日米中関係と東アジアの平和

2014.04.17.

*ある雑誌に寄稿した文章です。

 私に与えられた課題は、日米中関係及び東アジアの平和という二つのテーマとのかかわりにおいて安倍政権の外交、特にその危険性について考えることである。日米中関係のあり方如何によって東アジアの平和が大きく規定され、影響される以上、この二つのテーマは密接に結びついている。
しかし、東アジアの平和にかかわるアクターとしては米中日3国だけではなく、南北朝鮮、東南アジア諸国、ロシア(さらにはオーストラリア、インド)の存在も無視するわけにはいかない。また、東アジアの平和を考える上では、政治的・軍事的要因のみならず経済的・文化的・環境的要因を視野に収めることが不可欠である。
したがって、以下においてはまず日米中3国それぞれの国際観に着目してその関係の特徴的要素を整理し、そのために東アジアが今日なお多くの紛争要因を抱えていることを指摘する。次に安倍政権の外交(以下「安倍外交」)の特徴的要素を指摘して、その危険性を確認する。最後に、21世紀の国際関係を規定する基本的要因を整理確認し、東アジアの平和の可能性について考える。
なお、本稿にいう「東アジア」とは主として地理的な概念として用いる。アメリカの対外政策においては「アジア太平洋地域(APR)」という地理的概念が用いられることが多い。APRにはオーストラリアをはじめとする南太平洋地域及びインドをはじめとする南アジア地域が含まれるが、本稿にいう東アジアとは主に東北アジア及び東南アジアを念頭におく(オーストラリア及びインドは、アメリカの対APR政策とのかかわりで考察の対象とする)。
また、本稿の主題である「平和」については、例えば憲法第9条の体する「平和」とアメリカの言う「平和」あるいは安倍首相が好んでいう「積極平和主義」とが氷炭相容れないことはいわば自明だ。しかし、「東アジアの平和」というときにいかなる含意の「平和」を考えるべきかについては、21世紀の国際関係を規定する基本的要因をまとめた上で明らかにする。

1.日米中関係と東アジア

21世紀に入り、東アジア情勢を決定的に左右するのはアメリカ(世界No.1)と中国(世界No.2)にしぼられてきた。米中両国の東アジアを含む国際情勢認識においてもそういう確信が公然と語られる状況が生まれている。特に2013年6月にアメリカ・カリフォルニアで行われたオバマ・習近平会談において、習近平が提唱した米中新型大国関係構築をオバマが原則的に受け入れることにより、米中関係は新しい段階への第一歩を記すことになった。東アジアの平和を考えるに当たっては、米中関係が今後どのように展開するかが事態を左右するだろう。アメリカは、対中牽制という観点から日米同盟を引き続き重視するが、安倍政権を含む日本の当事者能力に対する米中両国の評価は極めて低い。

<日米中関係>
 日米中関係とは、具体的には米中、日米及び日中という三つの二国間関係から成り立っている。本来であれば、日米中という三国間関係という要素も考えるべきだ(例えば米中露及び米中欧関係においては、三つの二国間関係に加えて三国間関係という要素を抜きにすることはできない)が、日米関係が対等平等でないことによって、日米中関係はほぼ米中関係に吸収されてしまう。ちなみに、日米中関係が独立した要素として成立する可能性は、日本が今後さらに右傾化して対米「自主」性を強める場合、あるいは私たち主権者が主体的に行動することによって日本の対米従属を脱する場合のいずれかのケースにおいて、将来的に現実となりうる。

<アメリカ>
 アメリカには建国以来の牢固とした選良意識(世界に先がけて人権・デモクラシーを実現した国家として、これを世界に推し広める使命があるとする意識)がある。アメリカの国際関係に対するアプローチを特徴づけるのは、自らの価値観を基軸にして国際関係をリードしようとする「天動説的」国際観である。
即ちこの国際観は、ウェストファリア条約以後の欧州に成立した、主権国家の対等平等性を本質とする地平的な(horizontal)国際社会(the international society)という国際関係のあり方に対して極めて冷淡(無関心さらには敵対的)である。アメリカが実現しようとするのは、アメリカが中心となり、同国の価値観を共有し、受け入れる国々からなる垂直的な(vertical)国際共同体(the international community)である。
過去の経緯を捨象して現代に限局して言えば、唯一の超大国となったアメリカは、自らの価値観を世界に推し広め、世界を国際共同体化するために、各国に自らの価値観の受け入れを要求し、その価値観の受け入れを肯んじない存在(中国・ロシア、「ならず者」国家、テロリストなどの非国家主体等から成る「様々な不安定要因」) に対して軍事力を背景にした力による政治(power politics)を展開しようとする。
しかし、アメリカ経済力の衰え、それに起因する世界経済に占める同国経済の比重の相対的及び絶対的低下(例:G7からG20への重心移動)、そして後述する国際的相互依存の不可逆的進行は、アメリカをして力による政治の調整を余儀なくさせてきた。皮肉なことに、米ソ冷戦が終結してアメリカが追求してきた世界に対する一極支配が現実になろうとした矢先に、アメリカ経済の衰え・国際的地盤低下の構図が明確になり、一極支配の実現を阻む最大の原因として浮上してきたのだ。
クリントン及びオバマ両政権(対テロ戦争に走ったブッシュ政権は除く)は、価値観及び力による政治に微修正・微調整を加えることで、世界支配(アメリカ的価値観に基づく国際共同体形成)の実現という政策を堅持しようとしている。価値観については、市場経済を人権・デモクラシーと同列の普遍的価値として据え、アメリカ主導の新自由主義グローバリゼーションを実現する(例:APRではTPP)形での修正が施される。力による政治に関しては、アメリカがあくまで主動権・指導権を確保する前提のもとで、同盟国の積極的関与を促す調整が行われている(例:APRでは日本、韓国、オーストラリア、インドなどを多角的に動員する軍事同盟網の形成)。

<中国>
中国はかつて東アジア世界の華夷秩序の中心に君臨したが、19~20世紀に欧米日列強による侵略・支配によって国際関係の最底辺に突き落とされた。しかし中国共産党政権は、その屈辱に満ちた体験の中から、国家の大小・強弱・貧富の差異にかかわらない国際関係の実現を追求する認識・政策を確立した(「平和共存5原則」)。つまり、中国の国際関係に対するアプローチを特徴づけるのは主権国家の対等平等性を基底に据える「地動説的」国際観である。
この国際観は、改めて言うまでもなく欧州起源の国際社会という国際関係のあり方との親和性が強い。また、今日の多種多様な国家からなる国際関係のあり方に対する発信力も強い。ここでも過去の経緯を捨象して現代に限局して言えば、改革・開放政策によって世界第2位の経済大国に急台頭した中国は、国際的相互依存の不可逆的進行という時代的特徴をふまえ、相互尊重、共存共嬴を指導理念とする新しい国際政治経済秩序を唱道する。アメリカにとっては経済的要因が価値観及び力による政治に対する修正・調整を迫る要素として働いているが、中国にとっては経済的要因もまたその地動説的国際観を補強する要素となっている。
ちなみに中国は、アメリカの力による政治に屈伏してアメリカ主導の国際共同体入りを受け入れる意思は毛頭ない。中米間には台湾問題が一貫して存在すること、及びオバマ政権が推進するアジア回帰・リバランス戦略(後述)が中国の台頭を強く意識したものであることもあり、中国としてはアメリカの力による政治に対抗するべく、培われた経済力を背景に軍事力を充実することにも力を入れる。それが日本における「中国脅威論」の根拠とされるが、それは基本的に防衛志向型戦力である。

<日本>
明治維新及び第二次大戦敗北という深刻な試練を脱亜入欧(前者)及び対米従属(後者)という他力本願で乗り切ってきた日本は、「井の中の蛙大海を知らず」さながらにむきだしの自己中心主義の国際観に安住してきた。その本質は「天動説」である点でアメリカと同じだが、アメリカには人権・デモクラシーという自らが奉じる普遍的価値による自己検証の可能性があるのに対して、日本の場合は天皇中心主義(戦前)あるいはアメリカ中心主義(戦後)という主観的天動説であって、自らを客観的基準によって検証するという視座が欠落している。
この国際観は、欧州起源の地平的な国際社会という国際関係のあり方との接点をもたない。したがって日本人の国際観は、敵か味方かという二分法しか働かない。その典型が日中関係だ。対等平等な日中関係という視点を育てることができず、「尊敬・畏敬」(明治維新以前)か「軽蔑・敵対」(日清戦争以後)かのいずれかになってしまう。日本人に根強い「アジア蔑視」「朝鮮蔑視」もこの国際観にもともとの起源がある。対米関係も同様だ。鬼畜米英が一夜にして対米べったりとなる。その結果、アメリカ主導の国際共同体に進んで身を投じることになる。
また、日本の天動説的国際観の根底にはもともと客観的価値を育みあるいは受容する土壌が育っていないという日本独特の事情も働いている。例えば、安倍首相はしきりに「価値観外交」を強調するが、彼が人権・デモクラシーを薬籠中のものとしているとは、本人(及びアメリカ)を含め誰も考えていないだろう。安倍式「価値観外交」の普遍的価値(人権・デモクラシー)との無縁性は、歴史問題・いわゆる従軍慰安婦問題に対する彼の言動によって世界的に白日の下にさらされている。良し悪しはともかく、米中には対外関係において拠るべき原則が確立しているが、日本の戦後保守政治にとっての最大かつ深刻な問題は拠るべき原則(客観的価値)の備えがないことにある。

<東アジア>
 米ソ(東西)冷戦は終結したが、東アジアには今日なお米中日絡みの、武力衝突を引き起こしかねない緊張要因が数多く存在する。 東北アジアでは、今日なお台湾問題及び朝鮮半島の南北分裂という冷戦時代の負の遺産が解決されないままである。台湾問題に関しては、中台間の経済関係が深まり、政治的接触も試みられるようになった。しかし、日米同盟が台湾海峡有事を視野に収める方針を放棄しない限り、中国が軍事的警戒を弛めることはあり得ず、核戦争がらみの緊張の根本的解決・解消を展望する可能性は生まれない。
朝鮮半島においては、1953年の休戦協定によって辛うじて戦争再発が回避される極めて不安定な状態が60年以上にわたって続いている。1990年代以後は朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の核開発問題が加わって、朝鮮半島有事は核有事となる危険性が増している。中国がイニシアティヴをとって2003年に開始された、朝鮮半島の非核化及び同半島の平和と安定の実現を目指す6者協議(南北朝鮮プラス米中日露)は、米朝間の相互不信が根強いことが主な原因となって成果を挙げていない。
東北アジアではさらに、2010年以後は尖閣問題を契機に日中間に一触即発の緊張が加わった。日韓間ではかねてから竹島問題が存在する。尖閣及び竹島問題は、日本の歴史認識が異常さを増す(安倍首相の靖国参拝はその端的な表れ)ことに対する中韓の警戒感の増大によってさらに緊張の度合いを増している。
東南アジアでは、ASEANの台頭及び国際的発言力の向上によってヴェトナム戦争の後遺症が克服され、経済を中心とする地域協力及び域外諸国(米中日韓印豪EU)との協力関係が進展してきた。しかし、アメリカのオバマ政権がアジア回帰(第1期)・リバランス(第2期)戦略を推進し、この地域に対する軍事プレゼンスを強化する政策を推進していることを背景に、南シナ海の島嶼の帰属をめぐって権利を主張するヴェトナム、フィリピン、マレーシアなどと、これら島嶼は古来中国領とする中国との間にやはり領土問題をめぐる緊張が生まれている。
以上の緊張要因のすべてが米中(日)絡みであることは見やすい。したがって、これらの緊張要因を解決・解消して東アジアの平和を展望する上でも、米中(日)関係の今後の展開如何が大きなカギを握る。

2.安倍外交の特徴的要素-その危険性-

安倍外交は、主観的天動説の国際観の権化であることにおいて戦後保守政治の典型と位置づけられる。安倍外交に特色があるとすれば次の危険性にある。即ち、歴代政権においては対外的及び対内的考慮に基づき、あるいは自民党の思想的多元性もあって、反動性を露わにすることを制御する意識が曲がりなりにも働いていた。ところが、1990年の湾岸危機を契機とした軍事国際貢献論を皮切りにして国内世論そのものが保守化傾向を強めたこと(それ自体が長年にわたる保守政治の執拗な政策の結実でもある)、自民党における思想的多元性の雲散霧消と右傾化の顕著な進行(安倍政権登場自体がこうした変化の産物と言える)を背景にして、安倍政権は反動的な対外政策を臆面なく追求しようとしている。安倍外交の危険性を際立たせる特徴的要素としては次の諸点を挙げることができる。
 まず、歴代政権が控えていたことで安倍外交が露骨に実現しようとしていることの最大のものは、ポツダム宣言で否定された戦前政治へ日本を回帰させようとしていることだ。ポツダム宣言は、日本に対して軍国主義(思想・組織・人脈)の徹底した清算及び非軍国化と民主国家への生まれ変わりを要求した。日本国憲法特に第9条はポツダム宣言の要求の具体化に一つの本質を持つ。そうであればこそ、戦前政治への回帰を目指す安倍政権は憲法改正(特に第9条改正)に照準を合わせるのだ。そして安倍政権が「積極平和主義」を掲げるのは、平和憲法の理念に基づく外交の否定、そしてポツダム宣言に基づく戦後東アジア国際秩序に対する正面からの挑戦という意図の露骨な表明である。
 第二に、安倍外交は、オバマ政権のアジア回帰・リバランス戦略が日本の協力なしには成り立たないことを捉え、この戦略に全面的に協力する中で可能な限りの対米対等自主性の実現を目指している。日米防衛協力指針見直しに関する日米合意、集団的自衛権行使を可能にするための第9条の解釈変更追求姿勢等はその具体的表れだ。
第三に、安倍外交は、「価値観外交」を標榜して「中国脅威論」を強調し、中国周辺の国々との関係強化を積極的に進め、対中包囲網を形成することに異常なまでのエネルギーを傾ける。それは、中国の軍事的台頭を警戒し、牽制しようとするオバマ戦略に即応する限りでアメリカの評価を得るが、日本の独自性の主張、日中激突へのアメリカの巻き込みの可能性、戦後東アジア国際秩序に対する挑戦という意味において、中国は当然として、アメリカ自身の懸念(ひいては警戒)を引き起こさずにはすまない。
 第四に、安倍外交は偏狭なナショナリズムに基づく自己主張を積極的に行うことをためらわない。すでに述べたように、歴史認識問題(安倍首相の靖国参拝)及び領土問題をめぐって、日中及び日韓関係は最悪な状態に陥っている。中国との一触即発の状況はアメリカをも巻き込みかねない危険水位に達しており、日韓関係の冷却化はアメリカが意図する米日韓の緊密な同盟関係の実現可能性を遠ざける。かつてであれば、アメリカの重大な利益を損なうこのような行動を日本が取ることは考えられなかった。それだけ、安倍外交の自己主張は露骨になっているということだ。
 第五に、安倍外交は優れて政治的軍事的考慮によって支配されており、経済的考慮が著しく欠落している。いわゆるアベノミックスで国内経済の建て直しに取り組む姿勢を取る安倍政権が外交に関しては経済的考慮が欠落しているのは一見矛盾している。しかし、経済政策としてのアベノミックスに対する国際的評価は必ずしも高いものではなく、安倍首相がどこまで経済を分かっているかについても疑問符がつけられる。オバマ政権が「国際経済は極めて脆弱であり、日中が角突き合わせるのを見過ごすだけの余裕はない」と繰り返し警告する発言は、安倍外交における経済不在の本質を突いている。
 最後に、主観的天動説国際観の宿命として、安倍外交には指導理念が欠落しているために、その外交は、本来は手段として位置づけられるべき、大国・日本の国際的地位を回復することが目標そのものとなってしまっている。したがって安倍外交は、これまでの歴代政権の外交と同じく、自家消費用であって国際的アッピール力を持ち得ないのみならず、以上に述べた危険性をいっそう際立たせることになっている。

3.21世紀の国際関係と東アジアの平和

以下では、21世紀の国際関係を規定する基本的要因を整理確認し、21世紀以後の国際関係の基本的方向性に関する私たちの認識の共有を図りたい。そのことにより、1.で整理した米中日関係の進むべき方向性を考えることが可能となり、東アジアにおける不安定要因を解決・解消して平和を展望する視座も得られるだろう。また2.で述べた安倍外交の危険性を克服し、21世紀にふさわしい日本外交の指針を得ることも可能となるはずだ。

<戦争・核>
 戦争の手段としての兵器体系は、産業革命以後、殺傷破壊力及び到達距離/時間(推力)のいずれにおいても飛躍的な発展を遂げた。そうした兵器体系が如何に恐るべき結果を招致するかを最初に示したのが、戦地(戦闘員)と後方(非戦闘員)との区別を無意味化した第一次大戦だった。その結果、「政治の継続」として正当化されてきた戦争を規制しなければならないという認識が国際的に生まれ、国際連盟規約及び不戦条約として結実した。しかし、それらの試みは第二次大戦の発生を防ぐことはできなかった。第二次大戦においては戦略爆撃、生物化学兵器の使用が加わり、戦争の破壊性・残虐性はもはや誰の眼にも明らかとなった。戦争は人類の意味ある存続に対する絶対矛盾となったのだ。こうして国際連合憲章ははじめて戦争を違法化した。
 国連憲章制定直後に広島・長崎に投下された原爆は「核時代」の到来を告げた。核兵器の登場は、戦争がいまや政治目的の達成はおろか、政治の存続基盤そのものを破壊し尽くす「鬼子」として統御不能の結果をもたらすことを認識させた。ここにおいて人類は今や、戦争を単に違法化するだけではなく、戦争・核生物化学兵器(大量破壊兵器)を根絶しない限り人類の意味ある存続を期しがたい状況に直面することになった。ちなみに、核兵器にとどまらず、核エネルギーそのものが人類の意味ある存続を脅かす危険性があることについても、スリーマイル、チェルノブイリ、福島第一原発の事態を経験したことで、国際的に問題意識が高まりつつある。

<国際相互依存>
 産業革命を出発点とする科学技術の発展は、20世紀に情報通信革命を生みだし、交通運輸手段の発展とあいまって国際相互依存の不可逆的進行という流れを生みだした。そのことを劇的な形で示したのは、2008年にギリシャで起こった財政破綻(デフォルト危機)が一気に世界金融危機を引き起こした事実である。
 即ち、今やアメリカを含む世界のいかなる大国といえども、世界のいずれかの地域で発生する事件から無傷ではあり得ず、世界のすべての国々及び人々が運命共同体の一員になったということだ。これが国際相互依存の持つ人類史的意味である。すでに紹介したように、アメリカが「国際経済は脆弱なので、日中が仲違いをすることを見逃す余裕はない」という深刻な認識を持つのも正に国際相互依存の働きを認識しているからにほかならない。つまり、核兵器のみならず、国際相互依存の進行そのものが戦争という選択肢を各国から奪いあげたということだ。

<地球規模の諸問題>
 大量消費の地球規模の拡大と世界人口の爆発的増大は、今や様々な地球規模の諸問題(環境、エネルギー、資源、貧困・格差、感染症等々)を生みだしている。これらの問題に共通するのは、放置すれば確実に人類の意味ある存続を不可能にすること、従来のような一国単位で物事を考える伝統的発想・取り組みによっては解決不能であり、世界あげての取り組みが求められているということである。これまた戦争という「贅沢・浪費」をもはや許さない。

<普遍的価値>
 一人一人の人間に固有なものとして備わる価値即ち尊厳(及びそれに基づく人権・デモクラシー)という欧州起源の概念は、第二次大戦を経て普遍的価値として確立した。今や、尊厳をないがしろにし、人権・デモクラシーを承認しないいかなる国家・政権も、国際関係の当事者としての資格を認められない。また、ジェノサイドを行った一国の政治支配者が国際刑事裁判の訴追を受けるメカニズム(まだ原初的段階にあり、様々な問題を抱えているが)が機能し始めた。また歴史を振り返らないものはその歴史を繰り返すという世界的な歴史認識とも結びついて、過去における国家的な大量の人権侵害行為に対して国家として謝罪し、失われ、傷つけられた人間の尊厳の回復に国家的に取り組むことも、今や国際的スタンダードとして確立しつつある。人類史とは普遍的価値をあまねく実現する永久革命の歴史と位置づけられるようになったのだ。

<国際的アナキー>
 通信・郵便・海事など、国際協力の必要性が認識される分野から始まった国際機関の歴史は国際連盟そして国際連合へと発展して来た。しかし、国際機関は主権国家の同意と授権の範囲内でのみ存在し、機能するという本質は21世紀以後も続くだろう。国家における中央政府に相当する統治機構が世界規模で出現する可能性は予見されない。イギリスの国際政治学者ヘドレー・ブルが「政府なき社会」(anarchical society)と名づけた、国際関係のあり方に関する本質は21世紀以後も変わらないだろう。

<平和>
 古来、平和観としては「力による平和」観と「力によらない平和」観があり、現実の世界史においては前者が圧倒的優位にあった。しかし、戦争・核、国際相互依存、地球規模の諸問題そして普遍的価値という上記の基本的要因は、21世紀以後の国際関係は「力によらない平和」観のみを許容することを客観的に明らかにしている。
そのことは直ちに、アメリカの力による政治を根底におく天動説的国際観がもはや時代錯誤であることを明らかにする。中国の地動説的国際観は「力によらない平和」観との親和性が強い(ただし、アメリカの政策に対抗するためとは言え、中国が国防力建設を重視する政策をとるのは上記基本的要因に関する認識が徹底していないことに原因がある)。
しかし、国際的アナキーが将来にわたって続くことを考えれば、主権国家が国際関係のアクターとして中心的位置を占める構図が変わることは予見できない。求められるのは、客観的国際情勢の急速な進展と主権国家の実際の国際認識との間に存在する深刻なギャップを解消することである。東アジアの様々な不安定要素のほとんどがこのギャップに起因している。東アジアの平和に関しては、「力によらない平和」観に基づいて、対話・外交によって如何なる問題にも粘り強く取り組むという基本姿勢をすべての関係国が確立することが喫緊の課題である。

<日本外交>
 21世紀の国際関係を規定する以上の基本的要因のすべては安倍外交に対するレッド・カードを突きつける。そして、1947年の日本国憲法が見事なまでにこれらの基本的要因に基づく日本外交の方向性を指し示していることに気づかされる。私たち主権者が主体的に行動することによって日本の対米従属を脱し、憲法に基づく平和外交を展開することは、日米中関係の劇的な健全化を促し、東アジアの平和実現をもまた指呼の間に呼び寄せることになるに違いない。