私の国際情勢認識
  1.21世紀の国際平和のあり方を規定する基本的要素

2014.06.18.

4月17日付のコラムで紹介した文章をさらに膨らませた内容のお話しを5月16日に法律家7団体主催の会合で行いました。いつも脱線することが多い私ですが、法律が専門の方が多い聴衆を前にして、きっちりしたお話をしなければという思いから、文章にしたものを読み上げました。全体は3つの柱からなっていますが、長いので、ここでは3回に分けて紹介します。私の国際情勢認識をまとめたものとしてお読みいただければと思います。

私が外交実務を経験する中で培った確信は、いかなる政策・提言も、徹底したリアリズムに基づく現状分析に基づくことが不可欠だということである。さらに言えば、徹底したリアリズムに基づく分析を踏まえれば、説得力ある政策提起に自ずと近づくということでもある。そのことはアジアの平和についても当てはまることは言うまでもない。
そういう認識に基づいて、今回の報告では、まず、21世紀の国際平和のあり方を規定する基本的要素を整理する。次に、米ソ冷戦後の最大の事件であり、今後の国際情勢のあり方を考える上で多くの問題を客観的に提起しているウクライナ危機に関して、その中であぶり出された国際的諸問題について問題点の整理を試みる。最後に、本日与えられたテーマである日米中関係とアジアの平和に関し、私たちが踏まえるべきポイントを提起することとしたい。

1.21世紀の国際平和のあり方を規定する基本的要素

以下では、21世紀の国際関係を規定する基本的要素を整理確認し、21世紀以後の国際平和のあり方を考える上での私たちの認識の共有を図りたい。そのことは、アジアの平和を考える上での大前提であるし、米中日関係のあるべき方向性を考える上での共通の座標軸を提供することにもなるはずである。また、冒頭報告ではお話しする予定はないが、21世紀にふさわしい日本外交の指針を得る上でも、この作業は欠かすことができないものであると思う。

<国際相互依存>
 産業革命を出発点とする科学技術の発展は、20世紀に情報通信革命を生みだし、交通運輸手段の発展とあいまって国際相互依存の不可逆的進行という流れを生みだした。そのことを劇的な形で示したのは、2008年にギリシャで起こった財政破綻(デフォルト危機)が一気に世界金融危機を引き起こした事実である。
 即ち、今やアメリカを含む世界のいかなる大国といえども、世界のいずれかの地域で発生する事件から無傷ではあり得ず、世界のすべての国々及び人々が運命共同体の一員になったということだ。これが国際相互依存の持つ人類史的意味である。世界において軍事的一極支配を続けることに執着するアメリカですら、尖閣問題をめぐる日中間の軍事的緊張を前にして、「国際経済は脆弱なので、日中が仲違いをすることを見逃す余裕はない」という深刻な認識表明をせざるを得ないのも、正に国際相互依存の働きを認識するからにほかならない。つまり、国際相互依存の不可逆的進行そのものが戦争という選択肢を各国から奪いあげたということだ。このことは、アジアの平和を考える上でも、すべてのものにとっての出発点となる基本的認識でなければならない。
 付言すれば、安倍政権の恐るべき好戦的態度を貫いているのは、この国際相互依存及びその国際関係に対して持つ意味に対する認識の致命的欠落である。このことは、「アベノミクス」なるものをひっさげて政権の支持率拡大(仮に一時的なものにせよ)に成功した安倍政権であることを考慮するとき、一見矛盾であるかのように見える。しかし、最近のIMFの安倍政権の経済政策に対する批判・勧告にも明らかなとおり、アベノミクスに対する国際的評価は極めて厳しい。アベノミクスに対する正面からの批判が一部の識者のレベルに押さえ込まれている日本の現状は寒心に堪えないものがある。

<戦争・核>
 戦争の手段としての兵器体系は、産業革命以後、殺傷破壊力及び到達距離/時間(推力)のいずれにおいても飛躍的な発展を遂げた。そうした兵器体系が如何に恐るべき結果を招致するかを最初に示したのが、グロティウスによって提起され、戦時国際法上の重要なルールとされてきた戦地(戦闘員)と後方(非戦闘員)との区別という決まりを踏みにじった第一次大戦だった。その結果、「政治の継続」「政治目的の達成手段」として正当化されてきた戦争を規制しなければならないという認識が国際的に生まれ、国際連盟規約及び不戦条約を生んだ。
しかし、それらの試みは第二次大戦の発生を防ぐことには無力だった。第二次大戦においては、民間人を標的とする戦略爆撃が加わり、戦争の破壊性・残虐性はもはや誰の眼にも明らかとなった。戦争は人類の意味ある存続に対する絶対矛盾となったのである。こうして国際連合憲章ははじめて戦争を違法化した。しかし、国連憲章は、違法化された戦争に訴える存在に対する備えとして、国連による集団安全保障体制を設けるとともに、国連が必要な措置をとるまでの間の一時的な国家の権利として「個別的及び集団的な自衛権」の軍事力行使を認めた。
 国連憲章制定直後に広島・長崎に投下された原爆は「核時代」の到来を告げた。核兵器の登場は、人類の意味ある存続そのものを破壊し尽くす、統御不能の結果をもたらすことを認識させた。ここにおいて人類は、戦争を単に違法化するだけではなく、戦争・核生物化学兵器(大量破壊兵器)を根絶しない限り、人類の意味ある存続を期しがたい状況に直面することになった。ちなみに、核兵器にとどまらず、核エネルギーそのものが人類の意味ある存続を脅かす危険性があることについても、スリーマイル、チェルノブイリ、福島第一原発の事態を経験したことで、国際的に問題意識が高まりつつある。
 しかし、アメリカの核固執政策(軍事における核抑止力政策と非軍事における原子力平和利用政策)が最大の障碍となって、化学生物兵器は国際的に違法化されたのに、ひとり核兵器及びその運搬手段としてのミサイルについては違法化への端緒すら生まれていない。また、原子力平和利用(原発)についてもNPTという二重基準に満ちたあいまいな法的枠組みしか存在していない。核兵器にとどまらず核そのものを国際的に違法化し、全面的に廃絶することは21世紀国際社会の喫緊の課題である。
付言すれば、非核三原則を言いながらアメリカの核抑止力(核の傘)に頼ることを今や当然視する日本国内の世論状況は、国際的に見ても異常の極みと言わなければならない。この異常さが多数の原発立地を許し、福島第一原発の「人災」を引き越した。曖昧模糊とした核認識を清算し、日米核軍事同盟にキッパリとしたけじめをつけない限り、日本が国際的な核廃絶そしてアジアの平和に向けたリーダーシップをとることは夢のまた夢である。

<国際的アナキー>
 通信・郵便・海事など、国際協力の必要性が認識される分野から始まった国際機関の歴史は国際連盟そして国際連合へと発展してきた。しかし、国際機関が主権国家の同意と授権の範囲内でのみ存在し、機能するという本質は、大国をはじめとする主権国家が自らの主権を簡単には手放さないだろうから、21世紀以後も変わらないだろう。国連、IMF・GATT/WTO(TPP)体制、さらには様々な地域機構・専門機関が有効な役割・機能を発揮し得ないことの最大の原因もここにある。国家における中央政府に相当する統治機構が世界規模で出現する可能性は、予見しうる将来にわたって展望されない。イギリスの国際政治学者ヘドレー・ブルが「政府なき社会」(anarchical society)と名づけた、国際的アナキーの本質を無視・捨象した、アジアの平和に関する政策提起がいかなる現実的説得力をも持ち得ない根本的原因は正にここにある。
国際的アナキーを解決する取り組みにおける最大の問題は、唯一の軍事超大国として君臨するアメリカが世界的ヘゲモニーに固執する国際観を改めないことにある。アメリカの国際観を変えさせるためには、「猫(アメリカ)に如何にして鈴をつける(世界的ヘゲモニー放棄)か」が21世紀国際社会にとって優先的に取り組むべき課題である。
日本国内では、例えば、東アジア共同体などの平和構築のための構想が唱えられることがある。しかし率直に言って、そのような主張の多くは客観的実現性の裏付けを欠いている。その原因は、構想提起者の国際情勢認識における政治的リアリズムの欠落にあると言わざるを得ない。政治的リアリズムの欠落を克服することは、日本発の問題/政策提起が国際政治を動かす力を備えるための先決条件であることを改めて強調しておきたい。

<地球規模の諸問題>
 地球規模の大量消費文明の拡大と世界人口の爆発的増大は、今や様々な地球規模の諸問題(環境、エネルギー、資源、貧困・格差、感染症等々)を生みだしている。1980年代以後の新自由主義の世界的猖獗はさらに問題を深刻化させてきた。
この問題を解決するに当たっては、少なくとも以下の4点を共通の認識として国際的に確認することから始めなければならない。 第一、先進国に生まれるか途上国に生まれるかによって人間の価値に差がつけられることを固定化する(貧富による格差・差別が構造化されること)は、基本的人権の普遍性が承認された21世紀においては許されないこと。新自由主義が野放しの世界経済のあり方は異常としか言いようがないのである。
第二、先進国並みの消費生活を地上すべての人々にあまねく実現することは地球の受容能力をはるかに越えていること。途上諸国は先進国並みの生活水準の実現を目指す成長開発戦略に余念がなく、先進諸国は自らの生活水準を既得権として譲らない。これでは早晩破綻が来ることは目に見えている。すべての人々が均霑する持続可能な生活水準に関する国際的コンセンサスを実現し、そのコンセンサスに基づいて先進諸国も途上諸国も経済政策を協調させなければならない待ったなしの段階に来ている。
第三、以上の問題を放置すれば早晩確実に人類の意味ある存続は不可能になること。北極及び南極における氷山が崩壊して海に崩れ落ちる映像は、正に人類の行く先を象徴している。
第四、地球的規模の諸問題として一括される問題群は、従来のような一国単位で物事を考える発想・取り組みによっては解決不能であり、世界あげての取り組みが求められていること。一国単位の発想がはびこる限り、他国を犠牲にしてでも自国の平和、安全、繁栄を追求するという政策を克服することはできない。その利己主義こそが各国の膨大な軍事費の支出につながっている。逆に言えば、この発想を克服することにより、膨大な軍事費を地球的規模の諸問題の解決に振り向けることが可能となる。
これらの問題に対する国際的認識・取り組みを妨げているのは、先進諸国が既得権益に安住する惰性的思考にあるが、そういう状況を固定化してきた最大の元凶はアメリカの一国主義である。ここでも「猫(アメリカ)に如何にして鈴をつける(一国主義固執清算)か」が21世紀国際社会にとっての先決課題であることが理解されるだろう。
日本について付言すれば、地球規模の諸問題に対する国民的関心は存在するし、国際的NPO/NGOへの参加・連携を含め、積極的に活動する市民層がある。しかし、これらの問題の巨大性を踏まえれば、市民運動に満足するにとどまらず、官民挙げて全力を傾注する取り組みが不可欠である。そのためには、政官財癒着構造のもとで消極性が目立つ日本政治のあり方そのものを根本から変えていく発想が国民的コンセンサスとして確立しなければならず、私たちがそのための政治意識を持ち、政治に対して強力な働きかけを行うことが緊急に求められている。

<普遍的価値>
 一人一人の人間に固有なものとして備わる価値即ち尊厳及びそれに基づく人権・デモクラシーという欧州起源の概念は、第二次大戦を経て普遍的価値として世界的に確立した。今や、尊厳をないがしろにし、人権・デモクラシーを承認しないいかなる国家・政権も、国際関係の当事者/メンバーとしての資格を認められない。ジェノサイドを行った一国の政治支配者が国際刑事裁判の訴追を受けるメカニズム(まだ原初的段階にあり、様々な問題を抱えているが)が機能し始めたのも、この人類史的な流れを抜きにしてはあり得ない。
また歴史を振り返らないものはその歴史を繰り返すという世界的な歴史認識とも結びついて、過去における国家的な大量の人権侵害行為に対して国家として謝罪し、奪われ、痛めつけられた人間の尊厳の回復に取り組むことも、今や国際的スタンダードとして確立しつつある。人類史とは普遍的価値をあまねく実現するためにたゆまず歩みを進める歴史と位置づけられるようになった。強調しなければならないのは、日本において支配的な歴史認識は、世界的に見てきわめて異常かつ突出していることである。
しかし、基本的人権についての国際的認識が統一されるに至っているわけではない。アメリカを筆頭とする欧米先進諸国がもっぱら重視するのは政治的市民的権利である。これに対して中国を含む途上諸国は、政治的市民的権利の重要性を認めることにやぶさかではないとしつつ、その実現の前提となる経済的社会的文化的権利の実現が焦眉の急であるとする。またデモクラシーに関しても、その普遍的価値性を承認しつつも、その具体的態様は個々の国家の歴史的、文化的、思想的等々の背景をも踏まえるべきだとする中露を筆頭とする国々がアメリカ以下の欧米諸国と対立している。
この問題については文明間対話という息の長い取り組みが欠かせず、この点については国際的な認識が生まれ、取り組みも始まっている。同時にすでに述べたように、この問題は世界的格差/差別構造とも密接な関係があることを認識しなければならない。世界的アナキーへの建設的取り組み及び地球規模の諸問題に対する国際的取り組みを組織するに当たっては、その前提として、人間の尊厳、人権・デモクラシーという普遍的価値を一貫した指針として基底に据え付けることを国際的な共通認識として確立することが先決課題となる。 日本について付言すると、人権意識が育まれつつあることを認めるにはやぶさかではないが、死刑制度容認が90%に近い(しかも一貫して容認世論が増加している)という一事だけをとっても、日本人の人権意識の所在に対しては疑問を付さざるを得ない。
ましてやデモクラシーに至っては、「民主主義とは多数決のこと」という類の認識が教育現場でまかり通っていることに端的に示されるとおり、また、古くからの「お上」意識が相変わらず幅を利かせている日本の政治環境のもとでは、制度としての民主主義は曲がりなりに存在しているとしても、理念及び運動としてのデモクラシー(丸山眞男)は日本の政治土壌に根を下ろしているとは到底言えない。 日本が普遍的価値の実現という分野で国際的に主体的な役割を担うためには、まずその前提として、普遍的価値を自らのものにするという課題を主体的に認識し、意識的に取り組むことが先決だろう。

<平和>
 古来、平和観としては「力による」平和観と「力によらない」平和観があり、現実の世界史においては前者が圧倒的優位にあった。しかし、国際相互依存、戦争・核、地球規模の諸問題そして普遍的価値という上記の基本的要素は、21世紀以後の国際関係は「力によらない」平和観のみを許容することを客観的に明らかにしている。
そのことは直ちに、力による政治(power politics)を根底におくアメリカ(及び日本)の天動説的国際観がもはや時代錯誤であることを明らかにする。中国の地動説的国際観は「力によらない」平和観との親和性が強い。ただし、アメリカの政策に対抗するためとは言え、中国が国防力建設を重視する政策をとるのは上記基本的要素に関する認識が徹底していないことにも原因がある。
しかし、国際的アナキーが将来にわたって続くことを考えれば、予見できる将来にわたって、主権国家が国際関係のアクターとして中心的位置を占める構図が変わることはない。求められるのは、21世紀の国際関係を規定する以上の諸要素の客観的存在と主権国家の国際情勢に関する今や陳腐を極める主観的認識との間に存在する深刻なギャップを解消し、後者をして前者に即したものに改めさせ、「力による」平和観を放棄し、「力によらない」平和観に立脚させることである。
東アジアの様々な不安定要素のほとんどもまたこのギャップに起因している。東アジアの平和に関しては、「力によらない」平和観に基づいて、対話・外交によって如何なる問題にも粘り強く取り組むという基本姿勢をすべての関係国が確立することが避けて通れない課題である。
日本について付言すれば、平和憲法の屋台骨が抜き取られようとしている今日、その策動を国民的に阻止することが喫緊の課題である。しかも、平和憲法を換骨奪胎されることを阻止することは、ひとり日本にとってだけでなく、日本の「力によらない」平和観をアメリカ主導の「力による」平和観に対峙させるという巨大な国際政治上の意味を持つ。私たちに必要なのは、リアリズムに基づく分析そのものが、21世紀においては「力によらない」平和観のみを許容することを認識し、確信を持つことである。