マレイシア機「撃墜」事件(中国側見解)

2014.07.22.

5月17日に起こったウクライナ東部上空におけるマレイシア旅客機「撃墜」事件に関しては、日本国内では「親露派(及びその背後にいるロシア)の仕業」という見方がもっぱら支配的で、もはやそれで「決まり」という感じの報道が溢れかえっています。米欧メディアが国際報道を牛耳っており、日本もその中にどっぷりつかっていることを踏まえれば、いつもながらの当然の現象ではありますが、真相究明はまだこれからであることを踏まえますと、私としてはこういう世論状況にはついていけません。
 国連安保理では、オーストラリア提出の決議案について議論が行われていますが、同国提出の原案にある「撃墜」(shooting down)という表現について、まだそう確証されたわけではないとして、「墜落」(downing)という表現にするべきだという修正提案が出される状況があるそうです(7月21日付環球網が紹介した同日付ロイター電)。このような動きは、決議案成立のために「ロシアに妥協する必要がある」ためだとロイター電は解説しているようですが、その点はともかく、「撃墜」であるかどうかについてすらまだ確たる根拠がないことを、安保理としては考慮せざるを得ないということです。
この一事が示すように、「親露派の仕業」「したがってロシアの責任は免れない」という決めつけ一色の国内報道には、私としてはますますついていけないものを感じる次第です。むしろ、こういう事件が起きてしまうウクライナ情勢の危険性に目を向け、犯人捜しにうつつを抜かすよりも、ウクライナに平和と安定を回復するために目の色を変えて取り組むことこそが本来あるべき国際社会のあり方だと思います。
 米欧メディアに支配される「国際世論」に常に苦い目をあわされている中国は、こういう結論先にありきでロシア・バッシングの風潮に対しては当然に批判的です。真相究明が先だという立場はすべての論者に共通しています。もっとも、環球時報特約評論員の王徳華のように、「アメリカなどの西側主導の調査によって「原因が証明」されても、ロシアは断固として否認するだろう。独立の第三者機関の調査結果がロシアに有利となれば、西側が異議を唱えて、自分たちが望むような結果が得られるようにするだろう」、したがって、「ネット世論が指摘するように、「公正な調査結果が出るはずはない」、「真相は政治によって覆われるだろう」、「真相はもはや重要ではなく、めいめいが必要とする「真相」だけが重要なのだ」」(7月21日付環球網掲載文章)として、真相究明自体が茶番劇に終わるだろうと醒めきった目で見ている文章もあります。
 この問題について、環球時報は、7月19日付で「マレイシア機撃墜 これは戦乱だ」、同21日付で「世界はマレイシア機事件の真相を知る必要がある」と題する社説を発表しています。特に19日付の社説の内容は、冒頭に述べた私の見方と軌を一にするもので、冷静かつバランスが取れたものだと思いますので、参考までに紹介します。
 実は私は、今回の事件に接した時に、軍事緊張にある日中間でもこういう偶発的事件が起こりうると連想しました。いわゆる「第二の盧溝橋事件」です。この環球時報社説の「政治衝突に基づく反理性及び破壊力に対して人類は相変わらずコントロール能力を持っていない」、「周りが対決あるいは戦争となると、善悪のはっきりしていた境界が偶然の要素によっていとも簡単に破られてしまう」という自戒を含めたくだりは日中双方が拳々服膺すべきところだと思います。

 これはショッキングな人道的災禍であり、誰が撃墜したかは今のところ確定できない。ロシアはウクライナ政府がこの事件に責任があるとし、ウクライナは親露派が撃墜したと発表し、親露派は1万メートルの高度の旅客機を撃墜する能力を持っていないと主張し、西側世論は真っ先に撃墜したのは「プーチンのミサイルだ」とした。明らかに、それぞれが自らの一貫した政治的立場に基づいて非難し合っており、信用できるだけのテクニカルな情報の裏付けを伴っていない。  犯人が捜し当てられない間は、ウクライナの激動の情勢にこの悲劇の責任をまずは帰せしめるべきだろう。そういう意味においては、「ウクライナが平和であったならば、この悲劇は発生することはなかった」というプーチンの発言には一定の道理がある。  人類史上における民間旅客機の撃墜事件はすべて政治的緊張と関係があった。1983年の冷戦ピーク時にソ連の操縦士が航空軌道を逸れた韓国旅客機を撃墜し、イラン・イラク戦争の中で1988年に米海軍がホルムズ海峡付近でイラン旅客機を撃墜したが、ともに地域の緊張に原因があった。このような過ちは永遠の過去の出来事と思いがちだが、ウクライナ東部の「欧州の戦場」で突然に再現してしまった。この事件が示していることは、政治衝突に基づく反理性及び破壊力に対して人類は相変わらずコントロール能力を持っていないということを明らかにしたということだ。  数カ月前までは、ウクライナの首都・キエフの市民で、自分たちの国家が内戦に入り込んでしまうことを信じるものはほとんどおらず、それぞれの強硬姿勢は「見せかけ」だと思っていただろうが、今やこの国家は「演技」から「戦い」に変わってしまったことを見届けている。  民間の旅客機を撃墜することはもっとも許されない罪悪の一つであり、米ソ両大国が同じことをやったことがあるように、周りが対決あるいは戦争となると、善悪のはっきりしていた境界が偶然の要素によっていとも簡単に破られてしまうのだ。ウクライナ政府は、親露派が旅客機を撃墜したという通話の録音を握っているとしているが、仮にその証拠がホンモノであるとしても、それは慌てふためいた犯人が軍用機を打ち落としたと考えて、目標を見誤ったことを示すものだ。米軍はアフガニスタン、イラク、パキスタンで一般民衆を「軍事目標」として攻撃し、大量の犠牲者を生みだしてきた。悲劇が起こる度に、アメリカは謝るだけであり、時には謝ることすらしない。これが戦争というものだ。  マレイシア機が撃墜された同じ日に、イスラエル軍はガザ地区に進入してハマスを掃討したが、どれだけの民衆が無辜の犠牲となったかは想像できるところだ。中東は地上、ウクライナは空中という違いはあるが、戦乱が原因であるという点で本質は同じだ。  その実、ウクライナにおける今回の悲劇の政治的原因については外部から見れば極めて明らかだし、ウクライナが平和を回復することが様々な災難を解決するための根本的方途であることも分かるはずだ。ところが西側世論は、明白な証拠もないのにロシアに対する新たな攻撃を発動している。これはまったくウクライナのためではなく、この災難に乗じてロシアに対する道義的攻勢の立場をうち固めようとするものに過ぎない。  西側は一貫してウクライナの「民主革命」を奨励し、支持しており、西側の東方拡大の地縁政治上の最前線になるようにそそのかしている。その結果、ウクライナは巨大な代価を支払い、今や世界でももっとも引き裂かれた場所の一つとなっているのだ。  我々は、マレイシア機撃墜事件の徹底した調査によって犯人が見付け出され、厳罰に処せられること、悲劇の全過程が完全に明らかにされて全世界に対する警告となることを強く希望する。悲劇を生んだ政治環境上の要因も十分に反省されるべきであり、西側の強大な世論形成力はこの反省の推進者となるべきだ。推測と揚げ足取りで攻撃し合うことは反省の表現とは言えない。ウクライナひいては世界がもっとも必要なのは平和と安寧である。