているというところにこの社会の発展の原動力があります。同じ人間ばかりであったら、人間社会の進歩などありえないのです。人類史が発展するのはなぜかと言えば、60数億人のすべての人間がひとりひとり違う、ひとりひとりが固有の尊厳を持っているからこそなのです。2人として同じ人がいないというところに、まさに人類史の発展もあるし、人類史の歴史的進歩も生まれます。尊厳なくして進歩なしです。そもそも人類の歴史がありえないわけです。丸山はそういうことを指摘しています。
人間の尊厳の実現を確かなものにするための手段として位置づけられるのが、基本的人権です。アメリカの独立宣言は、「生命、自由及び幸福の追求を含む不可侵の権利」を掲げています。人間の尊厳を実現し、全うするためにひとりひとりの人間、個人が生まれながらに持つ自然権、それが基本的人権です。基本的人権というのは、優れて権力の横暴から個人の尊厳を守るために不可欠なのです。人間の尊厳を根底に置かなければ、基本的人権の位置づけはできません。
しかし、「人間の尊厳=基本的人権」というわけではありません。人間の尊厳は絶対に他者が奪うべからざるものです。人間ひとりひとりに備わった固有の尊厳が奪われてしまったならば、その人間は人間として存在する意味を失ってしまうのです。
しかし、基本的人権は、まさに憲法12条、13条が定めているように、「公共の福祉」によって制限されることがあります。つまり、基本的人権は自己の尊厳を実現するために行使すべき権利です。しかし、自分の権利を主張するあまり、他者の尊厳を傷つけるということがあってはいけないのです。その限界として設けられたのが「公共の福祉」、即ちpublic welfareです。したがって、基本的人権が人間の尊厳と非常に親和性が高いことは間違いありませんが、「人間の尊厳=基本的人権」ということではありません。人間の尊厳は、基本的人権の根源に在るものなのです。
先ほど、日本語として混乱を招きやすい言葉として挙げた「公共の福祉」について、もう少しお話ししておきます。憲法12条等にいう「公共の福祉」に相当する英語はpublic welfareで、欧米圏では意味内容が確立した法概念です。ところが日本国憲法はその日本語を、「公共の福祉」としてしまいました。その結果、すでにお話ししたように、「公」(「お上」、国家)のためには基本的人権を制限できるかの如き受けとめ方が行われることになってしまっています。
しかし、アメリカの独立宣言は、「こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治されるものの合意に基づいて、正当な権力を得る」と述べています。つまり、基本的人権を確保するために、政府を作るのであり、政府があって、そのもとに人間があるのではないのです。基本的人権を実現する、もっと言えば人間の尊厳を実現するための仕組みとして政府を作ったのです。もちろん、歴史的沿革的には、政府のほうが先に存在し、基本的人権、人間の尊厳が後から生まれてきていますが、人間の尊厳が普遍的価値として確立した後は、人間と政府との関係は、独立宣言が位置づけた関係にならなければなりません。
アメリカ独立宣言の素晴らしいところは、「いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったときには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有する...権力の乱用と権利の侵害が、常に同じ目標に 向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らかであるときには、そのような政府を捨て去り、自らの将来の安全のために新たな保障の組織を作ることが、人民の権利であり義務である」と記している点です。権力を乱用し、人民を支配しようとする政府を変えることは、人民にとっては、権利であるだけではなく、義務なのです。
ひるがえって、今の日本を見渡すと、安倍政権は呆れるほどやりたい放題です。それに対して、私たちは如何にその言いなりになっていることでしょう。独立宣言の、この激しいまでの人民の権利(革命権)をしっかりと認識し、我がものにしなければ、私たちは真の主権者たることはできないのです。
日本国憲法前文にいう「人類普遍の原理」の中身は、アメリカ独立宣言の該当箇所を見れば、私たち人民には意に反する政府はひっくり返す権利があるとまで書いてあるのです。私たちは、この点をしっかりと理解しなければいけないのです。

大西洋憲章とポツダム宣言―9条の思想的源泉―

憲法前文の第三の柱である、国際関係に関する部分の根拠となっているのは、大西洋憲章とポツダム宣言です。大西洋憲章は第二次大戦を戦うに当たっての米英両国の目的を述べた総論、ポツダム宣言は、日本に降伏を要求するに当たって、大西洋憲章に基づいて日本に対する降伏の条件を具体化したものと、とりあえず理解して下さい。
大西洋憲章は、ルーズベルトとチャーチルという権力政治、つまりpower politicsの権化が作ったのですが、その中身は、脱権力政治を志向するものであるというところが重要です。つまり、枢軸国、独裁国家と戦うに当たって、脱権力政治の理念を掲げる必要に迫られたということです。人類史の歩みは権力政治から脱権力政治に向かっているという認識がなかったならば、ルーズベルトもチャーチルも書かなかっただろうと思います。それを書かざるを得なかったというところに、人類史の流れが見出せます。 大西洋憲章は、次の項目からなっています。特にその第8項は、9条の思想的源泉として重要ですので、全文も紹介しておきます。

1.領土拡大意図の否定 2.領土変更における関係国の人民の意思の尊重 3.政府形態を選択する人民の権利 4.自由貿易の拡大 5.経済協力の発展 6.恐怖と欠乏からの自由の必要性(労働基準、経済的向上及び社会保障の確保) 7.航海の自由の必要性 8.一般的安全保障のための仕組みの必要性(「兩國八世界ノ一切ノ國民ハ實在論的理由ニ依ルト精神的理由ニ依ルトヲ問ハス強力ノ使用ヲ抛棄スルニ至ルコトヲ要スト信ス。陸、海又ハ空ノ軍備カ自國國境外 ヘノ侵略ノ脅威ヲ與エ又ハ與ウルコトアルヘキ國ニ依リ引續キ使用セラルルトキハ將來ノ平和ハ維持セラルルコトヲ得サルカ故ニ、兩國ハ一層廣汎ニシテ永久的 ナル一般的安全保障制度ノ確立ニ至ル迄ハ斯ル國ノ武裝解除ハ不可缺ノモノナリト信ス。兩國ハ又平和ヲ愛好スル國民ノ爲ニ壓倒的軍備負擔ヲ輕減スヘキ他ノ一 切ノ實行可能ノ措置ヲ援助シ及助長スヘシ。」)

  ポツダム宣言の全文は次のとおりです。

1. 吾等合衆國大統領、中華民國政府主席及グレート、ブリテン國總理大臣ハ吾等ノ數億ノ國民ヲ代表シ協議ノ上日本國ニ對シ今次ノ戰爭ヲ終結スルノ機會ヲ與フルコトニ意見一致セリ
2. 合衆國、英帝國及中華民國ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自國ノ陸軍及空軍ニ依ル數倍ノ増強ヲ受ケ日本國ニ對シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ 右軍事力ハ日本國ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同國ニ對シ戰爭ヲ遂行スル一切ノ聯合國ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
3. 蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ對スルドイツ國ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本國國民ニ對スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ 現在日本國ニ對シ集結シツツアル力ハ抵抗スルナチスニ對シ適用セラレタル場合ニ於テ全ドイツ國人民ノ土地産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廢ニ歸セシメタル力ニ比シ測リ知レザル程度ニ強大ナルモノナリ 吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本國軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本國本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ
4. 無分別ナル打算ニ依リ日本帝國ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍國主義的助言者ニ依リ日本國ガ引續キ統御セラルベキカ又ハ理性ノ經路ヲ日本國ガ履ムベキカヲ日本國ガ決定スベキ時期ハ到來セリ
5. 吾等ノ條件ハ左ノ如シ
 吾等ハ右條件ヨリ離脱スルコトナカルベシ 右ニ代ル條件存在セズ 吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ
6. 吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ
7. 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本國ノ戰爭遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確證アルニ至ル迄ハ聯合國ノ指定スベキ日本國領域内ノ諸地點ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ
8. カイロ宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
9. 日本國軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復歸シ平和的且生産的ノ生活ヲ營ムノ機會ヲ得シメラルベシ
10. 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意圖ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ
11. 日本國ハ其ノ經濟ヲ支持シ且公正ナル實物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ 但シ日本國ヲシテ戰爭ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ 右目的ノ爲原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ區別ス)ヲ許可サルベシ 日本國ハ將來世界貿易関係ヘノ參加ヲ許サルベシ
12. 前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ從ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ
13. 吾等ハ日本國政府ガ直ニ全日本國軍隊ノ無條件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適當且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ對シ要求ス右以外ノ日本國ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス

9条の思想的源泉として、大西洋憲章の第8項と、ポツダム宣言の第6項、第7項、第9項が重要です。
ポツダム宣言については、今日の日本ではほとんど顧みられなくなっています。特に改憲派の人々はことさらにポツダム宣言を無視します。なぜかというと、ポツダム宣言の存在は彼らにとって都合が悪いからです。
しかし、昭和天皇の終戦詔書では、「朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対しその共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」と明確に述べています。また、日本の敗戦を法的に確定した降伏文書では、このポツダム宣言の諸条項を誠実に履行することを、「天皇、日本国政府のために約束する」と規定しています。
ところがあろうことか、安倍政権のなかには、ポツダム宣言は政治的文章であって、法的な拘束力はないなどと言う人たちもいます。日本の外務省のなかでも、そのようなことを言う人たちが出てきていることを聞き及び、私は腰を抜かして驚きました。
百歩譲って仮に、ポツダム宣言自体は政治的文書であることを認めるとしても、昭和天皇の終戦詔書及び降伏文書を通じて法的に受託し、誠実に履行することを法的に約束したことにより、日本はポツダム宣言を法的に受け入れたのです。ポツダム宣言には拘束されないなどとする主張は、国際的に通用しえない代物です。
ポツダム宣言を、日本の政治を動かす人たちがないがしろにするようになった背景には、アメリカの対日政策の大転換という事情がありました。ポツダム宣言を作ったのは、アメリカ・イギリス・中国の三首脳、即ちルーズベルト、チャーチル、蒋介石であり、その後にソ連のスターリンが加わりました。ところが、アメリカのルーズベルト大統領が急逝し、そのあとを継いだトルーマンは徹底した反ソ反共の人物でした。
また、アメリカは当初、アジアにおいては蒋介石の中国と手を組んで政策を進める予定であり、日本については徹底した非軍事化によって無害化する方針だったのです。ところが、中国大陸では、国共内戦で中国共産党が勝利し、1949年に中華人民共和国が成立しました。その結果、アメリカは、反ソ反共のアジア政策の砦として日本を重視せざるを得なくなったのです。そうなると、ポツダム宣言にしたがって日本を非軍事化させることは不都合になったのです。そこでアメリカは、独立と引き換えに日米安保条約を結んでアメリカの言うとおりになるように対日政策を大転換しました。こうして、ポツダム宣言は片隅に追いやられ、時とともに無視されるようになっていったのです。
しかし、ポツダム宣言を作ったのはアメリカとイギリスと中国、後に加わったソ連です。イギリスは別にして、中国とソ連、その後継者であるロシアは、アメリカの対日政策の転換に同調したわけではありません。アメリカが、ポツダム宣言を無視して日本に押しつけたサンフランシスコ平和条約にも、中国とソ連は加わっていません。したがって、中国とソ連(ロシア)は、サンフランシスコ条約に拘束されないのです。今日においても、中露両国と日本との関係を規律する法的根拠は、引き続きポツダム宣言です。中国が安倍政権を厳しく批判し、警戒を強めているのも、安倍政権がポツダム宣言と背馳する憲法改正を強行し、再び軍事大国を実現しようとしていることに、一つの大きな原因があります。

ちなみに、日本のいわゆる領土問題を考える上でも、ポツダム宣言を忘れるわけにはいきません。ポツダム宣言第8項は、いわゆる尖閣諸島を含む日本の領土に関する規定です。日本の領土とされたのは、本州、北海道、四国、九州の四つだけであり、他の島嶼の帰属に関しては連合国、即ち米英中ソが決定する旨を記しています。したがって、日本が尖閣その他を固有の領土と主張することには意味がないのです。ポツダム宣言は、領土問題を考えるときにも無視できないことを念頭に入れておいて下さい。

マッカーサー三原則

9条の意味内容を正確に理解する上では、マッカーサー三原則、特にその第二原則を忘れることはできません。マッカーサー三原則の内容は次のとおりです。

1.天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
2.国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
3.日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。

9条の9条たる所以は、戦争をせず、軍隊を持たない革命的国家観を実現することにあることはすでに述べました。その根拠となったのは、マッカーサー三原則と、それに先立つ広島及び長崎に対する原爆投下です。
マッカーサー三原則というのは、日本国憲法作成時に、マッカーサーが新しい憲法の中に盛り込むべき原則として指示したものです。その第2原則に、「国権の発動たる戦争は廃止する」として、紛争解決のための手段としての戦争だけではなく、「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する」と記しているのです。
9条においては、「紛争解決のための手段」としての戦争は放棄するとしましたが、「自己の安全を保持するための手段としての戦争」、つまり今日的な表現で言えば、自衛権の行使の部分については規定していません。このマッカーサー第二原則と9条との間の違いに着目したのが内閣法制局だったと思われます。
つまり、アメリカが対日政策を大転換して、日本の再軍備を要求した際、ポツダム宣言とアメリカの対日要求の間の矛盾を乗り越えるため、法制局は、9条は自衛権行使を排除していないという、今日につながる政府の憲法解釈をつくり出したと思われます。マッカーサー第2原則がそのまま9条に反映されていたら、そのような解釈も生まれる余地はなかったのです。

広島及び長崎に対する原爆投下

広島及び長崎に対する原爆投下が9条の思想的源泉であるというのは、私の勝手な思い込みではなく、明確な根拠があります。
丸山眞男は、9条の思想的源泉として、広島及び長崎に対する原爆投下が私たちの戦争観を大きく変えることになったことを繰り返し述べています。その丸山は、1965年の「憲法第九条をめぐる若干の考察」という文章の中で、昭和21年3月に、幣原喜重郎首相(当時)が行った発言を次のように紹介しています。少し長いのですが、重要な指摘ですので、そのまま紹介します。

「たとえば、昭和二十年十一月二十四日の官制で「戦争調査会」が設置され、その第一回の総会が翌年の三月二十七日に開かれました。‥幣原さんは首相としてこの調査会の総裁になっていたわけでありますが、こういう挨拶をされた。「先般政府の発表いたしましたる憲法改正草案の第九におきまして」といって、後の第九条になった趣旨を読み上げ、「斯(かく)の如き憲法の規定は、現在世界各国何れの憲法にもその例を見ないのでありまして、今尚(なお)原子爆弾その他強力なる武器に関する研究が依然続行せられておる今日において、戦争を放棄するということは、夢の理想であると考える人があるかもしれませぬ。併し、将来学術の進歩発達によりまして、原子爆弾の幾十倍、幾百倍にも当る、破壊的新兵器の発見せられないことを何人が保障することができましょう。若し左様なものが発見せられましたる暁におきましては、何百万の軍隊も、何千隻の艦艇も、何万の飛行機も、全然威力を失って、短時間に交戦国の大小都市は悉(ことごと)く灰燼に帰し、数百万の住民は一朝皆殺しになることも想像せられます。今日われわれは戦争放棄の宣言を掲ぐる大旆を翳(かざ)して、国際政局の広漠たる野原を単独に進み行くのでありますけれども、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚し、結局私共と同じ旗を翳して、遙か後方に踵(つ)いて来る時代が現れるでありましょう」と、こう言っているわけです。‥ここに現われている思想は、すくなくも敗戦に虚脱状態になった意識、あるいは、戦争の惨禍の直接的な実感、から出た第九条の無抵抗な受容でもなければ、また、のちの吉田首相の著名な国会答弁に現われた考え方―自衛戦争ということも、過去の経験では侵略戦争の口実に使われることが多いから、むしろ自衛戦争も含めて一切の戦争を放棄した方がよいという考え方ーでもありません。‥幣原さんの右の思想は、熱核兵器時代における第九条の新しい意味を予見し、むしろ国際社会におけるヴァンガードの使命を日本に託したものであります。」

繰り返しますが、人間の尊厳は、力による平和、暴力による平和とは両立し得ないのです。私たちが、本当に平和という言葉を口にするならば、それは人間の尊厳というものを実現する平和か否かという基準で考えなくてはなりません。
ちなみに、この人間の尊厳という判断基準・モノサシはとても応用範囲が広いものです。たとえば、世界経済を席巻している、無敵の観のある新自由主義ですが、新自由主義が奉じるのは、要するにお金、利潤、市場です。これらの要素に共通する本質は、人間の尊厳とはまったく相容れないというところにあります。したがって、人間の尊厳というモノサシに基づけば、新自由主義が支配する今日の経済のあり方は根本的に改めなければならないという結論が導かれるのです。

結びに代えて

最後に21世紀の国際環境のもとでの日本国憲法の今日的意義について、繰り返しになりますが、お話しして結びに代えたいと思います。日本国憲法の画期的意義は、人類史の到達点を示すとともに、21世紀の国際社会の進路を指し示す先駆性にあります。人類史の到達点という意味は、国際連盟規約、不戦条約、国連憲章の戦争違法化の流れをさらに進めて、人類史上初となる力によらない平和観を法制化したということです。また、その先駆性は、憲法前文において、権力政治から脱権力政治への転換、国際政治の民主化、国際経済の民主化、文化的多様性の積極的承認などをすべて指し示している点です。
21世紀のメルクマールはなにかというと、まずは普遍的価値の世界規模の確立が挙げられます。これは異論のないことでしょう。次に、国際的相互依存の不可逆的進行があります。この点についても、自民党政治や日本の財界でも認めざるを得ない事実です。第三に、人類の生存そのものを脅かす地球規模の諸問題があります。この点についても、誰もが認めることでしょう。この三つのメルクマールを踏まえれば、もはや力による平和観に基づく権力政治は歴史の屑箱に放り込むべきことが分かるはずです。力によらない平和観を体現する日本国憲法こそが、21世紀にふさわしい憲法であるということが理解されるはずです。
しかし、中央政府なき国際社会という国際社会の構造は、21世紀のうちに変化することはないと思います。22世紀を迎えるまで90年近くありますが、世界の諸大国が自らの主権を世界的な中央政府に譲り渡すというようなコペルニクス的な思想転回を遂げることを可能にするような材料が見当たりません。
だからといって、それが必ずしも悪いというわけではありません。なぜなら、この地球を単一の世界中央政府が一つに束ねることは、ものすごく難しいことだからです。中国が13億の民を一つに束ねることに如何に苦労しているかということを考えれば、もっと貧富の格差の激しい、文化的多様性に満ち溢れているこの地球をいきなり一つの統治体にまとめることが、果たして現実的な選択なのか、意味のある選択なのかということを考える必要があります。
いずれせよ、9条を含む日本国憲法は、決して日本だけの憲法ではなく、おそらく今後、他の国ぐにの間で、そういえば日本国憲法というものがあったな、あれはすごい内容を持っているな、というように、次第に自分たちの憲法を見直す際の大きな参考材料になっていくと思います。それほどまでに私たちの憲法は、国際的にも誇りうる憲法なのです。この誇るべき憲法を、私たちの時代に私たち自身が失くしてしまったら、人類社会に対して申し開きの立たない致命的な誤りを犯すことになるのです。