政治の貧困
-ウクライナ問題における争点⑥-

2014.04.18.

私は、ウクライナ問題だけではなく、今日の国際政治、国内政治を見ていてつくづく悲観的になることが多いのです。それは、本当に政治家と呼ぶにふさわしい傑出した人物が見当たらなくなったことと無縁ではないと思います。もちろん、今日はデモクラシーの時代であって、英雄豪傑の時代ではないぐらいのことは弁えているつもりですが、「デモクラシーは衆愚政治に陥り易い」を地でいった現実がまかり通るのを見ていると、本当にやりきれない気持ちになることが多いのです。
 私の素直な実感を言いますと、中国の最高指導部は世界スタンダードで言っても軒並み上位にランクする人々で占められていると思います。それは中国独自の指導者選抜メカニズムが出来上がっていることと無縁ではありません。彼らはすべて、地方政治で鍛え上げられ、ふるいにかけられ、それをクリアしたものだけが最高指導部入りするのです。ですから、最高指導部入りするのは、今回紹介する文章にあるように、「政権に就いたときには世の中を見通し、思考にも長けて」いる人々に限定されているのです。
 このような指導者選抜メカニズムは、中国共産党の一党支配システムが前提にあることは間違いありません。そこがいわゆる西側デモクラシーの国々にとってはうさん臭くもあり、ケチをつけたくなるところでもあるのですが、今や衆愚政治に堕しきっている日本をはじめとする西側諸国にとっては、如何にして「よりマシな政治家」を育て上げるのかという課題がそれでチャラになるということではないでしょう。
 ウクライナ政治の現実は、条件も何もないのに西側デモクラシーの外観に飛びつくといかなる悲惨な結果が待ち受けているかを悲劇的に示す典型例だと思います。今回紹介する程亜文の二つの文章は、政治の貧困がウクライナのウチにもソトにも蔓延していることが今日の深刻な事態を招いていることを見事に描き出していると思います。

1.程亜文「自制することを知らない政治 ウクライナを災難に導くことを恐れる」(3月5日付北京青年報)

程亜文についてはよく分からないのですが、国際問題研究者という紹介があります。素性はハッキリしませんが、内容はしっかりしていると思います。

 ロシアがいかなる形でウクライナに武力介入するか如何にかかわらず、ウクライナがバラバラになろうとしてきしむ音が聞こえるようだ。国内的には、キエフ広場の抗議者がヤヌコビッチ合法政権をひっくり返したあとは、ウクライナが国家統一を維持する政治的基盤はもはや存在せず、東南部住民はウクライナ国家がロシアと正常な関係を維持できるとは信じなくなった。国際的に言えば、数カ月の巨大な変化を受けて、ロシアはもはや親露勢力が権力を掌握し、プーチンが唱えるユーラシア連合をウクライナが頼りにするという可能性に望みをつなぐこともなくなった。米欧は一心不乱にウクライナに対するロシアの影響を排除しようとしている。このように、分裂を促す力がすでに全開状態だ。
 ウクライナには今起こりつつあり、また、これから起こるであろう変化を阻止する力はない。西側に一辺倒で、米欧に多くを期待しているウクライナ人は、米欧のウクライナに対する支持は、ロシアに対する反対を策動することを助ける以外には、実質的な助けになることはないということを悟ることになるだろう。ウクライナが希望する100億ドル以上の国際援助に関しては、自分自身が債務で苦しんでいる米欧が提供できるはずもなく、軍事的支持に関しては、欧州にはその力も意思もないし、アメリカはアフガニスタンとイラクの戦争の教訓を学んでいる最中で、それどころではない。
 米欧ができることと言えば、ロシアに対する経済制裁だ。しかし、それはなんの役にも立たない。ロシア経済はそれほど西側に依存していないし、逆に欧州はロシアの天然ガスなしではやっていけない。ロシアももちろん得失について考えるが、長期的な安全保障と一時的な経済的損失との間ではすでに明確な選択を行っており、ロシアが計算しているのは長期的根本的な利益であって、目先のそろばんをはじくことではない。
 ウクライナで起こりうる内戦と米欧露の駆け引きの激化の影響は地域に限定されるのではなく、その累はユーラシアひいてはグローバル規模のものとなる。危機がここまでになったのは、客観情勢の制約による面が大きいが、舞台でのさばるウクライナの政治屋たちが私利私欲に走り、物事の重大性を理解しないことが火に油を注ぎ、事態をますます悪化させている。
 ウクライナの政治屋たちは、中国北宋時代の新党と旧党あるいは明朝時代の東林党と閹党のようなもので、党争に明け暮れて国家の利益を顧みようとしない。強大な国家と国境を接している国家であるウクライナにとっての最大の選択とは国家の統一と保全を図ることを前提に置くことであるはずなのに、この核心的な利益が保障されないもとでは、いかなる理想、イデオロギーもなんの意味をも持たない。
ウクライナの置かれた地縁的環境のもとでは、同国としては右顧左眄し、いずれの側とのよしみをも通じるほかなく、「選択の自由」などはあり得ない。ところが悲劇なのは、ウクライナの政治屋たちはどちらか一方に一辺倒になるという「自由な選択」をしなければ気がすまないということだ。
 米欧も明らかに短視眼的であり、プーチンが妥協するはずはないのに、ロシアにとって不利になる政治的変化だけを演出し、プーチンを壁際まで追いやった。政治とは、相手に退路を与え、自らにも出口を確保するという芸術である。ところが、キッシンジャーのように自制することが分かっている戦略家があまりにも少ない。ブレジンスキーはアメリカのためにユーラシア「グランド・デザイン」を設計したが、アメリカが深入りしすぎた結果と言えば、オバマ政権の信頼度に深い傷を負い、その威信がさらに値引きされたことだ。
 しかも米欧が直面している挑戦にも違いがある。ウクライナが内戦に陥れば、ユーラシア大陸には混乱の局面が現れる。そのことはアメリカにとっては必ずしも大きな損失とはならないかもしれないが、ユーラシアの諸大国の実力を大きく消耗させることに加え、ユーラシア大陸が経済上の一体性を保つことを困難にし、ロシアのユーラシア連合も、EUの東方拡大も、中国の陸上シルクロード構想もすべてはウクライナにおいて阻止されることになる。ロシア制裁を討議するに際して、独英などの欧州諸国がアメリカと一線を画す理由はここにある。
 「世に英雄なくして、青二才に名をなさしめる。」ウクライナ危機が激しくなればなるほど、100年前に第一世界大戦を連想する。問題は当時ほどには深刻ではないかもしれないが、衝突がますます厳しくなっているこの時代において、真に戦略的視野を備え、利害得失を弁え、責任を背負って立つ政治家がますます少なくなっている。恐らく、このことの方がもっと危険なことなのだ。

2.程亜文「クリミア住民投票は誰の「チーズ」を動かしたか」(3月18日付北京青年報)

表題の意味(特に「チーズ」とされているものの意味するもの)は私にも今一つつかめないのですが、そのことはこの文章の説得力を弱めるものではないと思います。

 ウクライナ現政権の担当者はおそらく、自分たちがヤヌコビッチを追い出して国家権力を獲得したその時がまた、国家が分裂に陥り、前途も命運も崖っぷちに立つときだということに思いも及ばなかっただろう。クリミアの住民投票が合法か違法か、国際的承認を得るべきか否かに関し、ウクライナと欧米はウクライナ憲法に違反していると一致して考えているし、ロシアは国際法に完全に合致していると主張している。双方が自分に有利な根拠を念入りに選び出しており、それぞれの理屈はともに成立するのであって、それこそが現実の残酷性を裏づけている。大国の駆け引きにおいては、決定的なのは法律的な合法性などではなく、古代ギリシャの哲学者プラトンが2000年前に『国家』で指摘したように、「正義とは強者の利益である」ということだ。
 クリミア住民投票の勝者と敗者は誰で、今後どのような影響が生じるだろうか。
 最大の敗者は間違いなくウクライナだ。クリミアはもはやその管轄下にはなくなったし、さらに深刻なことに、今後さらにドミノ効果で東部地域がより高度の自治を求め、さらにはロシア編入を要求するかもしれない。
 しかし、クリミアとウクライナはしょせん将棋のコマに過ぎず、背後で盤面を動かしているのは米欧露という三大政治力だ。三者はともに小さいところでは勝利したが、大きいところではともに敗北した。米欧が狙ったのはロシアの戦略的スペースを全面的に圧縮することで、ウクライナにおいてその狙いは半分実現したが、ロシアの強力な反発に遭遇するとなすすべはなく、その結果アメリカの威信は傷つけられた。欧州にとっても、ウクライナを手中にするという狙いは空振りに終わり、逆に激動して不安定な欧州東部の縁という現実に直面することになった。
 ロシアは敗北を勝利に変え、黒海の重要な港湾を扼する権利を守り、ウクライナ及び米欧と値段交渉をするカードを獲得したが、ウクライナ及び米欧との関係を悪化させ、プーチンにとっては、ウクライナをユーラシア連合に引き入れるという願望も見通しが立たなくなった。米欧による対ロシア制裁も無視できない面倒ごとであり、ロシアの長期的な発展にとって不利である。
 ウクライナ危機の局面は短時間で解消する可能性はなく、米欧露は少なくとも今後数年間は対立状態で推移するだろう。このように誰にとっても「敗北の方が多い」のにもかかわらず、なぜ誰もが闘いに明け暮れし、止まることを知らないのだろうか。主な原因としては二つある。
 一つは、今日の世界において、大国を含め、成熟し叡智に富む政治家があまりにも少なくなったということだ。太平の世ではすべて凡人であり、卓越した英傑を生まない。19世紀及び20世紀の偉大な政治家のことを考えてみよう。今日におけるように、「民主」とか「人権」とかを声高に唱えることで登り詰めたものがいただろうか。彼らはすべて、戦場あるいは内外政の重要な場で長年にわたって鍛え上げられ、政権に就いたときには世の中を見通し、思考にも長けていた。彼らは力の論理を深刻に理解するとともに、自制及びバランスの重要性について誰よりも理解していた。今の政治屋たちには、「クリミアはロシアにとって核心的利益であり、ウクライナで圧迫すればロシアを追い詰めるだけだ」と述べたキッシンジャーの言葉が聞き入れられないのだ。彼らはまた、ホドルコフスキーがウクライナで行った演説の意味が理解できなかった。ロシアのかつての大富豪であった彼が率直に述べたのは、ロシア人にとってのクリミアは「神聖な土地」であるということだ。ところでホドルコフスキーとは、プーチンによって十数年にわたって投獄されていた人物である。
 もう一つは、現代は政治的想像力が極度に貧困な時代であり、政治的な語りの背後にある利益構造が日増しに偏狭になっているということだ。ソ連時代には、その最高指導者にはかつて少数民族出身者を輩出した。スターリンとシュワルナゼはグルジア人、フルシチョフとブレジネフはウクライナ人、グロムイコは白ロシア人という具合で、このことはソ連が過去において政治的な包容力があったことを示している。しかし、何故にソ連が分裂し、新生国家の内部では紛争が絶えないのだろうか。大きな原因の一つは、大国というシステムにおいては最高権力を手にするチャンスは極めて少ないのに、大国が分裂瓦解することによって、野心家が「国家指導者」に登り詰めるチャンスが増えるということだ。一般の民衆は混乱を望まないが、野心のある政治屋は政治が激動することを憚らない。「民族独立」「自由死守」といった類の、人々が慣れ親しんだ政治的な語りの背後にあるのは、往々にして口に出せない欲得なのだ。「エリート」が美辞麗句の政治的語りで「成功」すると、その後に来るのは吹き散らすことができない政治的暗雲というわけだ。