旭日旗Tシャツ事件

2014.09.09.

9月6日に山東省泰山で行われた第28回泰山国際登山節において、旭日旗の絵柄と「大日本帝国海軍」の文字が入ったTシャツを着た一人の中国人男性(本人の口述によれば、幼少時に日本で育ったとのこと)が人々に取り囲まれてそのTシャツを引きちぎられるという事件があり、中国のネット上で一騒ぎがあったということです。ネット上では、これに拍手喝采のものが多かったこと、しかし、何を着るかは個人の自由であって勝手に干渉するべきではないという意見やその行為は過激であるけれども個人の権利を侵犯するやり方で糾すということは警戒すべきだという意見なども寄せられたということです。
  この問題について、9月8日付の京華時報は特約評論員の徐立凡による「旭日旗Tシャツのいざこざは法的欠缺を際立たせた」という文章を、また同日付の中国網は同WS編集者である楊公振による「彼の衣服を脱がせて、自らの理性を引き裂く」という文章をそれぞれ掲載しました。中国人識者の認識の所在を窺う上で、興味深い内容ですので、要旨を紹介します。

1.徐立凡文章

徐立凡の文章のポイントは、現場に居合わせた人々の感情が傷つけられたことは当然だとしつつ、私的制裁に走ったことには問題があるとし、こういうことが起こらないようにするために、ドイツの反ファシズム法などに範をとった国内立法を行い、公的に取り締まるようにするべきだとすることにあります。法的欠缺が私的制裁を生んでしまったという指摘です。
  日本においてもヘイト・スピーチを取り締まるべきだとする議論が高まっていますが、徐立凡の文章の趣旨も同じ脈絡で理解することができると思います。

  諸説紛々ということは、この事件に対する注目点の違いを浮き彫りにしているだけでなく、類似の問題を如何に処理すべきか分からないという普遍的に存在する違和感をも反映している。この事件自体に関していえば、議論の余地はないと言うべきだ。「大日本帝国海軍」は典型的な軍国主義のシンボルだ。この男の服装は間違いなく正しくない。特に近年においては日本で軍国主義の魂を呼び起こす行動が絶えず、中国民衆の感情を傷つけているから、軍国主義のシンボルのTシャツを着て道を歩いて知らぬ顔というのでは、人々の怒りを招くのは自然なことだ。
  確かに何を着るかは個人の自由であることは常識だが、個人の服装の選択について完全な自由があると言うわけではない。公序良俗に違反してはならないというのは常識だし、政治的宗教的タブーに挑戦してはならないというのも常識であるし、社会的人文環境、審美的傾向の制約を逸脱することはできないというのもやはり常識だ。これらの常識を守ることは、個人の教養としてのあるべき姿であるし、成熟した社会における公民が備えるべき認識でもある。服装は個人の自由であるとして干渉すべきではないという主張があるということは、社会全体が抄紙機を守る雰囲気を育む分野においてまだ多くのなすべきことがあることを物語っている。
  この事件をめぐって起こった議論の中でもっとも争点となったのは、人々には不満を表明する権利があるかどうかということではなく、どのように不満を表明するかということだった。客観的に言って、彼のTシャツを引き裂いたというのは確かに個人の権利を侵犯した嫌いがある。人々がこの不適当な行為に対して意見を表明するのはいいが、事実上の規制者となるのは適当ではない。軍国主義のシンボルのTシャツを身につけていることが人々の感情を刺激する結果、衆目が一致する評価基準が容易に形成され、そのことが居合わせた人々によるシャツを引き裂く行為をあたかも正当化するかの如くになってしまったが、実際にはこのような権利は自分勝手にあるものとすることはできない。人々が自らの判断に基づいてある種の法律執行権を行使することは、「多数者による暴政」に陥ってしまう可能性がある。こういった傾向は過去にも例がないわけではない。
  それでは、この種の不当な行為に対する規制者は何であるべきか。道徳的批判は一つの規制であり、現場に居合わせた人々及び多くのネット世論はこの役割を担った。さらに進んだ法の執行に関しては法律の完成によるべきである。遺憾なことに中国には法律的規制が欠けている。
  中国は第二次大戦の被害国であり、軍国主義シンボルの伝播について立法で禁止するべきだ。ドイツには反ファシズム法があるし、フランス、オーストリア、ロシアにも専門の法律がある。立法によって政治的タブーとすることにより、現場にいる人々が法律執行者となってしまわないようにすることを確保できるのみならず、軍国主義シンボルの製品の生産及び販売を取り締まる根拠にすることもできる。これこそが、類似事件に対する成熟した社会の対応の仕方であるべきだ。

2.楊公振文章

楊公振の文章は、日本に対する中国人の感情が特別であること自体の危険性を指摘するものです。そして、対日感情の激発が起こってしまう根本原因として、「我々は戦争には勝ったが自分自身には勝ったことがない」と指摘し、文明の要諦とは「己の欲せざるところを人に施すなかれ」の原則に従うことだと指摘しています。丸山眞男流の自己内対話が自然に行われているのです。また、「他者感覚を働かせてみよう。もし中国人が「中国解放軍は最高」とプリントのある衣服を着て日本の街を歩き、引き裂かれ、全身傷だらけになったとしたら、我々は日本人が一体どんな民族かと思うだろうか」というくだりを読むと、中国人識者の思考には他者感覚が無理なく備わっていることが理解できます。

  (拍手喝采したネット世論及びこれに迎合した現地メディア(泰安晩報)と現地当局(徐州公安WS)を厳しく批判した上で)中国は第二次大戦の戦勝国であるが、我々の心理は失敗した影から一度として抜け出してきていない。テレビではどこでも抗日ドラマをやっており、ネット上では日本をやっつける書き込みが溢れ、メディアの中には進んで民族的激情を煽るものもあって、人々は苦難の歴史を回顧することを「楽しんで」おり、そこには自虐的快感すらが混じり込んでいる。凶暴な世論とイデオロギーの誇張によって、外国からは中国は日本に対して戦争するのではないかと疑われている。
  しかし、事実はかけ離れている。世界全体のイデオロギーは数十年前の冷戦思考ではなく、大規模戦争はまず起こりっこない。それなのに抗日感情が激発するのはなぜかについて根本の原因を尋ねれば、我々は戦争には勝ったが自分自身には勝ったことがないということだ。一つの社会の自信というものは、意見を異にするものの衣服を破り捨てることによって作られるものではなく、そんなことはもっとも低劣な暴力行為であるにすぎず、尊敬と文明とを勝ちうる所以ではない。文明とは、倫理的共通認識を備え、「己の欲せざるところを人に施すなかれ」の原則に従うものである。他者感覚を働かせてみよう。もし「中国解放軍は最高」とプリントのある衣服を着て日本の街を歩き、引き裂かれ、全身傷だらけになったとしたら、我々は日本人が一体どんな民族かと思うだろうか。
  劉檸著『中日の間』にある余世存氏の序言には次のようなくだりがある。「豊かになることの目的は格好をつけることでもなければ、強さを競うことでもなく、意義を附与することにある。したがって、現代化初期における文化の衝突、植民地利益の衝突、政治的軍事的な衝突などとは異なり、今日の人類は衝突を以て栄誉とするのではなく恥とするべきである。孔子の教えに従って豊かになった国家及び人々の政治目的を述べるならば、富みてこれを教え、富まずしてこれを争うということだ。」
  劉檸氏自身も本文の中で次のように述べている。「中日両国は永久に引っ越すことができない隣人であり、宿命的に付き添いあい従いあって輪廻を繰り返していく。これは変えようのない現実である。合すれば共に利し、闘えば共に傷つく。これは解釈の必要もない常識だ。」二国間においてなおかくの如しとすれば、一国の中ではさらに然りということではないだろうか。