「中国脅威論」批判を妨げる国民的対中認識

2014.08.19.

*寄稿を求められて書いた文章です。7月21日付のコラムで紹介した中国思想史の溝口雄三先生の所説を踏まえて、私の常日頃考えている問題意識と重ねたものです。

私が様々な集会でお話ししていて「もはや処方箋はない」とまで感じさせられるのが「中国脅威論」の浸透度ということだ。私を講師に招くのは、良心的市民団体を自認するものがほとんどだし、最近は立て続けに日中友好のために長年尽力してきた集まりに招かれて話をしたが、そういう集会においてすら、「尖閣問題での中国の軍事的挑発行動」「西沙諸島でのヴェトナムに対する中国の理不尽な行動」を挙げて、「中国の大国主義・覇権主義には反対だ」という意見が会場から異口同音に提起される。そういう対中批判感情は、「中国人は欲得感情でしか動かない」という、ツアで訪中したときにいやな目に遭った多くの人の「実体験」で「裏打ち」されているから、私が事実関係に基づいて認識を正してもらおうと努力しても、まるきり歯が立たない。問題は、そういう「市民感情」は安倍政権が強調して止まない「中国脅威論」を受け入れてしまう国民的土壌になってしまっているということだ。
  私も世が世であれば、いずれ時が来れば「反中」「嫌中」感情も改まるだろうと達観する気持ちになれるのだが、安倍政権が「中国脅威論」を正面に押し立てて集団的自衛権行使に突き進み、かつて日中戦争の引き金となった盧溝橋事件(ちなみに、この事件を中国では77事変と呼ぶが、今年はその77周年に当たり、4つの7が並んだ本年7月7日には、習近平自身が出席して日本軍国主義復活を許さないとする大々的な行事が行われた)を繰り返すことになりかねない日中軍事衝突の危険性を真剣に憂慮しなければならない状況になってくると、そんなに悠長に構えてはいられないという焦りに襲われる。
7月17日に起こったウクライナ上空でのマレイシア機撃墜事件については、「誰がやったのか」という下手人特定にのみ内外の関心が集中しているが、私に言わせれば、こういう偶発事件を引き起こした原因であるウクライナ情勢にこそ目を向けるべきだ。日中軍事緊張が盧溝橋事件を引き起こしたのであり、マレイシア航空機撃墜事件は「第二の盧溝橋事件」を起こさせないためのこれ以上ない警鐘なのだ。
しかし、日本人の対中感情を正すことは簡単なことではない。中国思想史の泰斗である溝口雄三氏は、日本人の対中国認識を妨げている原因として4つのポイントを挙げている(『方法としての中国』及び『中国の衝撃』参照)。
第一、日本と中国は互いに「異」(相互に独自的)であることを認識していない。私流にかみ砕いて言えば、多くの日本人は「同文同種」だから「中国のことはなんとなく分かっている」と思い込んでいる(困ったことに日中友好を口にする人ほどこの傾向が強い)。だから、私たちの気に障ることを中国(中国人)がすると「裏切られた」と思ってしまう。
第二、日本人は「脱亜入欧」思想の影響を受けて、「日本=優者、中国=劣者」という構図にしがみついてきた。「自分はそんなことはない」と言い切る人は多いだろう。しかし、「脱亜入欧」ではなく「脱亜入米」と言い換えたらどうだろう。「中国の脅威から身を守るためには日米同盟は必要」とする世論が2/3を占める現実がある。
第三、日本人は「大国」・中国を受け入れられない。私流に解説すると、もともと私たちは「大国=大国主義=覇権主義」と思い込む傾向が強い。私は以前、『大国日本の選択』(1995年)、『平和大国か 軍事大国か』(1997年)を出して、世界第2位の経済大国である日本の進むべき進路について問題提起を試みたことがある。そのポイントは、「大国」であるか否かは事実認識の問題であって価値判断の問題ではないということ、国際関係においては、大国には中小国にはない責任(行動のあり方)が伴うことを理解しようということだった。残念ながら、私のメッセージは「一国平和不義」に染まりきっていた日本社会に一石を投じることにならなかった。
中国についていえば、かつて世界帝国だった中国にとっては、今再びアメリカに次ぐ大国になったということは事実認識の問題として捉えられているし、「大国にふさわしい行動、大国として担わなければならない責任・役割を果たそう」と意識して行動している。ところが「大国」嫌いの日本人にとって、そんな中国はますますムカつく存在になってしまう。
第四、私たちの思考を縛る欧州発の「知の差別構造」である。溝口氏曰く、「近三百年来、世界を覆ってきたヨーロッパの<近代文明>を背景にした知の差別構造」は、「一世紀有半にわたり、積弊というにふさわしく、麻酔薬のように全身に行きわたって、アジアの現実への認識力をいびつにし、また阻害している。」
私たちは、安倍政権の「中国脅威論」の荒唐無稽性、危険極まりない本質を見抜かなければならない。『思想運動』編集者からの執筆依頼はその点を今一度論じて欲しいという趣旨であることことは理解している。しかし、「中国脅威論」を受け入れてしまう、私たち自身の対中認識のあり方を縛る以上4点の溝口雄三氏の指摘と向き合い、自覚的に克服することなしには、どんなに「中国脅威論」批判を工夫しても、しょせんは「馬の耳に念仏」に終わってしまうことを、私は数限りない徒労感を経て今実感するのだ。
そんな「そもそも論」などをやっている悠長な場合・状況ではないということはもちろん分かっている。「第二の盧溝橋事件」がいつ起こってしまっても不思議ではない今日の危機的状況に身震いもしている。しかし、「歴史を以て鑑と為す」という世界スタンダードを我がものにできない日本的「民度」を温存してきてしまった戦後64年の日本現代史を直視することから始めるしかないと思うのだ。今こそ、「急がば回れ」なのだと思う。