クリミア問題
-ウクライナ問題における争点③-

2014.04.12.

ロシアがクリミアを併合したことに対して、日本を含めたいわゆる西側世論は「ロシアの拡張主義」の今一つの証左として、また「国家の主権尊重、内政不干渉」という国際法の原則に反する行動として非難、批判するものが大勢です。しかし私が見ている範囲では、中国国内の論調ではそういう見方を取るものはほぼ皆無です。むしろクリミアの歴史特にロシア史においてクリミアが占めて来た特別に重要な位置を認識して、ロシア(プーチン大統領)が取った行動に理解を示すものが大勢です。ここでは、李瑞景署名「クリミア ロシアの痛みと夢」(3月28日付解放軍報)を紹介します。李瑞景がいかなる人物なのかは分かりませんが、人民解放軍の機関紙で掲載されていることから判断しても、決していい加減な文章ではないことが理解できます。
 ロシア問題の専門家にとっては旧聞に属する内容だと思いますが、私のような素人にとっては、この文章で示されている歴史的事実関係を踏まえると、1954年にフルシチョフがクリミアをロシアからウクライナに「所属替え」したことにそもそもの無理があったことは間違いないように思われます(当時はソ連邦内部での行政区分の変更程度のことでしたから問題が顕在化することはなかったわけですが)。この文章が指摘しているように、ソ連が解体してロシアとウクライナが別々の国家となった後、クリミアもロシアもロシアに戻る・戻すことを要求したという事実も、決して今回の事態がロシア(プーチン大統領)の強権のごり押しということでは片づけられないことを納得させるものではないでしょうか。
 尖閣(釣魚島)問題における日中の主張の対立と比較して考えてみるのもあながち無意味だと思いません。ロシアにとってクリミアはいわば「固有の領土」ということでしょう。それは、中国にとって釣魚島が古来より中国のものとして扱われていたことに対応します。1954年のフルシチョフによるクリミアの引きはがしに対応するのは1895年に明治政府が行った日本領への編入です。ソ連解体後にクリミアとロシアがロシア領に戻る・戻すことを主張したのに対応するのは、カイロ・ポツダム両宣言によって釣魚島は中国に返還されるべきだとした中国の主張でしょう。ロシアの主張を拒否したウクライナの立場に相応するのが、対日平和条約での沖縄(尖閣を含む)の施政権返還をタテにカイロ・ポツダム宣言をことさらに無視した日本政府です。

イタリアが地中海に伸びた軍靴であるとすれば、クリミアは黒海に伸びたタコである。「クリミアを制するものは黒海を支配することができる。」
 欧亜両大陸の戦略的要衝であり、キリスト教とイスラム教との地縁的境界に位置し、東西諸民族の大移動の十字路でもあったクリミアは、数千年来無数の民族の興亡と変遷を見届けてきた。3月16日の住民投票の結果、ロシアが再びクリミアを支配し、世界の注目が集まっている。後年、今日のクリミアの変化を回顧するとき、この住民投票は21世紀国際情勢を変えたものであり、その影響の深さと広がりは9.11事件にも優るものがあると言われることになるかもしれない。
 クリミアはどのような前世と今日があるのか。何故に幾度となく大国の力比べの競技場となったのか。ロシアはなぜ西側との「新冷戦」という危険を賭してでもクリミアを合併したのか。これらの質問に答えるためには、クリミアについて語ることから始めなければならない。

<地理的好条件:黒海を扼する戦略的要衝>
 クリミア半島は、南は黒海に臨み、東はアゾフ海を扼し、ウクライナの南部そしてロシアの西部に位置する。半島と言うが、ほとんどは黒海に囲まれ、わずかに北部の幅5ないし7キロのペレコプ地峡によって大陸とつながっている。歴史上、ペレコプ地峡はクリミアを出入りするに当たっての天然の障壁だった。14~18世紀のタタール人は、強敵が大陸方面から進攻してくるのを阻止するため、この地峡に「韃靼環壕」を掘り、その深さは15メートルに達したと言われ、数多くの惨烈な戦役を経験した。1941年にドイツ軍は疾風の勢いで大陸平原を席巻したが、韃靼環壕においてのみ惨憺たる目に遭い、その後もセバストポリの堅城に阻まれて250日もの戦いを強いられた。
 クリミア半島は易守難攻であり、黒海に分け入っているために、戦略的地位は重要である。その入り組んだ海岸線は、西北部、西南部、東北部及び東南部のそれぞれにいくつかの天然の良港を形成している。これらの天然の良港は、黒海を制する上でのこれ以上ない条件を提供してきた。18世紀以来、ロシアは一貫して海軍を常駐させてきた。クリミア南部の都市・セバストポリはロシア艦隊の主要基地である。
 地理的に優れた条件に恵まれているのに加え、クリミアの気候も人に優しく、半島南岸は温暖湿潤で、著名な療養の名所である。第二次大戦が終結するに際して、同盟国の3巨頭はこの地に会した。クリミア半島の浜辺の小城の名前は、国際関係上の述語である「ヤルタ体制」として世に知られている。

<「ルーシの受洗」の地:ロシア民俗の信仰の原点>
 クリミアの西南部、セバストポリ郊外に、今日では人目につかない土地がある。紀元前6世紀に古代ギリシャ人が建設し、西暦988年に有名な「ルーシの受洗」が行われ、そのことによってロシア民族の信仰が始まった原点である。それ以前、東スラブ民族は多神教を奉じていた。988年にビザンチン皇帝はアンナ王女をウラジミール大公に嫁がせ、大公はギリシャ正教の教義を受け入れるとともに国教とし、ルーシの民に洗礼を受けることを命じた。12世紀から14世紀にかけて、封建的割拠のため、ルーシの部族はロシア人、ウクライナ人及び白ロシア人に枝分かれし、ギリシャ正教はこの3つの民族を連携する精神的紐帯となった。
 「ルーシの受洗」はロシア史における最大の事件の一つであり、スラブ各部族の統一プロセスを加速するとともに、当時先進的だったビザンチン文化がルーシに浸透し、ロシア文化発展史上の里程標となった。さらに重要なことは、この受洗がその後1000年以上の今日に至るロシア人の信仰の基礎となったことだ。2010年に、当時のロシア大統領・メドベージェフは、毎年7月28日を「ルーシの受洗日」と定め全国的な祝日の一つとした。
 正に以上の次第があるので、クリミアを併合した後にプーチンは議会演説において次のように述べたのだ。

「クリミアは我々の共通の歴史とプライドの中に染み渡っている。この地には古代ギリシャの都市があり、ここでウラジミール大公は洗礼を受け、ロシアはギリシャ正教の国家となった。この精神的遺産がロシア、ウクライナ及び白ロシアの共通の文化、価値観及び文明上の基礎をうち固め、我々3国の人民は結びつけられる定めにあるのだ。」

<エカテリーナ女帝の「嫁入り道具」:帝政ロシアの光栄と希望の証人>
 数千年来、無数の民族がクリミア半島を行き来した。ケルト人、スキタイ人、ギリシャ人、ゴート人、匈奴、ビザンチン、キプチャク人、蒙古人等々がこの地に痕跡を残している。しかし、ロシアの歴史に真に影響を与えたのはクリミア汗国の時期以後のことだ。1478年から1777年までの300年近い歴史において一貫してオスマン帝国に従属し、1572年にはモスクワを掃討したことがある。
 16世紀末にモスクワ公国が強盛になり、ロシアを統一してから次第に対外拡張の道に向かった。17世紀中後期には、ロシアはオスマン帝国に対する戦略的劣勢から盛り返し、200年以上にわたってロシアとトルコとの間では11回以上の戦いが行われた。1774年の戦いでロシアは大勝し、オスマン・トルコをしてクリミア汗国の独立を承認させる条約を締結せしめ、クリミア汗国を実質的に保護国とした。1783年にエカテリーナ大帝はクリミアを併合し、クリミアを「ロシアにもたらした嫁入り道具」となぞらえた。
 ロシア帝国はボスポラス海峡及びダーダネルス海峡への進出を追求した。このことは西欧列強特に英仏の強烈な不満を呼びおこし、英仏はオスマン帝国と同盟を結んでロシアとの間で3年にわたるクリミア戦争を戦った。最終的にロシアは敗北したが、セバストポリを根拠としたロシア海軍の頑強な戦いで何度も連合軍を撃退したその頑強な精神はロシアに栄誉をもたらし、海軍を率いたナシモフ司令官はロシア人の英雄となり、この英雄の物語はロシア人にクリミアに対する深い感情を植えつけた。

<現代における民族矛盾の激化:ソ連の無情と多情>
 クリミアに定住して数百年の歴史をもつタタール人にとっては、ソ連時代は悲しみと無念に満ちたものだった。タタール人に対してもっとも無情だったのはスターリンだ。即ち、スターリン統治時代には、正教及びスラブではない少数民族は集団で追放されるという民族的懲罰を受けた。タタール人は、戦争中にナチスに協力したとして集団で追放されたし、クリミアにいたギリシャ人、ブルガリア人、アルメニア人、ドイツ人も西シベリアなどに追放された。統計によれば、約35万人のタタール人が故郷を追われ、その半数は飢えまたは病気で移送中に死亡した。幸運にも生き延び得たタタール人は、流刑先の中央アジアで自らの言語を禁止された。もともとのクリミア・タタール社会主義自治共和国はクリミア州と名称を変えられ、大量のロシア人が移り住んだことにより、半島の住民構成は根本的に変えられることになった。
 スターリンの死後、フルシチョフが登場した。かつてウクライナで仕事し、ウクライナ第一書記だったことがあるフルシチョフはウクライナ人に対して深い感情を持っていた。1954年5月、ウクライナとロシアとの同盟結成300周年に際して、フルシチョフはクリミア州をウクライナに帰属させた。当時のロシアとウクライナは家族同然だったから何も問題はなかったが、今日における問題の伏線となった。1956年、フルシチョフはスターリン時代の被害者の名誉回復を行い、クリミア・タタール人の公民権を回復した。しかし、クリミアはすでにウクライナに編入されていたため、タタール人は故郷に戻ることを許されなかった。1990年代初期になってソ連が解体したのに乗じて、タタール人は故郷に戻ることができた。しかし、この時にはタタール人は少数民族となってしまい、総人口に占める割合は、ロシア人61%、ウクライナ人24%に対して、約11%を占めるに過ぎなかった。スターリンに対する怨念があって、タタール人のロシアに対する感情は今日も改善していない。

<ウクライナの政情混乱:クリミアの行方如何>
 1991年にソ連が解体して、クリミアも運命の十字路に立つことになった。ロシア系住民が多数を占めていたので、クリミア議会はロシアへの復帰を求め、「クリミア独立法」及び「クリミア共和国憲法」を制定した。ウクライナ政府は強硬に反対し、この憲法を取り締まった。これに対してロシア議会も対抗する決議を通し、クリミアをウクライナに帰属させた1954年の決議はもはや法律としての効力を持たないと宣言した。
 その後間もなく、ウクライナの反露勢力が選挙で後退し、対露友好政策を掲げたクチマが大統領に当選して、ロシアとの間でクリミア半島帰属問題に関して妥協を達成した。クリミアはウクライナの自治共和国、セバストポリは直轄市となり、同時にセバストポリ軍港をロシアの黒海艦隊基地として租借させることにした。
 しかし、ウクライナ政府は安定せず、政情も混乱したために、政策には継続性がなかった。特に軍港租借問題に関しては、ウクライナ政府はロシアを激怒させた。親西側のユーシェンコは、租借期限を2017年までと限ったのだ。2010年にヤヌケビッチが大統領になってから、租借期限を2042年までとして、ロシアは一息ついた。しかし、2013年末以来のウクライナ政局の混乱の中で、親西側勢力は、セバストポリ租借を含め、ロシアとのすべてのやりとりをひっくり返すとしたため、ロシアの逆鱗に触れることになった。(その後のクリミアにおける事態を簡単に述べた上で)ロシアの実力及びウクライナの無力から言えば、クリミアのロシア帰属の流れはもはや逆転できないようだ。しかし、クリミアにおける事態の動きによって幕が開いた大ドラマはまだ始まったばかりだ。