衆議院総選挙の結果をどう見るか

2014.12.23.

*ある雑誌の誘いで書いたものです。生意気のようですが、今回の総選挙の結果の意味することについて皮相的なコメントばかりを目にしますので、私なりにその本質的な意味合いについてまとめました。雑誌の発行はまだ先だと思いますし、このサイトを訪れてくださる方と雑誌の読者は重複しないと思うので、紹介することとしました。12月15日付のコラムをさらに私なりに深めたものという位置づけです。

 今回の総選挙の結果は、日本政治が抱え込んでいる深刻な問題点と、それにもかかわらず日本政治を打開し、切りひらいていくための手がかりとを提供するものだったと、私は受けとめている。

1.日本政治の問題点

 今回の総選挙結果が示している日本政治の問題点は、私の問題意識に占める深刻度の重さにしたがって示せば、①史上最低の投票率、②沖縄と本土(沖縄以外の地域)との間の深淵、③国際的歴史的鈍感、④選挙の私物化、⑤小選挙区制、⑥憲法「改正」への接近、という項目にまとめることができる。

<史上最低の投票率>
  今回、史上最低の投票率であったことに対しては、安倍政治に対する不満はあるが、投票してもどうせ政治は変わらないという諦めの反映という見方が一般的だ。つまり、2009年の総選挙の際、多くの人が政治の変化を期待して「政権交代」を訴えた民主党に投票したが、民主党政権でも何も変わらないことを思い知らされた。したがって、今回は、自民党に投票するのはいやだが、さりとて投票しても何も変わらないので投票に行かなかった人が大勢いるという見立てだ。表面的にはそのとおりだろう。
しかし私に言わせれば、こういう棄権行動そのものが私たち日本人に通底する深刻な病理の表出にほかならない。そのことを自覚しない限り、日本政治はいつまでたっても堂々めぐりを続けるだけだと思う。では、日本人の深刻な病理とは何か。
一つは民主政を成り立たせる大前提である主権者意識の欠落だ。主権者意識とは、私流の表現で言えば、自らの責任において意思決定を行う能力を備える個人が、自らが一員である日本という国家の政治のあり方を決定する権利と責任を持つという自覚を指す。しかし、戦後70年を迎えようとする今も、私たち日本人の圧倒的多数はかかる能力と自覚のいずれをも我がものにしていない。それが史上最低の投票率として端的に表されたのだ。
以上と密接に結びついている今一つの問題は日本人の「現実」感覚だ。丸山眞男の指摘に従えば、多くの日本人にとっての「現実」とは、一次元的であり、所与であり、優れて権力が規定するものである。つまり、現実とは「可能性の束」として捉えるべきであるのに、私たちは「今ある現実は変えられない」という諦めが先立ってしまう。丸山は「既成事実への屈伏」と言ったが、今回の史上最低の投票率は正にその結果にほかならない。

<沖縄と本土との間の深淵>
  本土では自公合わせると前回並みの圧勝という結果だった。ところが、沖縄の4つの選挙区では「オール沖縄」でまとまった候補者が完勝した。1区は共産党、2区は社民党、3区は生活の党そして4区は無所属(もともとはばりばりの自民党を代表する人物)と、正に反自民での結集が見事に奏功した。その沖縄は、すでに直近の県知事選・那覇市長選においても「オール沖縄」で勝利している。
  「オール沖縄」を可能にしたのは、戦後70年近くにわたって続いてきた本土による米軍基地の沖縄への押しつけに対する反対だった。米軍基地問題は本土でまったく争点にもならなかったが、沖縄は、そうした本土側の無関心(その根底にあるのは対沖縄差別)に対して明確な「ノー」を突きつけたのだ。それが根本において意味することは、沖縄の犠牲にあぐらをかいてきた本土の戦後政治のあり方に対する根本的な異議申し立てだ。
私たちは、その異議申し立てが戦後保守政治に対してだけではなく、沖縄の痛みを自分自身の痛みとして捉える感性(他者感覚)を持ち得ない本土のすべてのものに対して向けられていることを認識することが厳しく問われている。

<国際的歴史的鈍感>
  衆議院選の結果に対する中国及び南北朝鮮を筆頭とする国際社会の関心と反応は極めて高い。今回の選挙結果は、安倍政権のもとでの日本政治の右傾化に対する警戒感をますます高めている。
ところが、「アメリカ=国際社会」という天動説的国際観(これ自体がきわめて異常である)が圧倒的に支配的な日本社会では、こうした警戒感がよってくる原因を真摯に反省する機運はほぼゼロだ。それどころではない。「嫌中」「嫌韓」「嫌朝」に犯された日本社会では、自公政治に反対するものの間においてすら、このような警戒感の存在自体がこれらの国々に対する嫌悪感を増幅している。
明2015年は様々な意味での70周年だ。第二次大戦終結70周年は、反ファシズム戦争勝利70周年、中国の抗日戦争勝利70周年、朝鮮解放70周年でもあるし、国連成立70周年でもある。歴史的なけじめの年だ。しかし、過去の50周年、60周年の時と比較して、70周年に対する国際的関心は格段に高い。その原因は優れて日本がつくり出している。
つまり、2005年、1995年等々のいずれの年においても、日本政治の右傾化はまだ顕在化していなかった。日本政治の右傾化は、第二次大戦終結なかんずくポツダム宣言に基づく戦後東アジアの国際秩序をくつがえすことを目的とする動きと国際的に認識されている。だからこそ、日本の右傾化を厳しくチェックしなければとんでもない事態になりかねないという危機感が、70周年を重視する国際的な動きとなっているのだ。今回の選挙結果は、国際社会が懸念と警戒を深めていることをまったく受けとめようとしない、日本人の自己中心的な歴史的鈍感・健忘症を如実に物語るものだ。
ちなみに、天動説的国際観に基づく国際的鈍感、自己中心主義に基づく歴史的鈍感はともに他者感覚の欠落に由来するものである。

<選挙の私物化>
  過去においても、首相が解散権を持つ衆議院総選挙はその時々の党利党略によって行われてきた。しかし、今回の安倍首相が強行した解散ほど、首相個人による私物化の露骨な例を私は思い出すことができない。自民党の中からすら反対の声が公然と吹き出すほどの異常さだった。
  安倍首相の憲法軽視については、集団的自衛権行使に関する閣議決定において露骨に示され、これについては大きな批判が起こった。私は、今回の衆議院解散強行という安倍首相の行動は、解散権の濫用以上の私物化として、ある意味において集団的自衛権行使の閣議決定上に重大な問題を内包していると考える。
  ヒトラーは、ワイマール憲法を手段として利用し、権力を掌握した。安倍首相の今回の行動は、スケールにおいてヒトラーに遠く及ばないとしても、「権力掌握のためには手段を選ばない」という本質において変わるところがない。両者に共通するのは、立憲政治において最低限必要とされる政治的モラルが欠落していることだ。そのような危険性を自覚しえない私たち日本人は、ナチスの台頭を許してしまった当時のドイツ人と変わるところはない。

<小選挙区制>
  安倍首相が解散権を私物化することができたのは小選挙区制と密接な関係がある。つとに広く指摘されているように、小選挙区制の導入によって党直轄の候補者選定プロセスが強まり、選出議員の「金太郎飴」化が進行する(このこと自体は自民党だけに限ったことではないが)。
  中選挙区制の時代には、自民党では派閥政治が基調だった。派閥政治に様々な弊害があることはともかく、党内における多様な主張の存在を可能にし、そのことが首相の独断専行をチェックする機能を営む役割を果たしていたことは否めない。
  ところが、小選挙区制導入以後は派閥政治の力学が急速に弱まり、議員の「金太郎飴」化とあいまって、権力の集中が進むことになった。そのことが安倍首相の解散権の私物化を可能にしたし、ひいては議会制民主政の内からの瓦解を亢進させている。
  小選挙区制に関しては、他にも様々な本質的問題があり、その点についてはつとに指摘があることなので、ここでは触れない(今回でいえば、小選挙区での自民党の得票率が全体の半分以下の48.1%であったのに、議席占有率はほぼ全体の3/4の75.25%だったことはその一例だ)。
  しかし、以上に指摘したような病理を抱える日本においては、小選挙区制がまともに機能することは、日本人一人ひとりが個人として行動する能力を我がものにするという大前提条件が充たされでもしない限り、ほぼ絶望的である。今回の選挙結果は改めて小選挙区制の持つ本質的問題点を突きつけている。

<憲法「改正」への接近>
  この問題を最後に持ってきたことは、私が憲法「改正」問題は重要ではないと考えているということを意味するものではない。私としては、「衆議院総選挙の結果をどう見るか」という私に与えられたテーマに即して考えるときには、私の問題意識に占める深刻度の重さにしたがって、以上に挙げた諸問題を考えた上で、憲法「改正」問題を取り上げることが適切だと判断しているに過ぎない。そして、この問題に関しては、他の多くの論者の指摘するポイントを私も共有していることをまず確認する。
  その上で、私としては今回の選挙結果と直接にはかかわらないけれども、日本国内における憲法「改正」問題に関する議論において完全に抜け落ちている、しかし、改憲に賛成する人も反対する人も無視して素通りすることは許されない論点を指摘したい。
  それは、憲法改正は第96条に従いさえすればば行うことができるという圧倒的多数説(憲法改正反対論者を含む)は間違いだということだ。現在の憲法は、ポツダム宣言を受諾し、その諸条項を誠実に履行するという国際約束(1945年9月2日の降伏文書)の具体化の産物である。ポツダム宣言は今日においても有効であり、日本はその諸条項を履行する国際的な義務(その中心的内容の一つは日本の徹底した非軍事化)を引き続き負っている。ポツダム宣言が日本に課した義務から逸脱し、それに違反する内容の憲法改正を行うことは、連合国(米英中露)の了解なしには行うことができないのだ。
  もちろん、日本の再軍備を要求し、日米安保条約の締結を日本の独立回復の条件とし、米ソ冷戦終結後は日米軍事同盟の変質強化を要求し続けてきたアメリカ政府は、安倍政権(というより戦後保守政治)が強行しようとしている憲法「改正」に好意的だ(今後、日本がアメリカに対して牙をむかないという前提が確保される限り)。しかし、少なくとも中国とロシアは、日本が今後もポツダム宣言を遵守することを要求する立場を繰り返し明らかにしている。そして、安倍政権の改憲志向に対しては警戒感を隠していない。
  安倍政権(というより改憲派)は、私たちがこの問題を自覚していないことを良いことに、改憲を強行しようとするだろう。しかし、私たち主権者は、ポツダム宣言受諾に伴う国際的な法的義務を無視することは許されない。ここでも冒頭で提起した主権者意識の欠落する私たちの問題意識が正面から問われているのだ。こういう正確な問題意識が有権者の間に浸透していたならば、今回の選挙結果に影響していたと思うのだ。

2.日本政治打開の手がかり

 以上のように見てくると、今回の選挙結果は暗い材料しか提供していないように見える。しかし、今回の選挙結果の中には、日本政治を打開し、切りひらいていくための手がかりを得る材料もある。再び私が注目する重さにしたがって項目として示せば、①沖縄の選挙結果の啓示、②学習能力、③政治意識の変化などを挙げることができる。

<沖縄の選挙結果の啓示>
  沖縄における「オール沖縄」の勝利は、70年近くの長きにわたる本土側による差別に対する抵抗の中で、沖縄の人々が自らの責任において意思決定を行う能力を不断に養い、日本の政治のあり方を他人任せにするのではなく、自ら決定するのだという強い意志を育んできたことを抜きにしてはあり得なかった。つまり、沖縄の人々は、本土の私たちの多くがいまだ我がものにし得ていない主権者意識を我がものにしているということだ。また沖縄の人々は、70年近い差別の辛酸を経る中で、本土において支配的な、既成事実に屈伏する「現実」感覚からも明らかに卒業している。
  改めて確認する必要があるのは、主権者意識の確立は簡単なことではないということだ。民主政を最初に実現した欧州における歴史を振り返っても、また、韓国、台湾、フィリピン、タイなどの東アジア諸国における民主政への歩みが見られる国々の歴史を見ても、民主政の大前提となる主権者意識の確立は、一朝一夕にしてなるものではなく、長年にわたる権力による圧政に対する人民の粘り強い抵抗の積み重ねによってのみ可能となっている。沖縄の今回の勝利は、そういう歴史的法則の今一つの証左と位置づけるべきだろう。
  私が強調したいのは、沖縄の人々がなし得たことをいわゆる本土の私たちができないはずはないということだ。沖縄ほど苛酷ではないにせよ、本土の私たちも戦後保守政治によって、長年にわたる辛酸を十二分に味わわされてきている。
確かに1960年代以後に本格化したいわゆる高度経済成長の余慶として「一億総中流意識」が巧みに演出され、国民的な生活保守感情が弥漫するに至った。そのことは、主権者意識を育む上での阻害要因として働いたし、日本的「現実」感覚がはびこる精神的土壌となってきた。
しかし、新自由主義の席巻とバブル崩壊は実に様々な格差問題を日本社会に持ち込み、私たちの生活と尊厳を根底から揺るがすに至っている。それは私たちの既成政治に対する持続的な抵抗を引き起こしており、このプロセスの中で、私たちが主権者意識を我がものにし、日本的「現実」感覚を清算することを促すはずだ。ただし、このプロセスはまだ20年あまりしか経ておらず、私たちが沖縄の人々のような主権者意識を我がものにするまでには、まだかなりの時日を必要とすることは覚悟しなければならない。

<学習能力>
  今回の選挙結果は、2009年の総選挙において「政権交代」を唱えて大躍進した民主党、その民主党の政権担当無能力が明らかになったことを受けて台頭したいわゆる「第三極」諸政党に対して極めて厳しい結果を突きつけた。議席を11伸ばした民主党については善戦と見る向きもある。また、次世代及び生活は大敗だが、維新は事前の世論調査予想より踏みとどまったとする見方もある。しかし、総じて言えば、多くのマスコミが垂れ流すことで維持されてきた「政権交代」神話も「第三極」現象も、今回の選挙結果によって最終的に引導が渡されたと判断して大過ないと思われる。
  この事実は、多くの国民が過去の事実から学習する能力を身につけつつあるということを物語っている。つまり、諸政党が如何に美辞麗句を並べても、ますます多くの国民はその言葉ではなく行いを見極めるようになっているということだ。さらに言えば、マスコミの世論誘導・操作能力も確実に弱まりつつあるということだ。
  多くの国民が学習能力を身につけることは、民主政の大前提である主権者意識を我がものにする上での重要な必要条件である。また、日本的「現実」感覚を清算する上でも欠かすことのできない前提となる主体的要件だ。

<政治意識の変化>
  今回の選挙結果は、多くの国民が学習能力を高めているだけではなく、これまでには見られない政治意識を持つに至っていることを示したものと、私は受けとめている。端的に言えば、今回の選挙における共産党の躍進は、有権者の政治意識の変化を抜きにしてはあり得なかったということだ。
  一つには、上記の学習能力の高まりと結びついた形での国民的な政治意識の変化がある。つまり、ますます多くの有権者が自民党(自公)政治と本当に正面から対決する政党は民主党でも「第三極」諸政党でもなく、共産党以外にないと認識するようになったということだ。
  もう一つの重要な政治意識の変化は、「アカ意識」が急速に薄れつつあるということだ。「アカ意識」は、戦前から今日に至るまで、体制側が執拗に国民に注入し続けてきた政治的産物であると同時に、これまた戦前に起源を持ち、同じく今日まで続くいわゆる「左派」内部の対立の産物でもある。
  「アカ意識」は、戦後日本において政治的市民権を確立した共産党が国政選挙で躍進する度に、そのさらなる伸張を封じ込むために度々利用されてきたし、その都度効果を発揮した。また、戦後の労働運動及び国民的運動(護憲、原水爆禁止、反基地闘争等々)における分裂や対立は、いわゆる社共対立(その起源は戦前にまで遡る)、代々木対反代々木に起源を持ち、その影響は今日まで続いている。
  しかし、社共対立及び代々木対反代々木に関して言えば、今回の選挙結果に明らかなとおり、社民党は政党としての生き残りそのものが厳しい状況に陥っている。かつては労働組合に主要な基盤を持っていた社民勢力は、肝心の労働運動が連合によって牛耳られた結果、手足をもぎ取られる結果になっている。国民的政党としての自力による復活はほぼ絶望的だ。いわゆる反代々木諸勢力に至っては、既存政党の一員として立候補する場合を除き、国政に名乗りを上げることすらままならない。
  今回の選挙結果を受けて、自民党及び公明党が今後、国民の「アカ意識」を揺り起こすことによって激しい共産党攻撃を行うことは十分に予想される。また、改憲に賛成する新議員が全体の80%以上を占めることを考えれば、改憲に真っ向から反対する共産党を孤立させ、封じ込める動きも強まるだろう。
  しかし、有権者の10人の1人強(比例では前回の6.1%から今回は11.4%、小選挙区では前回の7.8%から今回の13.3%)が共産党に投票したという結果の意味は極めて大きいと私は考える。比例だけに限ってみれば、自民党の33.4%に対してはまだかなり差があるが、民主党の18.3%、維新の15.7%、公明党の13.7%は十分に射程距離範囲内だ。
  さらに、大阪毎日放送が12月14日夜の番組で視聴者に尋ねた調査結果によれば、棄権した人が仮に投票に行った場合の投票先として挙げたのは、共産党が47%、自民党が26%、民主党が5%、公明党に至っては0%だったという。また、実際の投票でも、東京での無党派層の比例投票先の第1位は共産党の22.5%だったという。以上の数字は、12月17日付の『しんぶん赤旗』記事によるものであるので、額面どおりに受けとめるわけにはいかないという批判はあるが、有権者の政治意識が質的に変化しつつあることを示すことは間違いないだろう。それだけ、「アカ意識」は国民的意識として急速に薄らいできているし、「アカ意識」とは無縁なより若い世代の比重が高まるに従い、この傾向は今後ますます強まるとみて間違いあるまい。

終わりに

 私に与えられたテーマは、衆議院選の結果をどう見るかという限定されたものであるが、最後に、国際的歴史的枠組みのもとで、日本政治が目指すべき方向性を指摘して結びに代えたい。
  国際的枠組みとして強調したいことは、21世紀の国際環境の特徴的要素だ。普遍的価値としての人間の尊厳の世界的確立、国際的相互依存の不可逆的進行、世界的規模の諸問題の登場と山積がそれだ。そのいずれもが、国連憲章で違法化された戦争を、もはや現実政治としてもあり得ない選択肢としている。以上のことが意味する最大かつ最重要なポイントは、アメリカに代表されるパワー・ポリティックスはもはや歴史の屑箱入りを運命づけられているということだ。ということは、日米同盟を基軸とする日本の保守政治を徹底的に清算することが求められるということだ。また、人間の尊厳を踏みにじるアメリカ発の新自由主義の清算も不可避である。日本政治は、人間の尊厳を基軸におく国内政策及び民主的な国際政治経済秩序の確立を目指さなければならない。それは具体的には、憲法を生かす内外政策を確立することにほかならない。
  歴史的枠組みとして強調したいことは、すでに述べたことと一部重複するが、日本の出発点は今日なおポツダム宣言・体制にあり、いわゆるサンフランシスコ体制にあるのではないということだ。ポツダム宣言・体制を否定すること、具体的には憲法を「改正」するということは、日本が第二次大戦を戦った連合国との戦争状態を復活させることを敢えてするという深刻きわまる問題であることを国民的認識として確立しなければならない。また、ポツダム宣言を出発点に据える場合、中国、南北朝鮮及びロシアとの間のいわゆる領土問題は、同宣言第8項の定めるところ(「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」)にしたがって、日本がシノコノ言う筋合いの問題ではないことが確認される。自民党、共産党を含むすべての政党は、ポツダム宣言に基づいて、領土問題をはじめとする自らの内外政策を総点検することが要求される。