私たちの対中国認識を妨げる思想上の問題

2014.07.21.

最近、中国にかかわるお話しをする機会が何度かあります。参加者の関心が集中するのは「中国脅威論」であることは容易に予想がつきますので、そのことについて事実関係を紹介する形(実事求是)でお話しするのですが、「大国主義・中国はけしからん」という印象が浸透しているために、私のお話はほとんど「通らない」状況です。
 なぜ、これほどまでに中国に対する批判感情が支配しているのかを考え込まされる毎日になっています。私がこの半年ほど夢中になって読み込んできたのが中国思想史の溝口雄三先生と日本思想史の相良亨先生の著作です。これほど夢中になったのは丸山眞男以来のことです。
 お二人の指摘は、私が実務をやっていた頃から暖めてきた、日中の相互理解の難しいことの原因に関する問題意識を学問的に裏づけてくれるものばかりで、私は本当に興奮しました。お二人の指摘を伺う集会で詳しく紹介することを心掛けてもいます。その内容をこのコラムでも紹介しておきたいと思います。

1.私たちの対中国認識を妨げる要素

<溝口雄三『中国の衝撃』(東京大学出版会 2004年5月)>

①(「脱亜入欧」における「日本=優者、中国=劣者という構図」にしがみつく日本人)
-「日本人が近代以降の西欧化をいう時に念頭に浮かべる語の一つに「脱亜入欧」があるであろう。アジアを脱するという時の「アジア」は地理的な概念ではなく、文明概念であり、具体的にはそれは中華文明圏のことであった。‥遅れた文明から進んだ文明に移転するという、明らかに価値の優劣を伴った話であった。…問題は、21世紀に入った今日にも、こういった優劣の構図の脱亜入欧観が、日本では依然として根強く生き続けている、ということである。
  ところが、中国についていえば、‥明らかに位相上の何らかのギャップが生じつつある。「脱亜」によってリードしてきたはずの「アジア」、後ろから追随してくると見なしていた「アジア」によって、今はいつのまにかこちらがリードされはじめているという状況、日本人の「脱亜」という認識と現実の「アジア」という事実の間の微妙なギャップ、しかもその現実のギャップにほとんどの日本人が気がついていないという認識上の二重のギャップ。   このギャップを"中国の衝撃"という呼称で問題にしたいと思う。
  問題を原初の地点に戻して問うてみよう。そもそも、はたして日本は明治以降、中華文明圏を離脱し西欧文明圏に移転したといえるのか、と。」(pp.2-4)
-「脱亜とは要するに日本の資本主義が他のアジア諸国に比べて早かった、ということに尽きる。‥資本主義化したことが即時に西欧文明圏入りしたこと、あるいは中華文明圏を出ることを意味するわけではない。…事実関係に即して見れば、たとえば明治以降の日中関係は、明治以前と多くの点で不変である。社会文化面すなわち社会風俗、慣習、宗教、生活倫理などの面でいうと、‥もともと日中間に共通性は稀薄であり、その点では明治以前も以後も基本的に変わっていない。…
  思想文化関係では、儒学を受容した近世はもとより、西欧文明圏に移転したといわれる明治以降も、…日本を論ずるときの背景装置として中国は欠かせないものであった。つまり日本人はしばしば中国を媒介にして自己のナショナル・アイデンティティを策定してきた。…卑近な例でいえば、現在でも日本人の多くは自己の近代化の成果を測るとき、「進んだ」ヨーロッパと比較すると同時に、意識的にかあるいは無意識的にか、「遅れた」とされる中国と比較して満足感を得るのであり、この場合も中国は日本認識の媒体となっている。
  つまり、日本人が日本の座標を策定しようとするとき、意識的・無意識的に中国を媒体にして考えるという性癖は、明治以前から以降も、そして現在も不変である。
  ここで、ほとんどの日本人が知らないままでいて是非知っておくべきことは、日本に存在する、以上のような意味での中国関心に見合うような日本関心が、中国には基本的に存在していなかったということである。…日本における中国関心の持続と中国における日本関心の稀薄さという思想文化面における非対称的関係も、明治以後も明治以前と変わっていない。…(この)非対称的関係は、実は中華文明圏時代からの「中心と周辺」の関係構造の頑固な名残にほかならないのである。
  にもかかわらず、日本が中華文明圏を出た、というこの言葉は日本人の大多数に実感的に支持されている。それは、日本人の主観においては、明治維新を境に、尊崇する文明が「文明開化」の合唱とともに中華文明から西欧文明に明らかに移転したからである。」(pp.5-7)
-「しかし、‥中華文明圏諸国は、部分ごとに遅速や濃淡の差はありつつも、‥全体としては欧化を遂げた。であるなら、なぜ日本人は、自己が属すると見なしてきた文明圏全体が欧化を遂げたという考え方に立たないで、自分だけがそこから離脱した、という考え方に固執するのだろうか。それは、一つには、西欧化=近代化の時間的先後関係を、民族性や歴史過程などにおける優劣関係と見なす考え方に囚われていたからであり、またもう一つには、そのほうが自分たちの(アジアの盟主という)アイデンティティの自足にとって幸便だったからである。
  …こうして、西欧化をいち早く成し遂げた優者・日本とそれに後れをとった劣者・中国という構図およびアジアの優等生であると自認するアイデンティティの位置づけは、分かりやすさによって日本の一般民衆の間にさえ普及しているが、分かりやすさによって単純化され、形式化され、その結果いくつかの事実が隠蔽されてしまっている。
  まず、日中両国の西欧化=近代化の過程の時間的な先後のように見える差が、実は両者の近代化の過程のタイプ(型)の差をあらわすものである、という歴史の実態が隠蔽された。
  また、日本を西欧化世界、中国を中華世界という二分法方式で差別することにより、‥両者間に持続する歴史上の不変の共同-非共同的共同-関係が隠蔽された。
  タイプの差ということについていえば、…二千年来の王朝体制そのものの倒壊への歴史過程がそれに先行して進んでおり、欧化への転換は日本ほど身軽ではなく、半世紀の時間は十分にかかったし、その近代過程の前段階も日本や西欧とは異なったタイプの、中央集権体制から地方分権体制(省独立)という過程であったうえ、伝統的な社会文化、思想文化の地盤の特性から資本主義(弱肉強食・競争原理)よりも社会主義(扶弱抑強・・協同原理)に宥和的であったなどの理由により、資本主義的な近代過程から見れば、遅れて進んでいると見えたに過ぎない。…
  問題は歴史観にある。…他の人々が日中間の歴史認識問題といえば主に日中戦争についての歴史認識の問題としているのに対し、私の場合は、日中戦争の時期も含めて、16世紀から21世紀の現在にいたる日中関係、東アジア関係をどのような歴史の目で捉えるかを、長期の歴史観の問題として問題化しようというのである。…タイプの異なる諸国の雑居的な中華文明圏の関係構造の、16世紀以来の長期的な変態の過程として俯瞰する歴史観によって、アジアの近代を多元的・多極的に見ようというのである。」(pp.8-13)

②(「大国」・中国を素直に受け入れられない日本人)
-「問題は経済関係である。現在、日本と中国の間に生起している新しい問題は経済関係から生起した問題なのである。…この経済問題を思想文化の問題として捉えるならば、これは、かつて中華文明圏に属したとされる諸国間の関係構造の歴史的な変貌を意味する。…旧中華文明圏とは異なったかたちでの、日本に対する中国の位相の上昇という局面に否応なく想到する。にもかかわらず、まだ大半の日本人はこのことの深刻さに気づいていない。そして日本=優者、中国=劣者という構図から脱却していない。その無知覚こそが日本人にとっての"中国の衝撃"である。衝撃として自覚されないがゆえに、衝撃は日本人にとって深刻なのである。かつて、清末の"西洋の衝撃"が、中華=優者、外夷=劣者という古い構図に囚われている中国人知識人に自覚されなかったときのように。政権中枢から国民一般までが無自覚であることの、またそうであるがゆえの、何重もの鈍重な衝撃。
  誤解のないように言っておかねばならないが、私はここで「中国脅威論」を説こうとしているのではない。この「中国脅威論」は、一つに、問題を排他的な国民国家の枠組みで捉えていること、二つに、中国を国際秩序外の特殊国家と見なすことを前提にしていること、三つに、「脅威」という発想自体が蔑視の裏返しで、もともと世界の歴史的な差別構造の産物であること-などの問題点を抱えている。私は、むしろそういった前世紀的な偏見からどう脱出するかを前提にするべきだと考えている。…
  これまでの近代過程を先進・後進の図式で描いてきた西洋中心主義的な歴史観の見直しが必要である。…とくに明治以来、中国を経済的・軍事的に圧迫し刺激しつづけてきた周辺国・日本‥が、今世紀中、早ければ今世紀半ばまでに、これまでの経済面での如意棒の占有権を喪失しようとしており、日本人が明治以来、百数十年にわたって見てきた中国に対する優越の夢が覚めはじめていることに気づくべきである。現代はどのような歴史観で捉えたらいいのか、根底から考え直す必要がある。…
  われわれにとっての"中国の衝撃"は、優劣の歴史観からわれわれを目覚めさせ、多元的な歴史観をわれわれに必須とさせ、今後関係が深まるがゆえにかえって激化するであろう両国間の矛盾や衝突のなかに、「共同」の種を植えつけさせるものでなければならない。」(pp.14-17)

③(私たちの思考を縛る欧州発「知の差別構造」)
-「<中国とはなにか>というのは、われわれ日本人にとっては、結局、世界をどのような視座で見るか、ということである。それが<中国を問題にすることの意味>でもある。
  かつて、世界は西陣営と東陣営の二分法であった。今、われわれは二分法によってその本来の姿を歪曲されてきた、未知の世界としての、そして生の、いきいきと生きたイスラム文明世界や中華文明世界を目の当たりにしている。…イデオロギーの冷戦構造が崩壊した今、われわれははじめてそれらの世界を、赤裸々に目の当たりにしているのである。
  日本人は明治以来、ずっとヨーロッパ<近代>という視座に依拠して中国を蔑視してきた。中国を蔑視するその度合いが日本のヨーロッパ度として自覚された。日本人は、そのヨーロッパ度を、ヨーロッパと比較するのではなく、中国と比較することで計測してきた。日本アイデンティティは中国蔑視を一つの不可欠の要素としてきた、とさえ言える。しかし、‥われわれは、その気にさえなれば、多くの点でヨーロッパとは歴史の文脈を異にする中国を発見し、それを媒介にしてわれわれの内部のヨーロッパ視座を相対化することができる。
  あるいは、われわれの気づかないところで、われわれの思考をある特定の方向に配列させている目に見えていないある力-例えば「民主」に特定の意味づけや方向づけを与えているある力-の働きを自覚させる媒介にすることもできる。その目に見えない力とは何か.それは近三百年来、世界を覆ってきたヨーロッパの<近代文明>を背景にした知の差別構造である。」(pp.34-35)
-「残念なことに、この隣国の警告を受け入れる切実な座標感覚が、日本では、国民の間で欠如している。日本における、欧米追随と裏腹の、アジア軽視、日本優位という構図の無意識的・無自覚的な感情は、すでに一世紀有半にわたり、積弊というにふさわしく、麻酔薬のように全身に行きわたって、アジアの現実への認識力をいびつにし、また阻害している。」(p.78)

2.基本的概念に関する日中の決定的な違い

<「対談・異と同の瀬踏み-日本・中国の概念比較-」(岩波書店『文学』 1987年1月号。溝口雄三『中国思想のエッセンスⅠ』岩波書店 2011年11月に再録>

①(中国の思想における普遍的価値尺度)
-「勢いは理ではないですね。理というからには普遍的な正しさ、何が正しいかは別問題として、それが含意されます。もっともその正しさが歴史の必然性として観念されたときには勢いは理となりますがね。(理には普遍的な正しさが)あるという前提がみんなに共通にあるわけですね。ただ何が正しいかは時代によって決まっていく。そういう点では、普遍性は通時的ではなく単に共時的ですが。」(溝口 p.21)
-「今のお話を聞いていると、中国には普遍的な正しさが考えられている。またそれを捉えようとする姿勢があるということが、まず印象的です。もう一つは、その中国でいう「正しさ」は時代を超えて働くことを内的要請としてもっているかどうかという点です。どうも時代を超えてという要請を内包していないようですね。」(相良 p.21)
 *溝口「理とはけっきょく、ヒトにとって本然と観念された秩序の観念であるにすぎず、極論すればそれは時代の主観にすぎない‥。しかしながらそれは、…ある種の絶対性普遍性をともなった観念、すなわちこれこそ絶対的であり普遍的であり、「天下万世」に「不可易」のものであるはずとする観念であるため、その主観は常に客観的と観念された主観である。ただしそれは客在を認識する存在論上の客観ではない。たとえばそれは自然法則のようにあらゆる人に共同認識される、つまり客在性が立証されうる客観ではない。」(p.58)

<相良亨『日本の思想』(ぺりかん社 1989年2月)>

②(日本の思想における普遍的価値尺度の欠如)
-「理あるいは理的な概念を中心に日本人の思惟の仕方をこのように見てくると、置かれた状況への適切さを求める姿勢の強調が浮かび上がってくる。同時に、その適切さは、主体の態度、特に心情の純粋化によって到達されるべきものとする傾向が強く、判断の基本的な規準となるものを客観的に追究する姿勢は熟してこなかったように思われる。…日本人として一番、今日的に問題になる点は、この判断の規準を客観的に追究する姿勢をめぐる問題であろう。なお、これは、宇宙の究極を捉える捉え方の問題にかかわってくる。」(pp.34-35)
-「natureおよび中国の自然をみてくると、質的には異なるが、それぞれある客観視する姿勢において捉えられる内容を内包していることがわかる。Natureはテオリア(=「人間そのものを客観的に見る姿勢」)の伝統において捉えられた本性・本質の意を内包し、一方は格物致知・窮理の伝統の下において捉えられた状態・あるべきあり方であった。この両者との比較において、われわれの「おのずから」としての自然を見る時、もっとも注目すべきことは、質がいかなるものであれ、ものの本性・本質、あるいは秩序といった意味内容がそこに含まれていないということである。これは、(上記で理について述べた)日本の伝統における基本的傾向としての客観視の姿勢の欠落と相応ずるものである。」(pp.40-41)
-「普遍的な法則・秩序を客観的原理的に追究する姿勢が、日本には基本的傾向として欠落している」(p.104)

③(日本の思想における「個」「他者感覚」の欠落)
-「日本では、人間の本来的な内面的主体性(浅井注:「個」)を対象的に把握する姿勢が熟さなかった。また現実と超越とが否定的関係において捉えられなかった。この日本において、西欧的な良心意識が形成されなかったということは、価値判断を抜きにすれば、まことにその通りであると認められよう。今日われわれがいうところの良心は、明治以降の翻訳語であり、良心は西欧より摂取した思想といえよう。」(pp.216-217)
-「人間の内面的主体性は、どこの世界においても重んじられている。日本人はこれを「こころ」として捉えた。問題はその内面的主体性の把握の質である。‥日本人の内面的主体性の把握の特色は、おかれた場における主観的心情の純粋さの追求であり、その本来的ありようとしての心を対象的に把握する姿勢が熟さなかったことである。本来的な心を性とし、性即理とする中国のそれ、あるいは道徳法則を立法する実践理性の内在を説く思想を生んだ西欧のそれと比較する時、われわれはここに、われわれの心理解の特殊性をみてとらないわけにはいかないであろう。右にあげた中国のそれ、西欧のそれは、いかなる状況においても貫くべく、則るべき原理的規準をもっている。それは、現実を否定する可能性を内包するものでもある。しかし、日本的な主観的心情の重視は、そのおかれた状況において純粋に、私なく、全力的であることであるから、基本的には現実否定の方向をもたず、また行為の仕方が、おかれた状況によって変化し、換言すれば矛盾するという可能性を構造的にはらむことになる。状況(場)をこえた行為の一貫した方向性をもたないということになるであろう。
  主観的心情の純粋無私は、物と我・自と他との交感の中に深められることが求められてきたが、ひたすらなる主観的心情の純粋さの追求は、また、たとえば、至誠であれば天に通じ、他者に通ずるといった主観的心情重視のオプティミズムとしても現れることになる。おかれた状況における主観的心情の重視が、他者の他者性の認識を阻害するからである。」(pp.220-221)
-「日本人における対象的客観的把握の姿勢の未成熟…という伝統の中において徹底的な対象化を問題にする姿勢は、伝統を超えるものである。…中国および西欧には、質は異なるが対象化の伝統があった。その点において、隣国中国はむしろ日本より西欧に近い。われわれが彼らから学ぶべきものは、そのもっとも根本的なものはこの対象化の姿勢ではないであろうか。
  なぜ、私がこのように対象的把握にこだわるか。私は「人間とは何か」という問いをもっている。問いをもってしまっている。もたされてしまっているといってもよい。…
  日本人は、現実的な自他のかかわりの中で、他者への思いやりの心をそだててきた。他者が自分とは違う人間であるという方向に他者観は深められてきている。だが、他者も「人間」であるという、その「人間とは何か」という認識にまで、この現実的なかかわりの場の中に働く実践知は深まりうるであろうか。「人間とは何か」は、方法的に外に出て客観視する姿勢がなければ生まれてこないのではなかろうか。」(pp.244-246)

<溝口雄三『中国思想のエッセンスⅠ』>

④(中国の思想における「個」と「公(全体)」)
-「個と全体において全体が優位することを、日本式の「わたくし」と「おおやけ」の関係でとらえてはならない。優位する全体とは「万物がならび育つ」ことを「天下の達道」とする共同生活のことで、古代や中世ではその共同生存が上下秩序の理によってこそ保証されるとみなされていた点で封建的全体となるが、近代では自由平等の理をそれの保証としたということからわかるように、全体は多数人民であり、めざすところは多数人民共同生存、即ち経済的平等を不可欠とする「公」革命であった。…
  この共同生存原理は「均貧富」を具体的な内容とし、為政層からは仁の指標、被支配層からは革命のスローガンとして、いずれの側からも、漢代以降えんえんと清末まで政治の中心原理とされてきたもので、‥孫文、さらには毛沢東革命はそれの近、現代の継承である。…
  乱暴ないい方をすれば、中国の道の中心原理はけっきょくこの共同原理である。ここでは共同すること、共同であることの自覚が政治でありまた同時に道徳であり、よりよい社会関係とはけっきょくよりよい共同関係、すなわち人倫の道である。…
  つまり道徳と政治は、中国では原理的に不可分であり、それが中国の政治観の特質でもある。道徳からの政治の分離を、政治思想の近代過程に普遍的な指標であるかのようにみなしている人があるので一言しておくと、中国では、修身(為政者個人の道徳的完成)から平天下(「公」の天下的実現)へのオプティミスティックな同心円的拡汎が否定されたのは明末で、これを狭義に分離といえなくもないが、ただしこの分離によって平天下すなわち「公」の政治原理が、たとえば個私を基礎にした契約とか法へと転換したわけではなく、依然その原理は「仁」「公」でありつづけた。…
  こうみてくると、この共同生存原理すなわち全体原理が日本のおおやけ原理とは異質であることがよくわかる。この全体は個私(専制、利己)を「公」の名によって排除するというかぎりで優位的だが、一方、抽象的全体すなわち民が、近代に入って「人人」「四万万人(四億人)」といわれる具体的全体となり、その過程で「個人」概念が生みだされた、いいかえれば「人人」からアトム的な「個人」が析出されるかたちで個は全体と同位化され、個と個は「必ずしも己の為めにしない」という道徳的な有機関係によって全体の構成者となった、という中国的全体の独自性がここにみてとられる。恐らく今後とも個に対する全体の道徳優位性は変わらず、個と個はいわゆる「社会主義的道徳」を関係の基礎とするほかないだろう。」(pp.106-109)
-「道が伝えられてここにあるとア・プリオリに信じての、この信仰にも近い信念の吐露こそ、中国の道について、もっとも注目すべきところである。道についてのこのア・プリオリの共同観念およびそれの継承というのは、われわれからすれば、ヨーロッパ人の神についてと同じように不可解なことである。
  おそらく神がヨーロッパ人のある観念の表象であるように、中国でもまず道があったのではなく、ある観念、たとえば共同生存の観念がまずあり、それが道という表象に結ばれた、そしてそういう観念が人々の間に普遍的に共有されているとする観念、つまり観念の共有観念が道であり、だからそれは個にも全体にも革命にも、文学にも政治にも道徳にも、つまり「人倫日用」のすべてに自在に結びつく「広大」な「包括」性をもつのだろう。中国では、「道」の語というよりは、語として明示されないこの共有観念および継承への帰服が、文学にも革命にも浸透し、ア・プリオリの世界観、社会観、人生観として共有されつつ、近代はもちろん現代にも生きつづけている、ということなのだ。」(p.111)
-「天のこの外枠性、存立原理性こそが、日本の天(「日本の古代は対象のはっきりしない、ヒミコなど‥によって媒介される一種の自然力信仰であった」p.114)と弁別される中国の天の第一のそしておそらく根本的な特質で、この点では-主宰的か造物的かの性格上の差異に目をつむれば、むしろ中世のキリスト神に類似的である、ともいえる。…
  この外枠性とは、‥場(=王朝、国家、社会、秩序)の外から場そのものの存立を問うだけの力をもった根拠性、原理性である。‥場を時には崩壊させ、また創成し変革するといった場そのものの存立を左右するだけの原理力である。」(pp116-117)
-「社会あるいは政治関係上の公・私に、(中国では)なぜ、どのように道義上の観念が浸透したのか、逆に、日本のおほやけ・わたくしには、なぜそれがふくみこまれていないのか…。中国の公・私は、共同体的なそれから、君・国・官と臣・家・民の間の政治的なそれへと整備されていく過程で、‥天の無私・不偏を、政治の原理としてうけいれ、公を「平分」、私を「姦邪」とする、すなわち公平、公正に対する偏頗、姦邪という、道義的な背反・対立をふくみこむに至った、と考えられる。…もういちどいいなおせば、古代の中国では、公・私は、日本の場合と同じように、共同体的なそれから、君・国・官のそれへと膨張していったが、一方、それと並行して、日本にはみられない天の公・私という、より高次なつまり原理的・道義的な概念世界が形成され、それが政治的な公・私にインパクトを与え、浸透というかたちでその内容に影響を与えていた、のであり、この公・私における天と政治との重層的な構造が、まず原初における中国の公・私の特質であった。
  さて、この中国的な、天の公であるが、政治的な公に浸透し、原理的、道義的な内容をもたらしたそれは、政治・社会・道徳の場では、具体的には、天下の公であった。つまり、中国では、君・国・官すなわち朝廷・国家の公は、その外側により上位の天下の公をもち、朝廷・国家の公は、公義、公正、公平といった、原理的、道義的の天下の公によって、みずからをオーソライズしており、この天下の公に対しては、朝廷・国家といえども、その位相として、一姓一家の私であることをまぬがれない。…
  明末期には、民の所有欲、生存欲が‥肯定されるようになり、…私の調和態としての公、すなわち「天下の私を合して以て天下の公を成す」‥といった公が、民の立場から主張された。天下の公は、為政層の道義、原理ではなくなり、民の私の調和的な集積、すなわち天下の民の間相互の道義、原理となった。
  清末期には、民の自然権すなわち民権が天下の公の実質とされ、皇帝ら為政層の政治権力が、少数の権力であるという理由で私として斥けられ、天下は、名目、実質ともに民の天下となり、公は道義的にも原理的にも民のものとなった。(pp.201-212)
-「天、天下の公を政治や社会のレベルでとらえたとき、具体的にそれは何であろうか。結論をさきにすると、ひとつは「生民」、ひとつは「均」であろうと思う。
  生民というのは、たんなる地上の民ではなく、まして朝廷の民ではない。…天の生民のことで、つまり生存を天に依拠する民である。この生民は、天に依拠して生きるのであって、朝廷・国家まして官に依拠して生きるのではなく、少なくとも原理的に、天の民であって、朝廷・国家の民ではない。「民の欲する所、天必ずこれに従う」‥といわれるゆえんである。…
  「天下の公」が、政治・社会レベルでは「生民」であるというのは、具体的には、民の生存、所有などの自然権がかたよりなく充足されている状態をいうが、当初は皇帝の公正な政治姿勢として期待されていたにすぎないものが、明代以後には、民の側からの要求度をまし、民の私の集積および民の私の間の調和を「天下の公」の実質とするようになりさらに、清末にはこの自然権のなかに政治的な権利の平等という観念が浸透し、民の存在じたいが、その多数性によって、公とされるにいたった‥。
  つぎに、「天下の公」の政治・社会レベルでの内容のふたつめとしてあげた「均」であるが、これは‥生存、所有の自然権のかたよりのない充足、ということのなかに明示されている。…
  この「均」が生存、所有欲についていわれるようになるのは、やはり明末になってからで(ある)。ただし、‥この「均」は、地主や農民がそれぞれの「分」に応じ、それぞれの「分」が均しなみに充たされるということで、「分」間の所有の不平等を等しくしようというのではない。
  それからすれば、清末の革命派の「均」は、‥「公産」「共産」を志向する、具体的には土地の公有、共有、国有化を社会主義的にめざしたもので、ここでは所有関係上の「均」が「天下の公」の実質である。
  そしてこの「均」が、「生民」の経済的自然権に政治的な民権が加わったのと呼応して、貧富だけではなく、貴賎、人種、男女のあらゆる「分」の不平等を均しくするという、社会的な平等、自由の権利についての「均」となった‥。ここで留意しておきたいのは、ここでも平等であるがゆえに、数の論理がはたらき、「小己」「個人」の自由は時として「少数人」すなわち専制者の自由として斥けられ、そのばあいには、自由は「多数人」の「団体」「総体」「国民」「国群」の自由であってはじめて容認されるということである。…
  日本のおほやけは、おおざっぱには、共同体的な公に由来する「朝廷・国家の公」にほぼ相当するだけで、外円部の天、天下の公、人人の公、天下為公、均平などの原理的・道義的な公については、それらのすべてを欠いている、といえる。」(pp.216-223)
 *溝口雄三『中国の衝撃』:「ここで留意すべきことは、‥歴代王朝によって継承されてきた「天」の統治理念(民以食為天、均貧富、万物得其所)は、例えば清末の大同思想、孫文の民生主義‥、またその後の社会主義理念として、構造式を変えながらも、基本的には依然として継承されつづけた。それは、統治理念としての天が、実は民の声である、ということを反映している。中国においては、天の統治理念は、本来的に社会主義的であり、社会主義の名目いかんにかかわらず、天(相互扶助)の理念は、中国の人民の総体的生存にとって軽々しくは破棄できないものである。」(p.113)